散日拾遺

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父と息子 ~ ヨセフ補遺と『はだしのゲン』

2013-07-30 22:59:15 | 日記
2013年7月30日(火)

学習センターへ向かう電車の中で、ヨセフの葛藤の意味をあらためて思う。
これまで気づかなかったのが迂闊だった。

「律法の義から信仰の義へ」
パウロが定式化した福音の本質、キリスト教の精髄がここにある。
イエスの生涯も、ひとえにこのためにあった。

実はこの運動が、「正しい人」である父ヨセフの葛藤のうちに既に表れているのではないか。
ヨセフは、律法の義をすり抜けて、憐みを生かす道を探っていた。
これに対する神の啓示はいわば超法規的措置であり、システムそのものの変更を示唆している。
それはヨセフを安堵させただろうが、啓示に先立って彼が憐みの決断に至っていたことを、僕としては軽く見ることができない。

このあたりからは、例によって教会の公式見解を逸脱する。
イエスはまさしくヨセフの子であった。
父の憐みの決断を、子は正しく引き継いで大きく発展させた。
そのように読んでみたい。

旧新約聖書の全体を、父と息子の物語として読めないかという年来の幻。
またひとつ、好個の素材が加わった。

迂闊と言えばヨセフへの啓示が「夢」の中で行われたことにも、注意を払っていなかった。
日曜日に説教を聞きながら、数週間前に自分が教会学校で担当した旧約の箇所を思い出した。
創世記に登場するヤコブの子ヨセフは、夢解きの達人であった。
同名の子孫が、またしても夢に導かれている。

*****

ギリシア語は独習なので読みに自信がなく、それで昨夜のうちにN先生に厚かましくも質問メールを送らせていただいた。
学習センターから返ってみると、御多忙の中を早々にお返事あり。

Ιωσηφ δε ο ανηραυτης δικαιος ων και μη
θελων αυτην δειγματισαι

「左近義慈 平野保監修のギリシャ語新約聖書ではδικαιος ων を『正しいひとであった』と訳し、その後のκαιを『が』と訳しています。」

これだ!

「岩波書店の新約聖書では『夫ヨセフは正しい人『で』、また彼女をさらし者にしたくなかったので』と訳しています。この『で』を逆接と取るか順接と取るかは微妙です。」

おっしゃる通りだ。
そして微妙であってよいのだ。
いつもながらありがとうございます。これで安心しました。

いただいたメールはN先生の近況をも伝え、そして末尾はこう結ばれている。
「ところで先日、明治神宮の菖蒲園で狸に会いました。」
読み返すうちに、大いに楽しくなった。

牧師さんが 明治神宮の菖蒲園で 狸に出会う

これ既に一幅の俳画
そして日本以外のどこの世界で、こんな風景にお目にかかれるだろう!

*****

夕食後、別のものを見ようとしてテレビを点けた。
「クローズアップ現代」で『はだしのゲン』を取り上げている。
そのまま画面に釘づけになった。

アメリカ、ロシア、イランなど、既に20か国で翻訳されているという。
その大半が過去10年のことで、翻訳はボランティアの貢献が大であるとも。

僕は中沢啓治の訃報に気づかなかったぐらいだから、愛読者然として語る資格はないが、
しかし『ゲン』からは、確かにあるものを受け取っている。

爆風によって倒壊した家屋の下敷きになり、ゲンの父・弟・妹が生きながら焼かれていくあの場面。
いよいよ火が回り、父や弟妹を助けるどころか焼けた地面に立っていることもできず、おろおろ泣くばかりのゲンに、瀕死の父が声をかける。

お母さんと赤ん坊を頼む、と

その瞬間、ゲンの背骨が伸びる。
彼は駆け出していき、駆け続ける。
「生きて生きて生きぬいちゃる!」と叫びながら。

息子を生かすのは、父の言葉なのだ。
あるいは、息子を生かす言葉こそが真の父なのだ。
聖書は、そのことに関わっている。

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