散日拾遺

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σπλαγχνιζομαι の用例一覧

2017-09-28 11:14:53 | 日記

2017年9月28日(木)

 Fさんに触発され、福音書における σπλαγχνιζομαι の用例を調べてみた。 σπλαγχνιζομαι ~ 無理矢理カタカナ表記すれば、スプラグクニゾマイとでも書くのかな、舌噛ムゾオマイ・・・辞書を見れば、

 憐れむ、同情する to be moved with compassion

 という解説が当ててある。やっぱり compassion か。

 用例は福音書ばかりで合計12箇所、マタイ5箇所、マルコ4箇所、ルカ3箇所、ヨハネには使われていないのが興味深い。マタイとマルコの用例のざっと半分は互いの並行箇所である。面白いのはルカによる福音書で、マタイ・マルコの用例との並行箇所ではこの言葉を一度も使っていないのだ。全てルカ固有資料の部分、しかもその3箇所というのが「やもめの一人息子をよみがえらせる」くだり、「善きサマリア人の譬え」、「放蕩息子の譬え」と来ている。ルカの最もルカらしい場面ばかりではないか。

 そのルカから、まず見てみる。

 ルカ 7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。

 ルカ 10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い・・・

 ルカ 15:20 父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

 7:13は、やもめが一人息子に死なれて葬式を出す場面、まさに腸のちぎれるような慟哭がありイエスはそれに共感する。とても心穏やかに読める箇所ではない。これを標準に 10:33 、15:20 を読む時、それぞれの場面の感情の温度が一変する。15:20 は死んだと思い込んでいた息子が帰ってきた時の父親の心情だからまだしも分かるとして、行き倒れの異邦人に対して「腸のちぎれるような」憐れみを抱いたサマリア人の共感能力は尋常なものではない。この逸話は一般に「善きサマリア人 a good Samaritan の譬え」と称されるが、すましかえった善さではない、「深い深い憐れみの心をもったサマリア人」とでも呼ばなければ真意が伝わらないようだ。

 戻ってマタイ。

 マタイ 9:36 イエスはまた、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

 マタイ 14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

 マタイ 15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」(マルコ 8:2 の並行箇所)

 マタイ 18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

 マタイ 20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。

 ちょっと面白いのは18:27 で、この話の後続部分で「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」とあるところ(18:33)は、σπλαγχνιζομαι ではなく ελεεω なのである。日本語訳はすべて「憐れむ」で通しており、それで何かが決定的に失われる訳ではないが、かすかな物足りなさを禁じ得ない。文語訳聖書は27節を「あはれみ」とひらがな表記し、33節では「憫み」と漢字を当てている。それ自体が原語のニュアンスを直接表すものではないが、注意深い読者は何らかの違いがあることを察して調べるかもしれない。それを期待して漢字を当てたり当てなかったりしたのだとすれば、これまた細やかな仕掛けである。

 そしてマルコ。

 マルコ 1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると・・・

 マルコ 6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。(マタイ 9:36 and/or 14:14の並行箇所)

 マルコ 8:2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」(マタイ 15:32 の並行箇所)

 マルコ 9:22 「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

 マルコはマタイの原資料と考えられているから、6:34 を採用するにあたってマタイは 9:36 と14:14 の二箇所に分け、重複採用したのかもしれない。群衆に対するイエスの共感が倍加強調される形である。いっぽう、9:22 については並行箇所である マタイ 17:15 はελεεω、同じくルカ 9:38 は「見てやってください」という意味の表現になっている。群衆に対するそれとは逆に、個別の癒しに対するイエスのコミットメントがマタイで薄められているとすれば、これまたマタイの狙いからして分かるような気がする。

 以上、Fさんへの御礼代わりに調べてみた。

 僕は昔から断然マルコが好きだったが、時が経つにつれルカに惹かれるようになった。いちばんのきっかけは、もちろん24章である。

Ω

 


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