散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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少々暑かった週末 ~ 土曜篇

2015-08-25 07:04:52 | 日記

2015年8月25日(火)

 土日に予定が入ると、週間リズムを取り戻すのに一手間かかる。放送大学の面接授業はほとんどが土日で、これにはだいぶ慣れたけれど、臨時の予定などのほうが適応しづらい。根がナマケモノなので、楽しいはずの行楽の予定などもすぐ億劫になってしまう。「リズムを崩されることが苦手」「変化に弱い」は、古典的と現代型とを問わず「うつ病」に対する脆弱性の本質だと指摘した人がある。たぶんそうなのだ。おかげさまで僕は、リズム回復を口実に怠けることのできる生活をおくっている。勤労者同胞に申し訳ない気がするが、そのゆとりがなかったらたちどころにツブれること必至である。

 

 土曜日は教員免許更新講習に出講した。横須賀のH先生とは、いささか名コンビとの自負がある。聞き手にとっても、半日で講師が交代することで飽きや弛みを予防できる。2009年度に開設されて以来のコンビで、ということは早いもので7回目か。僕にとっては、帰省から戻っての「後期仕事始め」の意味がある。

 今年も定員70名満杯になった。出席者中に桜美林の教え子の姿がある。休憩時間には何人かが質問やら挨拶やらにやってきたが、その中にW大学で法学を学んで弁護士資格を取り、さらにG大学で教員資格を取得したという女性があった。経歴を生かして、教員の仕事を支援するタイプの法実務に携わっているという。「実は私もT大学で法律を学んだことにはなっておりまして」と言うと、のけぞって感心してくださったが、僕のは不適応を起こして逃げ出したんだから、偉くも何ともない。この相手こそ見事なキャリア形成で、豊かな能力をこんなふうに使う人が増えてくれたら良いと思う。

 午前中に講義を終え、副校長室を借りて採点していると、前校長のH氏がやってきて1時間以上も話し込んでいった。微生物学の専門家で釣りの達人、無類の話し上手であり話し好きでもある。校長の訓示だの祝辞だのが面白かった試しはないが、この人ばかりは例外だった。副校長のHさんは僕と同じ学年で、こちらも頭のいい人に珍しく人なつこくて親しみやすい。この人々のおかげで、日本で一番楽ちんで美味しいPTA会長をつとめさせてもらったのだ。懐かしくもあり、数年後を見越して微かな憂愁を覚えたりもする。

 暑さの戻った土曜の午後、渋谷でスクランブル交差点を見下ろし、先だっての新聞小説に書かれていた「動きの奇跡」を確かめる。なるほど見事なものだが、紐育や倫敦・巴里などは同じ風景はないのかしらん?京城や北京は如何?これも密集の中で互いにすり抜ける、日本人のワザですか。スクランブルの向こうに「大盛堂」の看板を見つけて足を向けてみるが、往時のそれとはまるで別物なんだね。今頃気がつくのもバカなんだろうが、十数年前から渋谷は立ち寄るところではなく、関心を向けるところでもなくなっている。「金槐和歌集」をいちばん手っ取り早く入手する方法は・・・そうか、アマゾンか。

 


2週間ぶりの東京 / 御船祭りとペーロン祭 / 歌よみに与ふる書

2015-08-21 07:33:59 | 日記

2015年8月20日(木)

 2週間弱ぶりに東京を歩いて、スマホの害をあらためて痛感する。背中の荷物が人に当たっていようが、傘の先が隣の脚を衝いていようが、投げ出した脚が混雑の邪魔になっていようが、スマホ人はいっさいお構いなしで、強めに反応しても気づこうともしない。「段差のない道順をスマホで案内する」プランを朝刊一面は車いす支援の観点から歓迎口調で紹介しており、確かにそれ自体は結構なことだけれど、収支決算はどうなんだろうね。スマホとマイナンバーには何か共通するものがある。マーク・トウェインなら何か書いたに違いないところだ。

 K工業では、いつもブログをフォローしてくれているM保健師が、腰痛対策にマッケンジー体操を薦めてくれる。早速やってみよう。http://www.ky-toranomaki.com/mckenzie.html

 M保健師のルーツは和歌山である。その彼女がペーロン祭の記事を見て、直ちに連想したのが新宮市は熊野速玉大社の御船祭だそうだ。なるほどよく似ているようだ。御船祭は鹿島神宮などでも行われる。熊野に鹿島神宮と来れば日本の古層そのものだ。海洋文化が広く共有するものがあり、ペーロン祭などは同型の兄弟分がぐるっと廻って渡来している形だろうか。面白いなあ。

http://www.shinguu.jp/modules/pico7/index.php?content_id=7

http://www.ibarakiguide.jp/seasons/recommend/kashima-mihune-matsuri.html

 

 帰途、今日は予定通り『歌よみに与ふる書』(岩波文庫版)を買って帰る。さっそく半分ほど読んで痛快さを楽しむ。蕪村の句集、それに『金槐和歌集』を読んでみたくなる。

 大海のいそもとどろによする波われてくだけてさけて散るかも

 これ、これだ。


読書メモ: マーク・トウェイン『不思議な少年』(The Mysterious Stranger - A Romance))

2015-08-20 08:57:57 | 日記

2015年8月20日(木)

 読んだ順番とか気にしているとメモも取れないので、昨夕から今朝にかけて一気に読み抜けたこの作品のことを、まず書き留めておく。

 サミュエル・クレメンス(1835年~1910年、筆名マーク・トウェイン)は、ともかくせっせと書く人だったという。ハレー彗星接近の年に生まれ、次の接近の年に他界した。満75歳は当時として大いに長命だが、その人生は平坦ではない。作風としても1890年代には、驚くほどペシミスティックに傾いたこと、案外知られていないかと思う。その時期を代表する作品ながら、改稿を繰り返した末、結局生前には未完に終わり、没後にさまざまな「編集」が加わって物議を醸すなど、問題含みの一書である・・・などということは、すべて「あとがき」で知った。読む間はひたすらに空恐ろしいような作品で、16世紀オーストリアの小村を舞台に「魔女狩り」の実相をつぶさに描き出すなど、背筋が寒くなる。驚くべき了解力で、たぶん「魔女狩り」とはこういうものだったのだ。

 今後くり返して読み直すことになるだろうから、さしあたり一部を書き抜くことで記録に代える。いろいろな点で同じ作家の "the War Prayer" を想起させるが、魔女狩りと戦争に通底する心理を鮮やかに剔抉し、広がりは一段と大きい。少年サタンの「神学」には、深淵を覗き込まされる思いがする。

 つくづく驚くべき作家である。

 

***

 こうして、わたしたちは帰っていったが、わたしの心は重かった。そして、わたしはひそかに思った。「サタンのやつ、あの連中を笑ったのだと言ったが、あれはきっと嘘だ ー 笑われてたのはこのぼくなんだ」

 ところが、またサタンが大笑いをして言うのである。「そうだとも。君のことを笑ったんだよ。だって、考えてもみろ、君はね、他人(ひと)にどう言われるか、そればかりびくびくして、現に心の中じゃ、いやだ、いやだと思いながら、あの女に石を投げたんじゃないかね。もっとも、ぼくはほかの連中のことも笑った」

 「なぜだね?」

 「やはり君と同じだったからさ」

 「どういうことだね、それは?」

 「そうさ、あそこには68人の人間がいたろ。そのうち62人までは君と同じだった。石なんか投げたくなかったんだよ」

 「まさか、君!」

 「いや、そうなんだ。ぼくは人間ってものをよく知ってる。羊と同じなんだ。いつも少数者に支配される。多数に支配されるなんてことは、まずない、いや、絶対にないと言ったほうがいいかもしれんな。感情も信念も抑えて、とにかくいちばん声の大きなひと握りの人間について行く。声の大きな、そのひと握りの人間というのが、正しいこともあれば、まちがっていることもある。だが、そんなことはどうだっていいんで、とにかく大衆はそれについて行くのだ。もともと大多数の人間ってものはね、未開人にしろ文明人にしろ、腹の底は案外やさしいものなんで、人を苦しめるなんて、ほとんどできやしないんだよ。だが、それがだよ、攻撃的で、まったく情け知らずの少数者の前に出ると、そういう自分を出しきる勇気がないんだな。考えてもごらんよ。もともとは温かい心の持主の人間同士がね、お互いにスパイし合っては、心にもないひどい悪事に、いわば忠義立てして手をかしてしまうんだな。わざわざ心がけてだよ。その辺、ぼくはよく知ってるから言うんだが、ずっと昔ほんのわずかな狂信者どもが、はじめて魔女狩りなんて馬鹿げたことを煽り出したときにもね、まず百人のうちの九十九人までは猛烈に反対した。そして今でもだ、ずいぶんと長くつまらん偏見や馬鹿げた教えがつづけられてきているわけだが、それでも、本当に心から魔女狩りをやろうなんて考えのものは、せいぜい二十人に一人くらいだろうな。そのくせ、表面だけを見ると、まるですべての人間が魔女を憎み、殺したがっているかのように見える。だが、いつの日にかだよ、ごくひと握りの人間でいいから、もし魔女の味方になって立ち上がり、大声でわめき立てるとする ー いや、大きな声の持主で、勇気と決意のある人間なら、一人だっていい ー 反対を叫び出せばね、おそらく一週間もすれば、羊の群れは一頭のこらず廻れ右をして、その男のあとについて行くにきまってる。魔女狩りなんて、あっというまいなくなってしまうと思うな。

 「君主制も、貴族政治も、宗教も、みんな君たち人間のもつ大きな性格上の欠陥、つまり、みんながその隣人を信頼せず、安全のためか、気休めのためか、それは知らんが、とにかく他人によく思われたいという欲望、それだけを根拠に成り立ってるんだよ。そりゃ、そうした制度は、永久につづくだろうさ。つづくどころか、いよいよ栄え、いよいよ君たちを圧迫し、侮辱し、堕落させることだろうよ。だが、それは君たちが相変わらず、いつまでも少数者の奴隷になっているという、ただそれだけのことが原因なんだな。そうした制度に人民の大多数が心の底から信服してる国なんて、けっしてなかったからね」

 (中略)

 「戦争を煽るやつなんてのに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて一人としていなかった。ぼくは百万年後だって見通せるが、この原則のはずれるなんてことはまずあるまいね。いても、せいぜいが五、六人ってところかな。いつも決まって声の大きなひと握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。すると、さすがに教会なども、はじめのうちこそ用心深く反対を言う。それから国民の大多数もだ。鈍い目を眠そうにこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。」

 (中略)

 「するとまもなく奇妙なことがはじまるのだな。まず戦争反対の弁士たちは石をもって縁談を追われる。そして凶暴になった群衆の手で、言論の自由は完全にくびり殺されてしまう。ところが、面白いのはだね、その凶暴な連中というのが、実は心の底では相変わらず石をもて追われた弁士たちと、まったく考えは同じなんだな ー ただそれを口に出して言う勇気がないだけさ。さて、そうなると、もう全国民 ー そう、教会までも含めてだが、それらがいっせいに戦争、戦争と叫びだす。そして、あえて口を開く正義の士でもいようものなら、たちまち蛮声を張り上げて、襲いかかるわけだね。まもなく、こうした人々も沈黙してしまう。あとは政治家どもが、安価な嘘をでっち上げるだけさ。まず被侵略国の悪宣伝をやる。国民は国民でうしろめたさがあるせいか、その気休めに、それらの嘘をよろこんで迎えるのだ。熱心に勉強するのはよいが、反証については、いっさい検討しようともしない。こうして、そのうちには、まるで正義の戦争ででもあるかのように信じこんでしまい、まことに奇怪な自己欺瞞だが、そのあとではじめて、ぐっすり安眠を神に感謝するわけだな」

(中野好夫訳 岩波文庫版『不思議な少年』 P.195-200)

 


欅と槻、クスノキに竹林

2015-08-19 22:29:33 | 日記

2015年8月19日(水)

 これも帰省中、どこかで「槻」の字を「けやき」と読ませる地名を見た。「箒を逆さに立てたような」と表現されるケヤキの枝ぶり、その潔い直線性を考えれば「槻」の字はなるほど腑に落ちる。漢和辞典を確かめると、古くはケヤキを指して「槻(ツキ)」と呼んだようだ。

 一つ覚えの持論だが、ケヤキは仙台を筆頭に東日本のものが断然良い。いっぽう、西日本を象徴するのはクスノキである。無理やり街路樹に仕立てられてモヤシみたいになったクスノキが放送大学界隈にもあるが、あれは可哀そうというものだ。竹は関西から中国方面に似合うように思っていたが、富士市の標識にはかぐや姫が記され、富士山麓にも良い竹林はあるのだと主張しているようである。

 なお、富士市に伝わるかぐや姫伝説は、一般的なそれとは「少し違う」と同市の web site にあり。転記しておく。「火の神アサマ」や「愛鷹・犬飼」など、ここにも日本の古層がある。

⇒ 富士山信仰のおこりは、富士山の持つ神秘的な威容と大きな関わりがあります。奈良・平安時代にかけて富士山の火山活動が活発化すると、これをおさめようと荒ぶる火の神アサマの神を鎮座し祭祀者をおく祀堂を建てるようになっていきました。これが古代、富士山周辺に浅間神社が祀られるようになった契機です。そして、中世にはさらに神仏習合思想の影響を受けながら、富士山自体が修験道による山岳修行の聖地となっていきました。
 富士市に伝わるかぐや姫の物語では、かぐや姫は最後に月に帰ってしまうのではなく、富士山に登って忽然と消えてしまうことになっており、姫は富士山そのものの祭神とされています。この物語のもとになっている話は、中世の富士山縁起(富士山及び富士山信仰にかかわった寺社に関する由来や伝説などを記した縁起書の総称)です。かぐや姫を育てた竹取の翁と嫗夫妻は、それぞれ鷹と犬をかわいがり、愛鷹と犬飼と呼ばれる祭神となったとされています。
(http://www.city.fuji.shizuoka.jp/kyouiku/c0403/fmervo0000011mgn.html)

***

 竹林といえば、そのライバルシップで一時代を画した林海峰名誉天元と大竹英雄名誉碁聖が、8月7日に特別対局を行ったはずである。どんな碁になったのかな。

 囲碁新聞に載った二人の写真がとても良いので、掲げておく。若竹であった二人が大樹になった。どちらかといえば大竹がケヤキ、林がクスノキだろうか。何しろ、こんな心もちで碁は打ちたいものだ。

    

 

 


ペーロン祭と能面と茨木童子

2015-08-19 16:59:12 | 日記

2015年8月19日(水)

 車で帰省する際の楽しみに、県境・市境に建てられた標識を眺めて行くというのがある。土地の言われや名物を絵や図案で描きこんであり、けっこう楽しいのだ。次の機会には、順に写真に撮っていったら面白いだろう。(と思ったら、少なくとも東海道に関しては先行サイトあり。「Todo sobre los sinos municipales ~ アバウト・カントリーサイン http://ameblo.jp/por-la-manya-na/)

  何が描かれているか大概は見当がつき、こういうものは年長者が風を吹かす出番だから、高槻市に入れば高山右近、赤穂市にさしかかれば『忠臣蔵』についてウンチクを垂れる。思いやり深い息子たちは「へええ」と感心して聞いてくれるが、すぐ抜けるから1年後にはまた同じ話をするわけで、こちらの役割も当分終わらない。

 けれども中には、見当のつかないものもあるんだね。帰京後に調べて初めて知ったものを、3つ記載しておく。

① 兵庫県相生市 ~ 「ペーロン祭」

 ペーロンの語源は「白龍」か、異説もあるがいずれ中国語起源であるのは間違いない。長崎のペーロン競争(下記)はよく知られている。これがなぜか相生市の標識に描かれているのだ。

「我が国へは1655年に伝来したといわれています。その当時数隻の中国船が長崎港を訪れた際、強風のため出航できなくなったので、海神を慰めて風波を鎮めるためにこの「ペーロン」競漕を港内で行いました。
 これを長崎の人達がとりいれて競漕を行うようになり、同地の年中行事の一つとなって今日に及んでいます。」(http://www.city.aioi.lg.jp/site/pe-ron/peronrekishi.html)

 そのペーロン祭がが何で相生市にあるかというと、これは長崎県出身の播磨造船所従業員が伝えたんだそうだ。以下、上記の web site 「相生ペーロンの歴史と由来」に詳しい解説があるので、そちらに譲る。何しろ納得。

    

(http://www.city.aioi.lg.jp/soshiki/chiikishinko/2015picturecontest.html)

 

② 愛知県新城(しんしろ)市 ~ 能面と鼓

 これは上記の先行サイトが詳しく取り上げているので、敬意を表しつつ引用させていただく。

 カントリーサインで追う東海道その10 愛知県新城市~豊川市: 富永神社の祭礼能(http://ameblo.jp/por-la-manya-na/entry-11185681976.html)
 図は能面「小面」と鼓です。新城市には様々な祭りがあり、無形文化財に指定されているものも数多くありますが、その1つに富永神社の能があります。この能の最大の特徴はプロだけが行うのではなく、アマチュアの市民も舞台に立っているということです。
 この祭礼能は、長篠の戦で活躍した奥平昌信が新城城の落成にあたって祝能を行わせたことに由来します。以来、この地では能が盛んになり、1736年に当時の領主であった菅沼定用の家督を祝い能を奉納してから毎年祭礼が行われるようになります。

 しかし、なぜ新城市は能を前面に推しているのでしょうか。私は「世界新城サミット」が関係しているのではないかと思います。「世界新城サミット」とは「新城」の名を持つ世界の市町村が文化交流などについて話し合うサミットの事です。このサミットで話し合うにあたって、最も日本の芸能らしいものを推そうとしたのではないでしょうか。ちなみに参加都市の一つの、アメリカのペンシルベニア州にあるニューキャッスルとは姉妹都市の関係を結んでいます。
 注・「小面」…女性の能面の名前で、光ごとに表情が変わるらしいです。馴染みの深い能面ですね。

 ・・・新城は Newcastle でしたか、なるほど!

 

③ 大阪府茨木市 ~ 茨木童子

 子どものようだが立派に牙をむいて金棒をもった「鬼」、でなければ雷さまのような、こちらさまは、どなたさま?

 これは茨木童子。茨木童子は大江山の酒呑童子の舎弟だそうだ。一条戻橋や羅生門あたりで渡辺綱と渡り合い、切り落とされた腕を取り返しにきたのは茨木童子である。僕はなんとなく、これが酒呑童子その人(?)と思い込んでいた。考えてみれば、渡辺綱は源頼光配下の四天王の一人である(残りの3人は、坂田金時・碓井貞光・卜部季武)。親分同士が「酒呑童子 vs 源頼光」とするなら、舎弟同士で「茨木童子 vs 渡辺綱」とするのが、正しい組み合わせにちがいない。うちの教会の渡辺さんはその末裔だそうで、末裔もこれだけ代を重ねれば全国に数多かろうけれど、酒の強さは確かに血筋を証明している。

 wiki から画像を拝借。

   茨木童子@茨木市の橋の欄干

 茨木童子にちなんだ飛び出し坊や

 月岡芳年画『新形三十六怪撰』より「老婆鬼腕を持去る図」。渡辺綱の伯母に化けて自分の片腕を奪い返した茨木童子。

(https://ja.wikipedia.org/wiki/茨木童子)

 俵藤太が退治した大ムカデは平将門のことだという。ムカデはペアで出ると決まったもの、その相方が藤原純友だとすれば、話もうまくできている。酒呑童子や茨木童子は何の具象化だろう?一般的な邪鬼悪霊の総帥?それとも大ムカデ同様、何かしらの歴史事実に対応するのだろうか?