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夏目漱石を読むという虚栄 1130

2021-01-15 14:00:28 | 評論

夏目漱石を読むという虚栄 第一部『こころ』の普通のとは違う「意味」3

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1130 わかったつもり

1131 浅い理由と深い理由

 

〈『こころ』は名作〉という伝説が終わらない理由は二つある。浅い理由と深い理由だ。浅い理由は、本文が意味不明だからだ。きちんとした意味がなければ、きちんとした批判はできない。きちんとした批判がなされなかったから、伝説が終らないのだ。

 

<齋藤 『こころ』は何度読んでもよくわからない。わからないところを追求(ママ)していくと「こうだったか!」という新しい読み方が出てくる。それが漱石にはよくあります。

奥泉 『こころ』をおもしろく読むにはどうしたらいいのか、というのは批評の一つの使命でもあるかもしれない。「これはこうおもしろく読めるのだ」ということを提出したい感じは僕にもある。少なくともそれに値するテキストではある。

高橋 どの作品もいまだによくわからないんだけど、『こころ』がいちばんよく売れているんだよね。

(奥泉光×斎藤美奈子×高橋源一郎『鼎談 二一世紀に漱石を読む』*)>

 

「新しい読み方」がされてしまう浅い理由は、本文の意味が「よくわからない」からだ。「新しい読み方」が登場するたびに議論をして〈古い「読み方」〉を破棄するのなら、いい。しかし、実際には、「読み方」は増え続けるばかりのようだ。「読み方」のごみ屋敷だね。『こころ』に関することだけでなく、一般に、日本の文系の人々は議論を嫌うらしい。

「『こころ』をおもしろく読むにはどうしたらいいか」だってさ。〈『こころ』はおもしろくない〉と白状したようなものだ。しかも、話題は〈おもしろさ〉ではないのだよ。

〈「よくわからないんだけど」~「売れているんだよね」〉は、ちゃちなはぐらかし。はぐらかしは高橋の得意技らしい。はぐらかすとき、嬉しそうだもんね。

さて、深い理由は何か。

<つまり今日の日本の文化人の世界では、而(しか)も高尚な文化人の世界では、高級常識から云うと、漱石文化が文化そのもののスタンダードになっているのである。科学でも芸術でも、時には宗教さえが(但(ただ)し邪教はいけないが)、このスタンダードに照し(ママ)て評価される。之は現下の日本の、意外に強靭な、高級大常識なのである。このスタンダードは、高い文化水準を意味している。だがそれは高い思想水準と一つではない。又は、(文化という言葉をもっと将来のあるものとして使えば)高い技術水準を意味しているが、高い文化水準を意味していない、と云ってよい。

現代の日本に於けるアカデミシャニズム、及び云わばアカデミコ・ジャーナリズムの、最も優れた形態が殆(ほとん)ど総(すべ)てここに帰着するように思われる。

(戸坂潤『現代に於ける漱石文化』)>

 

深い理由は難しい。ただし、深浅二つの理由は、無関係ではなかろう。

 

*「KAWADE夢ムック 夏目漱石〈増補新版〉百年後に逢いましょう」所収。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1130 わかったつもり

1132 「明治の精神」は時代精神ではない

 

『こころ』に確かな意味があるように思う人は、意味不明の作文をする。

 

<恋のために友人を裏切り、自殺させた過去をもつ先生は、罪の意識ゆえに自己処罰の道を選び、乃木(のぎ)大将の殉死に感動して自殺する。漱石文学の根本の主題である愛とエゴイズムの問題が、つきつめた自己否定に到達した知識人の苦悩を通じて描かれるが、先生を〈明治の精神〉に殉死させたところに、明治的倫理の体現者としての漱石の独自性がみられる。時代精神と人間性に対する洞察の徹底した傑作である。

(『日本大百科事典(ニッポニカ)』「こゝろ」三好行雄)>

〈「恋のために」~「裏切り」〉は意味不明。「自殺させた」は無茶。動機においてSは無罪だ。ただし、〈出血して動かないKを長く放置した〉という行為に関して罪に問われる可能性はある。Kの死後、「早く御前が殺したと白状してしまえ」(下五十一)という幻聴にSは悩まされるから、〈SはKを殺した〉という妄想的な物語はある。「過去をもつ」は意味不明。「罪」の実態は不明。「罪の意識ゆえに自己処罰」は意味不明。「自分で自分を殺すべきだ」(下五十四)とSは考えたが、「死んだ気で生きて行こう」(下五十四)と方針を転換している。「道を選び」は、ひどい誤読。「死の道」(下五十五)以外の「道」がなくなってしまったのだ。ただし、「死の道」は意味不明。「殉死に感動して」なんて、どこにも書かれていない。

〈「漱石文学の根本の主題」がある〉という根拠は何か。〈「主題である」~「問題」〉も、「愛とエゴイズムの問題」も、〈「問題が」~「描かれる」〉も、〈「つきつめた」~「に到達し」〉も、意味不明。「自己否定」は意味不明。Sが「知識人」である証拠はない。「明治的倫理」は意味不明。「独自性」は〈異常性〉と区別できるか。

〈明治時代〉の〈時代〉と「時代精神」の〈時代〉は違う。後者の〈時代〉は、「原始・古代・中世(封建)・近代・現代」(『広辞苑』「時代区分」)などだ。三好は、意味不明の「時勢の推移から来る人間の相違」(下五十六)を「時代精神」と思い込んだのかもしれない。

 

 <①整合的である限りにおいて、複数の想像・仮定、すなわち「解釈」を認めることになります。間違っていない限り、また間違いが露(あら)わになるまで、その解釈は保持されてよいのです。

 ②ある解釈が、整合性を示しているからといって、それが唯一正しい解釈と考えることはできないのです。

 ③しかし、ある解釈が周辺の記述や他の部分の記述と不整合である場合には、その解釈は破棄されなければならないのです。

(西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』」)>

 

「わかったつもり」になるのは不可避だ。良くないのは〈知ったかぶり〉だ。しかし、両者を区別することは、自分自身にとってさえ容易ではない。「わかったつもり」の人を〈知ったかぶり〉と中傷する知ったかぶりは少なくなかろう。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1130 わかったつもり

1133 痩せ我慢

 

「明治の精神」を庶民の言葉に直すと、〈痩せ我慢〉だろう。痩せ我慢で、『草枕』の主人公のように、鬱々としつつ飄々として見せる人もいる。

 

<御祝儀などはほんの一例ですが、凡(すべ)て倫理的意義を含む個人の行為が幾分か従前よりは自由になったため、窮屈(きゅうくつ)の度が取れたため、即ち昔のように強(し)いて行(おこな)い、無理にも為(な)すという瘠(やせ)我慢(がまん)も圧迫も微弱になったため、一言にしていえば徳義上の評価が何時(いつ)となく推移したため、自分の弱点と認めるようなことを恐れもなく人に話すのみか、その弱点を行為の上に露出して我も怪しまず、人も咎(とが)めぬという世の中になったのであります。私は明治維新の丁度(ちょうど)前の年に生れた人間でありますから、今日この聴衆諸君の中(うち)に御見えになる若い方とは違って、どっちかというと中途半端(ちゅうとはんぱ)の教育を受けた海陸(かいりく)両棲(りょうせい)動物のような怪しげなものでありますが、私らのような年輩の過去に比べると、今の若い人はよほど自由が利いているように見えます。また社会がそれだけの自由を許しているように見えます。漢学塾へ(ママ)二年でも三年でも通った経験のある我々には豪(えら)くもないのに豪そうな顔をして見(ママ)たり、性(せい)を矯(た)めて瘠(やせ)我慢(がまん)を言い張って見(ママ)たりする癖が能(よ)くあったものです。――今でも大分その気味があるかも知れませんが。

(夏目漱石『文芸と道徳』)>

「窮屈(きゅうくつ)」から「意地を通せば窮屈だ」(『草枕』一)が連想されよう。

「瘠(やせ)我慢(がまん)」は、「無鉄砲(むてっぽう)」(『坊っちゃん』一)や「意地」の類語だろう。「弱点」は〈恥〉などが適当だろうが、そうした言葉を明示しないのも「明治の精神」のせいらしい。「恐れもなく」は〈恐れ気もなく〉といった意味だろうが、〈恥も外聞もなく〉が適当。

「中途半端(ちゅうとはんぱ)の教育」からは、「自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心」(下十六)が連想される。

「明治の精神」の類語らしいのをざっと挙げてみる。

 

「淋(さび)しい気」(上七) 「どうも仕方がない」(上十三) 「厭世(えんせい)に近い覚悟」(上十五) 「耻(はじ)」(上二十五) 「大変執念深い男」(上三十) 「精神的に癇性」(上三十二) 「人間のどうする事も出来ない持って生れた軽薄」(上三十六) 「卑怯(ひきょう)」(下一) 「矛盾な人間」(下一) 「我(が)」(上一) 「鋭敏過ぎて」(下二) 「倫理的に暗い」(下二) 「物を解きほどいて見(ママ)たり、又ぐるぐる廻して眺めたりする癖」(下三) 「煩悶(はんもん)や苦悩」(下三) 「先祖から譲られた迷信の塊」(下七) 「馬鹿気た意地」(下九) 「他(ひと)は頼りにならないものだという観念」(下十二) 「自分で自分が耻(は)ずかしい程」(下十二) 「猜疑(さいぎ)心(しん)」(下十五) 「狐疑(こぎ)」(下十八) 「偉くなる積り」(下十九) 「神経衰弱」(下二十二) 「道学の余習なのか、又は一種のはにかみなのか」(下二十九) 「元の不安」(下二十九) 「気取るとか虚栄とかいう意味」(下三十一) 「癇癪(かんしゃく)持(もち)」(下三十四) 「狡猾(こうかつ)な男」(下四十七) 「世間体」(下四十八) 「この不可思議な私というもの」(下五十六) 

 

カタカナ語なら、〈スノビズム〉でいいか。

(1130終)


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