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夏目漱石を読むという虚栄 1110

2021-01-09 20:01:17 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

第一部『こころ』の普通のとは違う「意味」

第一章 イタ過ぎる「傷ましい先生」

  

<王さまは、手紙を読みなおしてみました。

「え、え――っ!」

よく読むと、こう書いてあるのです。

 

『王さま。あなたは、ブルー・トレインにのらなくてはなりません。たすからないかもしれません。みょうなことがおこり、おもい病気にかかるでしょう……。』

 

三ど、読みなおしました。

「どこか、おかしいな。」

 ウイパッチおばさんの、うらなったとおりになったのです。けれども王さまは、はじめのとき、かってに読みまちがえてしまったのでした。

王さま、あなたは、ブルー・トレインにのらなくてはなりません。(もしのらないと)たすからないかも……。と読んだのでした。ウイパッチのうらないは(もしのったら)ということだったのです。

王さまは、ブルー・トレインにのりたいばかりに、ウイパッチの力をかりようとした。つまり、あやしいやつは、王さまだったのです。犯人といえば、いえるかもしれません。

そのとき、おしろのラッパがなりました。

テレレッテ トロロット

   プルルップ タッタタター

(寺村輝夫『王さまうらない大あたり』)>


1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1110 正直な感想から始めよう

1111 〈意味〉の意味

日本人なら誰でも名前ぐらいは知っているはずの夏目漱石を〈N〉と書く。

〈Nは文豪だ〉といった類の言説を十把一絡げにして〈文豪伝説〉と書く。

文豪伝説の主人公であるNの代表作とされる『こころ』(*)は、私には意味不明だ。

<僕もね、正直言いまして、『こころ』ってよく理解できないんです。「文学の奥深さ」に行きつく前に、「なんなんだよ、この話は?」みたいな方に行ってしまいます。あの登場人物がみんな何を考えているのか、さっぱりわけがわからなくて、感動できませんでした。

(村上春樹『村上さんのところ』)>

『こころ』が「へんな作品」(あんの秀子『マンガでわかる 日本文学』)であることは、すでに専門家の間では常識になっているようだ。『夏目漱石「こゝろ」を読みなおす』(水川隆夫)を読むと、そのことがよくわかる。この本は、専門家たちが問題にしてきた『こころ』の不可解な話などを列挙して説明を加えただけのものだ。しかも、問題のすべてが取り上げられているわけではない。また、『こころ』の本文の細部の意味までは読みなおされてはいない。

私がわからなくて困っているのは、本文の普通の意味だ。注釈や大意や要旨などといったものを含む意味だ。それは一つに絞られる。多義的な場合でも、〈表の意味は甲だが、裏の意味は乙だ〉というふうに、セットとして一個だ。そして、それは容易に共有される。

ちなみに、近頃の〈生きてる意味がわからない〉なんて言葉の意味がわからない。

<① ことばのわけ。例漢字(かんじ)は意味をあらわしている文字です。

 ② ものごとを行うだけのねうち。かち。例宿題(しゅくだい)のときだけ勉強しても意味がない。

 ③ あることをするもとになった考え・わけ。例きみがふゆかいな顔をしている意味がわからない。

(『学研 小学国語辞典』「意味」)>

私の用いる〈意味〉の意味は①だ。ただし、本文に出てくる「意味」が〈価値・理由・含蓄・内容・意図・目的・原因・意義〉などと置き換えてよさそうなら、突っこまない。

<気取り過ぎたと云っても、虚栄心が祟(たた)ったと云っても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」三十一)>

これは、私が大嫌いな『こころ』の中で一番嫌いな文だ。

「同じでしょう」か? 「少し」か、〈多く〉か、どうやって知れるのだろう。この「意味」は不明のまま、『こころ』は終わる。「虚栄」と並べるのなら、「気取る」は〈気取り〉としてほしかった。

*『こころ』のテキストは新潮文庫版を用いる。

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1112 SとKと静とPを紹介しよう

『こころ』に関する事典などの説明も、しばしば、意味不明だ。

<主人公の孤独な倫理観を描いて広く読み継がれた漱石の代表的小説。

(『日本歴史大事典』「こゝろ」佐藤泉)>

「主人公」とは、冒頭で「先生」と呼ばれている男のことだ。以下、彼を〈S〉と書く。これは〈sensei〉の「頭文字(かしらもじ)」(上一)だ。Sは教師ではない。医者や弁護士などでもない。無為徒食の中年男だ。「孤独な倫理観」は意味不明。「倫理観」は「倫理上の考(ママ)」(下二)のことか。だったら、その中身は空っぽ。「自由と独立と己れとに充(み)ちた現代に生れた我々」(上十四)がどうのこうのといった意味不明の「覚悟」(上十四)とやらが、それか。「覚悟」も意味不明。「孤独な人間」(下二)を自認するSに、普通の意味での倫理が必要だろうか。「倫理観を描いて」は意味不明。〈「描いて」~「読み継がれ」〉では文が捻じれている。つまり、主語が違っている。「読み継がれた」を形容するのなら、「広く」は〈長く〉などとすべきだ。「読み継がれた」だと、過去のことみたいだ。つまり、今は読まれていないみたいだ。

『こころ』について語られている言葉も、このように、しばしば、意味不明だ。

<親友を裏切ったため苦しみ自殺する主人公〈先生〉の孤独な内面を、前半は〈私〉という学生の眼をとおして間接的に、後半は〈先生〉の遺書という書簡体をとって描いている。

(『百科事典マイペディア』「こゝろ」)>

「親友」は「K」(下十九)と呼ばれている。「親友を裏切ったため」は不可解。裏切れないのが親友だろう。友だちというゲームはとても難しいらしい。Sの言動のどれがKの何を「裏切った」ことになるのだろう。「裏切ったために苦しみ」は理解に苦しむ。苦しむのは裏切られた側だろう。Sは、Kに対する自分の言動を恥じて苦しんでいる。「孤独な内面」は意味不明。外面について、Sは「殆んど世間と交渉のない孤独な人間」(下二)と自己紹介している。ただし、妻帯者だ。妻の名は「静(しず)」(上九)という。ちなみに、二人の間に子はない。「前半」は、「上 先生と私」と「中 両親と私」だ。この「〈私〉」を〈〉と書く。〈pupil〉の頭文字。Pが語り手である前半を〈P文書〉と書く。〈「間接的に」~「描いて」〉は意味不明。「学生の眼をとおして」は間違い。語り手Pは、「学生」ではない。すでに卒業している。ただし、語り手Pによって語られるPが「大学生」(上十一)だったことはある。「後半」は「下 先生と遺書」だ。Sは「遺書」をPに郵送した。「遺書という書簡体」や「書簡体をとって」は意味不明。なお、『こころ』の内部の世界に存在する「遺書」と「下」は、同じではない。P文書における「遺書」からの引用と思われる語句で「遺書」に見えないものがある。また、「下」は「……」で始まっているが、この記号をSが書いたとは思えない。「下」の終わり方もおかしい。Pに対する別れの挨拶がないのだ。形式的には、「下」はP文書に含まれている。だから、PがSの「遺書」を編集した可能性は否定できない。

『こころ』の最大の欠陥は、Kの「眼をとおして」Sの姿が描かれていないことだ。

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1113 Sはスネ夫のS

Sは「真面目(まじめ)な私」(下四十七)と自己紹介する。また、Kについても「真面目(まじめ)」(下三十七)と紹介している。だが、私には、彼らが真面目とは思えない。いうなれば、糞真面目だろう。真面目な人は信頼できる。だが、糞真面目な人は違う。危ない。自分勝手だ。SもKも勝手に自殺するのだから、普通の意味で真面目であるはずがない。

「遺書」の物語は、〈友人関係にあった青年二人が一人の少女に恋をした〉みたいに誤読されてきた。この設定は『浮雲』(二葉亭四迷)から借りたものだろう。『浮雲』のヒロインは正体不明だったが、静も正体不明。才色兼備という設定のようだが、その証拠は皆無。

主要なキャラクター三人の性格設定から全然なっていない。きちんと性格設定をしてしまったら、「花やかなロマンス」(上十二)も「恐ろしい悲劇」(上十二)も成り立たず、吉本新喜劇みたいなものになっていたろう。松竹新喜劇ではない。

ここで、話を単純にするため、『ドラえもん』(藤子・F・不二夫)を利用する。ついでに、『坊っちゃん』(N)と『虞美人草』(N)の登場人物も並べてみる。

『ドラえもん』 『坊っちゃん』 『虞美人草』      『こころ』

のび太     「うらなり」  小野          Sが演じたS

出来杉     「赤シャツ」  甲野が演じた甲野    Kが演じたK

静香      「マドンナ」  藤尾          静

スネ夫     「五分刈り」  甲野          S

ジャイアン   「山嵐」    宗近          K

 ドラえもん   清       藤尾の母で甲野の義母  静の母

 「五分刈り」というのは、『坊っちゃん』の語り手で主人公のあだ名だ。これは『坊っちゃん』の後日談として創作された小説『うらなり』(小林信彦)に由来する。

『ドラえもん』のスピンオフでスネ夫を主人公にした物語があるとしよう。『こころ』の場合、〈Kの物語〉が原典で、そのスピンオフが「遺書」の物語に相当する。〈S〉は、偶然、〈スネ夫〉の〈S〉でもある。音は〈似非(えせ)〉に通じる。

Sの「自叙伝」(下五十六)なるものは、ジャイ子よりはましな静香を相手にしたスネ夫のナンチャッテ・ロマンスみたいなものだったろう。俗にいう想恋愛だ。病的な恋愛妄想ではなくて、童貞が勝手気ままに恋愛を空想して苦しんで遊んでいたらしい。

Sは、少女静にとって、どうでもいい青年だった可能性がある。静香にとってスネ夫がどうでもいい男子なのと同じことだ。一方、SやKにとっても、静の性格など、二の次だったようで、容貌すら問題でなく、身近にいた少女というだけで萌えたらしい。安直。

先の表で注目してもらいたいのは、静と並んで、「マドンナ」と藤尾がいることだ。「マドンナ」は箱入り娘で正体不明。「五分刈り」は彼女に一目惚れしたみたいだが、その話は立ち消えになっている。一方、藤尾は男たちを手玉に取る性悪女として描かれている。静のキャラは、清純派と肉食系のどちらのようにも思える。私には区別できない。おかしなことに、Sにも区別できないようだ。Nにも区別できなかったのかもしれない。

(1110終)


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