ヒルネボウ

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『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告 (4/12)「知識人」

2024-04-30 22:54:23 | 評論

   『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告

(4/12)「知識人」

意味不明の「設問」に対して意味のある解答をすることはできない。

〔解答〕「私」もKも、心の傷を自分自身の中で解決しようとし、それ故に、かえって傷を深くして敗北していくような、自尊心が強くて、実は脆(もろ)く弱い知識人として描かれている。

(遠藤嘉基・渡辺実『着眼と考え方 現代文解釈の基礎〔新訂版〕』例題九)

「心の傷」は〈心的外傷後ストレス障害PTSD〉かな。「自分自身の中で」は意味不明。「敗北して」は意味不明。「自尊心」ではなく、〈虚栄心〉だろう。

ちなみに、チェリンは知識人だ。虚栄心が強く、言葉を弄び、結局、失敗する。

私のいう気取り過ぎたと云っても、虚栄心が祟(たた)ったと云っても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」三十一)

『こころ』の「虚栄心」は意味不明なので、〈虚栄心〉を解答に用いるのは不適当だ。

〔1111 〈意味〉の意味夏目漱石を読むという虚栄 1110 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕・〔1211 「意味は、普通のとは少し違います」夏目漱石を読むという虚栄 1210 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕・〔1342 常識としての美談夏目漱石を読むという虚栄 1340 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕・〔3431 『プライドと偏見』夏目漱石を読むという虚栄 3430 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。

自分の人格を大切にし、品格を保とうとする気持ち。また、自分の考え方や言動をすぐれたものと思い、尊大に構える態度。プライド。

(『明鏡国語辞典』「自尊心」)

「また」の前後で意味がかなり違っている。『こころ』の「自尊心」は、どちらの意味だろう。プラスの価値か、マイナスの価値か。

要するに、次のどちらか。

  • 自ら尊大にかまえること。うぬぼれること。
  • 自重して自ら品位を保つようにすること。「独立―」

(『広辞苑』「自尊」)

「自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心」(下十六)も意味不明。

福澤諭吉が主唱した独立自尊の主義。

(『広辞苑』「自尊宗」)

『こころ』の作者は自尊宗の限界などを描こうとして、そして、失敗しているのかもしれない。

「教育を受けるものが悉く偽善家であった」(夏目漱石『三四郎』七)という言葉を考慮すべきではなかろうか。〔5553 「他(ひと)本位」対「自己本位」夏目漱石を読むという虚栄 5550 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。

(4/12終)


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『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告 (3/12) 〔設問〕

2024-04-30 00:04:17 | 評論

   『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告

(3/12) 〔設問〕

『こころ』に関して、次のような〔設問〕がある。

 

〔設問〕この作品に登場する人物に、作者がどんな人間像を与えようとしているのか共通点を考えなさい。

(遠藤嘉基・渡辺実『着眼と考え方 現代文解釈の基礎〔新訂版〕』例題九)

 

『こころ』を意味不明だと思わない連中は、こんな意味不明の問題を与えて生徒を虐待してきた。虐待されて沈黙する生徒は共犯者だ。

「この作品」とは『こころ』だが、「登場する人物」は何人もいる。ざっと数えて十人以上。ところが、解答を読むと、SとKの二人だけを指している。無茶だね。「人間像」は意味不明。「性格・外見・行動などを通して得られる、その人の姿・イメージ」(『広辞苑』「人間像」)という説明も意味不明。「像を与え」も意味不明。「与えようとしているのか」なんて、ひどい。〈「与えようとして」与えられないで「いるのか」〉と解釈できるからだ。〈「与え」「ているのか」〉などでないと誤解されるよ。「ようとして」は、発問者に自信がないことの露呈だ。「いるのか」から文が捻じれる。他人に国語を教えるのに十分な能力がない。「考えなさい」は〈答えなさい〉などでないと駄目だよ。

〈SとKの性格の「共通点」を述べよ〉で十分。ごたごた言葉を並べるのは、自信の無さを自他に対して隠蔽するためだ。

「自分の弱点の凡てを隠している」(下三十一)というのがSとKの性格の「共通点」だが、これは遠藤らの性格でもあろう。

(3/12終)


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夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告 (2/12)循環と逸脱

2024-04-29 00:15:07 | 評論

   『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告

(2/12)循環と逸脱

知識人は解釈を好む。単なる注釈とは違う。注釈の場合、万人が共有すべきであり、真偽を問うべきだ。しかし、解釈は違う。人それぞれだ。解説なども同様で、個人的意見だ。意見を万人が共有することはない。共有できたら、意見は個人的なものではなくなる。

全体を理解するためには部分の精密な理解が、部分を理解するためには全体の理解が、共に不可欠であるという、部分と全体の循環をさす。

(『広辞苑』「解釈学的循環論」)

夏目宗徒は、『こころ』を夏目金之助伝の資料として用いる。だが、伝記と作品は循環しない。

第13話で理事室が映った時に、ゴルフバッグの位置が変わっていたのを知っていますか? これは理事室を掃除した人が移動してしまったのか、忙しい中、ミニョンがゴルフをしたのかのどちらかになりますが、スポーツ万能のミニョンがゴルフをしたと思いたいものです。

(「冬のソナタ」の謎解明委員会『冬ソナの謎』「番外編」)

痘痕も靨。ゴルフバッグの移動について、普通は演出の不備と思うはずだ。しかし、演出の不備ということでは、作品を理解できない。だから、解釈が必要になる。ここには選択肢が二つ挙げられているが、どちらを選ぼうと、どうということはない。マニアの趣味でしかない。ただし、この解釈を推し進めば、〈ミニョンがゴルフをする場面がないのは『冬ソナ』の欠点だ〉ということになる。さらにはこの場面を創作することになる。創作とは循環からの逸脱の事だ。逸脱は自由だ。〈ゴルフバッグが勝手に移動した〉という物語だってありうる。

実は『冬のソナタ』も本来はかなり悲惨な結末を迎える予定だった。なんと、チュンサンは二度目の交通事故の後、ガンで死んでしまうことになっていたのだ。しかしこちらも視聴者の熱心な助命嘆願によってストーリーが変更された。

(韓ドラ・フレンズ『韓国ドラマの謎『冬のソナタ』愛の真実』第3章)

基本的に、作者を個人として特定することはできない。〔1230 作者と作品と語り手〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 1230 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)著作権は便宜的な権利だ。作品を完成させるのは、良くも悪くも受け手なのだ。

確かに、ユジンとの結婚のことで、やたらと母親に相談したり、ときにはおべっかを使ったりもしているサンヒョクは、マザコンっぽく見えても仕方がない。母親の両肩を撫でるシーンなどを見るにつけ、つい「あぁ~情けない」と言いたくなる女性たちの気持ちもよくわかる。

しかし韓国では、母親と息子の絆がとてつもなく強い。長男であればなおさらだ。家を継ぐのは絶対的に長男の役目であり、少々極端に言えば女性も男の子を産むために結婚するようなもの。嫁は長男を産んでやっと家族の一員になれるという。そうでなくても、一人息子の男の子が母親にとって可愛くないわけがない。

(深海さなえ&チュンチョン純愛研究所『ポラリス的『冬のソナタ』バイブル』「第3章『冬ソナ』キャラクター徹底解剖」)

竜頭蛇尾。サンヒョクの性格論が、韓国一般の母親論に流れている。解釈と創作がごっちゃになっている。解釈としては不十分で、創作にはまるでなっていない。知識人のスタイルは、このように中途半端だ。

彼は精神的自立のためにユジンとの結婚に賭けた。冬彦さんの結婚と同様だ。〔5213 冬彦さん〕夏目漱石を読むという虚栄 5210 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)参照。

しかも、サンヒョクは、テニス・ボールだった。〔6541 テニス・ボール〕夏目漱石を読むという虚栄 6540 「他人の生活に似た自分の昔」 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)参照。

ジヌ「うむ……。そう言えば、ヒョンスの命日がもうすぐだな」

サンヒョク「ユジンのお父さん?」

ジヌ「サンヒョク、おまえも一緒に行くか?」

サンヒョク「うん」

チヨン「あなた。何回目の命日だと思ってるの? 実の兄弟だって、そこまではしないわ」

ジヌ「おまえ」

サンヒョク「うわあ、唐あげ、ほんとにおいしい。母さん、いつの間に料理の腕が上がったの?」

チヨン「この子ったら、手で食べちゃだめじゃないの。こら」

サンヒョク「父さん! 父さんも食べてみて」

(キム・ウニ/ユン・ウンギョン『冬のソナタ 完全版1』「第1話 出会い」)

サンヒョクは両親の間に横たわる蟠りを察して、道化を演じていた。マザコンが韓国の文化だとしても、サンヒョクには別の事情があったのだ。ただし、この時点では、ジヌの秘密をサンヒョクは知らない。知らないで感じているだけだから困っていたのだ。

ジヌとミヒとヒョンスの三角関係は、サンヒョクとユジンとチュンサンの三角関係の原典だ。

こういうのが私の解釈。

窓越しにサンヒョク一家の幸せそうな様子が見える。

暗い路地に立って、その様子を見守っているジュンサン。

(キム・ウニ/ユン・ウンギョン『冬のソナタ 完全版1』「第1話 出会い」)

チュンサンは「幸せそうな様子」を本当の幸せと誤解した。もし、彼が「幸せそうな様子」を白々しい芝居と察したら、物語は全く違った展開になっていたはずだ。

話は変わる。

「(ミニョンに向かって)こんなこと言いたくなかったんだけど、ユジンてね、なんでも私の真似をするの。昔からなんだけど、私が靴を買うと翌日同じのを履いてたり、私の服をけなしておいて同じのを買ったりとか……。男の子だって、同じ子を好きになるんだから」(第5話)

つまるところ、「ユジンは何でも私の真似をするから、あなたは騙されたりしないでね」と言おうとしているのだ。それならそうとはっきり言えばいいではないか。だがあえて遠回しに表現することがチェリンの狙いなのだ。相手を傷付けず、かつ自分をイイ女に見せるための手段。さらに彼女の場合、ご丁寧に嘘までついてしまう。

こうした婉曲話法は女が得意とするコミュニケーション術だが、残念ながら男には通用しない。

(深海さなえ&チュンチョン純愛研究所『ポラリス的『冬のソナタ』バイブル』「第4章 『冬ソナ』さらにディープに『冬ソナ』世界」)

「男には通用しない」なんてことはない。「こうした婉曲話法は」男が男を誑すときに「得意とするコミュニケーション術」でもある。

この問答は私に取って頗(すこぶ)る不得要領のものであったが、私はその時底まで押さずに帰ってしまった。しかもそれから四日と経(た)たないうちに又先生を先生を訪問した。先生は座敷へ(ママ)出るや否や笑い出した。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」七)

なぜ、笑う? 

Sの発言や文章は、曖昧だ。読んでいて、いらいらする。Sは嫌な男だ。そんなふうに想像しない人は、私にとって嫌な人だ。

〔1431 小林秀雄夏目漱石を読むという虚栄 1430 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕・〔3332 言外の意味夏目漱石を読むという虚栄 3330 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕・〔3352 『猫の皿』夏目漱石を読むという虚栄 3350 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕・〔4441 「思想とか意見とかいうもの」夏目漱石を読むという虚栄  4440 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)〕参照。

チェリンが怪しいように、Sも怪しい。怪しいチェリンは、彼女の「話法」によって失敗する。怪しいSも同様だ。

Sの「曖昧な返事」(下五十四)は、異性の静には無効だったらしい。

(2/12終)


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『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告 (1/12) 知識人批判

2024-04-27 22:55:48 | 評論

   『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告

(1/12) 知識人批判

第七章でやっと本論に入る。知識人批判だ。

Sは知識人だ。Kもそうだ。勿論、Pも。『こころ』のファンは知識人だろう。日本の知識人は自分の傷を嘗めるようにして『こころ』を読むらしい。

 

然し眼だけ高くって、外(ほか)が釣り合わないのは手もなく不具(かたわ)です。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二十五)

 

これはKに関するSの評言だが、S自身にも当てはまる。むしろ、Sが知識人だものだから、Kをも知識人と思い込んで、お節介を続けていたように解釈できる。こうしたことを作者は隠蔽しつつも暗示してしまっている。隠蔽と暗示の混乱を深遠な思想と勘違いして楽しむのが夏目宗徒だ。

 

批評は上手だが実作は下手であること。

(『広辞苑』「眼高手低」)

 

「実作」は文芸に限らない。

 

だから我々の中(なか)で久米だけは、彼自身の占めている、あるいは占めんとする、文壇的地位に相当な自信を持っていた。そうしてその自信がまた一方では、絶えず眼高手低(がんこうしゅてい)の歎(たん)を抱(いだ)いている我々に、我々自身の自信を呼び起す力としても働いていた。

(芥川龍之介『あの頃の自分の事』一)

 

知識人は「文壇」などを気にする。気にするのはいいが、気にしていながら「自信」は持っていようと頑張る。だから、混乱してしまう。

芥川の考える「久米」は〈明るい知識人〉だ。「我々」は〈暗い知識人〉だ。

知識人は、知識をひけらかすのが目的で発信する。その知識の高さや広さなどとは関係がない。博士かどうか。博士ちゃんかどうか。そういうこととは、まったく関係がない。世界的に有名な学者でも、専門外のことに口出しして知識人に成り下がるといったことはある。イソップの「狐と葡萄」の狐は知識人だ。『鼻』(芥川)の主人公は知識人だ。『阿Q正伝』(魯迅)の阿Qは知識人だ。

文豪Nがそうであったように、知識人は名声を求めるが、それを得ても安心できない。精神的あるいは思想的に確かな何かを獲得できないでいるからだ。彼らは、勿論、愚かではない。だが、賢くはない。賢そうではある。憐れなことに、平凡ですらない。狂っている。ただし、完全にどこかに行ってしまっているのではない。お夏みたいに鮮やかに狂乱することはできないのだ。

私は知識人を敵視しているのではない。彼らなんか、敵として扱う価値はない。邪魔なだけだ。彼らの主義主張思想信条その他を理由にして批判しているのではない。彼らにそんなものはない。仕入れた情報を整理することができず、混乱している。そのくせ、いや、だからこそ、思想家を気取る。邪魔者。無用者ではない。この世に無用な事物はない。知識人は他山の石となる。人のふり見てわがふり直せ。反面教師。

北朝鮮では、知識人を「動揺階級」(キム・ジュソン『跳べない蛙』第5章)と呼ぶらしい。どういう言動を「動揺」と見做すのか。そんなことは問題ではない。私は定義を述べているだけだ。

日本における知識人の典型は清少納言だ。

GOTO ミットソン『いろはきいろ』#041[世界]賢い女官の物語『いろはきいろ』 (wakwak.com)

(1終)


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回文 ~唾吐く派閥

2024-04-25 23:19:29 | ジョーク

   回文

    ~唾吐く派閥

横の庭 鴨獲る友か 鰐の子よ

(よこのにわ かもとるともか わにのこよ)

問診か 儂の手の皺 感心も

(もんしんか わしのてのしわ かんしんも)

引き算と 唾吐く派閥 頓挫忌避

(ひきざんと つばはくはばつ とんざきひ)

採択ね 決まり襟巻 ネクタイさ

(さいたくね きまりえりまき ねくたいさ)

(終)


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