散日拾遺

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5月22日 ホロヴィッツがロンドンで31年ぶりの演奏会を開く(1982年)

2024-05-22 15:59:14 | 日記
2024年5月22日(水)

> 1982年5月22日、ロンドンのフェスティバルホールで、ロシア生まれの78歳の大ピアニスト、ウラジミール・ホロヴィッツがコンサートを開いた。31年ぶりの講演を聞くために詰めかけた聴衆の拍手が鳴り止むと、ホロヴィッツは、最初の曲目であるショパンの「幻想ポロネーズ」ではなく、何の前触れもなく英国国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」を弾いて人々の度肝を抜いた。
 これには、少し訳がある。この演奏会は、コヴェント・ガーデン王立歌劇場の増築基金を集めるための慈善リサイタルとして企画され、チャールズ皇太子の招きにホロヴィッツが応じたものだった。出産を間近に控えたダイアナ妃は、バッキンガム宮殿にとどまり、テレビでこの公演を聴いていた。そんなダイアナ妃のために、ホロヴィッツはシューマンの「子供の情景」をプログラムに組み入れていた。ダイアナ妃はその演奏を聴き、感動のあまり涙を流したという。
 愛用のスタインウェイをニューヨークから船で運び、ホテルには練習用のピアノを用意するなど、気難しいホロヴィッツの要求をすべて満たして初めて可能となった、記念すべきロンドン公演だった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.148

  
Vladimir Samoilovich Horowitz / ולדימיר הורוביץ‎‎
1903年10月1日 – 1989年11月5日


・名前について:
> ロシア語名では、ヴラジーミル・サモイロヴィチ・ゴーロヴィツ(Владимир Самойлович Горовиц Vladimir Samojlovič Gorovic)、ウクライナ語名ではヴォロディームィル・サミイロヴィチ・ホーロヴィツィ(Володи́мир Самí́йлович Го́ровиць Volodymyr Samijlovyč Horovyc)。Horowitzという苗字そのものは、チェコの地名 Hořovice(ホジョヴィツェ)のイディッシュ語名 האָראָװיץ‎(Horovits)に由来する。

・精神科受診歴と訪日時の評価について:
> 1940年代、ホロヴィッツは自身の性的指向を変えようと精神科に通うようになった。1960年代、そして1970年代にまた、うつ病の治療のため電気けいれん療法を受けるようになった。
 1982年、ホロヴィッツは、処方された抗うつ薬の服用を始めたが、記録によれば、彼は同時期に飲酒もおこなっていた。この間、彼の演奏は相当に衰え、1983年アメリカ合衆国と日本では記憶力低下と身体のコントロール不調に見舞われた。

> 「私はその医者の名前も知らないが、その医者を全く信用していなかった。彼はホロヴィッツを薬づけにしたのだ。…コンサートの後、憔悴しきったホロヴィッツは物を言う気力もなく、椅子にうずくまってつぶやいた。『分かっている……間違った音だらけ……音をうんとはずした……自分で自分に何が起こっているか分からない』」フランツ・モア(1994)『ピアノの巨匠たちとともに』中村菊子訳、音楽之友社、51ページ

> ホロヴィッツは日本の文化に興味を示していたようであり、自宅のリビングの壁一面には海北友雪の日本画『一の谷合戦図屏風』を飾っていた(DVD『ウラディミール・ホロヴィッツ~ザ・ラスト・ロマンティック』より)。1983年に初来日。NHKホールで2回コンサートをした。高校生8000円~S席50,000円(平均4万円)が即日売り切れとなり話題となった。このコンサートを取材したNHK番組では、プログラム前半終了時の休憩時間にインタビューを受けた音楽評論家の吉田秀和が「ひびの入った骨董品」と評し、ピアニスト神谷郁代は賛辞を述べるなど評価は分かれた。
 吉田の批評に接したホロヴィッツは、長年その実演に接することを念願していた日本のファンを失望させたことと、自身の名誉を著しく傷付けたことを帰国後も気に病み続けたという。2度目の来日は、1986年にホロヴィッツ自身の希望もあり実現した。
 この年、彼はおよそ60年ぶりとなる祖国のモスクワでの演奏を成功させ、ベルリンでもその後伝説になったコンサートを行っている。82歳という高齢にもかかわらずヨーロッパでの演奏旅行の後訪日し、昭和女子大学人見記念講堂でコンサートを行った。この演奏会はホロヴィッツ本来の芸術性が発揮され、特にスカルラッティやシューマンの小品などでの美しい音色が際立つものであった。

> 「新聞の否定的な批評が次第に浸透してきて、幸運にも彼はその主治医の影響から解放された。その精神科医はお払箱になった。この経験の苦痛は大きく、彼は後になっても…その医者のオフィスの前を通ることすら避けたほどである」デヴィッド・デュバル(1995)『ホロヴィッツの夕べ』小藤隆志訳、青土社、147ページ

> 「新しい担当医の治療で復調したホロヴィッツ氏は、86年春、露、独、英の演奏旅行で素晴しい演奏を繰り広げた。この旅行の帰路に氏は再び来日を願い、ロンドンで急きょ記者会見を行った。『3年前の私の演奏は良くなかったと思う。しかし今はもっと良い演奏ができる気がするので、再び日本で演奏したい』。当時81歳の氏が会見の冒頭で語った言葉である。3年前の演奏を『薬のせいで』などと言い訳をせず、再起を望む姿勢に私は感銘を受けた。」佐藤正治 “放射線22 「ひびのない骨董品」” 『東京新聞』6.13 2006.

資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/ウラディミール・ホロヴィッツ

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