散日拾遺

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万葉秀歌 001 ー たまきはる・うちのおほぬに(1・4 中皇命)

2019-04-04 09:41:46 | 日記

2019年4月5日(金)

 たまきはる 宇智の大野に馬並めて 朝踏ますらむその草深野
 (たまきはる うちのおおぬに うまなめて あさふますらむ そのくさふかぬ)
[巻1・4]
 茂吉が万葉秀歌の筆頭に選んだのがこれで、作者について詳しく考量の上、舒明天皇の皇女(孝徳天皇の后である間人(はしびと)皇后)または皇后(後の皇極/斉明天皇)と結論し、いずれにしても「天皇のうえをおもいたもうて、その遊猟の有様に聯想し、それを祝福するお心持ちが一首の響きに浸透」していると評す。
 のみならず、「豊腴(ゆ)にして荘潔、些かの渋滞なくその歌調を完うして、日本古語の優秀な特色が隈なくこの一首に出ているとおもわれるほど」と、手放しの絶賛である。
 
 これは反歌で、長歌は直前[1・3]の下記。
 
 やすみしし吾大王の、朝にはとり撫でたまひ、夕べにはい倚い立たしし、御執らしの梓弓の、長弭(はず)の音すなり、朝猟(かり)に今立たすらし、暮猟(ゆふかり)に今立たすらし、御執らしの梓弓の、長弭(はず)の音すなり
 
 こういうのを流動声調というらしい。なるほど春の海ののどかな波の、寄せては返す律動が聞こえてくる。
 
***
 茂吉先生は短歌のみを選ぶ方針を採用したので致し方ないが、スキップされた[1・1]は「籠もよ・み籠持ち」、[1・2]は「大和には・群山あれど」で、いずれも捨てがたい名歌であることを僕でも知ってる。
 とりわけ前者:
 
 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾こそをれ しきなべて 吾こそませ 我こそは 告らめ 家をも名をも
 
 作者は大泊瀬稚武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)、すなわち第21代雄略天皇である。中国の史書に「倭王・武」として登場する雄略帝、軍略の王と受けとめているが万葉にはこの帝への敬意がとりわけ顕著であること、どこかで茂吉が指摘している。
 
 それにしてもおおらかな呼びかけ、娘は何と答えたのだろう、天皇の権威をもって住所だの名だのを聞きただしたらパワハラ・セクハラで、そんな野暮はすまいと思うが娘さん御用心、この帝は女性関係ではとんでもないヘマをやらかしている。古事記・雄略天皇記から私訳で紹介する。意訳誤訳は御勘弁。
 
***
 
 ある時、雄略帝が遊行あそばされた時、美和河のほとりで衣を洗う娘を見かけた。その容姿が端麗であったので、帝が素性を尋ねると、娘は「引田部(ひけたべ)の赤猪子(あかゐこ)と申します」と答えた。帝は「そなたは嫁ぐことなく待っていよ、いずれ吾が許へ召すであろう」とおおせのうえ、宮へ戻られた。赤猪子はお言葉を頼みに嫁ぐことなく待ち続けたが、音沙汰のないままに80年が過ぎた。
 
 すっかり老いさらばえ今さら嫁ぐ先もないが、待ち続けた心を一言伝えずには死んでも死にきれない。そこでおびただしい輿入れの品を整え[註]、帝のもとに参上した。帝の方はすっかり忘れていて、「そなたはどこの老女か、これは何ごとか?」と尋ねた。赤猪子は「いついつの年これこれの月、帝よりお言葉を賜りお召しを待つうちに80年が経ちました。今は老いさらばえ、嫁ぐ先もありませんが、せめて私めの心をお伝えしようと参上しました」と答えた。

 雄略帝はひどく驚き、「そのこと、すっかり忘れていた。然るにそなたの方は志を守り、わが召しを待って女盛りを過ごしてしまったこと、いたわしくけなげである」と答えた。約束通り娶りたいと内心に思ったものの、すっかり老いたその姿が憚られて決断できず、代わりに御歌を賜った。
 
  御諸の 厳白檮(いつかし)がもと 白檮がもと ゆゆしきかも 白檮原童女(かしはらをとめ)
 
  引田(ひけた)の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも
 
 赤猪子の流す涙が、その丹摺(にずり)の袖をしとどに濡らした。
 
  御諸に つくや玉垣 つき餘し 誰にかも依らむ 神の宮人
 
  日下江の 入江の蓮(はちす) 花蓮 身の盛り人 羨(とも)しきろかも
 
 帝は、多くの贈り物を赤猪子に与えて帰した。
 
***
 註の部分、上代では求婚の際に男性から女性に贈り物があり、これにこたえて女性側が「机代物」と呼ばれる答礼をしたと思われ、これが持参財 ー 嫁入り道具 ー の意味をもったらしい。そうした「机代物」が『古事記』の三箇所に登場する(邇邇芸命と木花開耶姫、火遠理命と豊玉毘沙賣命、それに本件)と下記に解説あり。

http://bimikyushin.com/chapter_4/04_ref/momo.html

 他の二例はいずれもめでたく成婚に至り、そのしるしとして「机代物」が言及される。求婚の挨拶ではなく、求婚への答礼であることに注意したい。「机代物」を持参のうえ朝廷に乗りこんだ赤猪子は、為した約束の履行を捨て身で雄略帝に求めているのである。そこに80年の思いの丈のすべてがこもる。

 80年も経つ間には、待たせた雄略帝の方もさだめしお年を召されたことと思われるが、帝の側の老残ぶりに『古事記』は言及しない。そのことを含め、最初にこの条を読んだときには可笑しみを感じたものだったが、今はとても可笑しくなど感じられず、ひたすらに胸の痛むばかりである。こちらが歳をとったのか。

 赤猪子に詰め寄られた雄略帝が、「心の裏(うち)に婚(まぐは)ひせむと欲(おも)ほししに、その極めて老いしを憚りて、婚ひを得なしたまはず」とあることがかすかに引っかかる。それが筋目と知りながらも「心の裏にその極めて老いしを憚」ったのではない、「心の裏に婚ひせむと欲ほし」ながら果たし得なかったところである。

 何にしても、み籠もちの娘さん、うかと家や名を教えるものではないよ。80年を棒に振ることになりかねないからね。

Ω


万葉秀歌 000 序

2019-04-04 07:49:33 | 日記

2019年4月4日(木)

 「万葉集は我国の大切な歌集で、誰でも読んで好いものとおもうが、何せよ歌の数が四千五百有余もあり、一々注釈書に当ってそれを読破しようというのは並大抵のことではない。そこで選集を作って歌に親しむということも一つの方法だから本書はその方法を採った。選ぶ態度は大体すぐれた歌を巻毎に拾うこととし、歌は先ず全体の一割ぐらいの見込で、長歌は罷めて短歌だけにしたから、万葉の短歌が四千二百足らずあるとして大体一割ぐらい選んだことになろうか。

 本書はそのような標準にしたが、これは国民全般が万葉集の短歌として是非知って居らねばならぬものを出来るだけ選んだためであって、万人向きという意図はおのずから其処に実行せられているわけである。ゆえに専門家的に漸く標準を高めて行き、読者諸氏は本書から自由に三百首選二百首選一百首選乃至五十首選をも作ることが出来る。それだけの余裕を私は本書のなかに保留して置いた。

 そうして選んだ歌に簡単な評釈を加えたが、本書の目的は秀歌の選出にあり、歌が主で注釈が従、評釈は読者諸氏の参考、鑑賞の助手の役目に過ぎないものであって、而して今は専門学者の考究にして精到な注釈書が幾つも出来ているから、私の評釈の不備な点は其等から自由に補充することが出来る。

 右のごとく歌そのものが主眼、評釈はその従属ということにして、一首一首が大切なのだから飽くまで一首一首に執着して、若し大体の意味が呑込めたら、しばらく私の評釈の文から離れ歌自身について反復熟読せられよ。読者諸氏は本書を初から順序立てて読まれても好し、行き当りばったりという工合に頁を繰って出た歌だけを読まれても好し、忙しい諸氏は労働のあいま田畔汽車中電車中食後散策後架上就眠前等々に於て、一、二首或は二、三首乃至十首ぐらいずつ読まれることもまた可能である。要は繰返して読み一首一首を大切に取扱って、早読して以て軽々しく取扱われないことを望むのである。

 本書では一首一首に執着するから、いわゆる万葉の精神、万葉の日本的なもの、万葉の国民性などということは論じていない。これに反して一助詞がどう一動詞がどう第三句が奈何結句が奈何というようなことを繰返している。読者諸氏は此等の言に対してしばらく耐忍せられんことをのぞむ。万葉集の傑作といい秀歌と称するものも、地を洗って見れば決して魔法のごとく不可思議なものでなく、素直で当たり前な作歌の常道を踏んでいるのに他ならぬという、その最も積極的な例を示すためにいきおいそういう細かしきことになったのである。

 本書で試みた一首一首の短評中には、先師ほか諸学者の結論が融込んでいること無論であるが、つまりは私の一家見ということになるであろう。そうして万人向きな、誰にも分かる「万葉集入門」を意図したのであったのだけれども、いよいよとなれば仮借しない態度を折りに触れつつ示した筈である。昭和十三年八月二十九日斎藤茂吉。」

『万葉秀歌』序

***

 抜粋を試みるうちに、1500字ほどの全文を転記してしまった。何と真率で平易なこと、ここは茂吉翁の御託宣に素直に従うとしよう。「田畔汽車中電車中食後散策後架上就眠前」に微笑を禁じ得ず、架上とは欧陽脩の『帰田録』などに厠上(しじょう)とあるのと同じ、後架のことである。

 万葉集の劈頭は「籠(こ)もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち」、掉尾は「いや重(し)け 吉事(よごと)」である。そのいずれをも、高校を出るまでのどこかで教わっていたことに気づいて、誇らしくもありがたくも思う。

 僕は転勤族の息子で、博多で生まれてから三年毎にひどく遠距離の引越を余儀なくされ、学齢に達してからは前橋・松江・山形・名古屋の各都市で居住区の公立小中学校に放り込まれた。しかし、そのどこでもまっとうな教育を授けてもらえたし、レベルや進度の違いでひどく困るようなことは一度もなかったのである。先生や同級生の当たり外れはもちろんあったが、それらは概ね偶然の産物に過ぎなかった。

 そのように全国どこでも一定の質の教育を保証しえた当時の日本の公教育に、心から感謝している。居住地を振り返ってみて、それぞれが萩原朔太郎・小泉八雲・斎藤茂吉・二葉亭四迷といったシンボルをもつことを思い、日本の地域文化の豊かさに感謝するのでもある。地域で授けられた公教育の中で育つにつれ、いつの間にか万葉の歌の何ほどかが身のうちに染み込んでいた、そのことが既に人類史上希有の幸せであったに違いない。

***

 「事実に反することを語った」として、政治家が国会と国民に対し陳謝する。これを聞く側は、「事実をありのままに語った」ことについて、彼が彼のボスらに平身低頭する図を重ねている。こうした場面が広く報道され、それを日常風景として見聞きしつつ育つ子らの不幸を思う。

 役人は記録を改竄し、国権の最高機関で公然と嘘が語られ、司法は一般市民に対する苛烈と権力者に対する寛容を旨とし、行政は労働力として外国人を入れながら彼らの人権や福祉には注意を払わず、そのいずれに関しても誰ひとり責任をとらないし、とれもしない。これらすべてが次世代への教育的効果をもつのである。

 健やかに育つものは幸いだ。

Ω