散日拾遺

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サン・テグジュペリ/バロン・ニシ

2013-07-31 09:32:27 | 日記
2013年7月31日(水)

サンテグジュペリ(Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry、1900年6月29日 - 1944年7月31日)

1944年のこの日、連合軍側のパイロットとして偵察飛行に飛び立ったサン・テグジュペリは、そのまま消息を絶った。

1900年生まれの彼は既に44歳、猫の手も借りたい激戦のさなかであっても、現役軍務からは退くよう勧める声が強かったというが、本人がそれを肯んじなかった。
人柄をよく知るわけではないが、愛国心というよりは根っからのパイロット魂と、歴史に対する参加 engagement の意志によるものではなかったかと思う。

絶望が伝えられたとき、友軍のみならずドイツ軍側からも彼を悼むメッセージが発せられたという。

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井伏鱒二の『軍歌「戦友」』から引いておく。
連想というにはあまりに乱暴で relevant とも言えないが、思い出しちゃったことは書きましょうという自由連想ルールに従って。

 終戦後、億山君は会社へ勤めるようになってから、硫黄島玉砕の軍談を同僚から聞かされた。島に立て籠もる日本軍の将兵のなかに、西大佐が戦車連隊長として出征していることは、アメリカ軍の方には以前からわかっていた。日本軍の総司令官が栗林中将であることも、我慢づよい新発田連隊の兵がいることも、新潟の「三階節」が好きな兵が多いこともわかっていたそうだ。アメリカ側は25万人の大軍で包囲して、2月19日に6万の兵が上陸した。数日して銃撃戦がときどき途絶えるようになると、その合間にアメリカ兵が拡声器つきのメガホンで放送した。たどたどしい日本語であった。
「オリンピックの英雄、バロン西に告げる。あなたは、立派に軍人としての責任を果たした。今、ここであなたを失うことは、私たちアメリカ人としても耐えられない。バロン西、出てきなさい。あなたを殺したくない。」
 繰り返しアナウンスした。西大佐は出て行かなかった。(中略)西大佐は3月22日に戦死した。日本軍の死者、2万2千であった。

西竹一(にし たけいち、1902年(明治35年)7月12日 - 1945年(昭和20年)3月22日)
陸軍軍人(最終階級は大佐)、華族(男爵)。
1932年のロサンゼルス・オリンピックに、愛馬ウラヌスとともに出場し、馬術障害飛越競技において金メダルを獲得した。「バロン西」の声望がアメリカ人の間にも広まったことは事実であるが、「投降勧告」に関しては疑問の指摘もある。

西戦死一週間後の3月末、愛馬ウラヌスも陸軍獣医学校で生涯を終えた。



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サン・テグジュペリの画像を探していたら、「私が撃ち落とした」という元ドイツ軍パイロットの告白を報じた記事が見つかった。何新聞のいつの記事かはわからない。(2005年以降ではあるのだろう。)



え、小さくて読めない?
しょうがねーなあ、んじゃ、書いといてやるよ。

【パリ=飯竹恒一】
「星の王子さま」で知られるフランス人作家で、第2次世界大戦の偵察飛行中に消息を絶ったアントワーヌ・ド・サンテグジュペリ(1900~44)について、ドイツ空軍の元パイロットが「私が撃ち落とした」と告白した。15日付仏紙プロバンスが伝えた。
告白したのはホルスト・リッペルトさん(88)。44年7月31日、任地の南仏で敵機がレーダーに映ったため出動。マルセイユ方面に向かう戦闘機を発見して追跡し、翼に向けて攻撃した。「命中した。機体はつぶれ、海にまっすぐに落ちた。パイロットは見えなかった」という。
 乗っていたのが、コルシカ島の連合軍基地から独占領下の仏本土に偵察飛行に出たサンテグジュペリだと知ったのは数日後。「彼だと知っていたら撃たなかった」。戦後、テレビ記者になったが、この件については口を閉ざしてきた。
航空郵便にも携わるパイロットだったサンテグジュペリは「夜間飛行」など航空にまつわる名作を残し、リッペルトさんも愛読者だった。「空の様子やパイロットの心情を見事に描いていた」
サンテグジュペリの最期をめぐっては、03年にマルセイユ沖で飛行機の残骸が引き揚げられ、翌04年に仏政府が搭乗機の一部と確認している。




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