散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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『黄色い本』/『陰翳礼讃』

2019-04-03 16:12:43 | 日記

2019年4月2日(火)

 患者さんに勧められてとりよせた『黄色い本』、なるほどこれは面白い。詳しいタイトルは高野文子『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』というのである。このぐらいになると、漫画という形式をとった文学と呼ぶことに何の抵抗もない。もちろん「文学が上、漫画が下」などという話ではなく、もっぱら言葉に頼っているか、言葉と絵をこもごも動員しているかという違いである。そこを除けば、こちらに求められる精神的な作業にも生み出される感動にも差がないというのである。差がどこに生じるかというと、たとえばすべてをあからさまに説明しているか、説明を発見し再構築する作業を投げてよこしているか、そんなところに落ちるだろうか。文字だけで書かれていながら徹頭徹尾非文学的なものもあれば、いわゆる漫画の中にすぐれて文学的なものもある。これは後者の典型で、しかも標題作である『黄色い本』が主人公の読書体験を縦糸にしているところが素敵に重層的である。

 作者は僕と同年の生まれ、こんな作品のあることにもっと早く気づきたかった。

 
 
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 Aクリニックの診療、いつもながら小説より奇なる事実に出会うが、ここで書くわけにはいかない。どこにどうしたら書けるかが30年来の悩みで、これを解決しないとなかなか先へ進めない。帰途では谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の行を夢中で追う。今は左の表紙になっているようで、この図柄は表題作の主題をそこそこ忠実に表している。マスマーケット514円、Kindle版なら0円。
 
   
 
 
 僕が読んでるのは右、昭和58年の印刷で定価280円だが、古本屋で買ったものらしく100円の札が貼ってある。自分で買ったのかな、覚えがない。ちなみに所収の随筆6篇のうち5篇は昭和5年から同10年にかけて書かれ、『客ぎらい』だけが昭和23年の作である。
 1994年にアメリカへ渡るとき、しっかりした日本語を携えていきたいと選んだのが自分でも驚く吉行淳之介だったが、谷崎を食わず嫌いしていなかったら当然鞄に入れたに違いない。それにしても谷崎の文章には段落分けが極端に少ない。『陰翳礼讃』では文庫で5-6ページも改段なしに続くことが珍しくないが、それだから読みづらいということが皆無なのに驚く。必要な段落を読み手が内心で施すような、そういう文の流れになっているのだろうか。
 これまた、もっと早く出会いたかった。そういうものが、まだまだゴマンとあるわけだ。
 
Ω
 
 

嘉永元年に前例あり

2019-04-03 06:52:38 | 日記
2019年3月29日(金)にもどって

 第57期十段戦は井山裕太五冠に村川大介八段が挑戦中。本日の第2局、村川さんが白番を制してこれでタイ。激しい碁だが素人にも比較的わかりやすい展開、短手数で決着がついた。
 ネット解説は、両者を幼年期から見てきた関西の雄、結城聡九段である。



 序盤、左下の白の星に黒がカカり、白コスミツケ、黒タチ、白一間ビラキ、黒三間にヒラキ、その三間の中央に次の18手目で白が打ち込んだ。
 黒のヒラキはいわゆる二立三析、理に適った構えだが、承知のうえでそこに打ち込む場面が最近よくみられ、これもA Iの影響かと思っていた。
 ところが、そこに結城さんの解説が現れて驚いた。

 「この手は1848年に太田雄蔵が秀策相手に打っています。」

 近年の新発見にあらず、古碁に例があるというのである。
 便利な時代で、過去3世紀以上にわたる計10万局以上の棋譜を収めたソフトが、信じられないような安価で手に入る。それで検索すると、太田雄蔵と本因坊秀策の対局は1842年から1853年までに77局にのぼり、そのうち1848年には8局が記録されている。順に見ていくと8月16日の棋譜の28手目、確かにその手が打たれていた。

 古棋譜を並べるのはプロ定番の勉強法、まして秀策の棋譜ならこの事実を知る棋士は多いだろうが、年号まで記憶しているものか。ほかならぬ今日の対局に出現する予測など立たないから準備のしようもなく、着手の直後に解説が現れたからその場で調べたわけでもない、見た途端に思い出してつぶやいたのに違いない。
 結城さんの日頃の研鑽ぶりと、その頭脳の質を垣間見る気がした。



 1848年は西洋史では二月革命の年、これを嘉永元年と言い換えると、ぐっと趣が違ってくる。嘉永と言えば嘉永6年のペリー来航、世界史の風が日本の門戸を激しく打ち始め、やおら騒々しい幕末のシンボル、元号の効用はこうしたところであらたかだ。少し前から順に記してみる。

文化-文政-天保-弘化-嘉永-安政-万延-文久-元治-慶応-明治

 弘化、文久、元治など印象の薄いものをさしあたりスキップしても、この並びを眺めるだけで、おぼろな爛熟から突然の覚醒に至る流れが生き生きと浮かんでくる。元号というものに、もっと注目してみるのだった。

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 秀策(1829-62)については多言を要しない。不世出の大天才・道策から150年ぶりの逸材として本因坊家の跡目に挙げられたが、1862(文久2)年のコレラ流行に際し33歳で落命した。兄弟子・秀和が止めるのも聞かず門人の看病に専心し、その甲斐あってか本因坊家では多くが感染しながら、秀策以外に一人の死者も出なかったという。幕末にコレラが流行しているのはむろん偶然ではない。海外からの来航が急増したことの証左であり、中国に寄港した船が感染をもたらしたものと推測されている。

 対局相手、二立三析への打ち込みを試みた太田雄蔵(1807-56)という人物がまた面白い。秀策の実質的な指導者といってもよく、77局の対局記録の初めは秀策が二子置き、やがて追いつきさらには打ち込んでいく過程をよく表している。七段に進みながらお城碁を勤めなかったのは、後にも先にもこの人だけだそうで、何でも商家の出身で美男子の伊達者でもあった雄蔵は、七段になると剃髪してお城碁を勤めねばならない慣例を嫌い、「頭も剃らず、お城碁にも出仕しない」ことを条件に七段推挙を受けたと言われる。

 その人物像とともに、お城碁の権威ひいては徳川の威令が傾きつつあった嘉永の空気が、こんなところにも窺われる。

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 碁も碁の歴史もこんなにも面白いのに、囲碁人気の長期低落はいかにも残念。前理事長・團宏明氏が3月末で辞任するとの報道あり、平成30年度決算で約7千万円の赤字を出した責任をとるのだという。
 
 代わって理事長に決まったのが小林覚さん(59)、この人の碁のおおらかな攻めと華麗なサバキにはファンが多い。TV解説もさえざえと明晰である。対局は続けるというが、実のところ心配だ。2004年には同門の先輩・加藤正夫名誉王座が、同様に対局を続けながら理事長として棋院の改革にとりくみ、57歳で急逝している。

 どうか先輩の轍を踏むことのないようにと、今は御健勝を切念するばかり。

Ω