ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 5210

2021-09-30 21:29:23 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

5000 一も二もない『三四郎』

5200 「三つの世界」

5210 「母」は墓

5211 「母の云いつけ通り」

 

 三四郎は、「母」の手の上で踊らされている。

 

<――三四郎は母の云い付け通り野々宮宗八を尋ねる事にした。

(夏目漱石『三四郎』二)>

 

三四郎は野々宮を媒介にして、広田と再会し、美禰子と知り合う。一方、野々宮の妹に「母の影」(『三四郎』三)を見て和む。彼女は「この間見た女の様な気がして堪ま(ママ)らない」(『三四郎』三)という。お花のことだ。

 

<安心して床に這入ったが、三四郎の夢は頗る危険であった。――轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知って家へ(ママ)帰って来ない。只三四郎を安心させる為に電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽(いつわり)で、今夜轢死のあった時刻に妹も死んでしまった。そうしてその妹は即ち三四郎が池の端(はた)で逢った女である。……

(夏目漱石『三四郎』三)>

 

「池の端(はた)で逢った女」は美禰子。この時点の三四郎は、彼女の名を知らない。

「夢」の美禰子の自殺は、三四郎の「母」に対する殺意の象徴だが、作者にそうした意図はない。野々宮の妹は三四郎の「母の影」つまり「異性の味方」だが、「母」は性的対象にならない。インセスト・タブーのせいではない。「母」が両義的だからだ。つまり、「母」は「味方」でありながら、毒づくママゴンでもある。「母」のお気に入りのお光ではない「あの女」つまりお花のようなのが美禰子なのだ。「列車」(『三四郎』三)を運転していたのは広田だろうか。居眠り運転。三四郎の見た小説のような「夢」に、小説としての意味はない。作者の混乱の露呈だ。

この「夢」が文芸的なものなら、夢知らせでなければならない。美禰子は、藤尾と同様、「母」の身代わりとなって死ぬ。彼女は、 婚約者と三四郎の板挟みになった。真間手児奈だ。そういった展開にならないことには決着がつかない。喜劇なら、迫り来る列車の前に飛び込もうとする彼女を、三四郎が危機一髪のところで抱き留め、彼女は改心する。

「轢死を企てた女」を三四郎は実際に見たが、この出来事は、伏線でも何でもない。『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)とは違う。「電報」に関わる出来事も実際に起きたが、これもなくていい話だ。おかしなことに、現実の出来事よりも「夢」の出来事の方が筋が通っているように思われる。語り手は、この変な感じを消してくれない。

 

<三四郎の魂がふわつき出した。

(夏目漱石『三四郎』四)>

 

三四郎が落ち着かないのは、広田のせいだろう。「少し広田さんにかぶれたな」(『三四郎』四)と思う。ちなみに、Pも「少し先生にかぶれたんでしょう」(上三十三)と言う。

 

 

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5200 「三つの世界」

5210 「母」は墓

5212 「立退(たちのき)場(ば)のようなもの」は墓

 

「母」は三四郎の精神的自立を阻もうとしている。野々宮家は「母」の手先かもしれない。だが、広田までが手先とは考えられない。広田は独身で、マザコンらしい。三四郎は自分が広田のようになることを恐れているのだろうが、〈マザコンだと恋愛はできないし、結婚しても夫婦としてうまくやっていけそうにない〉というふうに考えているわけではない。語り手も、そんなふうには語らない。では、作者はそうした可能性をまったく考慮していないのだろうか。そうではない。逆だ。その可能性を必死になって隠蔽している。虻蜂取らず。だから、『三四郎』には結末らしい結末がない。

 

<三四郎には三つの世界が出来た。一つは遠くにある。与次郎の所謂(いわゆる)明治十五年以前の香(か)がする。凡(すべ)てが平穏である代りに凡てが寐坊(ねぼ)気(け)ている。尤も帰るに世話はいらない。戻ろうとすれば、すぐに戻れる。ただいざとならない以上は戻る気がしない。云わば立退(たちのき)場(ば)の様なものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ(ママ)封じ込めた。なつかしい母さえ此処(ここ)に葬ったかと思うと、急に勿体(もったい)なくなる。そこで手紙が来た時だけは、暫(しばら)くこの世界に彽徊して旧歓を温める。

(夏目漱石『三四郎』四)>

 

『三匹の仔豚』みたいだが、三四郎は賢い三匹目ではない。「四」があるから。

「世界」は意味不明。〈人生設計〉などとは違う。当然、「出来た」も意味不明。

与次郎は「山嵐」の後裔。「明治十五年」は与次郎が生まれた年。彼は三四郎に対して「尤(もっと)も君は九州の田舎から出たばかりだから、明治元年位の頭と同じなんだろう」(『三四郎』四)と言う。Nは「明治元年」の前年に生まれているから、二人の「頭」は「同じ」ようなものと考えられる。三四郎は、肉体だけが若返ったNだろう。

「平穏」は欺瞞。「代りに」は意味不明。「寐坊(ねぼ)気(け)て」は意味不明。広田や与次郎らに暗示をかけられて、または自己暗示にかかって、「平穏」と思っている。語り手は、嘘とも冗談ともつかない語り口によって、聞き手を寝ぼけさせようとしている。

「尤(もっと)も」は意味不明。「世話」は必要だろう。三四郎の自己欺瞞だ。

「戻ろうとすれば、すぐに」汽車に乗ればいいわけだが、その場合、休学するのか。

「いざ」がどのような事態か、不明。「ならない以上」は意味不明。「いざとならない」場合でも、たとえば長期休暇でも「戻る気がしない」のだろうか。

「立退(たちのき)場(ば)」が「立ち退いて仮に移っている所」(『日本国語大辞典』「立退所」)なら、冗談がきつ過ぎて意味不明。彼は故郷を捨てたいはずだ。何かあったのに違いないのだが、不明。

「脱ぎ棄てた過去」は意味不明。〈「過去を」~「封じ込めた」〉は意味不明。

上京して間もないのに「なつかしい」は変。「葬ったか」は殺意の露呈だが、文芸的表現ではない。「急に勿体(もったい)なくなる」の真意は〈ずっと邪魔だった〉だろう。

「そこ」の指す言葉がない。「手紙」がこの前に紹介されている。「彽徊」はNの自分語だが、意味不明。「旧歓」は皮肉めいている。「温める」は〈「温める」という演技をしている〉の不当な略。勿論、実在の「母」の気持ちは温まらない。

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5200 「三つの世界」

5210 「母」は墓

5213 冬彦さん

 

「国元」を「立退(たちのき)場(ば)」と呼ぶのは奇妙だ。「国元」は、母胎であると同時に墓所だろう。「母」は墓なのだ。三四郎は、清と同じ墓に入った後で蘇生した「五分刈り」だ。

 

<死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生(ごしょう)だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋(う)めて下さい。御墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向(こびなた)の養(よう)源寺(げんじ)にある。

(夏目漱石『坊っちゃん』十一)>

 

「五分刈り」の遺骨は、彼自身の墓や彼の親族の墓ではなく、「清の墓」に入るわけだ。

三四郎が安心できる「世界」も、「母」と入る墓の中だけだろう。

『広辞苑』の「世界」を適当にまとめる。

 

  • <「世」は過去・現在・未来の三世、「界」は東西南北上下を指すとされる。
  • 地球上の人間社会のすべて。万国。「―地図」「―一周」
  • 人の住む所。地方。
  • 世の中。世間。うきよ。
  • 世間の人。
  • 同類のものの集まり。「学者の―」
  • ある特定の範囲。「学問の―」「勝負の―」
  • 歌舞伎・浄瑠璃で、戯曲の背景となる特定の時代・人物による類型。「義経記の―」>

 

「三つの世界」の「世界」は⑥のようだが、その場合、「出来た」が処理できない。世界⑥は、三四郎と無関係に、もとからあるはずだ。⑧が適当だろう。しかし、作者にその自覚はなかろう。「世界」に先立つ物語もない。

三四郎はマザコン青年だが、その自覚が足りない。ただし、乳離れできない甘えん坊のママズ・ボーイとは違う。「母親に対する愛憎入りまじった複雑な感情」(『広辞苑』「マザー‐コンプレックス」)を抱いている。彼は、『ずっとあなたが好きだった』(TBS)の冬彦さんみたいに、母親に対して殺意を抱いているはずだ。

『吾輩は猫である』の富子の母は、ワガハイに非難されるだけだった。「五分刈り」の母性的な清も死んだ。『虞美人草』の悪い母を、作者は改心させた。だから、三四郎は「母」を軽視できる。『それから』や『門』に悪い母は出てこないが、主人公の男たちは鬱屈している。再び、『彼岸過迄』で母が登場する。この母の本心は不明なのに、須永は必死で良い母と思いたがる。その反動で、『行人』の一郎は死にそうに苦しむ。静の母は、悪い母とも良い母とも決まらないまま、死ぬ。「母」に死なれたSは、その後を追って死にたがる。

『三四郎』の語り手は、〈「母」と三四郎の物語〉を隠蔽している。その物語が明示されなければ、「世界」の意味は確定しない。物語が不要なら、きちんと「世界」の定義をすればいい。だが、そんなこともしない。「三つの物語」が混濁したまま、『三四郎』は終わる。

 

(5220終)

 


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回文 ~神経痛

2021-09-29 10:50:06 | ジョーク

   回文

    ~神経痛

個人的機転事故

死なば 手放し

宇津井健氏 神経痛

イタ飯で締めたい

(終)

 


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溶け出したガラス箱

2021-09-28 23:02:11 | ジョーク

   溶け出したガラス箱

もういやだ こんな世界は

遠い世界へ旅に出ようか

血塗れの小さな鳩が

私にこう言うんだ

本当のことを言ってください

今でも覚えていることは

今でも覚えていることは

今でも覚えていることは

独りでいたって さみしいばかり

心の扉は開けているのに

(終)


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夏目漱石を読むという虚栄 5150

2021-09-28 00:40:27 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

5000 一も二もない『三四郎』

5100 「母」と「あの女」

5150 「偉大なる暗闇」

5151 「のっぺらぼう」

 

三四郎は都市と地方の文化的格差を目の当たりにし、「自信」を失った。「自信」が回復しないのは、広田や与次郎のせいだ。彼らのような知的俗物と馴れ合うからだ。「自信」がないからやめられない。やめられないから「自信」を得られない。悪循環。

知的俗物は、他人の著書に落書きをする。

 

<「ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方より伯林に集まれる学生は、この講義を衣食の資に利用せんとの野心を以て集まれるにあらず。唯哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝うると聞いて、向上求道(ぐどう)の念に切なるがため、壇下に、わが不穏底(ふおんてい)の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現に外ならず。この故に彼等はヘーゲルを聞いて、彼等の未来を決定(けつじょう)し得たり。自己の運命を改造し得たり。のっぺらぼうに講義を聴いて、のっぺらぼうに卒業し去る公等日本の大学生と同じ事と思うは、天下の己惚(うぬぼれ)なり。公等はタイプ、(ママ)ライターに過ぎず、しかも慾(よく)張(ば)ったるタイプ、(ママ)ライターなり。公等のなす所、思う所、云う所、遂に切実なる社会の活気運に関せず。死に至るまでのっぺらぼうなるかな。死に至るまでのっぺらぼうなるかな」

(夏目漱石『三四郎』三)>

 

「ヘーゲル」が〈デカルト〉でも〈カント〉でも〈小便早よ出る〉でも同じことで、所詮、『デカンショ節』だ。「伯林」に留学して、学生たちからアンケートでもとったか。

「無上普遍の真」は意味不明。「伝うると聞いて」のこのこやって来るのは、おっちょこちょいだな。「不穏底(ふおんてい)」は意味不明。

「清浄心」の話が「社会」の話に替わっている。八つ当たりでしかないからだ。「活気運」は意味不明。

「のっぺらぼう」が目鼻を盛っても「死に至るまでのっぺらぼう」だろう。

 

<論文は現今の文学者の攻撃に始まって、広田先生の讃辞に終っている。ことに大学文科の西洋人を手痛く罵倒(ばとう)している。早く適当の日本人を招聘(しょうへい)して、大学相当の講義を開かなくっては、学問の最高府たる大学も昔の寺小屋同然の有様になって、煉瓦(れんが)石(せき)のミイラと撰(えら)ぶ所がない様になる。尤(もっと)も人がなければ仕方がないが、ここに広田先生がある。

(夏目漱石『三四郎』六)>

 

「論文」は与次郎の書いた「偉大なる暗闇」のこと。

「広田先生の讃辞」は〈「広田先生」へ「の讃辞」〉の間違い。

「文学者」は〈文学研究者〉のことだろうが、広田は文学研究者ではない。ただの教師だ。

「ことに」以下は、前の「始まって」に続けるべきだ。

「手痛く」は〈手厳しく〉が適当。「多く、相手から受ける損害や非難などにいう」(『広辞苑』「手痛い」)からだ。『日本国語大辞典』は「手痛い」の項で『三四郎』のこの部分から引用しているが、不適当だろう。

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5100 「母」と「あの女」

5150 「偉大なる暗闇」

5152 教養主義

 

広田の周囲に集まる青年たちは、極めて怪しい。

 

<主なメンバーとして、作家に森田草平(もりたそうへい)・鈴木三重吉(すずきみえきち)・中勘助(なかかんすけ)・芥川龍之介・野上弥生子(のがみやえこ)、学者に寺田寅彦(てらだとらひこ)・阿部次郎・和辻哲郎(わつじてつろう)らがいた。漱石から人間的・文学的に影響を受けた彼ら文学者グループを、“漱石山脈”と呼ぶ。

(『近現代文学事典』「木曜会」)>

 

野上弥生子は「《青鞜》にも作品を寄稿した」(『マイペディア』「野上弥生子」)という。

 

<しかし社会学的には、同世代の年少者から成る闘争的な集団を指す。第1次集団として強い結束を保ち、集団内にだけ通用する掟や隠語を持つ。元来は遊戯的な性格を持ち、社会化訓練の場としても機能する。しかし他の集団と接触し、対立や闘争することで暴力的な性格を帯び、反社会的な行為にいたる、とされる。

(『百科事典マイペディア』「ギャング」)>

 

与次郎は、「広田の賛辞」を表明するだけで十分だったはずだ。

 

<この個人主義はここに再び、先の人間学主義の必要を感じて来るのであって、この人間と人間との結合様式として人間学的なものが採用されるのである。人間と人間との云わば「パトス」的な結合がそこに取り上げられる。こうやって、この自由主義者によれば、人間は或る一定の人間達だけと、一定の結合関係に這入るのである。それはどういうことかというと、人間学的趣味判断の上から、好きな人間同志(ママ)が、一つの社会結合をするのである。処で吾々はこうした社会結合を、セクトと呼ばねばならぬだろう。

(戸坂潤『日本イデオロギー論』15「「文学的自由主義者」の特質」)>

 

木曜会はセクトとして大正教養主義の主流をなした。その流れは戦後も、そして、二十一世紀も続いているのだろう。

 

<戦後の雑誌『心』は、その代表的メディアであった。その特徴は、藤田省三によれば反俗的エリート意識、西欧や日本の文化的伝統の尊重、個人を前提にした共同体の保持(人と人の和)、社会科学や法則的認識の軽視などにあった。また政治的には軍隊嫌いゆえの一定の反軍的傾向と、制度ではない天皇個人への愛着があり、これが戦後の文化的象徴天皇制を支える根拠となった。

(『日本歴史大事典』「大正教養主義」安田常雄)>

 

軽薄才子は、セクト、ギャング、山脈その他を形成する。

 

 

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5100 「母」と「あの女」

5150 「偉大なる暗闇」

5153 セクトごっこ

 

官僚のセクハラ疑惑に関して、元官僚の女性が〈男子校〉という言葉を使って説明していた。〈旧制高校〉と言いたいのを我慢したか。

 

<ひょっとすると、日本の近代精神史を解明するひとつの鍵(かぎ)は、明治末年から昭和の前半までつづいた、あの「友情」という特殊な観念の君臨だったかもしれない。それは、漱石の『こころ』の「先生」と友人「K」を支配し、無数の旧制高等学校の生徒たちの感情を呪縛(じゅばく)し、反俗と無頼を誇る文士たちの精神を支えてきた。多くの場合、友情は家族愛や男女の絆よりも強く、しかし、そうした濃密な感情に似て、公的世界の人間関係に対立する、純粋に私的な紐帯(ちゅうたい)を作りあげた。青年たちは、この紐帯のなかで最初の趣味を試され、人生についての見方を学び、いわば、人生観と世界観の原点を教えられるのであった。

この友情の集団には、師匠でなければ、たいてい兄貴分の教祖的な青年がいて、集団内部だけの秘教的な雰囲気のなかで、独特の尊敬と畏怖(いふ)を集めていた。彼は、友人たちの趣味と教養に裁断的な批評をくだし、その誠実さと忠誠心を試しては、心の最後の殻をも剥(は)ぎとることを要求した。ときには酒席の無礼講の狂態のなかで、ときには読書会や、同人誌の作品合評の席で、この感情生活をめぐる私的制裁は、あたかも青春の通過儀礼のように行なわれるのであった。

(山崎正和『森鴎外 人と作品 ―不党と社交』*)>

 

SとKは、セクトを形成していない。彼らは外敵を特定することができず、セクトごっこをやって気取っていた。外敵がいないとき、敵は内部に想定される。内ゲバ。Nは、実生活で木曜会を拡大しながら、小説の中では「男同志」(下二十五)の関係を徐々に壊していく。

 

<津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介なこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙(そば)だてた。すると一旦(いったん)緒(いと)口(ぐち)の開(あ)いた想像の光景(シーン)は其所(そこ)で留まらなかった。彼を拉(らっ)してずんずん先へ進んだ。彼は突然玄関へ(ママ)馬車を横付にする、そうして怒鳴り込むような大きな声を出して彼の室(へや)へ(ママ)入ってくる小林の姿を眼前に髣髴(ほうふつ)した。

(夏目漱石『明暗』百八十一)>

 

「陰晴定め」あれば、どうなのか。「天気を相手にして戦う」は意味不明。「この友達」は小林。「峙(そば)だてた」は〈聳やかした〉と解釈する。語り手は誰に「いう」のか。SにとってのKは、津田にとっての小林と同様、「敵」だったろう。三四郎にとって、与次郎は「敵」だったはずだ。「五分刈り」にとっての「山嵐」も同様。苦沙弥にとっての寒月も。

「開(あ)いた」は〈見つかった〉と解釈する。

「拉(らっ)して」の主語は、形式的には「想像の光景(シーン)」だが、意味的には「想像」か。

〈「突然」~「横付にする」〉は変だが、「想像」だから、まあ、いいか。

「怒鳴り込む」は〈怒鳴る〉が適当。

 

*森鴎外『阿部一族・舞姫』(新潮文庫)所収。

 

(5150終)

(5100終)

 


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回文 ~涎

2021-09-26 09:22:49 | ジョーク

   回文

      ~涎

稲荷食べ足りない

涎 誰だよ

暗がりが楽

古稀が見張る歯磨き粉

(終)

 


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