2016年6月30日(木)
古いもの好きのくせに、和暦/元号には関心を払うことが少なかった。たぶん、西暦を使って世界他地域との同時性を確認することのほうに注意が行っていたためだ。ふとわれにかえって元号の面白さを思い出したりする。たとえば古代7世紀には「白雉(はくち)」という元号があり、どこやらから白い雉(きじ)が献上されたのを瑞兆として650年にこのように改元され、5年間続いた。厳格な一世一元の制は明治以降のことで、近代日本のほうが古代~近世のそれよりも不寛容で反動的という言いがかりも付けられそうである。
それはともかく、元号の面白さを今このときに思い出したのは、またしても碁の関係。江戸時代に世界最高の水準まで高められた棋道の足どりをなぞっていくには、断然和暦が良いのである。本因坊元丈と安井知得が棋道史上まれに見るフェアでフレンドリーなライバル関係を楽しんだのは文化文政年間、化政文化と称される江戸後期の爛熟期に相当する。前聖・道策に対して後聖と称される丈和が、表でも裏でもその剛腕を遺憾なく発揮したのは天保年間。天保は15年間に及ぶので、丈和の他にも天保四傑、さらに本因坊家を継ぐことになる秀和が台頭してくる。
ついで江戸棋道の掉尾を飾る神童秀策の出番となるが、時は幕末、不安定な世相を反映して元号の回転も早く、秀策の活躍は天保に始まって弘化・嘉永・安政・万延・文久に及んでいる。直ちに一連のイメージが浮かぶではないか。嘉永の黒船来航、安政の大獄、万延元年のフットボール、文久のあとは元治・慶応を経て明治に至り、瓦解と新時代は目の前である。秀策はこの時代に勝ち続け、文久2年のコレラ禍で惜しくも満33歳の命を落とした。3年後の明治まで生き延びていれば、棋界の様相はずいぶん違っていたことだろう。
・・・などと妄想が膨らむのも、元号の功徳である。これから少し和暦/元号に注意を払ってみよう。ついでのことに、世襲本因坊は21世秀哉までで、その最後の対局の様子は川端康成の『名人』に詳しい。本因坊がタイトルとなってからは、連続5期または通算10期の規定による永世称号保持者は22世高川秀格、23世坂田栄寿、24世石田秀芳、ここまでが昭和で、25世趙治勲の十連覇は1989(平成元)年からだから、治勲さんは昭和と平成にまたがる大棋士である。「三回奪取、通算六期」の武宮九段は特例にならないものかな。
思い巡らしながら最寄り駅で下車したら、目の前にこれ。ペア碁世界戦に出場する井山裕太・謝イミンのポスターがデカデカと掲示されている。その後まもなく、井山本因坊の5期連続防衛が報じられた。26世の誕生である。
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