ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 1210

2021-01-25 16:53:02 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1210 夏目語

1211 「意味は、普通のとは少し違います」

 

〈意味〉は他人に通じるものだ。というか、そのように思えるのが〈意味〉だ。

 

<意味は人類の知的な範疇(はんちゅう)のなかで基本的なものの一つであり、それを他の語で定義し、代替することが不可能か、少なくとも至難であることは、次の一例からも明らかである。伝統的形式論理学では、概念に「内包(ないほう)」と「外延(がいえん)」を区別した。たとえば「桜」の内包はすべての桜の木に共通の性質、属性であり、外延は桜の木全体の集まりをいう。現代論理では、前者に「……は……より大きい」のような「関係」をも含め、後者は「集合」と割り切ることができよう。このように、関係も含めた内包は「意味」の重要な一部といいうるが、意味を集合と同一視したり、集合で代替しても、集合の要素が集合に属することをいう「帰属」は関係の一部であり、ここに、関係としての意味は最小限度前提されざるをえない。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「意味」杖下隆英)<

語り手Sは「困難」の処理を聞き手Pに丸投げする。

<気取り過ぎたと云っても、虚栄心が祟(たた)ったと云っても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」三十一)<

「気取る」や「虚栄」に似た意味の言葉として、「我を張る」(中三)や「虚勢」(上二十二)などが見つかる。なぜ、作者は、ここでこうした言葉を用いないのだろう。

「普通の」とは違う「意味」という言葉の意味は、「普通の」と同じだろうか。

 

<同一言語の話者であっても、その話し方や用語には個人差があるという観点から見た、究極的な個人個人の言語をいう。

(『日本国語大辞典』「個人語」)>

 

「個人差」を自覚したら、通じるような「話し方や用語」に換えるべきだろう。

Pに、「気取るとか虚栄とかいう意味」は「通じ」たのだろうか。

 

<こうして遠くへ(ママ)来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心(まこと)は清に通じるに違(ちがい)ない。通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。

(夏目漱石『坊っちゃん』一〇)>

 

「遠くへ来てまで」には、〈わざと「遠くへ来て」〉という含意がありそうだ。

Nは、〈情報不足によって真意が通じる〉というふうに勘違いをしていたのではないか。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1210 夏目語

1212 「みんなは云えないのよ」

 

言葉に関するNの主張は、私には理解できない。

 

<この故に言語の能力(狭くいへば文章の力)はこの無限の意識連鎖のうちを此所(ここ)彼所(かしこ)と意識的に、或は無意識的にたどり歩きて吾人思想の伝導器となるにあり。即ち吾人の心の曲線の絶えざる流波をこれに相当する記号にて書き改むるにあらずして、この長き波の一部分を断片的に縫ひ拾ふものといふが適当なるべし。

(夏目漱石『文学論』「第三編 文学的内容の特質」)>

 

「言語の能力」も「文章の力」も「この無限」も「連鎖のうち」も意味不明。「此所(ここ)彼所(かしこ)」は想像できない。〈「意識連鎖のうちを」~「意識的に」〉で躓き、「無意識的に」でずっこけたよ。〈「能力」が「たどり歩きて」〉も、〈「能力」が「伝導器となる」〉も、日本語になっていない。私の辞書に「伝導器」はない。『通底器』(ブルトン)なら、『新和英大辞典』にある。

〈「心」=「意識」〉かな。「連鎖」がね、ほら、「流波」になっちゃった。私の辞書に「流波」はない。「相当する」は意味不明だから、「書き改むる」は不可解で、「あらず」とやったら無意味。「長き」は変。「縫ひ拾ふ」は意味不明。「波」はビーズで、「能力」は針か。

「人は表現したい感情をすでに持っているためではなく、もっぱら持ちたいと思う感情を喚起するために喚(ママ)情的言語を使用する」(オグデン+リチャーズ『意味の意味』)のではないか。

 

<「みんなは云えないのよ。みんな云うと叱られるから。叱られないところだけよ」

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十九)<<


 

どんな事柄であれ、「みんな」を言葉にすることはできない。だが、静はそういう本質的な話をしているのではない。この「みんな」は、〈「云え」そうなことの「みんな」〉だ。

「叱られる」のは、Sからだ。彼女は、どことどこが「叱られないところ」か、Sに教わったのだろうか。そんなはずはない。だから、「叱られないところ」の真意は、〈「叱られ」そうに「ないところ」〉だろう。彼女は、空想と現実を混同している。危ない人だ。

この「ところ」は、Nのいう「一部」と同質だろう。つまり、「みんな」を「書き改むる」のは可能なのに、静も、Nも、わざとそうしないのだろう。Nは、自分の隠蔽体質を正当化するために心理学を悪用しているのだ。

<言語は、われわれにとって、思想伝達の体系以上のものだ。言語は、われわれの精神がまとっている目に見えない衣装であって、精神のすべての象徴的表現に予定された形式をあたえる。その表現がなみなみならぬ意義を有する場合、それは文学と呼ばれる。

(エドワード・サピア『言語 言葉の研究序説』)>

 

「なみなみならぬ意義」について詳述することは困難だろう。

 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1210 夏目語

1213 自分語と個人語

 

あるエッセイストが、〈自分語を持ちなさい〉みたいなことを、Eテレで語っていた。〈自分語〉とは、〈自分勝手にいろんな意味で使える語句〉のことらしい。自分語をいくつか用意しておいて適当に使いまわしをすると、どんな話題を振られてももっともらしい話ができるのだそうだ。間違いを指摘されても、楽に言い訳ができる。黒を白と言いくるめることができるわけだ。あきれた。偽超能力者が手品の種をばらすようなものではないか。

同じくEテレで、心理学者という肩書きの人物が、高校生に向かって、〈ヤバい〉の使用を推奨していた。〈ヤバい〉には両義があるから、人といて適当な話題が見つからないとき、とりあえず、〈あの子のファッション、ヤバくない?〉などと言ってみよう。相手が〈似合ってないよね〉などと受けてくれたら、〈だよね〉と話を合わせる。しかし、相手も同じ魂胆だったらどうしよう。ヤバくね? 超ヤバ。ヤバ卍。チョベリヤバ。ヤバゲバ。野蛮婆。

かつて、ある女性タレントが〈エグい〉という言葉をはやらせようとした。〈渋い〉と似たように仕立てたのだ。後輩たちが〈これってエグいんですよね〉などと上目遣いで尋ねると、彼女は〈うん、エグいね〉とか〈いや、それはエグくないな〉などと判定を下す。話についていけない人が、〈そのエグいって、方言か何かですか〉と恐る恐る聞いた。すると、彼女は〈エグい〉が自分語であることを白状した。悪びれる様子はまったくない。むしろ誇らしげだった。その後、彼女を見かけない。意味不明の〈エグい〉を使う人は今もいる。

自分語と個人語の語句とは違う。自分語はトリックだが、個人語の語句は不可避だ。

実話に基づくらしい『ネル』(アプテッド監督)のヒロインは、密室で育った。彼女は物品を相手に話しながらネル語を作りあげる。発見されたとき、彼女は精神異常者だと思われたが、学者がネル語の翻訳に成功し、正常であることが証明される。

個人語は共通語に翻訳できる。いや、そうした機能を備えているのが共通語だ。

個人語が、いつのまにか、他人にも通じるようになって共通語が変化していくのだろう。だが、自分語は違う。話者自身さえ明確な意味を知らないのだ。いや、わざと曖昧にしている。自己欺瞞だから、翻訳はできない。

Sは自分の使った「虚栄」の意味を知らないのだろう。「虚栄」はSの自分語らしい。

 

<私の答も無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新ら(ママ)しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十六)>

 

「古い不要な言葉」とは「殉死」(下五十六)だが、その「新らしい意義」は示されない。だから、「意義」も意味不明。「盛り得たような」だから、盛れていないのだろう。つまり、「殉死」は、S自身にとってさえ意味不明の自分語なのだ。

「殉死」という言葉は静が先に口にしたものだが、彼女の考える「殉死」の意味が「古い不要な」意味なのかどうか、Sにはわからないはずだ。だったら、聞き手Pにもわかるまい。作者は、どうか。Sの用いる「殉死」が作者の自分語なら、読者には理解できない。

〈Nの自分語〉を〈夏目語〉と書く。

(1210終)


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