日本人イスラム教徒ゆとろぎ日記 ~アナー・イスミー・イスハーク~

2004年に入信したのに、2003年入信だと勘違いしていた、たわけもんのブログです。

「部活バトン」超ロングうざうざ回答①

2005年12月15日 23時11分35秒 | 未分類
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)13日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日)

 月曜日にmomoさんから「部活バトン」なるものが回ってきました。
 でも、あまり部活にいい思い出無いんだよなあ…。しかも長すぎるので、3回に分けて書きます。それでも途中で飽きられる可能性大だけど。
 「これは学校教育の問題を鋭くえぐった(実は単なる愚痴?)問題長編作品である」と自己暗示をかけて読んで頂けるとありがたいです。
 
 

1.あなたが小中高大それぞれで所属してた部活は?


☆小学校☆
・1~4年はクラブ無し(という学校だった)。
 5~6年は陸上部(週1回)。
 100mを13秒00で走って、市の小学生大会で優勝したことが記念です。走り幅跳びも6年生のときにはコンスタントに5m以上飛んでいたのですが、大会が無くて活躍できませんでした。
 「よ~し! 中学校では陸上部で頑張るぞぉー!」と燃えつつ、この頃空手も町道場で始めました。


☆中学校☆

「ええっ!? 陸上部無いんですか、この中学校?」

 100m走も12秒台で走れるようになっていたし、どうしても陸上がやりたくて、市の教育委員会に相談。


私&親:「あのー、隣の中学校 (ちなみに宇宙飛行士:野口聡一さんの母校) に転校して、陸上やりたいんですけど…」


教育委員会:「学区の関係で無理です」


私&親:「でも、部活には全員入らなくちゃいけないのに、やりたいことが無いんですよ。陸上部くらい無い方がおかしいじゃないですか?」


教育委員会:「それは学校の問題なので学校で相談してください。」


 ということで、学校に相談したところ、「おまえのそんなわがままで陸上部ができると思っているのか? それより他の運動部入れ」と担任はじめ、多くの先生方から、ありがたーいご指導をいただきました。


 そしてめでたく生物部に入部。
 なぜ運動部でないのかと言えば、「運動部男子は全員丸坊主」という決まりがあって、「そんなくだらんしきたりに従えるか、アホたれ!」という気持ちだったのです。


 生物部とはいっても、活動はほとんどせず、顧問もほとんど顔を出さず、ただ夕方まで生物室にたむろしているだけ。
 時間がもったいないので、生物室の中でもくもくと腕立て伏せやスクワットや空手の練習をしていました。


 ときどき、気晴らしに数キロ先の田んぼまでランニングしていって、ザリガニをとってきて、石綿金網にのっけてアルコールランプで焼いて食べたりしてね。


 そんなある日、大嫌いな女性体育教師から呼び出し。
 「なんじゃあ?」と思いながら尋ねてみると、「地区の中学校対抗の陸上大会があるので、100m走の代表で出なさい」という命令。


 なんじゃ、それ? 陸上部無いのに、学校対抗の大会のときだけ、めぼしい生徒かき集めて出場するのかい? いやらしいやっちゃなこいつら。などと、心の中で教員のみなさんを軽蔑しつつ、満面の笑顔で「出るのはいいですけど、坊主にしろとかいうなら絶対出ませんよ」とさわやかにお返事。生意気な中一である。


 「むむむ、仕方あるまい」という顔をされつつも、坊主にしなくてよいという条件で出場することとなった。こうして私の生物部所属陸上選手生活がスタートしたのである。


 一ヶ月ほど特訓してから出るのだが、子供が見ても練習プログラムがめちゃくちゃで、計画も調整もあったものではない。
 試合の前日に100mダッシュ30本やった後に筋トレしたりね。代表選手、みんなぐったりしていますぜ、先生。
 結果、第4位。小学校のときには優勝だったのに、やはり専門に練習しているやつには差をつけられてしまった。つーかオーバーワークだろ!
 

 中二のときの担任(新卒・美術)が、大学で陸上を専門にやっていたらしく、自主トレでグラウンドを走ったりしていたので、一緒に走らせてもらうことにした。
 そのうち仲間が増え7~8人で走るようになり、担任も「陸上部作るからメンバー集めろ」と言い出した。
 「よし、この先生についていくぞ!」と尊敬の念で見つめる私(キラキラ)。十数人のメンバーが集まった。


 数日後、担任がメンバーを集めてひとこと。
 「陸上部設立は職員会議でダメになったから、おまえら解散しろ。明日からはグラウンドも走れない。他の運動部のじゃまになるから」
 ガラガラと音を立てて崩れる、尊敬の念。後に聞いたところによると、くだんの女性体育教師が特に反対したらしい。


 納得のいかない我々は、担任や他の教員に文句を言いまくり、だいぶ荒れた。その結果、私は両親を呼び出された。
 そして担任が、私の両親にひとこと。


 「子供の育て方が悪いんじゃないですか?」


 23歳の独身の若造にそう言い放たれた両親は、今でも「あのときの悔しさと怒りは一生忘れないとたまにつぶやく。父ちゃん、母ちゃん、デキの悪い息子を持ったばかりに悔しい思いをさせてゴメンよ


 あの先生は、さぞかし、私とはデキの違った立派なお子様を育てあげられたことでしょう。まだ、中学校の先生やっていらっしゃるみたいですけどね。


 そんなことがありながらも、中二、中三も地区対抗の陸上大会には代表選手として出続けた。唯一の文化部代表でもある。


 中三のときには、100m走は11秒台で走っていたし、走り幅跳びはコンスタントに6m以上飛んでいた(練習では、当時の県の記録を軽々クリア)。
 ということで、100m走、走り幅跳び、400mリレーに出場決定。 
 例によって前日までオーバーワーク。100mダッシュ30本、走り幅跳び60本、バトンタッチの練習20本、筋トレって尋常とは思えないんですけど。
 ちゃんと大学でトレーニング理論とか勉強してきました、体育の先生?
 

 当日は100m走と走り幅跳びに平行して出場。ああ忙しい。100m走はまた4位。走り幅跳びはいい記録のときに限ってファウル。結果的には4位。
 助走の調整をする余裕も無かった。と悔しがるヒマもなくリレーのアンカーで出場。すでにふつうに歩いていても足がもつれてます、わたくし。
 結果は一人に抜かれて4位。つくづく4位に縁のある男である。


 こうして私の、生物部所属の陸上選手生活は終わりを告げたのでした。なお、大嫌いだった女性体育教師は、暴力的な指導がPTAなどで大問題となりクビになったようです。
 で、不思議なことに高校の先生になったとか。どうなっているのか、教育界


 ちなみに、遙か後の後輩に松浦亜弥がいます。彼女はマスコミで中学校についてはあまり語りたがりませんが、やはりあの中学校にはあまりいい思い出が無いんじゃないかなあ。教員がいじめを黙認していたなんて噂も聞いたけど。
 先生方は私のときとは全員替わっているはずですけど、学校の体質は変わらないものかもしれませんね。
 中学校時代の愚痴を言いたくなったら、いつでもおいで、あやや(来ないか)


 まだ1問目の回答の途中である。長いねえ。でも「生物部所属陸上選手」になってしまった特殊な事情は書いておきたかったのです。
 ここから先は徐々に短くなっていくのでご勘弁を


 それじゃ続きはまた今度

テロ組織といわれる「ヒズボラ」との接近遭遇

2005年12月14日 20時15分50秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)12日 ヤウム・ル・アルビアーィ(水曜日)

ヒズボラの劇場。「レバノンの自由への抵抗展」というイベントをやっていた。

 レバノンには、ヒズボラ(またはヘズボラ)という、イスラーム・シーア派の組織がある。世界的にはテロ組織として認識されているようだ。
 どんな見方をされているかは、私のもう一つのブログ「イスラム関係ニュースの倉庫」(一週間に一度程度まとめて更新)の検索機能で「ヒズボラ」を検索してもらうと、多少わかって頂けるのではないかと思う。具体的には次のような感じで記述されている(記事の一部)。
9/28イランの核技術がヒズボラ、ハマスなどの過激組織に渡る恐れがある
10/7米政府は、イスラエルの占領に対する武装闘争をしてきたレバノンのシーア派組織ヒズボラへの支援を「テロ支援」とみなしてきた。
10/7ブレア英首相は、イランか、レバノンで活動するイスラム原理主義組織ヒズボラが、イラクで使用されている高性能の路肩爆弾を供給していることを複数の根拠が示している、と述べた。
10/27(レバノンからの外国軍撤退に関する)報告書は、米国がテロ組織と認定し、安保理決議で武装解除が要求されているイスラム教シーア派組織ヒズボラについては、なお多数のロケット弾などを保有する現状を挙げて武装解除を重ねて要求した。
11/22レバノン国境でイスラエル軍とヒズボラ交戦、6人死亡‎


 そんでもって、アメリカの国務省からはテロ組織として認定されている。ちなみに、日本のオウム真理教も米国務省からテロ組織と認定されており、そう考えると、ヒズボラというのもとても危険な組織ということになる。


 平将門さんという方が作られている「叛乱on line」というサイトの、「合衆国国務省 海外テロ組織に関する背景情報」の中に、「ヘズボラ」として紹介されており、ありがたいことにリンク・引用自由ということなので、ここに「ヒズボラとは何か?」ということを転載させていただく。
名  称ヒズボラ(神の党)
別  名・イスラム・ジハード
・イスラム・ジハード組織
・革命的審判組織
・世界被圧制者組織
・パレスチナ解放のためのイスラム・ジハード
・悪に対する正義の組織
・アンサル・アッラー
・預言者ムハンマドの弟子
解  説レバノンで結成された急進的シーア派組織。イラン型イスラム共和国をレバノンに建国し、非イスラム的影響をその地域から除くことを中心とする。強く反西洋的・反イスラエル的。イランと密接に同盟し、しばしば指示を受けているが、テヘランが認めていない行動も行なってきたようだ。
活  動数々の反米テロ攻撃に関与したことが知られている、あるいは疑われている。1983年10月、ベイルートの米海兵隊兵舎、1984年9月のベイルートでの合衆国大使館別館への自殺トラック攻撃など。グループの一部は、レバノン国内における合衆国その他の西洋人の拉致監禁に関与していた。グループは1992年、アルゼンチンでイスラエル大使館も攻撃した。
勢  力数千人。
活動地域ベッカ渓谷、ベイルート南部郊外、南部レバノンで行動する。ヨーロッパ、アフリカ、南アメリカ、北アメリカその他に支部を設立。
外部支援イランとシリアから財政、訓練、武器、爆発物、政治的、外交的、組織的支援を相当受けている。


 そのヒズボラが、バールベック遺跡の隣の建物で、展覧会&ショーをやっていた。


「ひぇ~っ! テロ組織が町中で堂々と活動している」


と思って驚いたが、ヒズボラはレバノン国内では政党を組織しており、国会議員まで出している、れっきとした合法組織なのだ。
 いったいどのような展示を行い、どのようなショーを繰り広げるのか興味は尽きなかったが、ツアーでそんなものを見るわけにはいかないようで、あっさりと通り過ぎた。そもそもコースに入っていなかったし。


 しかし、ヒズボラ直営の土産物屋があったので、店の親父と話し込み、ヒズボラのTシャツを買うことにした。下の写真のように、前面は左胸にヒズボラのマーク、背面は全面的にヒズボラのマークがあしらってある。
 このTシャツ、普段着ていて大丈夫なんだろうか?
  

 日本円で約800円程度で購入したのだが、なかなかおつりを持ってこない。「他の土産も見てみんか?」とか「茶を一杯どうだ?」という感じで、時間を引き延ばす。それがアラブのホスピタリティと言われりゃそれまでなんだが、こちらはツアーだし、バスの出発時間が迫っているので余裕が無い。
 「うむ、仕方ない。一発かますか」と思い、


「この野郎! さっさとつりを持ってこいと言ってるんだ! つりを持ってこないならTシャツはいらん。金を全額返せ! 金を返さないのなら、ただではおかん。私は日本のカラテ・マスターだ! おまえら全員地獄へ行きたいか!?」(と、カタコトの英語で啖呵を切った)


 すると、店員一同、おおいに驚き、すぐにおつりを持ってきた。しかも500円ほどにまけてくれた。
 そして年配の店員が小声でひとこと。「君、ヒズボラに入らないか?」
 外国人観光客を勧誘するんじゃない! 入ってどうするんだ!?


 急いでツアーのバスに戻り、添乗員さんにことの顛末を話すと


「良かったじゃないですか。Tシャツ売ったお金も銃弾代くらいにはなるからヒズボラも助かりますよ」


と淡々と言われた。
 この国も、添乗員もただ者ではないと改めて思い知った。
 私の払ったTシャツ代が銃弾なんぞに化けないように祈るばかりである。

腹痛かかえてバールベック・5

2005年12月13日 07時55分11秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)11日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日)

バールベックの、まだ発掘・公開されていないエリア。ヴィーナス神殿跡。

 バールベック遺跡の見学も終わり、「シャハラザード」というレストランで昼食をとった。左下の写真は、レストランから遺跡の全景を眺めたところ。
 なぜか、私以外にも腹を壊す人が続出して、みんな代わる代わるトイレに行っていた。


 右下の写真は、石切場。エジプトのアスワンにも「切りかけのオベリスク」という、切り出す途中のままの巨大な石があるが、こちらは途中の上、なぜか傾いている。なぜ、このような形で残されたのか?
 長さは21.5m、幅は4.8m、高さは4.2m。先端にはレバノン国旗が立ててあって、登った人はみな、レバノン国旗を持って写真に収まる。
 まあ、何にしても無事にバールベック観光が終わって良かった、良かった。


インドネシア拳法シラットを体験してきました

2005年12月12日 23時53分35秒 | イベント
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)10日 ヤウム・ル・イスナイニ(月曜日)

 本日、cizmaさんの所属する、目黒のシラット道場に体験稽古に行ってきた。


 初めてお会いするcizmaさんは、目の大きな元気印の女性でした。cizmaさんはcizmaさんで、私が予想以上にオッサンだったので驚いたことだろう。ふふふ。
そうなのである。いい年して、こんなブログを書いているのである。
 この前のmomoさんといい、実際にお会いすると、事前のイメージと一致することは非常に少なく、とても新鮮である。


  インドネシア拳法というものには昔から関心があったので、とても楽しく、勉強になった。
 陳腐な言い方だが、空手にしても、テッコンドーにしても、中国拳法にしても、シラットにしても、ムエタイにしても、共通点があり相違点があって面白い。
 中には、理念は同じなのに、技としての現れ方が正反対になったりする場合もあり、人間の発想の幅広さや、文化の違いを感じる。

 
 スシロ先生の動きは、昔お世話になった和道流空手の大先生の動きに似ていたし、ユリ先生の動きは、やはり昔お世話になった合気道の先生の動きに似ていた。
 cizmaさんが見せてくれた型の中には、棒を使ったものもあり、これも「空手(というか古武道)とよく似ているなあ」と感じた。


 そうかと思うと、手のガードの位置が空手とシラットでは全く反対で、苦戦したりした。動きとしては少林寺拳法に近いだろう。
 格闘技や武道の話になると、マニアック過ぎる展開になり、止まらなくなるのでこれくらいにしておくが(でも、本当は語りたい)、普段と違った体の運用をすると、いい刺激になるのは確かである。必ず、自分がメインでやっている武道の役に立つ。
 ちょっと残念だったのは、昨晩激しい空手の稽古をしすぎて、右の肋骨が一本折れていたため、右の横蹴りがうまく蹴れなかったことである。痛くてねえ。


 実は私の自宅の近くにもシラットの道場があるということを知ったので、近いうち、是非そちらの方にもお邪魔しようかと思っている。

 
 思ったよりおっちゃんだったことに懲りずに、今後もよろしく、cizmaさん。そして、インドネシア、気をつけて行ってきてね。

 
 それでは良いお年を!(最後は日本風) 

苦渋の選択。そして帰る場所

2005年12月11日 07時22分43秒 | イスラムライフ
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)9日 ヤウム・ル・イスナイニ(日曜日)

 昨晩は、空手の稽古に行くか、アラビア書道のレッスンに行くか悩んだ挙げ句、空手に行った。
 アラビア書道は前からやりたかった習い事だし、月2回しかレッスンが無い。しかも習える時間と場所が限られている。
 下手の横好きではあるが、できればレッスンは休みたくない。あの美しいアラビア文字をいつかは自分の手で書きたいという気持ちも消えていない。


 しかし…


 自分の主宰する道場も危機である。昨年、アラビア書道を習い始めるため、毎週土曜日の夜に行っていた指導を、月2回に減らした途端に道場生が激減。
 ついには高校生にまで指導を頼むこととなった。そして8月の大会での道場生の惨敗。
 人に教わらないとわからない技術、「ツボ」というものがある。我流では必ず限界がある。


 幸い、別の団体と合併することになったが、技術体系の違いや、運営方法の違いなどを調整しなくてはならない。昨晩、先方の代表と初めて手合わせをしたが、強く、人間的にも立派な方である。この人になら道場生を任せられると実感したものの、移行期間が数ヶ月かかる。


 自分の団体は、某巨大団体から独立し、「光風会」という名称を名乗っている(書道団体みたいな名前だとよく言われる)。
 光も風も強く激しくなれば、すべてを破壊する恐ろしい力を持っている。空手も武道であり、格闘技である以上、最終的にはそのような一面を持つ。
 しかし、光と風は、適度な強さなら人の心に安らぎと潤いを与え、人を生かす。
 圧倒的な強さを身につけながらも、他人に安らぎを与える存在であってほしい、そして、自分もそうありたい…そう考えて命名した。
 その名前もあと数ヶ月で消えるが、理念は守って欲しいと思う。


 考えてみると、宗教にも同様のことが言えるのかもしれない。
 自分の命を捨ててまで、すべてを吹っ飛ばす自爆テロ行為。恐ろしい破壊力である。本人たちは「正義」「神の道」と思ってやっている。宗教とは、そのような究極の一面を持つことも否定できない。
 しかし、他では得られない安らぎや潤いを得られるのも宗教の一面(というより、これが本来の姿だと思うが)。


 体はひとつしかない。同じ時間に稽古とレッスンが重なる、空手とアラビア書道の両立はなかなか難しいことだ。
 しかし、どちらも人の心に安らぎをもたらす光を持つという共通点がある限り、(教える立場と教わる立場の違いはあるが)その「難しいこと」に挑戦していくのも天命というものなのかもしれない。

腹痛かかえてバールベック・4

2005年12月10日 23時50分52秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)8日 ヤウム・サブティ(土曜日)

バッカス神殿の回廊の天井。ギリシア時代の権力者や有力者のレリーフが観光客を見下ろす。ちょっとコワイ。

 様々なレリーフにあふれたバッカス神殿を出た。
 そして、ジュピター神殿の土台をそのまま利用したという地下博物館へ。ひんやりしていて、気持ちいいなあ…と思ったら、また腹が痛くなってきた。 
 展示品や展示図は素晴らしいし、写真撮影もOKなのだが、例によってパンフレットやガイドが無い。写真は暗くて写りにくい。デジカメでさえ光が拾えないくらいの暗さだ。
 参ったなあ、もうー! と思いながらバールベック遺跡を後にした。
クレオパトラではないかと言われているレリーフ。実物も横向き。ジュピター神殿跡の丘から見下ろした、バッカス神殿全景。反対側に入り口がある。

ジュピター神殿の基壇の下に広がる空間を利用した博物館。遺構をそのまま利用。とても涼しい。

カフェバグダッドがまたもや充実のイベントを行うようです

2005年12月10日 11時02分47秒 | イベント
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)8日 ヤウム・サブティ(土曜日)

 このブログでもブックマークさせていただいている「カフェバグダッド」がまたまた楽しく、有意義なイベントを行うようです。とても面白そうなので、勝手に紹介させて頂きます。  


★カフェバグダッド第7弾「アラブ人と仲良くする法」★
  • 日 時:12月18日(日)午後2時~午後3時30分
  • 場 所:東京渋谷区のJICA東京・東京国際センター
  • ゲスト:ジャーナリストの金子貴一氏
  • 内 容:トークイベント
金子貴一(かねこ たかかず)氏
 昨年から今年にかけ、月刊文芸春秋に、日本人が殺害されたイラクでの事件に関する記事を掲載している。
 ・2004年9月号「橋田信介さん殺害の瞬間」
 ・2005年2月号「香田さん斬首実行犯衝撃」
2本だ。いずれも、複数のイラク人を介して行った、殺害の実行犯への間接的インタビューの内容を中心にリポートしたものだ。12/18のトークショーでは、関心がある人は、こうしたイラク関連取材の事情についても話が聞けるだろう。
(※この項はカフェバグダッドの紹介文を引用させていただいています)


===トークショーの後は、こんなイベント!!===

★下北沢アラブ街ツアー★
※「下北沢アラブ街」はカフェバグダッドの命名です。


【1.モスク見学】
トークショー終了後、午後4時ごろから、徒歩でモスク「東京ジャーミィ」へ。建物内などを見学。
東京ジャーミイはトルコ政府の運営する、日本で一番美しく大きなモスクです。
東京ジャーミイのHPはこちら→東京ジャーミイ・トルコ文化センター



【2.アラブ料理の宴】
その後、東北沢駅近くのエジプト料理テイクアウト店「DELISHOPウチムラ」へ。
午後6時開宴の予定。参加者は店のスペースの関係で15人程度の予定。
主人のアリさんは、エジプト南部アスワンなので、モロヘイヤ・スープ、ホンモスなどの前菜、メインは、ケバブ、魚料理などを予定。
会費は料理で4000円(実費)。
お酒は、トルコビールやモロッコワインなどがあるが、料金別で飲んだ人が払う。


【3.食後の水タバコ】
エジプト飯で腹を満たした後、下北沢北口一番街の水タバコカフェ「シーシャ」へ。
到着は、午後8時すぎの予定。水タバコのフレイバーの種類は豊富。しかも一回400円と、現状の国内最低価格。店がやや狭いので、全員を収容できるかがやや不安。


全行程に参加すると、次のようなタイムテーブルになります。
午後2時トークイベント「アラブ人と仲良くする法」(渋谷)
午後4時東京ジャーミイ見学へ(代々木上原)
午後6時アラブ料理の宴(東北沢)
午後8時食後の水タバコ(下北沢)


カフェバグダッドの詳しい記事はこちら→カフェバグダッド第7弾とアラブ街ツアー
問い合わせ&申し込みはこちらから→「アラブ人と仲良くする法」申込み



私は、その日仕事で行けない…(泣)


超パクリ企画「この冬、私はどこの国に行くでしょう」クイズ・2

2005年12月09日 22時00分41秒 | イベント
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)7日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)

えー、早くも二人正解者が出てしまいました。


正解者第1号:cizmaさん!
おめでとう!! 


正解者第2号:めておらさん!
おめでとう!! 


「密林で世界遺産」じゃあ、簡単すぎたかな?
cizmaさんには、もし12日に目黒でお会いできたら、何か賞品を持参したいと思います。
めておらさんにはどうやって渡そう?


腹痛かかえてバールベック・3

2005年12月09日 19時20分07秒 | 中東ヘロヘロ紀行
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)7日 ヤウム・ル・ジュムア(金曜日)

バッカス神殿入り口。33段の階段。現在でも、ここで野外コンサートをおこなったりする。

 バールベックはギリシアの神々の神殿として作られ、ビザンチン教会堂となり、アラブの要塞になるという変化をした。


 そのため、ジュピター神殿、ヴィーナス神殿、バッカス神殿などという名称が遺跡につけられており、バッカス神殿などは、偶像崇拝の名残があっちゃこっちゃに散りばめられている。


  
 たとえば、上の写真は、バッカス神殿入り口の門を下から見上げたところだが、天使と鷲のレリーフが残っている(全然わからないかもしれないね)。
 その下の写真はバッカス神殿の内部。一番奥にある祭壇には、かつては司祭しか登れなかったが、現在では私のような一般旅行者も鼻歌を歌いながら、スキップなんぞをして気楽に登れる。



 アラブの要塞時代からさらに時が経ち、オスマン帝国時代の1888年には、ドイツ・トルコ協約が結ばれ、このバッカス神殿にも記念碑が設置された(左の写真)。


 ときは、第一次世界大戦前夜、イスラームの力が衰え、ヨーロッパ列強が台頭してきた頃の話である。


 ドイツにしてみれば、3B政策(ベルリン…バグダード…ビザンティウムを結ぶライン。日本以外ではあまり使われない歴史用語)への足がかりだったんだろう。


 この小さく古い神殿が、ギリシアの昔から近代までの、長い歴史の舞台であったことに感動を覚えた。そして感動のあまりしばし腹痛を忘れることができたのだった。

ドイツ帝国皇帝:ヴィルヘルム2世の紋章。(在位 1888-1918)オスマン帝国スルタン:アブデュルハミト2世の(※)トゥグラー。(在位 1876-1909)

※トゥグラー:公文書・軍旗・碑文などに記される、スルタンの印。スルタン本人の名前に、父の名前、尊称などを加えてアラビア語で表記し、デザイン化する。
 左側が丸く、上に複数の線が伸び、右側には右下がりの線があしらわれるのがパターン。日本の将軍なども使った「花押(かおう)」と似たようなもの。

超パクリ企画「この冬、私はどこの国に行くでしょう」クイズ・2

2005年12月08日 23時34分28秒 | イベント
ヒジュラ暦1426年ズー・ル・カアダ(11月)6日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日)

 メールで解答をいくつか頂きましたが、今のところ正解者無しです。


 「密林」を強調しすぎたため、マレーシア・コスタリカなどの解答が寄せられましたが、残念ながら不正解です。


本日のヒント:やはり世界遺産はいいよねえ。 今回のヒントはサービスし過ぎたかな?


それより、賞品を早く考えなきゃ…。