2019年4月2日(火)
患者さんに勧められてとりよせた『黄色い本』、なるほどこれは面白い。詳しいタイトルは高野文子『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』というのである。このぐらいになると、漫画という形式をとった文学と呼ぶことに何の抵抗もない。もちろん「文学が上、漫画が下」などという話ではなく、もっぱら言葉に頼っているか、言葉と絵をこもごも動員しているかという違いである。そこを除けば、こちらに求められる精神的な作業にも生み出される感動にも差がないというのである。差がどこに生じるかというと、たとえばすべてをあからさまに説明しているか、説明を発見し再構築する作業を投げてよこしているか、そんなところに落ちるだろうか。文字だけで書かれていながら徹頭徹尾非文学的なものもあれば、いわゆる漫画の中にすぐれて文学的なものもある。これは後者の典型で、しかも標題作である『黄色い本』が主人公の読書体験を縦糸にしているところが素敵に重層的である。
作者は僕と同年の生まれ、こんな作品のあることにもっと早く気づきたかった。
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Aクリニックの診療、いつもながら小説より奇なる事実に出会うが、ここで書くわけにはいかない。どこにどうしたら書けるかが30年来の悩みで、これを解決しないとなかなか先へ進めない。帰途では谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の行を夢中で追う。今は左の表紙になっているようで、この図柄は表題作の主題をそこそこ忠実に表している。マスマーケット514円、Kindle版なら0円。
僕が読んでるのは右、昭和58年の印刷で定価280円だが、古本屋で買ったものらしく100円の札が貼ってある。自分で買ったのかな、覚えがない。ちなみに所収の随筆6篇のうち5篇は昭和5年から同10年にかけて書かれ、『客ぎらい』だけが昭和23年の作である。
1994年にアメリカへ渡るとき、しっかりした日本語を携えていきたいと選んだのが自分でも驚く吉行淳之介だったが、谷崎を食わず嫌いしていなかったら当然鞄に入れたに違いない。それにしても谷崎の文章には段落分けが極端に少ない。『陰翳礼讃』では文庫で5-6ページも改段なしに続くことが珍しくないが、それだから読みづらいということが皆無なのに驚く。必要な段落を読み手が内心で施すような、そういう文の流れになっているのだろうか。
これまた、もっと早く出会いたかった。そういうものが、まだまだゴマンとあるわけだ。
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