ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

夏目漱石を読むという虚栄 1310

2021-01-31 17:47:43 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1310 「上 先生と私」のあらすじ

1311 解けない謎はない

 

小説に限らず、Nの文章は意味不明だ。だから、人々はつまみ食いをし、パッチワークをし、異本を拵え、それに対する印象を述べてきた。『田園交響曲』(ベートーヴェン)を聞いてカッコウしか耳に残らないようなものだ。断章取義。牽強付会。お手盛り。

異本を作るのは個人の自由だ。換骨奪胎。だが、その異本がまた原典と同様に意味不明なので困る。Nの言葉遣いに違和感を抱かない人の作文は、私には意味不明であることが多い。

 

<漱石の『こころ』も、かなり謎の多い小説として知られていますね。若い学生の「私」があるとき、「先生」を見かけ、関心を抱き、知りあいます。彼はやがて先生の秘密にひかれ、それを知りたいと言う。先生はいまはダメだと言い、その後、帰省している彼のところに告白の手紙を送ります。でも、それは遺書で、それを私が読むときにはもう先生は死んでいる。そして、小説も、驚いて先生のところに(ママ)急ぐ彼が車中でその先生の遺書を読む、その先生の遺書が読者に示されるだけで、終わっています。

この小説の謎の一つは、私が鎌倉の海水浴場ではじめて先生を見かけ、関心を抱く場面に、「どうも何処かで見た事のある顔の様に思われてならな」い、「然し何うしても何時何処で会った人か想い出せ」ない、というくだりがさしはさまれていることです。私は、そのことを先生に会ってからほどない時期に口に出して確かめます。でも先生は、「人違(ママ)じゃないですか」と答える。私は「変に一種の失望を感じ」るのです。

(加藤典洋『小説の未来』)>

 

「謎」は不適切。謎は解けるものだ。ところが、この「謎」は解けていない。謎が解けるまで、謎と謎めいた表現を区別することはできない。『なぞ』(デ・ラ・メア)に謎はない。〈解けない謎〉や〈永遠の謎〉などというのは文芸的表現だ。「知られていますね」の「ね」が念押しなら、〈『こころ』が意味不明であることは常識だ〉ということになる。

「若い学生」は変。「学生」は、普通、「若い」ものだろう。「その時私はまだ若々しい書生であった」(上一)という文を誤読したか。「若い」は「若々しい」の含意を不当に無視したものだ。「学生」も、「書生」の含意を不当に無視したものだ。なお、この時点で語られるPは、まだ「大学生」(上十一)になっていなかったろう。

「秘密」は「不思議」(上七)の記憶違いか。Pが「ひかれ」たのなら、Sがひいたか。

「でも」は、機能していない。「それを私が」は〈「それを」彼「が」〉と、ちゃんと書きなさい。「もう先生は死んでいる」は誤読。Sの死期は不明なのだ。ちゃんと読みなさい。

次の段落の「私」は、すべてPだ。「謎」が何なのか、不明。

「そのこと」がどのことか、不明。したがって、「確かめます」は意味不明。

「でも」は不可解。Pの質問に対するSの返事は、筋違い。

「変に」は〈「変」な〉が適当。「一種の失望」は〈「失望」の「一種」〉か。〈一種の人災〉は〈天災の一種〉だろう。「一種の失望」は、普通の意味での「失望」とは違うようだ。どんな返事だったら、Pは「一種の失望」を感じなかったのだろう。

加藤は、この後、謎解きを始めてくれるが、奇妙奇天烈、てけれっつのぱ。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1310 「上 先生と私」のあらすじ

1312 「恋に上(のぼ)る階段」

 

青年Pは、Sを〈理想の父〉と重ねていたはずだ。

 

<ところで「私」がしばしば父と「先生」を一緒に連想し、両者を比較したという事実は、この両者がその表面的な相違にも拘らず、彼の心理の深い所でつながっていることを暗示している。すなわち精神分析の言葉でいえば、彼の「先生」に対する感情は父転移である。という意味は、彼がかつて幼い時に父に向け、その後父に幻滅して吐け口を失っていた感情が、「先生」に新たな対象を見出して向けられたということである。彼が最初「先生」に会った時déjá vuの体験を持ったのは、この父転移のいわば前兆であった。

(土居健郎『漱石の心的世界』)>

 

作品論としての「父転移」説は危ない。「父転移」はNの混乱の露呈だろう。

 

<しかし「先生」には私の感情が何か深い個人的な心理に発していることがわかっていた。それは一種の恋愛に類したものであり、すべての恋愛がそうであるように、遂には幻滅に至る運命にあると「先生」は信じていた。であればこそ「先生」はあんなに執拗に「私」に対し警告を繰り返したのである。

(土居健郎『漱石の心的世界』)>

 

「しかし」は無視。「私の感情」の「私」に鉤がない。校閲、起きてるか? 

「一種の恋愛に類したもの」は「すべての恋愛」に含まれるらしいが、なぜだろう。「幻滅に至る」は笑える。「運命」は意味不明。Sが「信じていた」という証拠はない。

「私の感情」について、次の部分が参考になるか。

 

<「あなたは物足りない結果私の所に(ママ)動いて来たじゃありませんか」

「それはそうかも知(ママ)れません。然しそれは恋とは違います」

「恋に上(のぼ)る階段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」

(夏目漱石『こころ』「上 先生と遺書」十三)>

 

SとPの会話。

「恋に上(のぼ)る階段」は「恋」ではない。〈二階「に上る階段」〉は〈二階〉かな。

 

<かいだんをはんぶんのぼったところに

二かいでもない 一かいでもないところがある

(A・A・ミルン『クリストファー・ロビンのうた』「はんぶんおりたところ」)>

 

〈Pは同性愛者から異性愛者に変わりつつあった〉と推定するのさえ無理。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1300 あらすじすらすらすらと読めない

1310 「上 先生と私」のあらすじ

1313 仮面夫婦

 

Pは、Sと知り合いになってから、その妻の静とも親しくなる。

 

<先生は奥さんに対してやさしく、仲の好い夫婦の一対に見えるが、どことなく淋しいかげりがあるように思われる。先生は大学を出て、深い学識もありながら、何もしないで遊んでいるので、世間に知られていない。先生を尊敬する私がそのことを残念がると、先生は沈んだ調子で、「何(ど)うしても私は世間に向って働ら(ママ)き掛ける資格のない男だから仕方がありません」というばかりである。奥さんに聞いてみても、その理由はわからない。そのことで、奥さん自身も苦しい悲しい思いをして来(ママ)ているという。

(『明治・大正・昭和の名著●総解説』「こころ」木村幸雄)>

 

「やさしく、」は〈「やさしく」してやっているので「、」二人は〉の不当な略。「見えるが」の「が」は接続詞として機能していない。「夫婦の一対」は「幸福な一対」(上二十)からだろう。ただし、Sは「私達は最も幸福に生れた人間の一対であるべき筈(はず)です」(上十)と語り、Pは「あるべき筈(はず)」という言葉に拘って、「不審」(上十)を抱いた。「思われる」の主語はPだ。S夫妻は仮面夫婦で、「仲の好い夫婦」を演じていた。その芝居の観客として、世間知らずのPが招待された。「どことなく」は不要。本文のさびしい系の言葉は意味不明であることが多い。「かげり」が「変な曇り」(上六)のことなら、「それは単に一時(いちじ)の結滞に過ぎなかった」(上六)とされている。「結滞」は意味不明。

Sの「深い学識」について、どこにも示されていない。Pの買い被りだろうが、作者の意図は不明。「遊んで」は「生業をもたずにぶらぶら暮らす」(『広辞苑』「遊ぶ」)という意味だろう。「世間」(上十一)は意味不明。

「残念がる」のはPだ。本文では「惜(おし)い事」(上十一)となっている。Pが何を惜しがっているのか、不明。「沈んだ調子」(上十一)について、Pは「何しろ二の句の継げない程に強いものだった」(上十一)と語る。不可解。「世間に向って働き掛ける」は意味不明だから、その「資格」も不明だし、「資格」の取得の「仕方」も不明で、それを失った理由も不明。作者は、〈Sは社会的不適応者だ〉という真相を隠蔽しているようだ。

『こころ』に謎らしいものがあるとすると、「その理由」だろうが、「その理由」は最後まで明らかにならない。明らかになったような気がする人は異本を創作しているはずだ。

「そのことで」の「その」が指す言葉は不明。「奥さん自身」の「自身」は不要。本文の「奥さん自身」(上二十)も変。「苦しい悲しい思い」は、「そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」(上十八)という静の発言からか。「そう思われる」を詳述すると、〈結婚後、Sが引きこもりがちになってしまった「責任」(上十八)は、妻である自分にあると「思われる」〉などだ。つまり、妻としての「責任」を問われることが「辛い」のであって、Sの苦しみが移ってくるように感じて「苦しい悲しい思いをして来て」いるのではない。「身を切られるより」って、「切られ」たことがあるのか。なければ、静は嘘つき。

Pは、S夫妻の仲を疑い、彼らに真情を問う。静ははっきりと答えない。Sは、口頭で答えず、「遺書」をPに送りつける。「遺書」に関するPの感想文はない。

(1310終)

 


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夏目漱石を読むという虚栄 1250

2021-01-30 15:33:29 | 評論

    夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1250 自己完結的

1251 二重思考

 

次の作品の語り手は怪しい。作者は、この語り手を軽蔑している。だから、読者は笑おう。

 

<最初の到着地がゼラ星。この星は清潔を主義としているだけあって、すがすがしいきれいな印象です。地球の多くの家庭で使われている室内用の小型自動掃除消毒装置は、この星の製品なんですよ。

つぎに訪れたロプ星は、ご存じのように芸術の星。心が洗われるような気分でしたね。すべてが静かなメロディーにのって動いているんです。気品のある曲線、調和のある色彩。すばらしい町で、ため息が出つづけでした。

(星新一『幸運の副産物』)>

 

次の語り手も怪しい。ところが、作者は気障な語り手に加担している。読者は笑えない。

 

<するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと言う声がしたと思うと、いきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍(ほたる)烏賊(いか)の火を一ぺんに化石させて、そらじゅうに沈めたというぐあい、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫(と)れないふりをして、かくしておいた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばらまいたというふうに、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼をこすってしまいました。

(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』)>

 

「科学において、人は誰にでもわかる方法で、誰も知らなかった内容を語ろうとする。だが、詩において、人はその正反対をおこなう」(オッタヴィアニ『マンガ 現代物理学を築いた巨人 ニールス・ボーアの量子論』)という。理系の詩人は「正反対」のことを同時にやってしまう。

 

<知っていて、かつ知らないでいること――入念に組み立てられた嘘を告げながら、どこまでも真実であると認めること――打ち消し合う二つの意見を同時に奉じ、その二つが矛盾(むじゅん)することを知りながら、両方とも正しいと信ずること――論理に反する論理を用いる――道徳性を否認する一方で、自分には道徳性があると主張すること――民主主義は存在し得ないと信じつつ、党は民主主義の守護者であると信じること――忘れなければいけないことは何であれ忘れ、そのうえで必要になればそれを記憶に引き戻し、そしてまた直(ただ)ちにそれを忘れること、とりわけこの忘却・想起・忘却というプロセスをこのプロセス自体に適用すること(これこそ究極の曰(いわ)く言いがたいデリケートな操作)――意識的に無意識状態になり、それから、自ら行なったばかりのその催眠行為を意識しなくなること。〈二重思考〉という用語を理解するのにさえ、〈二重思考〉が必要だった。

(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)>

『1984』(ラドフォード監督)参照。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1250 自己完結的

1252 丸投げ

 

Sは一方的に語り、一方的に話を打ち切るタイプだった。Kもそうだった、Pもそうだ。相手に話を丸投げするタイプだ。常に傲慢というのではない。ソフトに装うときもある。

 

<相手に情報や意思を伝え、これに了解を求めるというより、発信人ないし発信集団がこれを表現すること自体を目的とし、そのことによって自己(発信人)の心理的緊張を解消し満足させるようなコミュニケーションをさす。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「自己完結的コミュニケーション」)>

 

『文学論』で、Nは自己完結的以心伝心みたいなことをややこしく述べている。

 

<乙を意識している瞬間にはすでに甲は意識されていない。にもかかわらず、甲と乙とを区別(分化)することができるのはなぜか。この矛盾を解決するために漱石が用意したのは、すでに『文学論』の冒頭で紹介されていた「意識の波」の理論である。ただし、「文芸の哲学的基礎」では、上層にある明瞭な乙の意識と下層に残像として遺された不明瞭な甲の意識という二分法に組みかえられる。各瞬間の意識は実体としてあるのではなく、一瞬前の意識を差異化する作用ないしは関係性として把えられなければならないというのだ。こうした言説から、「差延〔すなわち差異・差異化・遅延〕としての時間から出発して、それとの関係で現在を考えなければならない」(『グラマトロジーについて』)というJ・デリダの「差延(différance)」の概念を連想したとしても、それほど不自然ではないだろう。

(前田愛『増補 文学テクスト入門』)>

 

「意識の波」は私の辞書にない。「意識の流れ」はジェームズの用語。

あなたがナニからアレを連想したとしても、それほど不自然ではなかろう。ナニって……、アレだよ。いや、それじゃなくてさ。そう、ソレ、ソレ。意味ありげで、なさげで、うっふん。ほら、ほら、『黄色いさくらんぼ』(浜口庫之助作詞・作曲)だよね。だべさ。

 

<デリダが主張するのは、著者の純粋な思考という唯一無二の起源はないこと、ましてやその起源なるものが自分自身といささかのずれもなく自己現前することはないということである。エクリチュールは、常に起源としての著者の純粋な思考をよみがえらせることに失敗するが、むしろそのことによってその起源について考えることを可能にする。その結果明らかになるのは、起源には自己に対する隔たりと遅れを生む働きしかないことである。そしてデリダは、この差異と遅延を生じる働きを、原(アルシ)エクリチュール、痕跡(トラス)、あるいは差延(différance)と呼んだ。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「エクリチュール」松葉祥一)>

 

ジェームズがデリダへ発展するきっかけをNがこしらえてやったのだろうか。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1250 自己完結的

1253 「殉死」の「意義」

 

静が「殉死」という言葉を口にしたのは、乃木夫妻の自殺よりも前だった。

 

<妻(さい)の笑談(じょうだん)を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積りだと答えました。私の答も無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新ら(ママ)しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十六)>

 

「それ」は〈「殉死」という言葉〉だ。「もし」を読み落としてはならない。〈「始めて」~「思い出し」〉は日本語になっていない。「もし」があるから、「殉死する積りだ」は、〈殉死する積り」になっていること「だ」ろう〉などの不当な略だろう。

「古い不要な言葉」は「殉死」だ。「意義」は意味不明。〈古い「意義」〉から意味不明。「盛り得たような」とあるから、盛り得ていないわけだ。

 

<ここで主人公にとって「殉死」という言葉は、それまでその言葉が持っていた一般的指示性(=意味)を突き破るような新しい響きを持って現われる。「明治の精神に殉死する」といった言葉のアヤによって漱石が表現しようとした問題の芯を、もし心の深い場所で共有するようなひとびとが多くいたならば、その度合いに応じてこの発語(表現)は、「殉死」という語の一般的指示性を動かすことになるだろう。つまりラングは、そういった自己表出性を動機とするパロールによってのみ変化の要因を受けとるのだが、またこの自己表出性(固有の関係の意識)は、そもそも人間がラングの海の中に投げ入れられているのでなければ、はじめから存在のしようがないのである。

(竹田青嗣『世界という背理』)>

 

「殉死」が意味ありげなのは、その対象である「明治の精神」が意味不明だからだ。

「自己表出性」は「思想・感情などが意図せずに表されること」(『ジーニアス英和大辞典』「self‐revelation」)とは違うようだ。「一般的指示性」の「殉死」の対象は人間だから、「明治の精神」は擬人化されていることになる。「明治の精神」氏は、SのDに他ならない。よって、「明治の精神に殉死する」のS的含意は、〈自分で自分を殺して自分はその後を追う〉といった不合理なものになる。「殉死」の「自己表出性」は「無論笑談」なのだよ。

 

<さくらんぼうの種を食べた男の頭に桜が育ち、花が咲く。花見客がうるさいので木を抜くと、その跡が池となり、今度は魚釣り客でにぎわう。悲観した男は、自分の頭の池に身を投げる。

(『広辞苑』「頭山(あたまやま)」)>

 

『マルコビッチの穴』(ジョーンズ監督)参照。

(1250終)(1200終)


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夏目漱石を読むという虚栄 1240

2021-01-29 10:04:03 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1240 怪しい語り手たち

1241 「奥さんは今でもそれを知らずに」

 

語り手Pは怪しい。

 

<先生は美く(ママ)しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生に取(ママ)って見(み)惨(じめ)なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十二)>

 

「恋愛の裏」は意味不明。『こころ』のどこにも「恋愛」や「悲劇」は語られていない。語り手Pは嘘をついているようなものだ。ところが、作者が〈語り手Pは嘘をついている〉という表現をしている様子はない。だから、『こころ』は意味不明なのだ。

〈「悲劇の」~「見(み)惨(じめ)なもの」〉は意味不明。〈「悲劇」の「相手」〉は意味不明。「悲劇」がないから、「まるで知れていなかった」と、Pは断言できるわけだ。「知れていなかった」には、〈今からは「知れて」しまう〉という含意がある。この含意は次の文で否定されるが、否定するぐらいなら、「いなかった」という言葉を使うべきではない。使う必要があったとすれば、〈「知れていなかった」から「奥さんは」困っていたが、「先生」が生きている間は、まだ我慢できた〉などと続けるべきだ。不当に切った理由は、静の「沈んだ心」(上十六)をPが詳述できないからだ。この語りの時点において詳述したくないのではない。語り手Pに「知れて」いないのだ。勿論、読者は、〈「恐ろしい悲劇」について、静は知らないが、Pは知っている〉と解釈せねばならない。ところが、この解釈の正しさを証明することはできない。「遺書」の語り手Sが「恐ろしい悲劇」を語っていないからだ。静は「云えないのよ」と自己規制をしているふうだが、その理由は不明。「云えない」のは、静ではなく、作者だろう。書けない。作者の構想として、「悲劇」は「遺書」で明かす予定になっていた。だから、〈「悲劇」は後に語られる〉という印象を読者に与えようとした。しかし、この企画は、結局、企画倒れに終わる。語り手Pは、作者の抱く不安とは逆の暗示、虚偽の暗示をしていることになる。つまり、作者は「虚勢」を張っている。

「知らずにいる」というが、Pは読心術者か。「今でもそれを知らずにいる」の含意は〈「今」からは「それを知らずに」いられまい〉などだろうか。

 

<そして、そのかみのすきまから、いっぴきのごきぶりがはいだしてきたことに、だれもきがつかなかった。

(矢玉四郎『ぼくときどきぶた』)>

 

これは末文だが、〈つづく〉という文字が透けて見える。続編を予感させるホラー映画の終わり方に似ている。この語り手は普通の人間である「ぼく」だから、「だれも」は〈「ぼく」以外の「だれも」〉と解釈したくなるが、そういう話ではない。万能の神のような語り手ではない「ぼく」が「だれもきがつかなかった」と語るのは不合理だ。作者は、〈でも、ぼうはんカメラにはばっちりうつっていた〉などと続けるべきだった。惜しい。

(付記)『バロン』(ギリアム監督)参照。ただし、原作とはかなり違う。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1240 怪しい語り手たち

1242 「胡(ご)魔化(まか)されて」

 

『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー)の語り手は「ほらふき」だ。彼の名に因んだ〈ミュンヒハウゼン症候群〉という病名がある。この病気の患者は〈かわいそうな私〉を演じ続ける。〈代理ミュンヒハウゼン症候群〉だと、患者は加害者になる。

小説の作者が語り手に嘘をつかせることは許される。典型的なのは推理小説の語り手だ。彼らは真犯人を知っていながら、明かさない。『こころ』は推理小説的だ。

『藪の中』(芥川龍之介)には、複数の一人称の語り手が登場する。彼らの証言は一致しない。しかし、彼らの全員が少しずつ嘘をついているとしたら、あるいは事実誤認をしているとしたら、不思議なことはない。むしろ、ありふれたことだ。作者は読者を誑かしている。勿論、無駄に深読みすることはできる。たとえば、〈なぜ、それぞれの証言者は嘘をついたのか。あるいは、事実を誤認したのか〉などと考えて遊ぶことはできる。

『藪の中』を映画化した『羅生門』(黒沢監督)は奇妙な東洋趣味か何かが漂い、欧米人が喜んで騙されている。そして、その真似を日本人がやっている。

 

<一人称の語り手によってしか情報の与えられない小説(『坊っちゃん』もそのひとつである)にたいして、読者には、その情報の信憑性(しんぴょうせい)を疑う楽しみがある。坊っちゃんの言うことをどこまで信じていいのか。思い違いはないのか。あまりに一方的な情報が多すぎるのではないか。疑問は多々ある。赤シャツの立場から書かれた『坊っちゃん』もあっていいのではなかろうか。

(『文豪ナビ 夏目漱石』編者)>

 

形式は三人称でも実質的には一人称ということがある。Nの小説は、実質的には一人称であることが多い。語り手が主人公の自己欺瞞を正当化するように語るわけだ。視点的人物が複数でも、スタイルは同じ。作中の客観的事実が想像しにくい。

『坊っちゃん』の語り手「五分刈り」は、冗談めかして嘘をついている。妙に自嘲的だ。『坊っちゃん』を読む楽しみがあるとすれば、それは子どもの作り話を真に受けて遊んでやるような楽しみぐらいだろう。

 

<私のこせつき方は頭の中の現象で、それ程外へ出なかったようにも考えられますから、或(あるい)は奥さんの方で胡(ご)魔化(まか)されていたのかも解りません。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十三)>

 

この文には次のような含意がある。

〈「私のこせつき方は頭の中の現象で」はあっても、ある程度「外へ出」ていた「ようにも考えられますから、或は奥さんの方で胡(ご)魔化(まか)されて」くれて「いたのかも解りません」〉

語り手Sは、語られるSの想像力の欠如を揶揄している。同時に、語りの時点における自分の想像力の欠如を隠蔽している。過去の自分をスケープ・ゴートにして、現在の自分は生き延びようと企んでいるのだ。聞き手Pは、語り手Sに「胡(ご)魔化(まか)されて」いるらしい。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1240 怪しい語り手たち

1243 「解釈は頭のある貴方に任せる」

 

〈小説の語り手が嘘をつくはずはない〉と信じている人は少なくなさそうだ。

 

>自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛(ママ)び、そのまま幅飛(ママ)びのように前方へ飛(ママ)んでしまって、砂地にドスンと尻餅(しりもち)をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ(ママ)来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁(ささや)きました。

「ワザ。ワザ」

自分は震撼(しんかん)しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。

(太宰治『人間失格』「第二の手記」)>

 

この「手記」そのものが「ワザ」なのだよ。

「自分」つまり少年葉蔵が「わざと出来るだけ厳粛な顔をして」身構えたとき、「皆」は〈あいつがまた道化をしでかすぞ〉と予感した。笑う準備さえしていたことだろう。「ワザ、ワザ」なんて、わざわざ指摘したのは、竹一が「白痴に似た生徒」(『人間失格』「第二の手記」)だからだ。少年葉蔵は自分自身をだませただけ。この程度の反省が成人してもできないから、葉蔵は社会人失格なんだな。

「皆の大笑い」を確認するゆとりなど、少年葉蔵にはなかったはずだ。彼は〈自分の物語〉の世界に入り込んでいたのにすぎない。「皆」は、この物語の登場人物であり、『人間失格』という作品の内部の世界に実在した人々とは違う。葉蔵が普通の大人になっていたら、〈「大笑い」をしたのは「皆」とは限らないか〉と反省できるはずだ。回想のカメラをロングにすると、〈うぜえんだよ〉と呟いて砂場に唾を吐く少年の姿が見えるよね。ぺっ。

〈目立ちたがりの少年を憐れんで「皆」は笑ってくれた〉といった想像ができないのなら、ダサいおっさんは小説家失格だろうね。ぺっ。

語り手としての葉蔵は怪しい。その根本的な原因は、「手記」の聞き手の像が不明だからだ。同様に、P文書の語り手Pは怪しい。聞き手Qの像が不明だからだ。「遺書」の聞き手はPだから、語り手Sはあまり怪しくない。ところが、不意にRが出て怪しくなる。

 

<ところで、この日記は何かヘンだと思いませんか? 日記のくせにタイトルがついていたり、読者を想定して語りかけるような文体だったり、未来に起こることをあらかじめ予想して、すでに全体の構成が考えられているかのようだったり。これはつまり、一つには僕のクサい文学趣味のなせるワザでして。もう一つは、要するに僕は飽きっぽいので日記をつけることに向いていない、ということだ。

(会田誠『青春と変態』)>

 

この「読者」は〈聞き手〉だ。

(1240終)


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夏目漱石を読むという虚栄 1230

2021-01-27 14:30:18 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1230 作者と作品と語り手

1231 読者に擬態

 

私は、〈生きて死ぬ個体としての作家〉と〈作品に付随する虚構の作者〉を区別する。作家は、自分の信念に反する文章を書くことができる。だが、作者は、できない。

 

<作品を書いた人は、誰ひとり、作品のそばで生き、作品のそばにとどまることは出来ぬ。作品とは、彼を、解雇し、除去し、彼を、生残りに、無為の人(désoeuvré)に、なすべきことなき人間に、芸術が何ら依存するところなき無力な人間にする決定そのものだ。

(モーリス・ブランショ『文学空間』)>

 

個体としての作家は、自分の作品を改変したり廃棄したりすることができる。だが、虚構の作者に、そんなことはできない。作品が消滅すると同時に作者も消える。逆に、バージョンが増えると、作者も増える。

劇映画の作者を、たとえば監督と決めるのは無理だ。関係者が多数いるからではない。全然違う。自撮りの個人映画もある。そうした楽屋の事情を、観客は知らない。何となくだが、〈映像作家〉という人格があって、それが一個のように思えるわけだ。音楽でも同様。

たとえば、『ブレード・ランナー』(スコット監督)には、バージョンが複数ある。だから、作者も複数いることになる。言うまでもなく、映画の作者は、原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(ディック)の作者とも違う。

 

<要するに、作者は享受者に完成さるべき作品を提示する。

(ウンベルト・エーコ『開かれた作品(新版)』)>

 

「さるべき」は〈されるべき〉と解釈する。

ある「享受者」にとっての真の作者は、個体としての「享受者」自身だ。たとえば、シュミレーション・ゲームやRPGなどの物語の作者は「享受者」つまりプレーヤーだ。

 

<ロマン派時代には社会に対立する孤高の〈天才〉という作者概念が登場。20世紀には無意識的な衝動に左右される作者像、システムとしての言語に操作される受動的作者像が登場し、〈作者の死〉が問題となる。現在では作者の存在を歴史と社会制度から再考する動きもある。

(『百科事典マイペディア』「作者」)>

 

一般に、ある情報を理解するためには、〈この情報は誰に対して発信されたのか〉という問題が解けていなければならない。宛先の知れない手紙を読むとき、人は受取人の姿をこしらえる。童話を読むとき、大人も子供になる。少女漫画を読むとき、男も女になる。神話を読むとき、無神論者も信者になる。人は、作者が想定しているらしい読者に、いわば擬態をしながら読む。その作者は、勿論、個体としての読者自身の空想の産物だ。

「遺書」を読むとき、私はPに擬態する。P文書を読むとき、誰に擬態しよう。

(付記)『ブレードランナー ファイナルカット』の作者はファンかもしれない。

 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1230 作者と作品と語り手

1232 鶏と卵

 

〈作者〉と〈作家〉を区別する理由の一つは、〈『こころ』を書いたのはNだ〉という証拠を私が握っていないからだ。

『坑夫』を書いたのはNか。文体がNの他の小説と違う。

『虞美人草』は漢文だらけで意味不明だ。

PがSの「遺書」を書いたのかもしれない。「遺書」の文体はP文書のそれと似ている。

芥川龍之介は『トロッコ』を書いたのか。『きりしとほろ上人伝』は盗作に近い。

太宰治は『斜陽』を書いたのか。作者が二人いるみたいだろう。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は未完成だから、作者も未成熟だ。

〈作品〉と〈作者〉は、鶏と卵のような関係にある。鶏が先か、卵が先か。卵が先だ。鶏ではない二羽の鳥が番ってできた卵から孵ったのが、世界で最初の鶏だ。卵を産むのは作者だが、それを孵して鶏に育てるのは読者だ。

『ミザリー』(キング)の作中で執筆される小説の作者は確定しない。映画の『ミザリー』(ライナー監督)では、作者と読者の微妙な関係が描かれていない。

語り手と作者は混同されることがある。

 

<作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。

(芥川龍之介『羅生門』)>

 

この「作者」は、『羅生門』の作者ではなく、語り手だ。「書いた」と書いてあるから〈書き手〉と書くべきだろうが、区別するのは面倒だから、〈語り手〉で通す。

 

<作者は此所(ここ)で筆を擱(お)く事にする。実は小僧が「あの客」の本体を確かめたい要求から、番頭に番地と名前を教えて貰(もら)って其処を尋ねて行く事を書こうと思った。

(志賀直哉『小僧の神様』)>

 

この作品は、「此所(ここ)」から先も続く。語り手である自称「作者」が擱筆を宣言しても作品は終わっていない。この「作者」は、私のいう〈作者〉とは違う。語り手だ。『小僧の神様』の語り手は、この後、異本を語り始める。それは「此所(ここ)」までの物語の不備を補うものだ。

 

<そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実として貴方に教えて上げるというより外に仕方がないのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十二)>

 

語り手Sは、彼の空想する「貴方」つまり聞き手Pに「質問され」て逃げている。Sは、自分にとって都合のいいはずの聞き手からも逃げるのだ。彼が空想の問答を続けない理由は不明。実際に問答から逃げているのは、語り手Sではなく、作者だろう。作者の能力不足を、語り手Sが庇ってやっているわけだ。

 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1230 作者と作品と語り手

1233 作品と異本

 

私がまず解いておくべきなのは、〈作品とは何か〉という問題だろう。しかし、どうも解けそうにない。

谷啓の「ガチョーン」は作品か。田原総一朗の「いや、だから」は作品かもしれない。

「ダンスがすんだ」が作品でないのなら、「談志が死んだ」も作品ではなかろう。作家を立川談志と特定できたとしても、作品のようではない。しかし、『軽い機敏な仔猫何匹いるか』(土屋耕一)や『わたしかすみそう うそみすかしたわ』(石津ちひろ)などは作品集だから、これらに収められた個々の回文は、それぞれ、作品だろう。

「酒のない国へ行きたい二日酔い」は、「また三日目には戻りたくなり」と続かなくても作品だろうか。川柳は作品だが、余韻のある俳句は作品だろうか。余韻なるものの感じが人によって違っていていいとしたら、俳句は作品と呼べるのだろうか。

教訓のない教訓譚は作品だろうか。Sの「遺書」から抽出すべき「生きた教訓」(下二)は「遺書」に含まれていない。だから、「遺書」は教訓譚として失敗しているはずだ。ただし、「生きた教訓」は意味不明。『こころ』が教訓譚なら、未完だろう。つまり、尻切れ蜻蛉だ。

タモリは、赤塚不二夫の遺影を仰ぎ見て、「私もあなたの作品です」と語りかけた。

これでいいのか。

〈作品〉とは、文芸に限らず、あるまとまった情報のことをいう。しかし、誰がある情報を〈これはまとまっている〉と見なすのだろう。個体としての享受者だ。発信者が〈作品〉として発信したものを、享受者が〈これはまとまっていないな〉と思うことがある。その場合、〈まとまっていないように思う自分がおかしいのかもしれない〉と反省する。そして、発信者が想定しているらしい受信者の像を思い描き、それに擬態しようとする。擬態できない場合、享受者は、〈この作品なるものには余分な情報が混じっている〉と思い、そこを削る。逆に不足を感じる場合、〈ここにあれを加えるとまとまりそうだ〉と思い、〈あれ〉を加えてみる。このような場合、享受者は異本の作者になっている。

あらゆる文章は、読み終えるまで、情報が足りていないように思えるものだ。あるいは、余計な情報が混じっているように思えるものだ。享受者は〈この先、ああなるのか、こうなるのか〉と考えながら読み進む。期待通りだと安心する。予想通りだと退屈する。期待外れだと不満だが、予想外の面白さがあれば楽しい。あれこれ考えながら読むとき、享受者は異本の作者になっている。読後、〈余計なものもなく、不足もなかったな〉と思ったとき、つまり、入手した情報を作品として認めたとき、享受者は異本の作者でなくなる。〈作者の想定する読者に擬態できた〉と思うわけだ。同時に、作者の像を思い浮かべることができるようになっている。この作者の性格と生身の作家の性格は違っていていい。

ところが、文豪伝説では、こうしたプロセスが逆さまになっているらしい。〈文豪N〉という作者の像が予めどこかに用意されていて、享受者はその作者が予想しているらしい読者に擬態した後、おもむろに本を開く運びとなるらしい。こうした態度は、宗教の信者が経典などを読むときの態度に似ているようだ。とにかく、〈感心しよう〉という構えで読み進む。〈有名だから、面白くて、ためになりそうだ〉などと期待するのとは、まるで違う。後者は文豪伝説の信者で安直だが、前者は硬直している。前者を〈夏目宗徒〉と呼ぶ。

(1230終)


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夏目漱石を読むという虚栄 1220

2021-01-26 18:03:54 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1220 理解について

1221 「私を理解してくれる貴方」

 

意味は理解できなければならない。しかし、〈理解〉の意味は自明ではない。

 

それから四時十分頃になると、甘木先生の名医という事も始めて理解する事が出来たんだが、脊中(せなか)がぞくぞくするのも、眼がぐらぐるするのも夢の様に消えて、当分立つ事も出来まいと思った病気が忽(たちま)ち全快したのは嬉(うれ)しかった」

(夏目漱石『吾輩は猫である』二)

 

「甘木」は〈某〉をほぐして作った名。「甘木先生」は「いえ格別の事も御座いますまい」(『吾輩は猫である』二)と診断した。そして、そのとおりになった。

私には、この「理解する」の意味が理解できない。作者による冗談らしいが、どういう冗談なのか、わからない。〈理解〉は夏目語かもしれない。

 

<私を理解してくれる貴方(あなた)の事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話して置(ママ)きます。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十二)>

 

この「理解して」も理解できない。だからだろうか、「だから、説明する必要」も「話すべき筋」も意味不明。なお、この後に話されることも意味不明。

 

<① 物事の道理をさとり知ること。意味をのみこむこと。物事がわかること。了解。「文意を―する」

 ② 人の気持や立場がよくわかること。「―のある先生」「関係者の―を求める」

 ③ 〔哲〕→了解②に同じ。

(『広辞苑』「理解」)>

 

この説明も意味不明。普通の意味での〈理解〉は理解①だろうが、ややこしくて、「わかる」までがわからなくなってしまう。『こころ』の「理解」は理解②らしい。だが、理解①との関係が不明。理解③は無視。

 

Ⅰ 理解①ができれば、理解②はできる。理解②ができなければ、理解①はできない。

Ⅱ 理解①ができれば、理解②はできない。理解②ができれば、理解①はできない。

Ⅲ 理解①ができなければ、理解②はできる。理解②ができなければ、理解①はできる。

Ⅳ 理解①ができなければ、理解②はできない。理解②ができれば、理解①はできる。

Ⅴ 理解①と理解②は無関係。

 

アインシュタイン夫人が〈私は相対性原理を理解していないが、夫を理解している〉と語ったそうだ。後の〈理解〉は冗談だろう。

 

 

 

 

 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1220 理解について

1222 「解釈」と「理解」

 

意味不明の表現でも、説明をすれば誰にでも理解できるはずだ。勿論、その説明が理解できる場合に限る。

 

<ことがらの意味やなかみがわかるようにのべること。

(『学研 小学国語辞典』「説明」)>

 

説明してもらえない場合、解釈をすることになる。

 

<解釈は頭のある貴方に任せるとして、私はただ一言(いちごん)付け足して置(ママ)きましょう。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十二)>

 

Pの「解釈」は示されない。したがって、Pに「頭」があったかどうか、不明。

Sは、Pの「解釈」を知りたくないらしい。知りたくない理由は不明。

「解釈」が必要な文は特定できない。たとえば、次の文がそうかもしれない。

 

<その私が其所の御嬢さんをどうして好(す)く余裕を有っているか。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十二)>

 

「そ」の指すものは不明。「どうして好く余裕を有(も)っているのか」は、ひっかけ問題。〈そもそもSに人を「好く」能力があったのか〉という問題を隠蔽するためのものだ。

 

<① ことば・文章などの意味や内容(ないよう)をはっきりさせること。例英語(えいご)の文章を解釈する。

 ② ものごとをはんだんすること。例雨がふっていたので、遠足はないものと解釈した。

(『学研 小学国語辞典』「解釈」)>

 

解釈②の場合、「遠足はないもの」とは限らない。雨天決行かもしれない。「解釈」の責任は解釈者にある。「雨」の責任を問うのは無意味。

本文の「解釈」は②だろう。Pの「解釈」について、Sはまったく責任を負わないのだろう。すると、P文書の信憑性が疑われる。

作者は〈Pの「解釈」は正しい〉と暗示しているのだろうか。あるいは、〈「解釈」なんてものは無駄だ〉と暗示しているのだろうか。前者なら、『こころ』の読者はPの「解釈」について解釈②をしなければならない。そして、それが定説とならなければならない。後者であれば、『こころ』に関する解釈②も無駄だろう。

「一葉落ちて天下の秋を知る」という。「遺書」は「一葉」に相当するのかもしれない。「天下の秋」に相当するのは「明治の精神」だろう。作者の意図としては、Pが「明治の精神」の終わりを知ることになるのだろう。本当に知るべきなのは読者だろう。私には無理だ。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1220 理解について

1223 『やまなし』

 

〈容疑者は《宇宙人に命じられた》などと意味不明のことを話しています〉と、アナウンサーが告げる。しかし、〈宇宙人に命じられた〉という言葉に意味はある。宇宙人が登場する小説は意味不明か。そんなはずはない。

この種の〈意味不明〉は、話者の精神異常を暗示する隠語らしい。隠語を含む報道はフェイク・ニュースだ。陰険な差別でもある。差別語の使用禁止が裏目に出ている。

瓢箪から駒が出ることはありえない。だが、意味はわかる。だからこそ、〈ありえない〉と言える。ランプの中から大きな魔人が現れることなど、ありえない。だが、わかる。わかるから、動画になっても『アラジン』(マスカー+クレメゾン監督)は面白い。

〈語られた言葉に確かな内容が認められないこと〉と〈語られた内容が現実にはありえないこと〉とは、まったく別だ。〈よくわからない〉のと、〈わかるけど嘘っぽい〉のとは、まるで違う。俗語の〈わかる〉では、この違いがわからなくなってしまう。非常に危ない。

〈ありえない〉を〈ありそうにない〉や〈あってはならない〉などの誇張として用いる人がいる。私の用いる〈ありえない〉は、誇張ではない。文字通りの意味だ。

 

<近年若者が、賞賛する意で「―味(信じられないほど、すばらしい味)」などとも言うが、賞賛の意は伝わりにくい。

(『明鏡国語辞典』「ありえない」)>

 

「伝わりにくい」ということぐらい、「若者」は承知しているはずだ。「伝わりにくい」からこそ価値がある。相手の忍耐力を試しているわけだ。臆病なくせに生意気なのさ。

ちなみに、〈信じられない〉や〈耳を疑う〉なども、甘ったれた使い方がされている。

 

<二疋(ひき)の蟹(かに)の子供らが青じろい水の底で話していました。

『クラムボンはわらったよ』

『クラムボンはかぷかぷわらったよ』

(宮沢賢治『やまなし』)>

 

「青じろい」のは、「水」か、「底」か。

〈作品の内部の世界に「クラムボン」という生物もしくは妖怪などが実在する〉と誤読する人がいる。しかし、これは幼児語で、「泡(あわ)」(『やまなし』)のことだ。「クラムボン」は〈貝坊(クラムぼん)〉つまり〈貝のように無口な幼児〉だろう。「クラムボン」とは「子供」自身のことだ。また、この言葉のことでもある。「クラムボン」の曖昧な意味は、「二疋(ひき)」の間でしか通じない。いや、彼らは〈通じる〉という遊びをしているところだ。赤ちゃん返りをしている。彼らは、〈言葉には意味がある〉という考えに戸惑っているらしい。彼らがきちんと「泡(あわ)」を吐けるようになる頃、「クラムボン」はいない。

『やまなし』は謎めいているが、謎はない。作者がうまく「泡(あわ)」を吐けていないだけだ。

「明治の精神」は「クラムボン」のような幼児語に似ている。

(1220終)


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