2024年6月1日(土)
> 1929年(昭和四年)6月1日、稀代の博物学者・民俗学者・粘菌学者、南方熊楠は、和歌山県田辺湾の神島で、昭和天皇に神島の植物と粘菌についてのご進講を行った。生物学に造詣の深かった昭和天皇は、南紀伊の行幸に際して、自ら「南方熊楠の話を聞きたい」と言われたそうである。
ご進講はお召し艦長門の艦上で行われ、およそ35分間であった。この日南方は百十点以上の粘菌標本を進献したが、それらがすべてキャラメルの空き箱に入れられていたというのは有名な逸話だ。翌日、天皇は神島に上陸されたという。
神島は神域であり、照葉樹林の豊かな自然が残された島である。1906年末の神社合祀令で全国の神社林が伐採され、神島の森林の伐採される可能性があった。南方は研究対象の粘菌の住処である古い森を守るため合祀に反対する立場をとり、その運動の途上で、当時内閣法制参事官であった柳田國男と親交を結んだ。熊野古道や神島が現在も保存されているのは、南方の運動の成果と言えるだろう。
留学中の若き日から晩年まで、天衣無縫なエピソードの多い南方熊楠だが、この神社合祀反対運動では拘置所に入れられたこともあった。神島には、ご進講の日に南方熊楠の詠んだ歌の碑が建てられている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.158
左:1891年 アメリカ合衆国にて
右:御前進講の際の記念撮影(昭和4年6月1日)
南方熊楠:1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)
> 現在の和歌山県和歌山市に生まれ、東京での学生生活の後に渡米。さらにイギリスに渡って大英博物館で研究を進めた。多くの論文を著し、国内外で大学者として名を知られたが、生涯を在野で過ごした。生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著での掲載本数の歴代最高記録となっている。
当時の『ネイチャー』は査読がなく、読者投稿が比較的自由であったなどとも言われるが、いずれにせよこの怪物をこんな数字で片づけるものではなかろう。むしろ彼にとっては住処のようなものだった大英博物館での、下記の逸話の方がよほど似つかわしい。
> 大英博物館の図書館で閲覧者から人種差別発言を受けた熊楠は、大勢の前で相手に頭突きを喰らわせ、三ヶ月の入館禁止となった。一年後に再度同じ者を殴打したため博物館から追放されたが、学才を惜しむ有力イギリス人たちから嘆願書が出され復帰した。
些事へのこだわり、博覧強記、秩序に対する無頓着、突然爆発すると手がつけられないことなど、あらゆる点で粘着気質のチャンピオンともいえる存在で、事実てんかん発作があった。
もう一つ逸話を。
> ロンドン大学事務総長の職にあったフレデリック・ヴィクター・ディキンズは『竹取物語』を英訳した草稿に目を通してもらおうと、熊楠を大学に呼び出す。熊楠はページをめくるごとにディキンズの不適切な翻訳部分を指摘し、推敲するよう命じる。日本語に精通して翻訳に自信を持っていたディキンズは、30歳年下の若造の不躾な振る舞いに「目上の者に対して敬意も払えない日本の野蛮人め」と激昂。熊楠もディキンズのこの高慢な態度に腹を立て、「権威に媚び、明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従する者など日本にはいない」と怒鳴り返す。その場は喧嘩別れに終わるが、しばらくして熊楠の言い分に得心したディキンズは、それから終生、熊楠を友人として扱った。
多言語の達人であったといわれる点については下記:
> 語学には極めて堪能で、十数言語(ときに、二十数言語)解したと言われる。中でも英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、スペイン語について、専門書を読み込む読解力を有していた。また、ギリシア語、ロシア語などに関しても、ある程度学習したと考えられる。ただし、話したり書いたりしていることが確かめられる外国語は英語のみであり(参考文献では他言語も引用していた)、十数言語を「自由に操った」というのは伝説と考えられる。
こうなると幾分か人間味が感じられてくる。語学習得法としては「対訳本に目を通す、それから酒場に出向き周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える、この二つだけであった」とか。今なら酒場に出向く代わりに、その国の通俗映画やTVドラマを視聴する手がありそうだ。僕には三つ目の秘策があり、これで対抗できないかと考えてみたりする。
資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/南方熊楠
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