散日拾遺

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戦国策

2019-04-25 13:04:05 | 日記

2019年4月24日(水)

 会議の後で図書館に立ち寄り、『戦国策』を探す。明治書院の新釈漢文体系に上・中・下三巻本があり、上の末尾あたりが「斉策」である。戦国七雄(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓)の中から次第に秦が抜きんでようとし、これを横目に諸国の思惑が交錯する。一国を王一人で経営できるものではなく、王に対して賢人らが進言・助言・諫言するものの、そこには甘言も讒言も混じるのが必然で、これを選ぶ王の目が運命を分ける。

 

 燕と斉は秦からやや遠隔にあり、直接国境を接していない。それだけにこの二国の動向が合従連衡のあり方をしばしば決定したようである。『玄々碁経』に出てきた「解連環」の逸話は下記のようである。前後に分け、明治書院版の翻訳を少々変えながら転記する。
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 斉の閔王が殺されると、子の法章は難を避け、姓名を変えて身を隠し莒(きょ)の太史の家僕となった。太史敫(きょう)の娘は法章の容姿のとりわけすぐれているのを見て常人ではあるまいと見抜き、同情して密かに衣食を恵み、情交を通じ合った。やがて斉の旧臣らが勢力を回復し、閔王の子を探して王に立てようとしたので、法章は名乗り出て即位し襄王となった。
 襄王は太史敫の娘を立てて王后にし、子の建を生んだ。しかし太史敫は「媒酌人もなしに嫁いだ娘は血族ではない。わたしの生涯を台無しにしてしまった」と言い、死ぬまで(娘や孫と)対面しなかった。ところが君王后は賢い婦人で、父が対面を許さなくとも人の子として礼を欠くことはしなかった。
 襄王が亡くなると、子の建が立って斉王となった。君王后は秦に仕えるの恭謹を以てし、諸侯と交わるのに信義を以てした。このため建が立って四十余年、外部からの侵攻を受けることがなかった。
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 秦の昭王(始皇帝の曾祖父)がかつて使者を君王后に玉を連ねた環(知恵の輪)を贈って言った。「斉には知恵者が沢山おられるようだが、この環をお解きになれるかな」と。君王后がもろもろの臣下に示したが、誰も解き方が判らなかった。すると、君王后は傍らの椎(つち)を引き寄せて環を打ち砕き、秦の使者に謝して言った。「謹んでお解きいたしました。」
 君王后が病んで死に際に、太子の建を戒めて「わが亡き後、群臣の中で用うべきは誰某」と言った。建が「どうぞ書き取らせてください」と言うと、君王后は「いいでしょう」と言ったが、いざ筆と書板を取って待ち受けると、「この老婆は、とっくに忘れてしまいました」と言った。
 君王后が亡くなると、後に后勝が斉の宰相となったが・・・(以下略)
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 言うまでもなく、建は后勝に謀られて国を滅ぼし、非業の最期を遂げることになる。斉は春秋五覇の一でもあり、紆余曲折を経つつ春秋・戦国時代を長らえた。紀元前221年に斉を併呑したことをもって秦の覇業が完成に至る。
 君王后の建に対する遺言の場面は興味深い。これほどの重大機密を書き記すわけにはいかず、文字として遺れば必ず災いの許になる。40余年にわたって賢母の薫陶を受けながら、その機微が飲み込めていない息子に君王后は絶望したことだろう。若い日に父の使用人の中から未来の斉王を選びとったこの女性の慧眼は、最後まで曇ることがなく、それゆえ苦い未来を予見することになった。
 この女性を主人公として歴史小説を書いたら、面白いことだろう。

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