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ヒルネボウ

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(書評)    『シン読解力 学力と人生を決めるもうひとつの読み方』(東洋経済新報社) 著者 新井紀子 4 「まえがき」(3)

2025-05-08 01:09:48 | ジョーク

   (書評)

   『シン読解力 学力と人生を決めるもうひとつの読み方』(東洋経済新報社)

   著者 新井紀子

  4 「まえがき」(3)

苛々が続く。

なぜなら、私は自分の読解力に自信がないからだ。

この本で提出されている問題のほとんどは簡単に解けた。解けなくても、解けない理由は簡単に知れた。

だが、自信がない。

今、書きたいから書いているだけだ。無理に読んでくれなくてもいい。

50万人のデータを見ても、「読解力には読書ですよね」とおっしゃる方は減らないかもしれません。あるいは、逆に私が伝えようとしていることを「読書の効用を否定している」と受け止める方もいらっしゃるかもしれません。そこで、「教科書を読み解くために必要な読解力」のことを、一般的にイメージされている読解力とは明確に区別するために、「シン読解力」と名づけることにしました。

(p6)

意味不明。

「50万人のデータ」で十分なのか? 十分だという証明はやったのか? 「データ」の量と質の関係は、どうなっているの? 私は統計を勉強していないし、そもそも興味がないから、実はどうでもいいことだけど、やはりきちんとした説明をしてほしい。

「読解力には読書ですよね」は意味不明。こんなことを「おっしゃる方」なんか、無視していい。いや、無視すべきだ。阿呆と一緒だ。

「逆に」は変。こういう変な「逆に」は流行語らしい。

「伝えようとしていること」は変だ。〈伝えたこと〉でしょう? 謙遜するとしても、〈伝えたつもりのこと〉でしょう? 

「読書の効用」は意味不明。私の知る限り、専門書以外の本を読みまくる人には読解力が足りない。つまみ食いをするから、たくさん読めるのだろう。「効用を否定して」は意味不明。近頃、こういう「否定」の用い方が流行しているらしいが、嫌だ。もぞもぞする。こんなしどろもどろの感想を述べる人のことも無視すべきだ。

『AIvs.教科書が読めない子どもたち』や『AIに負けない子どもを育てる』は、なぜ、このように誤読されたのか? しかも、「逆」の二種の誤読がされたのは、なぜなのか? 新井の作文が曖昧だからだろう。

「そこで」って、どこで? こういう変な書き方をしたら、誤読されて当然なのだ。

この「教科書」に「国語」は入らないんだよね。そこんとこ、はっきりさせなきゃ。日本人の読解力が頭打ちになるのは、国語科の教科書がお粗末だからではないのか? 

「教科書を読み解く」は〈「教科書」の文章を「読み解く」〉の不当な略だろうが、こういう我儘な書き方をする人が…… 

ああ。苛々する。

「一般的にイメージされている読解力」って、どんなの? 私は知らない。どうしたら知ることができるの? 「イメージされている」何かと「明確に区別する」って、どういう作業? 「シン読解力」という意味不明の新語によって、どうして曖昧な意味の古語と「明確に区別する」ことができるの? 

新井は、二種の、逆の誤解をする人たちと、それぞれ、あるいは三者で議論をしたことがあるのか? そして、そいつらの考えを変えさせたことがあるのか? ないんだよね? その人たちは、どうせ、『シン読解力』さえ誤解するに決まっているのさ。なぜなら、新井の作文は忖度をしないではいられないような悪文だからだ。忖度は誤解の始まりになる。

新井がいくら頑張っても、誤解をする人たちは減りっこない。「自己流」の読み方を変えたくない人たちが国語科の教師だったり、ジャーナリストだったり、ベストセラーの著者だったりするからだ。日本人の多くは、「明確に」語られたり記されたりする文を毛嫌いする。それどころか、あるテーマに関して何の知識もない芸人なんかがテレビのコメンテーターをやってやがる。こうした奇々怪々な風習が続く限り、新井の考える「一般的にイメージされている読解力」は、「否定」どころか、〈肯定〉され続ける。むしろ、立派なものとして尊ばれる。

明治には、近代日本語を急造せざるを得なかった。その仕事をやったのは、翻訳者たちだ。大卒の小説家や随筆家や思想家が、そうした文体を模倣し、曖昧で気障な作文を量産した。出版人は、外国語に翻訳できない和漢洋混交の怪文書を売りまくった。中途半端な文章を、文学青年崩れどもが国語科の教科書に掲載した。やがて、言葉ではなくて〈空気〉とやらに流され、勝てっこない戦争をおっぱじめる。惨め。

読解力を駄目にしてくれる犯人は、翻訳できない翻訳者どもや、詩を書かない詩人どもなのだ。

新井は、どうかな? 

「シン読解力」を培うために読むべき日本語の本はあるのか? 翻訳書でもいい。それがあるのなら、「逆に」、「読書の効用」を「否定」すべきではなかろう。

私が推奨するのは、星新一の短編だ。ただし、ソ系語の濫用という欠点がある。

ところで、星の作品だったと思うが、〈肩にロボットの鸚鵡を載せて、そいつに自分の独り言を翻訳させる〉というのを読んだことがある。人間がぼそぼそと寝言みたいに自分勝手にしゃべったことを、ロボットの鸚鵡がきちんとした文に作り替えてくれるのだ。その世界では、ロボットの鸚鵡同士が話し合い、人間どもはぼんやりと暮らしている。

SFではなくて、現実に、やがて書く人はいなくなる。呟きで十分だ。さらには、AIが人間の脳波か何かを読み取って立派な作文をしてくれるようになる。その作文を別の人のAIが読み取って、その人の脳を刺激する。いや、もう、AIは作文もしない。脳と脳が繋がる。そんな時代が、近い将来、現実にやって来ることだろう。作文力も読解力も、どっちも、もう、要らない。AIに上手に負けてやれるようでないと、「逆に」、「仕事」は貰えないかもよ。

(終)

 


回文 ~檀家

2025-05-03 00:28:39 | ジョーク

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   回文

   ~檀家

馬鹿にすな 迂闊に使う 茄子に樺

(ばかにすな うかつにつかう なすにかば)

口減らし 姪ら狙い目 調べ馳駆

(くちべらし めいらねらいめ しらべちく)

檀家来て 陰険権威 敵艦だ 

(だんかきて いんけんけんい てきかんだ)

潅漑か 指南勘無し 海岸か

(かんがいか しなんかんなし かいがんか)

(終)

 

 

 

 

 

 

 

 

回文

   ~檀家

馬鹿にすな 迂闊な使い 茄子に樺

(ばかにすな うかつなつかい なすにかば)

口減らし 姪ら狙い目 調べ馳駆

(くちべらし めいらねらいめ しらべちく)

檀家来て 陰険権威 敵艦だ 

(だんかきて いんけんけいんい てきかんだ)

潅漑か 指南勘無し 海岸か

(かんがいか しなんかんなし かいがんか)

(終)


 (書評)    『シン読解力 学力と人生を決めるもうひとつの読み方』(東洋経済新報社) 著者 新井紀子 2 「まえがき」(1)

2025-04-30 23:57:38 | ジョーク

   (書評)

   『シン読解力 学力と人生を決めるもうひとつの読み方』(東洋経済新報社)

   著者 新井紀子

  2 「まえがき」(1)

次のような文を、私は読みたくない。苛々する。

RSTを通じて中高校生の実態を知れば知るほど、彼らが社会に出る頃には、AIに仕事を奪われかねないと危機感が募るようになりました。

(「まえがき」p1~2)

「RST」は「リーディングスキルテスト」(p1)の略。

〈何かのテストを「通じて」〉は意味不明。

「実態」は〈芳しくない「実態」〉などの略か。

「社会に出る」は意味不明。シン意味は〈会社に入る〉だろう。

「彼らが社会に出る頃」に「社会」はどうなっているのだろう。私は知らない。

「仕事」は〈賃労働〉のことだろうね。家事や育児や介護は「仕事」じゃないらしい。 支障木を切るのは、義務でなければ、「仕事」ではなくて、遊びかな? 物理学の「仕事」と『必殺仕事人』の「仕事」と……。ああ、もういい。止め。

十数年後には求人率はものすごく低くなっているかもしれない。ほとんどの会社がなくなっているかもしれない。大半の若者はフリーランスに、あるいはホームレスになるのかもしれない。そのとき、必要なのは、生活保護を受給するための書類を読んで理解する能力だろう。

「奪われ」はポエムだね。AIが何かを奪うことはない。人格がないんだから。釈迦に説法だろうけど、一応、書いておく。

「危機感」は意味不明。「中高校生」の抱く「危機感」なら、意味としてはわかる。しかし、すでに職のある著者が抱く「危機感」は不可解。

「危機感が募る」は意味不明。

『AIvs.教科書が読めない子どもたち』が世に出ると、「前半」の「AI」より、後半の「教科書が読めない子どもたち」に注目が集まり、さまざまなメディアに取り上げられました。「教科書くらいは誰でも読めるはず」と考えられていたことにフォーカスが当たったのはとてもありがたいことでしたが、一方で大きな違和感も覚えました。

「だから、国語が大事」、「若者に読書をもっとさせなければいけない」という結論で締めくくるメディアや識者がとても多かったからです。

(「まえがき」p2)

「「教科書くらいは誰でも読めるはず」と考えられていたこと」に関係した胡散臭いルボを、私はすでに批判している。

(GOTO 『夏目漱石を読むという虚栄』7310 『ルポ 誰が国語力を殺すのか』)夏目漱石を読むという虚栄 7310 『ルポ 誰が国語力を殺すのか』 - ヒルネボウ

「考えられていたことにフォーカスが当たった」は意味不明。

〈違和感を感じる〉は重言だが、〈違和感を覚える〉は許容されている。しかし、私には違和感がある。〈違和感を自覚する〉というのなら、問題はない。

『AIvs.教科書が読めない子どもたち』の次は、『『AIvs.教科書が読めない子どもたち』が読めない「メディアや識者」たち』を書いてもらいたかったね。諸悪の根源は、知ったかぶりの「メディアや識者」なのだ。私は彼らを〈知識人〉と呼んで警戒している。知識人とは、素人でも玄人でもない、お笑い芸人に毛の生えたような物書きのことだ。たとえ何かの専門家でも、自分の専門領域から逸脱した素人考えを偉そうに発信する連中も含まれる。

(GOTO 『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告)『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告 (1/12) 知識人批判 - ヒルネボウ

「メディア」と「識者」を並べるのは無意味。「や」は怪しい。他にも誰かがいるみたいだよ。いるんだろうね。誰? 

20世紀の「メディア」関係者は、怪しげな物書きである「識者」を量産した。逆ではない。悪いのは「識者」ではなく、「メディア」関係者だ。21世紀、インターネットが低劣な物書きを量産している。逆ではない。読解力を話題にする場合、まず、「メディア」関係者と「識者」の怪しい関係について暴露すべきだ。

著者は、〈自分の作文が誤読された理由は何か?〉といった反省をしないらしい。いくら自分の作文に自信があったとしても、誤読される可能性は想定すべきだ。なぜなら、著者の想定する読者は「シン読解力」の足りない人々だからだ。あれ? 違ったかな。まあ、いいや。

次の文はさっきの引用の続きだが、一行空きになっている。その理由は不明だ。

そんなわけがありません。学校図書館の本は読破し、国語では常にトップという成績でも、数学の教科書が読めないということはいくらでもあります。

 

まさに私がその例だったのです。

(「まえがき」p2)

「数学の教科書が読めない」なんて「そんなわけ」はない。「読めない」のシン意味は、〈「読め」ても理解でき「ない」〉だろう。ああ、面倒くさい。

「いくら」あるの? 

また、意味不明の一行空きだ。何なんだよ、もう。

「まさに」は意味不明。

「私がその例だった」は意味不明。

「私」以外の「例」は、「いくら」あるの? 

へえ、「読破し」たの? 本当に? 非常に小さな「学校図書館」なのかな。だったら、〈図書室〉というか、いや、〈本棚〉が適当だろう。

前段の「ことはいくらでもあります」は〈人は何人でもいます〉と明言できない気分を隠蔽するためのポエムだったらしい。著者は「同種類の多くの事項を類推させるために、特にその中から指摘する事項」(『広辞苑』「例」)といった「例」の作法をひっくり返して悪用しているのだろう。つまり、「例」について調べていないのに、〈自分は例外ではない〉という根拠のない印象を読者に与えようと気張っているわけだ。怪しい人だよ。

疲れる~ 

私には、この本が読めない。一応、通読したが、すらすらとは読めなかった。

私はこの本に対して「大きな違和感」を抱いている。よくもこんないい加減な作文が出版できたものだ。ただし、出版に関する責任を負うべきなのは、著者ではなくて、校正係だ。無責任な彼らの「仕事」なんか、さっさとAIに奪われてしまえ。

待てよ。すでに奪われているのかな? 

(2終)