2016年7月18日(月)
昨日、教会でH兄が声をかけてくださった。御親族に物理学の大家や「顔」学の専門家がいらっしゃる骨の髄からの学者さんで、御自身は宗教学を大学で講じていらした非常な博識家である。ただ本当に偉い人の常で少しも偉ぶるところがなく、毎週お目にかかっているとつい相手の偉さを忘れそうになる。こういう本当にエラい人々がゴロゴロおいでるのが、わが教会の恵みである。(つい伊予弁になった。)
お声かけの用件は、最近のC.S.通信連載が面白いとのお褒めのことで、光栄の一語に尽きる。兄弟葛藤についてアベルとカインの物語はよく知られ、カイン・コンプレックスなどという言葉もあるが、ヨセフ物語に注目したのは面白いと具体的に御指摘くださった。それだけで終わらないのがH兄らしいところで、「アベルとカインが深刻な兄弟葛藤に悩んでいるとき、父親のアダムは何をしていたか登場すらしない、創造の初めから父親は無力だったのだ」と論じた後、「これは僕が気がついたんですよ」と嬉しそうに付言なさった。
続けて、「TS大のO教授は御存じでしょう、彼はここでカインの最大の過ちは、不満を神に直訴しなかったことだと指摘したんですよ。確かにそうで、カインは顔を伏せたまま憤りを弟に向けた。そうではなく、顔を上げて扱いの不当を神御自身に訴えるべきだった、そうすれば必ずお答えがあったはずだというのです。実際それがヨブのしたことであり、カインはそれをしなかった、それこそが過ちだったという。卓説だと思いますね・・・」
2分ほどの立ち話に養われること。移動の道々考えるに、父としてのアダムの機能は既に父なる神に転移されているともいえそうだが、いずれにせよ「父」は子らの争いを抑止し得なかったのである。兄弟葛藤の古い来歴には気づいたが、父の嘆きには思い至らなかった。自分が現役だからかえってということもあるだろうか。
ユダヤ-キリスト-イスラム、一神教系列の「神」はある観点からは同一の存在とされる。激しさを増すばかりの子らの相克に、どれほど深い父の嘆きのあることか。
Ω