散日拾遺

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5月29日 エディントン卿が皆既日食の観測で一般相対性理論の正しさを証明(1919年)

2024-05-29 03:47:56 | 日記
2024年5月29日(水)

> 1919年5月29日、天体物理学者アーサー・エディントン卿の指揮するイギリス観測隊が、西アフリカのプリンシペ島とブラジルのソブラルで、皆既日食の時に隠れた太陽の周りに見える星の観測、撮影を行った。さらに半年後に同じ場所で同じ星の観測を行ない、両者を比較した結果、アインシュタインの一般相対性理論にある通り、太陽の重力場によって周りに見える星の位置がずれていることを確認した。
 この現象は重力レンズと呼ばれる。アインシュタインは一般相対性理論の中で、太陽のふちを掠める光線は、太陽の重力場の影響で最初の方向から1.75秒角曲がるとしている。エディントンの観測は数値的には誤差を含んでいたが、アインシュタインの理論が正しいことを証明し、一般相対性理論が世間に受け入れられるきっかけとなった。
 アーサー・エディントン卿は当時ケンブリッジ天文台の所長で、1944年に死去するまでその職にあった。アインシュタインの友人であり、アインシュタインの宇宙模型とハッブルの観測データを結びつけた画期的な業績でも有名である。現在ではこの重力レンズ現象は、銀河やブラックホールの周辺でも観測されている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.155

Sir Arthur Stanley Eddington
1882年12月28日 - 1944年11月22日

 話しの本筋はほぼ全く理解できないので、必然的に逸話・挿話に逃げることになる。以下、目につくものを Wikipedia から抜き書きする。
 何とも宇宙人的な…
  • 第一次世界大戦の間、エディントンは兵役に召集された。クエーカーとして、また平和主義者としての立場から、彼は良心的兵役拒否者として陸軍での任務を拒否し、別の任務に就くことを希望した。彼の研究者仲間達は、科学の分野にとって彼は重要な存在であると軍を説得し、彼の兵役を免除させることに成功した。
  • エディントンは相対性理論に関する業績で特に知られている。彼は Report on the relativity theory of gravitation(『重力の相対性理論に関するレポート』)という論文を書き、1915年から1916年にかけて発表されたアルベルト・アインシュタインの一般相対性理論を英語圏に紹介した。当時は第一次世界大戦のためにドイツの科学界でなされた新たな発展がイギリスであまり知られていなかった。
  • エディントンの観測結果は一般相対性理論の予測を裏付けるものであった。この結果は当時、一般相対論がニュートン力学のモデルよりも正しいことを結論付ける証拠として歓迎された。このニュースは世界中の新聞に大きく取り上げられた。同時にこれは、「相対論を理解しているのは世界中で3人しかいない」という都市伝説の元となった。この話を記者から聞いたエディントンが冗談交じりに「はて、3人目は(アインシュタインと自分以外の)誰だろう?」と答えた、というエピソードは有名である。
  • 最近の科学史の研究によれば、エディントンの元の観測データは決定的なものではなく、エディントンはデータの中からどの結果を使うかを恣意的に選択したのではないか、という説も唱えられている。
  • 1930年には、インドからの留学生スブラマニアン・チャンドラセカールが、初めてブラックホールが存在する事を理論的に指摘した際、その指摘をまともに検討すること無く頭ごなしに否定した。当時、科学会の重鎮だったエディントンのこの態度の影響は大きく、結果チャンドラセカールの指摘は誰にも省みられること無く忘れ去られてしまうこととなった。この事件によって、ブラックホールの本格的な研究が始まるのが1960年代にまで遅れてしまう原因を作った。
  • 1920年代、彼は量子論と相対論、重力を統一する "fundamental theory"(基本理論)と呼ぶ理論の構築に次第に没頭した。最初彼は「伝統的」な道筋に沿って進んでいたが、次第に基本定数を無次元化した比を数秘術的に分析するという手法に傾倒していった。彼の研究はだんだんと風変わりな様相を増し、晩年には科学界で除け者のようになっていった。
  • 彼の基本的なアプローチは、いくつかの基本定数を組み合わせて無次元量を作り出すというものだった。こうすると多くの場合、1040、あるいはその2乗、あるいはその3乗根に近い数値が得られる、としていた。彼は、陽子の質量と電子の電荷は「宇宙を作るための自然で完全な設計書」であり、これらの値は偶然のものではないと確信していた。
  • こういった概念を彼が擁護する上で特に不利になったのは微細構造定数 α についてであった。当時のこの値の測定結果は 1/136 に非常に近く、彼は様々な理由から、この値は正確に 1/136 になるべきものだと主張した。その後、測定結果が 1/137 により近い値をとるようになると、彼は理由付けを変更して、微細構造定数は正確に 1/137 になるはずだと主張した。この 1/137 という値はエディントン数と呼ばれた。この時点で多くの研究者は彼の考えを真面目に受け取ることをしなくなった。
エディントンが撮影した1919年の皆既日食の写真。
位置測定に用いた恒星が2本の線でマークされている

 資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/アーサー・エディントン

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