散日拾遺

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5月11日 アイヒマンがアルゼンチンで捕まる(1960年)

2024-05-11 03:46:35 | 日記
2024年5月11日(土)

> 1960年5月11日、南米アルゼンチンでナチス・ドイツの政府高官であったアドルフ・アイヒマンがイスラエルの諜報機関モサドによって捕らえられた。アイヒマンは「ユダヤ人問題の最終解決策」とナチス・ドイツが称する、ユダヤ人大量虐殺の責任者であり、「第三帝国の死刑執行人」とも呼ばれている。
 アイヒマンは大戦終結後米軍によって拘束されたが、1946年に捕虜収容所から脱走し、各地で逃亡を続けた後、1950年からリカルド・クレメントという偽名を使ってアルゼンチンに潜伏していた。家族もアルゼンチンに呼び寄せ、自動車工場で真面目に働いていたが、モサドが彼を発見し、監視下に置いたのは、1959年12月のことだった。
 即座にイスラエルに送られたアイヒマンは、翌1961年2月11日から裁判を受ける。虐殺の生存者や目撃者を含む多くの証人が出廷したこの裁判は、イスラエル政府の許可によりニュース番組で放送され、世界的センセーションを巻き起こした。
 裁判中、アイヒマンは一貫して「自分は命令に従っただけ」という主張を変えなかったが、起訴された15の罪状すべてについて有罪、死刑判決を受け、1962年6月1日、絞首刑となった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.137

Otto Adolf Eichmann
1906年3月19日 - 1962年6月1日 

 この人物のことはもっと知られるべきで、それというのも僕ら凡人にとってこれほど分かりやすく、なじみ深い人物はないからである。イスラエルの立場から彼を裁くのは容易であり、正しくもあるだろう。一方「自分は命令に従っただけ」というアイヒマンの主張には嘘がない。そして、それは日本のB級・C級戦犯の大多数が主張し、あるいは主張したかったことだった。『私は貝になりたい』を見よ。

 

 「連合軍がドイツの都市を空爆して女子供や老人を虐殺したのと同じです。部下は命令を実行します。もちろん、それを拒んで自殺する自由はありますが。」(一般市民を虐殺する命令に疑問を感じないか、というイスラエル警察の尋問に対して)
 「戦争中には、たった一つしか責任は問われません。命令に従う責任ということです。もし命令に背けば軍法会議にかけられます。そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、自らの誓いによっても縛られていたのです。」 (同じく、イスラエル警察の尋問に対して)

 一方、ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判を傍聴し、その記録を『ザ・ニューヨーカー』誌に連載している。邦訳『エルサレムのアイヒマン』(みすず書房、2017)、その有名なくだりから。

 彼は愚かではなかった。完全な無思想性―――これは愚かさとは決して同じではない―――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。
 
 しかし、そうなのだろうか。アイヒマンほど非凡な無思想性をもちあわせない僕らでも、「命令に従う責任」を隠れ蓑に見て見ぬ振りをすることは易々とできる。これは至ってありふれたことであり、そのありふれた日常が人道に対する犯罪を生み出し支えるところにこそ、悪魔的な現実があると言いたいのである。
 人道に対する犯罪を正しく粛々と裁くなら、生き残る個人はきわめて少なく、国家は一つもない。

Ω

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