ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 1220

2021-01-26 18:03:54 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1220 理解について

1221 「私を理解してくれる貴方」

 

意味は理解できなければならない。しかし、〈理解〉の意味は自明ではない。

 

それから四時十分頃になると、甘木先生の名医という事も始めて理解する事が出来たんだが、脊中(せなか)がぞくぞくするのも、眼がぐらぐるするのも夢の様に消えて、当分立つ事も出来まいと思った病気が忽(たちま)ち全快したのは嬉(うれ)しかった」

(夏目漱石『吾輩は猫である』二)

 

「甘木」は〈某〉をほぐして作った名。「甘木先生」は「いえ格別の事も御座いますまい」(『吾輩は猫である』二)と診断した。そして、そのとおりになった。

私には、この「理解する」の意味が理解できない。作者による冗談らしいが、どういう冗談なのか、わからない。〈理解〉は夏目語かもしれない。

 

<私を理解してくれる貴方(あなた)の事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話して置(ママ)きます。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十二)>

 

この「理解して」も理解できない。だからだろうか、「だから、説明する必要」も「話すべき筋」も意味不明。なお、この後に話されることも意味不明。

 

<① 物事の道理をさとり知ること。意味をのみこむこと。物事がわかること。了解。「文意を―する」

 ② 人の気持や立場がよくわかること。「―のある先生」「関係者の―を求める」

 ③ 〔哲〕→了解②に同じ。

(『広辞苑』「理解」)>

 

この説明も意味不明。普通の意味での〈理解〉は理解①だろうが、ややこしくて、「わかる」までがわからなくなってしまう。『こころ』の「理解」は理解②らしい。だが、理解①との関係が不明。理解③は無視。

 

Ⅰ 理解①ができれば、理解②はできる。理解②ができなければ、理解①はできない。

Ⅱ 理解①ができれば、理解②はできない。理解②ができれば、理解①はできない。

Ⅲ 理解①ができなければ、理解②はできる。理解②ができなければ、理解①はできる。

Ⅳ 理解①ができなければ、理解②はできない。理解②ができれば、理解①はできる。

Ⅴ 理解①と理解②は無関係。

 

アインシュタイン夫人が〈私は相対性原理を理解していないが、夫を理解している〉と語ったそうだ。後の〈理解〉は冗談だろう。

 

 

 

 

 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1220 理解について

1222 「解釈」と「理解」

 

意味不明の表現でも、説明をすれば誰にでも理解できるはずだ。勿論、その説明が理解できる場合に限る。

 

<ことがらの意味やなかみがわかるようにのべること。

(『学研 小学国語辞典』「説明」)>

 

説明してもらえない場合、解釈をすることになる。

 

<解釈は頭のある貴方に任せるとして、私はただ一言(いちごん)付け足して置(ママ)きましょう。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十二)>

 

Pの「解釈」は示されない。したがって、Pに「頭」があったかどうか、不明。

Sは、Pの「解釈」を知りたくないらしい。知りたくない理由は不明。

「解釈」が必要な文は特定できない。たとえば、次の文がそうかもしれない。

 

<その私が其所の御嬢さんをどうして好(す)く余裕を有っているか。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十二)>

 

「そ」の指すものは不明。「どうして好く余裕を有(も)っているのか」は、ひっかけ問題。〈そもそもSに人を「好く」能力があったのか〉という問題を隠蔽するためのものだ。

 

<① ことば・文章などの意味や内容(ないよう)をはっきりさせること。例英語(えいご)の文章を解釈する。

 ② ものごとをはんだんすること。例雨がふっていたので、遠足はないものと解釈した。

(『学研 小学国語辞典』「解釈」)>

 

解釈②の場合、「遠足はないもの」とは限らない。雨天決行かもしれない。「解釈」の責任は解釈者にある。「雨」の責任を問うのは無意味。

本文の「解釈」は②だろう。Pの「解釈」について、Sはまったく責任を負わないのだろう。すると、P文書の信憑性が疑われる。

作者は〈Pの「解釈」は正しい〉と暗示しているのだろうか。あるいは、〈「解釈」なんてものは無駄だ〉と暗示しているのだろうか。前者なら、『こころ』の読者はPの「解釈」について解釈②をしなければならない。そして、それが定説とならなければならない。後者であれば、『こころ』に関する解釈②も無駄だろう。

「一葉落ちて天下の秋を知る」という。「遺書」は「一葉」に相当するのかもしれない。「天下の秋」に相当するのは「明治の精神」だろう。作者の意図としては、Pが「明治の精神」の終わりを知ることになるのだろう。本当に知るべきなのは読者だろう。私には無理だ。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1220 理解について

1223 『やまなし』

 

〈容疑者は《宇宙人に命じられた》などと意味不明のことを話しています〉と、アナウンサーが告げる。しかし、〈宇宙人に命じられた〉という言葉に意味はある。宇宙人が登場する小説は意味不明か。そんなはずはない。

この種の〈意味不明〉は、話者の精神異常を暗示する隠語らしい。隠語を含む報道はフェイク・ニュースだ。陰険な差別でもある。差別語の使用禁止が裏目に出ている。

瓢箪から駒が出ることはありえない。だが、意味はわかる。だからこそ、〈ありえない〉と言える。ランプの中から大きな魔人が現れることなど、ありえない。だが、わかる。わかるから、動画になっても『アラジン』(マスカー+クレメゾン監督)は面白い。

〈語られた言葉に確かな内容が認められないこと〉と〈語られた内容が現実にはありえないこと〉とは、まったく別だ。〈よくわからない〉のと、〈わかるけど嘘っぽい〉のとは、まるで違う。俗語の〈わかる〉では、この違いがわからなくなってしまう。非常に危ない。

〈ありえない〉を〈ありそうにない〉や〈あってはならない〉などの誇張として用いる人がいる。私の用いる〈ありえない〉は、誇張ではない。文字通りの意味だ。

 

<近年若者が、賞賛する意で「―味(信じられないほど、すばらしい味)」などとも言うが、賞賛の意は伝わりにくい。

(『明鏡国語辞典』「ありえない」)>

 

「伝わりにくい」ということぐらい、「若者」は承知しているはずだ。「伝わりにくい」からこそ価値がある。相手の忍耐力を試しているわけだ。臆病なくせに生意気なのさ。

ちなみに、〈信じられない〉や〈耳を疑う〉なども、甘ったれた使い方がされている。

 

<二疋(ひき)の蟹(かに)の子供らが青じろい水の底で話していました。

『クラムボンはわらったよ』

『クラムボンはかぷかぷわらったよ』

(宮沢賢治『やまなし』)>

 

「青じろい」のは、「水」か、「底」か。

〈作品の内部の世界に「クラムボン」という生物もしくは妖怪などが実在する〉と誤読する人がいる。しかし、これは幼児語で、「泡(あわ)」(『やまなし』)のことだ。「クラムボン」は〈貝坊(クラムぼん)〉つまり〈貝のように無口な幼児〉だろう。「クラムボン」とは「子供」自身のことだ。また、この言葉のことでもある。「クラムボン」の曖昧な意味は、「二疋(ひき)」の間でしか通じない。いや、彼らは〈通じる〉という遊びをしているところだ。赤ちゃん返りをしている。彼らは、〈言葉には意味がある〉という考えに戸惑っているらしい。彼らがきちんと「泡(あわ)」を吐けるようになる頃、「クラムボン」はいない。

『やまなし』は謎めいているが、謎はない。作者がうまく「泡(あわ)」を吐けていないだけだ。

「明治の精神」は「クラムボン」のような幼児語に似ている。

(1220終)


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