散日拾遺

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渡り鳥、西へ/杭瀬川を渡る

2014-08-09 05:07:52 | 日記
2014年8月9日(土)

5時起床、間もなく出発。
今年はナガサキの日に重なり、道沿いの豊川は、8月7日が空襲の記念日である。
甲子園が開幕するが、台風接近中でどうなるか。

○ 兩疏見機 解組誰逼
解題は後で。

***

 案の定、甲子園開幕が流れたが、開会式が雨で中止されるのは非常に珍しく、2日の順延は史上初だと。台風11号が強力かつ超・鈍足なのだ。
 
 5時30分過ぎに東京・目黒を出て、環八から東名へ向かう道がさっそく例年より混雑している。お盆の帰省ラッシュが土曜の朝に一斉始動というわけだ。
 瀬田の信号が妙に動かない。左から遠慮がちに膨らんでくる車越しに、無人の原付バイクが車道上に放置されているのが見えた。多摩川方面への左折レーン中央を塞ぎ、貼り紙様のものに意味不明の攻撃的な言葉が大書されている。誰かが故意に放置したのに違いない。
 近づくまでは見えないし、場所が大きな交差点の曲り端なので、誰もどけることができない。通り過ぎればそれぞれ道を急ぐから、警察への通報も遅れるだろう。それにしても、誰に何が起きたのかな。

 東名はまずまずよく流れ、午前9時に浜名湖で小休止、ここまでは例年通り順調だけれど、妙に涼しいのが既に前兆である。予告情報通り三ケ日から20km、約2時間の渋滞、これは東名・新東名の合流によるもので台風には関係ない。西進するにつれ風雨が強まり、名古屋を過ぎて養老SAで給油したあたりから本降り、滋賀県内では車軸を流すような/バケツをひっくり返すような土砂降りに突っ込んだ。ハンドルを握る手にも力が入り、肩が凝る。
 瀬田を過ぎ(東西両側に瀬田がある)京都に入って雨脚が弱まった。京都東・京都南間の渋滞予告は、到着する頃には解消されており、豪雨で車の速度が抑えられたせいだったらしい。午後3時過ぎに目的地に到着。武庫川が濁流で膨れ上がっている。
 気温27℃、こんなに涼しい夏の宝塚は記憶にない。雨風がいったんおさまって、門前で小剪定をしていると散歩の人々が通り過ぎていく。台風本体の暴風雨は明日のことで、今日の豪雨は露払いぐらいのところ。
 夜は義母が鱧(はも)と冬瓜(とうがん)で迎えてくれた。これがないと夏が越せない、どちらも東京人にはピンとこない、西の夏の風物詩である。

***

 渋滞と海上の強風を避け、伊勢湾岸ではなく名神を通ったのは久しぶりのこと。そのため途中で杭瀬川を渡ることになった。ちょうど一年前に、この川にまつわる話を載せたことを、ブログが親切に教えてくれた。忘れていた。
 再掲する。

名古屋のM先生より、お便りと小さなお荷物あり。
開けると、書籍が一冊。
『杭瀬川』と題した句集である。

M先生には中学三年の時に担任していただいた。
歴史の先生だったが、数学もある程度こなされ、さらに書道の達人でいらした。
さらに短歌・俳句を趣味とされ、旺盛に創作を続けていらっしゃる。

大戦時には満州にあり、ソ連軍の戦車を破壊するため手榴弾を懐に道に潜んでいた。
戦車部隊は二股道を反対側に進み、そちらに待機した戦友たちが自爆する轟音が聞こえた。
命永らえたが抑留され、ラーゲリであらためて死に瀕する。
『終わらざる夏』(浅田次郎)そのものだ。

抑留された11人の仲間のうち、無事に故国の土を踏んだのは2名だけ。
そんな話を声を震わせながらしてくださったのが、1971(昭和46)年度の名古屋市立S中学校の教室だった。
そう、そしてM先生も水泳の達人でいらしたっけ。

あとがきから、少しだけ。

 杭瀬川は、昔も今も水量豊富な私の故郷の川である。関ヶ原役の緒戦「杭瀬川の小戦があった。慶長5年9月、杭瀬川を挟んで、石田三成軍は大垣城に、徳川家康軍は岡山に陣地を構えて戦った。
 杭瀬川は蛍の名所でもある。江戸時代のはじめの寛永のころ、大垣城藩主初代戸田氏鉄が流域を「天の河蛍」として保護した。大正13年6月岐阜県庁は、流域沿岸50メートルを蛍の捕獲禁止区域にした。爾来400年余、蛍は大切にされて居る。此処の源氏蛍は体躯が大きい。光度が強烈で他に類を見ない・・・」

本文から、3句だけ。

 卒業証書書きて定年われも去る

 はち切れて落ちなんとする燕の子

 ひとつふたつ家をかぞへて蝶の舞ふ

先生、ありがとうございます。
行って参ります。