聞き違い
~仮構
下降傾向 仮構稽古
ドル円 奴隷園
シンク・タンク 芯くたくた
上を向いて歩こう 笛を吹いてファルコン
(終)
聞き違い
~仮構
下降傾向 仮構稽古
ドル円 奴隷園
シンク・タンク 芯くたくた
上を向いて歩こう 笛を吹いてファルコン
(終)
夏目漱石を読むという虚栄
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4200 本当は怖い『坊っちゃん』
4250 「うらなりとはなんのことか」
4251 「しろうるり」
人は、意味などあるはずもない自然現象にも意味を読み取るものだ。この癖が高じると、発信者が無意味なものとして表現している言葉にも意味を読み取ろうとするようになる。
<この僧都、或(ある)法師(ほふし)を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物(なにもの)ぞ」と、人の問(と)ひければ、「さる物を我も知らず。若(も)しあらましかば、この僧(そう)の顔(かほ)に似(に)てん」とぞ言いひける。
(吉田兼好『徒然草』第六十段)>
ある辞書は、「しろうるり」を「白うるり」と表記している。
<(徒然草の話をふまえて)江戸時代、正体の知れないもの、また、あやしげな者などのたとえ。
(『広辞苑』「白うるり」)>
「しろ」に関する同様の説。
<「しろ」は、白であろうが、「うるり」は不明。盛親もわからずにあだ名しているのである。
(安良岡康作『徒然草全注釈』)>
別の辞書は、さらに暴走する。
<白い瓜のように色白で面長な顔のことか。
(『日本国語大辞典』「白うるり」)>
どうして「うり」が「瓜」なのか。〈瓜〉説に拘りたいのなら、〈「るり」→り〉と言い張ればよかろう。「(オランダ語風の発音)⇒ペリー」(『広辞苑』「ペルリ」)という例がある。
<瓜を二つに割った形がそっくりなところから、兄弟などの容貌が甚だよく似ていることにいう。
(『広辞苑』「瓜二つ」)>
「この僧の顔に似てん」という言葉から〈瓜二つ〉を連想し、それから離れられなくなったのだろうか。だったら、そのように書き足してもらいたいものだ。
「うるり」は「うるりこ(細魚)」(「日本国語大辞典」「うるり」)の略でよかろう。〈うるりこ〉は「あみ(醤蝦)の古名」(「日本国語大辞典」「うるりこ」)だから、「しろうるり」は〈白細魚〉でいいのだ。冗談だよ。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4200 本当は怖い『坊っちゃん』
4250 「うらなりとはなんのことか」
4252 「うらなり」は自分語
「マドンナ」の婚約者だった古賀のあだ名は「うらなり」だ。
<それから英語の教師に古賀とか云(ママ)う大変顔色の悪る(ママ)い男が居た。大概の顔の蒼(あお)い人は瘠(やせ)てるもんだがこの男は蒼くふくれている。昔し(ママ)小学校へ(ママ)行く時分、浅井の民(たみ)さんと云(い)う子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやはり、こんな色つやだった。浅井は百姓(ひゃくしょう)だから、百姓になるとあんな顔になるのかと清に聞いてみたら、そうじゃありません、あの人はうらなりの唐茄子(とうなす)ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った酬(むくい)だと思う。この英語の教師もうらなりばかり食ってるに違(ちがい)ない。尤もうらなりとは何の事か今以(もっ)て知らない。清に聞いてみた事はあるが、清は笑って答えなかった。大方清も知らないんだろう。
(夏目漱石『坊っちゃん』二)>
「うらなり」は「小振り」(『広辞苑』「うらなり【末生り・末成り】」)だから、「ふくれている」というのは不可解。「顔色の青白い元気のない人のたとえ」(『広辞苑』「うらなり」)なら、〈末生りの瓢箪〉というのが普通だろう。
<人をののしることば。容貌の醜いこと、間がぬけていることなどにいう。
(『日本国語大辞典』「唐茄子」)>
「唐茄子(とうなす)」は、ぶよぶよに「ふくれて」いない。「うらなりの唐茄子(とうなす)ばかり食べるから、ふくれるんです」という伝説があったのだろうか。
普通の意味での「うらなり」がどういうものか、「五分刈り」が知らないはずはなかろう。彼は〈清のいう「うらなり」の意味は普通のとは違う〉と考えているのだろう。つまり、〈清のいう「うらなりの唐茄子(とうなす)」は「蒼くふくれ」たものだろう〉と、漠然と受け取っているようだ。だから、「うらなりとは何の事か今以て知らない」や「大方清も知らないんだろう」という話になるのだろう。よくわからない。
<きざできらわれ者の若旦那がくさった豆腐を知ったふりをして酢豆腐だというおかしさに取材。さげは拍子落ち。別題「ちりとてちん」。
(『日本国語大辞典』「酢豆腐」)>
酸っぱい豆腐があるのだろうか。あるとしよう。しかし、若旦那の試食した「酢豆腐」は、きちんとした食品や料理ではない。この「酢」は〈饐〉が適当だ。
「うらなり」の「うら」は、〈末〉とは書かないのかもしれない。〈裏〉か。「うらなり」は、「五分刈り」の空想する清の自分語だろう。作者は、〈自分語を共有する演技によって親密さが増す〉というルールを暗示しているようだ。ちなみに、「赤シャツ」その他の「渾名(あだな)」も清だけに知らせたものらしい。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4200 本当は怖い『坊っちゃん』
4250 「うらなりとはなんのことか」
4253 自分語の共有演技
作家以前のNは文学を研究しているつもりでいた。
<凡(およ)そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象または観念の二方面即(すなわ)ち認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したるものといひ得べし。吾人が日常経験する印象及び観念はこれを大別して三種となすべし。
(夏目漱石『文学論』「第一編 文学的内容の分類 第一章 文学的内容の形式」)>
「内容の形式」は困る。〈「三角形」に「情緒」がなく、「花、星等」に「情緒」がある〉なんて、おかしい。「吾人の心中には底なき三角形あり、二辺並行せる三角形あるを奈何(いかん)せん」(N『人生』)という述懐をいかんせん。
「うらなり」というFに対応する「五分刈り」のfと清のfは同じか?
(三)の「fのみ存在して」は論外で、心理学の領域。あるいは、超心理学のようだ。
<「甘い」にも「白い」にも、それが味覚や視覚とはまったく別種の感覚領域に転用されても通用するだけのプラス・アルファが、つまりこれらの表現をそのまま他の感覚領域に移しかえても変化しないような、いいかえれば、「甘い」がもはや味覚のことでなくなり、「白い」がもはや視角のことでなくなっても、それ自身は同一のままにとどまりうるような、なにかの感触がある。この感触にもとづいて考えた場合には、ふつうは相互に比較したり区別したりできないはずの「甘い」と「白い」とを、共通の基盤の上で比較し、区別することができることになる。
(木村敏『異常の構造』「3 常識の意味」)>
〈「別種の感覚領域に転用され」る〉というのは、木村によれば、〈あのヴァイオリンの音色が「甘い」〉などという場合だ。しかし、「なにかの感触がある」とは、私には思えない。味覚の場合、砂糖を足せば甘さは増える。聴覚の場合、どうすれば甘さが増えるのだろう。〈甘い音色〉に「通用するだけ」の「共通の基盤」はないのではないか。ある音を聞いて「甘い」と表現する人が複数いたとしても、その人たちの感じが同質であるかどうか、確かめようがない。脳を調べて似た反応が出たとしても、だからどうだといった判断はできまい。
「五分刈り」にとっての「うらなり」というFのfは、〈「なにかの感触」はないが、自分と清には「共通の基盤」があるという情緒〉だろう。自分語の共有演技だ。
(付記)『文学論』の旧字体は新字体に改めた。
(4200終)
アタック・ナンバー・オワン
作者不詳
漆食ったって 辛子食ったって
コートの中では 平気なの
何を見てても 涎がでちゃうの
だって 女の子だもん
椀 汁(つゆ) 椀 汁
あった 食う
あった 食う あった 食う
何杯も
(終)