2019年4月20日(土)
デルフォイの神殿に複雑に結ばれた紐があり、その結び目を解いた者は世界の覇者となる、との神託が付されていた。マケドニアのアレクサンドロスが立ち寄ったとき、ほどこうとしてほどけず、やおら剣で結び目を切ってのけた。後にアレクサンドロスの偉業を見て、人々はそれが正しい解法であったことを知った・・・と、確かそんな話。
昨年入手した『玄々碁経』は南宋時代に編まれ、元代に再編・出版された詰碁・手筋の古典教科書。そのレベルの高さと後世への影響もさることながら、400題近い問題のすべてに古典や故事を踏まえた題名が与えられているのが、いかにも中国のものらしい楽しみである。
一題一題楽しみにたどるうち、『解連環勢』という問題に出会った。東洋文庫の『玄玄碁経』は『官子譜』などと同じく呉清源師の解説がついているのも嬉しい。そこにこのようにある。
「秦の昭襄王が斉の王后に連環(知恵の輪)をおくり、斉の朝臣が解きかねていると、王后が錐でこれをつき破って解いた故事による。」
『戦国策』中の『斉策』由来というが、面白いものだ。アレクサンドロスの故事は紀元前4世紀、『戦国策』の編纂は紀元1世紀のことなので、「伝播」と考えるならギリシアの話がオリジナルなのだろうが、そうではあるまい。西にも東にも似たような話がある、ということだろうと思う。
『玄玄碁経 1』(東洋文庫) P.115
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実は先週、畏友K君から突然、長文のメールをもらった。その内容が、ちょうどこの種の「同時多発性」により本格的・本質的なやり方で触れており、それを脳科学によって基礎づけようとするK君の壮大な野心が垣間見えている。
この話題を語る相手として選んだもらったことは光栄ながら、応答するには何さまテーマが巨大であり当方は非才である。まずはK君の許諾を得てメール本文をここに転載し、自分の励みとするとともに、どこかの天才の目に触れるのを待つことにする。
いや、参ったな・・・
【第一信】
先日ふとしたきっかけで、貝塚茂樹の岩波新書「諸子百家」を眺めていたところ、明治時代の思想家、綱島栄一郎の遺著「春秋倫理思想史」という本の存在を知りました(国会図書館からPDFをダウンロードししました)。貝塚先生が強調していたのは、綱島先生が哲学として見た、孔子とソクラテスの驚くほどの類似性を指摘したことの先見性で、それを更に進めて、貝塚先生ご自身も諸子百家と集団としてのギリシャの哲学者の類似性に言及しておられました。
文系的な教養をほぼ完全に欠く自分としては、この話は驚嘆すべきことでしたので、ならばと考えて、イスラム哲学(プラトン・アリストテレスの強い影響を受けていることは自分も知っておりました)(井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』)やインド哲学、仏教哲学の入門書(いずれも岩波新書)を買い求めてみると、(いずれも内容を理解したとは申せません、念のため)、異なる背景を持ち、お互いの存在をあまり知らなかったはずの、あるいは独自性を追求したであろうこれらの(宗教)哲学が、究極の奥義と言えるような深いところで似たような結論に到達しているという不思議な光景が現れました。
例えて言うならば、地球上の同じ場所から互いに背を向け合って異なる方向に進んだはずが、地球を半周したら同じ場所で再び出合ったというような感じでしょうか?
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自己の内部に向き合おうとしたときに、異なるアプローチが類似した景色を見出しているという構図は、ユングの「原型」が民族の違いを越えて繰り返し類似のモチーフとして現れているという指摘をいやが上にも思い出させられる気がしました。哲学と原型の表面的な類似性を突き詰めれば、そこに共通して現れるのは脳です。だからそれは、我々の脳の成り立ちや仕組みに根っこがあるのではないかという、単純な結論に到達するように思われます(それ以外ないだろうというツッコミも当然です)。
脳が、地球の例えの場合であれば球という特別な構造を持つゆえに、反対に進み続けると再び出合うのと同様に、人間の思考が脳に拘束されているという、失望するくらい当たり前の結論です。こんな単純な結論は既に繰り返し主張されているとも思われます。文献があれば教えていただければ幸いです。
【第二信】
2010年に、木田元先生の現象学に関係した本(もちろん入門書です)をいくつか読んだときに(2010年の9月の日経「私の履歴書」に木田先生が書かれていたのを偶然目にして興味を持つ機会がありました)、現象学、もっと広く言えば哲学が、ある意味で行き詰まっているように見える(素人にも理解出来るような現状と将来に関する見通しがない・・・脳科学も全く同様なのですが、自分のことは棚に上げる人間の宿命からは私も逃れられません)のに驚きました。
その原因は、ひょっとすると哲学の依って立つ言語そのものの特性、不完全さによるのではないかと感じました。数学の論理が常に万能ではないというゲーデルの不完全性定理からの表面的な類推でした。地面に土台が固定された上に建物を作る状況とは違い、個々の単語の定義が動きながら相互に依存し合う宇宙空間に似た状況と言えるかも知れない言語を使っては、概念の揺るぎない静的な記述は難しそうだな・・・少しぐらぐらしそう・・・という、ぼんやりした印象に基づくものです。
言語が脳に依存しているとすれば、ひとまず言語の特性は脳の成り立ちと仕組みに依存すると仮定してみようと思いました。もしかしたら、言語の不完全さ(?)とそれに根ざしているかもしれない(??)哲学の困難も、哲学そのものの中にいては見つけるのは難しく、むしろ脳の特性という全くの外から見た方がヒントが得られるのではないかと、妄想した次第です。
もちろん、脳そのものの研究が停滞している現状で、脳と言語などという壮大な大風呂敷に、1ミクロンの進歩も得られていません。ただ、ヒトに於いて脳が言語を駆使して自己表現する状況は、脳の進化を通して発達してきた、脳が多数の筋肉を駆使して自在に運動する仕組みを転用して出現したに違いないと思われます。だから回り道にはなりますが、身体を動かす脳の仕組みの研究をうまくやれば、運が良ければ哲学に通ずると期待しております!
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