散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

伊勢は津でもつ

2015-03-31 08:41:03 | 日記

2015年3月28日(土)

 

 三重CMCCが招いてくれたので、これ幸いと出かけて行く。

 信仰の仲間はありがたいもので、メンタルヘルスや傾聴の霊的な基礎について心おきなく話せるから、本当に「これ幸い」なのである。おまけにCMCCが超教派団体なのが嬉しい。カトリツクもルーテルも聖公会も改革派も勢揃いして、これぞほんとの教会というものだ。

 ただ、コンディションに問題ありで面目ない。秋以来のバカげた繁忙も、この三重行きを果たせばようやく一息、そう思った時が危ないと承知しているのに、やっぱり体が一足早く運休体制に入ってしまった。

 「もう大丈夫」は「まだ危い」である。幼年学校の遠泳では、砂地に腹が触れるまで泳ぐのを止めないよう指導されたという。陸に着いた嬉しさであわてて立とうとして意外に水が深かったりすると、疲れきった体では岸の目前で溺れることがあるんだそうだ。『高名の木のぼり』の水泳版かな。

 なので「津に着くまでは、泳ぎ止めまい」と縁語を気取って(「津」は「港」ですからね)自戒していたが、当日の明け方になって声が出ないのには参った。おまけに土曜の朝の混雑で、新幹線は名古屋まで座れない。全席指定の近鉄特急でようやくくつろぎ、手足を伸ばす。田舎の電車はいいものだ。予讃線と一緒にしては悪いかもしれないが、三紀の温暖でのどかな風土は伊予路に似て、事実ミカンがよく育つ。もっとも空の広さは比較にならない。伊勢路は空も陸もなだらかに広い。日本の奥まった方角へ進んでいくのに、太平洋に開けていくこの広さがなんだか不思議である。

 僕の乗った列車は大阪難波行き、名古屋から津を経て大阪というのが面白い。本来の東海道五十三次は桑名から四日市へ下って分岐し、鈴鹿川と併走して石薬師寺宿から鈴鹿山脈の南麓に分け入っていく(関西本線はこの道をたどる)。いっぽう、四日市から海沿いを南下して伊勢神宮に至るのが伊勢街道である。近鉄名古屋線は津を経て松坂(伊勢中川)までこの道を行き、そこから折り返すようにして北西に向かうのが近鉄大阪線だ。よく見れば東海道五十三次は伊勢国から近江国へ(関西本線は三重県から京都府へ)直通して、大和国(奈良県)を通らない。近鉄線は、名古屋・大阪の往来だけを考えればわざわざ南へ遠回りし、津・松坂から桜井・橿原といった古地を踏んで鶴橋に出る。ルートを見ているだけでわくわくする。

 

***

 

 JR線で津のひとつ南が阿漕(あこぎ)の駅、そこに加藤先生が迎えてくださった。名古屋の御出身だが阿漕教会を多年にわたって牧し、さらに三重CMCCを創設して導いてこられた。穏和で人当たりも柔らかな物腰から、やや意外なほどの意志の強さと行動力をおもちである。

 その加藤先生が、車を発進させるなり「実は昨日、教会で葬儀がありまして・・・」と切り出された。むろん教会員の葬儀だが、これは公同礼拝のひとつであって、これを司るのは牧師先生方の大事な仕事である。本人と遺族・関係者にとって大事なのはもとより、教会外からの出席者に対してはキリスト教の死生観を明らかにして復活の希望を伝え、貴重な伝道の機会となる。

 ただ、それだけではなかったのだ。昨日の礼拝で葬送された大脇さんという兄弟は、19歳の時に統合失調症を発症して70歳の今日まで闘病の人生を送ってこられた方で、この方の支援をめぐって加藤先生の活動も歩みを勧めてきたのである。のみならず、加藤先生を通して洗礼を授けられてからの大脇さんの熱心はめざましく、先生の説教を記したトラクトを病院などで毎週精力的に配り、これまで8人もの患者さんを受洗に導いたのだという。 

 (トラクトは当然、医療者の手にも渡るわけで、医師・看護師からはひとりの受洗者も出てないことに、考えさせられるのではあるけれど。)

 誤嚥性肺炎がきっかけとなったというが、今時そのような経過で亡くなるには若すぎることも、この間の御苦労を裏書きしているだろう。51年前の我が精神科病院は、コンクリートの打ちっ放しに鉄格子で象徴される、治療とも養生とも縁遠い世界だった。そのような人々の犠牲のうえに、当事者活動の今日の隆盛がある。

 

***

 

 阿漕教会の会堂は、例のヴォーリズが引いた図面に従って建てたものだそうで、いかにもそれらしいハイカラさと明るい機能美を備えた好もしいものである(ヴォーリズについては、2013年5月24日『ヴォーリズ・古本屋・靖国神社』参照)。いち早く宣教団が入ったことからも、津という街の重要性が分かろうというもので、太平洋に面した良港をもち、名古屋と大阪にアクセスが良いことだけでも要衝と呼ぶにふさわしいものと思われる。

 伊勢街道に面したファミリーレストランで味噌かつランチをいただく。味噌かつは名古屋名物というが、津が発祥の地であると(津の人々は)言い、名古屋のそれに比べるとべったり感が少なくて、やや別物の感じがする。阿漕教会の道向こうまでは空襲で焼けた。阿漕教会と付属施設は宣教師が追放された後、海軍が使用しており、空襲の際に総出で消火にあたったので焼亡を免れた。戦後、今度はGHQがそこに入ったという。

 講演会は予定通り、和気藹々たるものになった。新調したばかりのPCでパワポ資料を作ったのが迂闊で、加藤先生が準備してくださったPCとバージョンが合わず資料が開けない。こういうことで慌てなくなったのは、いつ頃からだろう?それならとばかり、部屋を明るくしてもらって、来聴者と視線を合わせながら楽しく話した。

 終了後、部家を変えてCMFの面々と懇談する。予想通り多彩な面々で、殊にカトリックの比率が多いのが頼もしい。カウンセリングの源流に「告解の秘蹟」があるだろうと話したら、今は「赦しの秘蹟」と呼ぶのだと訂正された。なるほどそうか、これまたカウンセリングについて教えるところ大である。人はカウンセリングの中で、「赦されること」を秘かに望んでいる。無縁・無関心のそぶりをして、そのことを弄ぶときに、多くの間違いが起きるのではないか。

       

 

***

 

 阿漕(阿古木の字をあてた交差点も市内にある)という地名の由来について、引用しておこう。

 「あこぎ」を国語辞典で引くと、下記の二義が出てくる。

 ① しつこく、ずうずうしいこと。義理人情に欠け、あくどいこと。

 ② たび重なること。

 これは系統的には②が古く、そこから①が出てきたらしい。かつ、②の背景には少々悲しい物語があるという。

 「時代は今から約1,200年前に遡ります。この阿漕浦には「平治」という親孝行の男が住んでいました。ある日、平治の母親が病になってしまうのですが、平治には母親を医者に診せるほどのお金がありませんでした。そこで病に効くという「ヤガラ」という魚を毎夜この阿漕浦で獲っては、母親に食べさせていました。しかし当時、この阿漕浦は伊勢神宮に供える魚を獲るための場所で、禁漁区となっていました。」

 「次第に、阿漕浦の禁漁区で密漁している奴がいるという噂が流れるようになり、取締りが行われるようになりました。そんなある日、平治はとうとう見つかってしまい逃げるのですが、「平治」と、自分の名前が入った笠を海岸に忘れていってしまったのでした。そして平治はそれを証拠に捕まってしまうのです。」

 伊勢神宮の供物を掠める密漁だから、捕まれば極刑である。母思う心に免じて死一等を減じられた・・・というような尾ひれは、この話にはついていないようだ。

 なお、上記の引用部分は http://toppy.net/gourmet/070508.html から拝借したもので、「そんな阿漕の平治の笠をかたどって大正時代初期に生まれたのが『平治せんべい』です」と美味しいもの紹介へつなげている。名古屋っ子による名古屋自慢サイトが、僕などには大いに楽しい。

 その名古屋から1時間南に、ひと味違った津の街がある。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。