夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5210 「母」は墓
5211 「母の云いつけ通り」
三四郎は、「母」の手の上で踊らされている。
<――三四郎は母の云い付け通り野々宮宗八を尋ねる事にした。
(夏目漱石『三四郎』二)>
三四郎は野々宮を媒介にして、広田と再会し、美禰子と知り合う。一方、野々宮の妹に「母の影」(『三四郎』三)を見て和む。彼女は「この間見た女の様な気がして堪ま(ママ)らない」(『三四郎』三)という。お花のことだ。
<安心して床に這入ったが、三四郎の夢は頗る危険であった。――轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知って家へ(ママ)帰って来ない。只三四郎を安心させる為に電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽(いつわり)で、今夜轢死のあった時刻に妹も死んでしまった。そうしてその妹は即ち三四郎が池の端(はた)で逢った女である。……
(夏目漱石『三四郎』三)>
「池の端(はた)で逢った女」は美禰子。この時点の三四郎は、彼女の名を知らない。
「夢」の美禰子の自殺は、三四郎の「母」に対する殺意の象徴だが、作者にそうした意図はない。野々宮の妹は三四郎の「母の影」つまり「異性の味方」だが、「母」は性的対象にならない。インセスト・タブーのせいではない。「母」が両義的だからだ。つまり、「母」は「味方」でありながら、毒づくママゴンでもある。「母」のお気に入りのお光ではない「あの女」つまりお花のようなのが美禰子なのだ。「列車」(『三四郎』三)を運転していたのは広田だろうか。居眠り運転。三四郎の見た小説のような「夢」に、小説としての意味はない。作者の混乱の露呈だ。
この「夢」が文芸的なものなら、夢知らせでなければならない。美禰子は、藤尾と同様、「母」の身代わりとなって死ぬ。彼女は、 婚約者と三四郎の板挟みになった。真間手児奈だ。そういった展開にならないことには決着がつかない。喜劇なら、迫り来る列車の前に飛び込もうとする彼女を、三四郎が危機一髪のところで抱き留め、彼女は改心する。
「轢死を企てた女」を三四郎は実際に見たが、この出来事は、伏線でも何でもない。『アンナ・カレーニナ』(トルストイ)とは違う。「電報」に関わる出来事も実際に起きたが、これもなくていい話だ。おかしなことに、現実の出来事よりも「夢」の出来事の方が筋が通っているように思われる。語り手は、この変な感じを消してくれない。
<三四郎の魂がふわつき出した。
(夏目漱石『三四郎』四)>
三四郎が落ち着かないのは、広田のせいだろう。「少し広田さんにかぶれたな」(『三四郎』四)と思う。ちなみに、Pも「少し先生にかぶれたんでしょう」(上三十三)と言う。
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5210 「母」は墓
5212 「立退(たちのき)場(ば)のようなもの」は墓
「母」は三四郎の精神的自立を阻もうとしている。野々宮家は「母」の手先かもしれない。だが、広田までが手先とは考えられない。広田は独身で、マザコンらしい。三四郎は自分が広田のようになることを恐れているのだろうが、〈マザコンだと恋愛はできないし、結婚しても夫婦としてうまくやっていけそうにない〉というふうに考えているわけではない。語り手も、そんなふうには語らない。では、作者はそうした可能性をまったく考慮していないのだろうか。そうではない。逆だ。その可能性を必死になって隠蔽している。虻蜂取らず。だから、『三四郎』には結末らしい結末がない。
<三四郎には三つの世界が出来た。一つは遠くにある。与次郎の所謂(いわゆる)明治十五年以前の香(か)がする。凡(すべ)てが平穏である代りに凡てが寐坊(ねぼ)気(け)ている。尤も帰るに世話はいらない。戻ろうとすれば、すぐに戻れる。ただいざとならない以上は戻る気がしない。云わば立退(たちのき)場(ば)の様なものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ(ママ)封じ込めた。なつかしい母さえ此処(ここ)に葬ったかと思うと、急に勿体(もったい)なくなる。そこで手紙が来た時だけは、暫(しばら)くこの世界に彽徊して旧歓を温める。
(夏目漱石『三四郎』四)>
『三匹の仔豚』みたいだが、三四郎は賢い三匹目ではない。「四」があるから。
「世界」は意味不明。〈人生設計〉などとは違う。当然、「出来た」も意味不明。
与次郎は「山嵐」の後裔。「明治十五年」は与次郎が生まれた年。彼は三四郎に対して「尤(もっと)も君は九州の田舎から出たばかりだから、明治元年位の頭と同じなんだろう」(『三四郎』四)と言う。Nは「明治元年」の前年に生まれているから、二人の「頭」は「同じ」ようなものと考えられる。三四郎は、肉体だけが若返ったNだろう。
「平穏」は欺瞞。「代りに」は意味不明。「寐坊(ねぼ)気(け)て」は意味不明。広田や与次郎らに暗示をかけられて、または自己暗示にかかって、「平穏」と思っている。語り手は、嘘とも冗談ともつかない語り口によって、聞き手を寝ぼけさせようとしている。
「尤(もっと)も」は意味不明。「世話」は必要だろう。三四郎の自己欺瞞だ。
「戻ろうとすれば、すぐに」汽車に乗ればいいわけだが、その場合、休学するのか。
「いざ」がどのような事態か、不明。「ならない以上」は意味不明。「いざとならない」場合でも、たとえば長期休暇でも「戻る気がしない」のだろうか。
「立退(たちのき)場(ば)」が「立ち退いて仮に移っている所」(『日本国語大辞典』「立退所」)なら、冗談がきつ過ぎて意味不明。彼は故郷を捨てたいはずだ。何かあったのに違いないのだが、不明。
「脱ぎ棄てた過去」は意味不明。〈「過去を」~「封じ込めた」〉は意味不明。
上京して間もないのに「なつかしい」は変。「葬ったか」は殺意の露呈だが、文芸的表現ではない。「急に勿体(もったい)なくなる」の真意は〈ずっと邪魔だった〉だろう。
「そこ」の指す言葉がない。「手紙」がこの前に紹介されている。「彽徊」はNの自分語だが、意味不明。「旧歓」は皮肉めいている。「温める」は〈「温める」という演技をしている〉の不当な略。勿論、実在の「母」の気持ちは温まらない。
5000 一も二もない『三四郎』
5200 「三つの世界」
5210 「母」は墓
5213 冬彦さん
「国元」を「立退(たちのき)場(ば)」と呼ぶのは奇妙だ。「国元」は、母胎であると同時に墓所だろう。「母」は墓なのだ。三四郎は、清と同じ墓に入った後で蘇生した「五分刈り」だ。
<死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生(ごしょう)だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋(う)めて下さい。御墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向(こびなた)の養(よう)源寺(げんじ)にある。
(夏目漱石『坊っちゃん』十一)>
「五分刈り」の遺骨は、彼自身の墓や彼の親族の墓ではなく、「清の墓」に入るわけだ。
三四郎が安心できる「世界」も、「母」と入る墓の中だけだろう。
『広辞苑』の「世界」を適当にまとめる。
- <「世」は過去・現在・未来の三世、「界」は東西南北上下を指すとされる。
- 地球上の人間社会のすべて。万国。「―地図」「―一周」
- 人の住む所。地方。
- 世の中。世間。うきよ。
- 世間の人。
- 同類のものの集まり。「学者の―」
- ある特定の範囲。「学問の―」「勝負の―」
- 歌舞伎・浄瑠璃で、戯曲の背景となる特定の時代・人物による類型。「義経記の―」>
「三つの世界」の「世界」は⑥のようだが、その場合、「出来た」が処理できない。世界⑥は、三四郎と無関係に、もとからあるはずだ。⑧が適当だろう。しかし、作者にその自覚はなかろう。「世界」に先立つ物語もない。
三四郎はマザコン青年だが、その自覚が足りない。ただし、乳離れできない甘えん坊のママズ・ボーイとは違う。「母親に対する愛憎入りまじった複雑な感情」(『広辞苑』「マザー‐コンプレックス」)を抱いている。彼は、『ずっとあなたが好きだった』(TBS)の冬彦さんみたいに、母親に対して殺意を抱いているはずだ。
『吾輩は猫である』の富子の母は、ワガハイに非難されるだけだった。「五分刈り」の母性的な清も死んだ。『虞美人草』の悪い母を、作者は改心させた。だから、三四郎は「母」を軽視できる。『それから』や『門』に悪い母は出てこないが、主人公の男たちは鬱屈している。再び、『彼岸過迄』で母が登場する。この母の本心は不明なのに、須永は必死で良い母と思いたがる。その反動で、『行人』の一郎は死にそうに苦しむ。静の母は、悪い母とも良い母とも決まらないまま、死ぬ。「母」に死なれたSは、その後を追って死にたがる。
『三四郎』の語り手は、〈「母」と三四郎の物語〉を隠蔽している。その物語が明示されなければ、「世界」の意味は確定しない。物語が不要なら、きちんと「世界」の定義をすればいい。だが、そんなこともしない。「三つの物語」が混濁したまま、『三四郎』は終わる。
(5220終)