(書評)
『シン読解力 学力と人生を決めるもうひとつの読み方』(東洋経済新報社)
著者 新井紀子
4 「まえがき」(3)
苛々が続く。
なぜなら、私は自分の読解力に自信がないからだ。
この本で提出されている問題のほとんどは簡単に解けた。解けなくても、解けない理由は簡単に知れた。
だが、自信がない。
今、書きたいから書いているだけだ。無理に読んでくれなくてもいい。
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50万人のデータを見ても、「読解力には読書ですよね」とおっしゃる方は減らないかもしれません。あるいは、逆に私が伝えようとしていることを「読書の効用を否定している」と受け止める方もいらっしゃるかもしれません。そこで、「教科書を読み解くために必要な読解力」のことを、一般的にイメージされている読解力とは明確に区別するために、「シン読解力」と名づけることにしました。
(p6)
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意味不明。
「50万人のデータ」で十分なのか? 十分だという証明はやったのか? 「データ」の量と質の関係は、どうなっているの? 私は統計を勉強していないし、そもそも興味がないから、実はどうでもいいことだけど、やはりきちんとした説明をしてほしい。
「読解力には読書ですよね」は意味不明。こんなことを「おっしゃる方」なんか、無視していい。いや、無視すべきだ。阿呆と一緒だ。
「逆に」は変。こういう変な「逆に」は流行語らしい。
「伝えようとしていること」は変だ。〈伝えたこと〉でしょう? 謙遜するとしても、〈伝えたつもりのこと〉でしょう?
「読書の効用」は意味不明。私の知る限り、専門書以外の本を読みまくる人には読解力が足りない。つまみ食いをするから、たくさん読めるのだろう。「効用を否定して」は意味不明。近頃、こういう「否定」の用い方が流行しているらしいが、嫌だ。もぞもぞする。こんなしどろもどろの感想を述べる人のことも無視すべきだ。
『AIvs.教科書が読めない子どもたち』や『AIに負けない子どもを育てる』は、なぜ、このように誤読されたのか? しかも、「逆」の二種の誤読がされたのは、なぜなのか? 新井の作文が曖昧だからだろう。
「そこで」って、どこで? こういう変な書き方をしたら、誤読されて当然なのだ。
この「教科書」に「国語」は入らないんだよね。そこんとこ、はっきりさせなきゃ。日本人の読解力が頭打ちになるのは、国語科の教科書がお粗末だからではないのか?
「教科書を読み解く」は〈「教科書」の文章を「読み解く」〉の不当な略だろうが、こういう我儘な書き方をする人が……
ああ。苛々する。
「一般的にイメージされている読解力」って、どんなの? 私は知らない。どうしたら知ることができるの? 「イメージされている」何かと「明確に区別する」って、どういう作業? 「シン読解力」という意味不明の新語によって、どうして曖昧な意味の古語と「明確に区別する」ことができるの?
新井は、二種の、逆の誤解をする人たちと、それぞれ、あるいは三者で議論をしたことがあるのか? そして、そいつらの考えを変えさせたことがあるのか? ないんだよね? その人たちは、どうせ、『シン読解力』さえ誤解するに決まっているのさ。なぜなら、新井の作文は忖度をしないではいられないような悪文だからだ。忖度は誤解の始まりになる。
新井がいくら頑張っても、誤解をする人たちは減りっこない。「自己流」の読み方を変えたくない人たちが国語科の教師だったり、ジャーナリストだったり、ベストセラーの著者だったりするからだ。日本人の多くは、「明確に」語られたり記されたりする文を毛嫌いする。それどころか、あるテーマに関して何の知識もない芸人なんかがテレビのコメンテーターをやってやがる。こうした奇々怪々な風習が続く限り、新井の考える「一般的にイメージされている読解力」は、「否定」どころか、〈肯定〉され続ける。むしろ、立派なものとして尊ばれる。
明治には、近代日本語を急造せざるを得なかった。その仕事をやったのは、翻訳者たちだ。大卒の小説家や随筆家や思想家が、そうした文体を模倣し、曖昧で気障な作文を量産した。出版人は、外国語に翻訳できない和漢洋混交の怪文書を売りまくった。中途半端な文章を、文学青年崩れどもが国語科の教科書に掲載した。やがて、言葉ではなくて〈空気〉とやらに流され、勝てっこない戦争をおっぱじめる。惨め。
読解力を駄目にしてくれる犯人は、翻訳できない翻訳者どもや、詩を書かない詩人どもなのだ。
新井は、どうかな?
「シン読解力」を培うために読むべき日本語の本はあるのか? 翻訳書でもいい。それがあるのなら、「逆に」、「読書の効用」を「否定」すべきではなかろう。
私が推奨するのは、星新一の短編だ。ただし、ソ系語の濫用という欠点がある。
ところで、星の作品だったと思うが、〈肩にロボットの鸚鵡を載せて、そいつに自分の独り言を翻訳させる〉というのを読んだことがある。人間がぼそぼそと寝言みたいに自分勝手にしゃべったことを、ロボットの鸚鵡がきちんとした文に作り替えてくれるのだ。その世界では、ロボットの鸚鵡同士が話し合い、人間どもはぼんやりと暮らしている。
SFではなくて、現実に、やがて書く人はいなくなる。呟きで十分だ。さらには、AIが人間の脳波か何かを読み取って立派な作文をしてくれるようになる。その作文を別の人のAIが読み取って、その人の脳を刺激する。いや、もう、AIは作文もしない。脳と脳が繋がる。そんな時代が、近い将来、現実にやって来ることだろう。作文力も読解力も、どっちも、もう、要らない。AIに上手に負けてやれるようでないと、「逆に」、「仕事」は貰えないかもよ。
(終)