ヒルネボウ

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回文 ~逃亡

2022-01-31 13:15:27 | ジョーク

   回文

     ~逃亡

クーポン券ポーク

(くーぽんけんぽーく)

高潮 推し方

(たかしお おしかた)

痴漢とトンカチ

(ちかんととんかち)

逃亡と暴徒

(とうぼうとぼうと)

(終)


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夏目漱石を読むという虚栄 6140

2022-01-30 23:32:51 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6140 スローガン

6141 ヒステリック

 

代助の「減らず口」(『それから』十七)の文体と、丸山の文体と、丸山が批判する人々の文体、この三つは、私には同質のように思える。

 

<ともあれこうした曖昧なポーズが日本語――といつ(ママ)てもとくに漢語のもつ特有のニュアンスによつ(ママ)て一層拍車をかけられて法廷を当惑させたことは看過してならない事であろう。言霊のさきわう国だけあつ(ママ)て「陛下を擁する」「皇室の御安泰」「内奏」「常時輔弼」「積極論者」こういつた模糊とした内容をもつ(ママ)た言葉――とくに皇室関係に多いことに注意――どれほど判事や検察官の理解を困難にしたか分らない。こうした言葉の魔術によつ(ママ)て主体的な責任意識はいよいよボカされてしまう。「大アジア主義」の語義が論争になつ(ママ)たとき判事側が「われわれは行動というものに対して関心をもつ(ママ)ているのであつ(ママ)て、言葉には興味をもつ(ママ)ていない」(№176)といつ(ママ)たのは尤もな次第である。まつ(ママ)たく弁護側のいうように八紘一宇がUniverasal Brotherhoodを意味し、皇道が「デモクラシーの本質的概念と一致する」という風に変転自在の理念ではたまつ(ママ)たものではないからである。

しかしこうした戦犯者たちは単に言葉で誤魔かしてその場を言い逃れていたとばかりはいえない。被告を含めた支配層一般が今度の戦争において主体的責任意識に希薄だということは、恥知らずの狡猾とか浅ましい保身術とかいつた個人道徳に帰すべくあまりに根深い原因をもつ(ママ)ている。それはいわば個人の堕落の問題ではなくて後に見るように「体制」そのもののデカダンスの象徴なのである。

(丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』「第一部 現代日本政治の精神状況」)>

 

「漢語」に限定するのはおかしい。「漢語のもつ特有のニュアンス」は舌足らず。

「主体的責任意識」は不敬だろう。「常時輔弼」は、「主体的」でなく、つまり献身的「責任意識」に基づく行為だったのかもしれない。何とでも言える。どっちもどっち。

 

<だから同じくヒステリックな症状を呈し、絶望的な行動に出る場合でも日本の場合にはいわば神経衰弱が嵩じたようなもので、劣等感が常に基調をなしている。

(丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』「第一部 現代日本政治の精神状況」)>

 

「同じく」は、〈「ナチ権力者」(『現代政治の思想と行動』)と「同じく」〉の略。

代助の言動は「ヒステリックな症状」であり、確かな意味はない。

「ナチ指導者」は「神経衰弱」や「劣等感」と無縁だったのか。

 

<かれのパースナリティは劣等感、人生にたいする嫌悪、禁欲主義、人生を享楽しているものにたいする嫉妬などのために、サド・マゾヒズム的衝動の土壌となっている。

(エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』「第六章 ナチズムの心理」)>

 

「かれ」はヒトラーだ。

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6140 スローガン

6142 おんぶに抱っこ

 

明治の初期には、「一身独立して一国独立すること」(福沢諭吉『学問のすゝめ』第三編)というスローガンがはやったらしい。この「一身」と「一国」の関係は、明瞭ではない。個人と国家の関係がおんぶに抱っこになっている。

 

<親爺の頭の上に、誠(まこと)者(は)天(てん)之(の)道也(みちなり)と云(ママ)う額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰ったとか云って、親爺は尤も珍重している。代助はこの額が甚だ嫌(きらい)である。第一字が嫌(いや)だ。その上文句が気に喰わない。誠は天の道なりの後へ(ママ)、人の道にあらずと附け加えたい様な心持がする。

(夏目漱石『それから』三)>

 

「先代の旧藩主」ではなく、誰なら、許せるのか。語り手は、〈代助は「親爺」から「珍重(ちんちょう)して」もらいたい〉という物語を隠蔽している。

代助は「この額」に嫉妬している。

「第一」は嘘だろう。「字」がどうのこうのというのは、八つ当たり。

「誠は天の道なり」の後は「誠之者人之道也」(『中庸』第二十章)だ。代助は『中庸』を嘲笑していることになるが、その自覚はあるのか。作者の意図が不明。

 

<代助は父に対する毎に、父は自己を隠蔽(いんぺい)する偽(ぎ)君子(くんし)か、もしくは分別の足らない愚物か、何方(どっち)かでなくてはならない様な気がした。そうして、そう云う気がするのが厭でならなかった。

と云って、父は代助の手際(てぎわ)で、どうする事も出来ない男であった。代助には明らかに、それが分っていた。だから代助は未だ曾(かつ)て父を矛盾の極端まで追い詰めた事がなかった。

(夏目漱石『それから』九)>

 

「自己を隠蔽(いんぺい)する偽(ぎ)君子(くんし)か、もしくは分別の足らない愚物か」という二者択一は不合理。そもそも、父は「何方(どっち)」でもないはずだ。また、そのことを代助は知っているはずだ。彼は第三の選択肢を「隠蔽(いんぺい)する」軽薄才子だ。代助は自身の「矛盾」を「父」に擦り付けている。勿論、彼には、その自覚がない。また、彼の自己欺瞞に、語り手は気づいていない。作者も気づいていない。だから、読者も気づかない。

「厭でならなかった」という理由を、作者は説明できまい。

代助は「父」が〈慈父〉になってくれないのを恨んでいる。「父は代助の手際(てぎわ)で」という部分は〈代助は父の「手際(てぎわ)で」〉と置き換えられる。彼の「父」に対する不満は、自分自身の無力感の投影だ。だから、彼には「父を矛盾の極端まで」追い詰めることはできない。代助は、「父」に、経済的に依存しているだけでなく、精神的にも依存している。彼は、彼の「手際(てぎわ)」で「父」を〈慈父〉に改造したがっている。彼は権威主義者だ。ただし、隠れ権威主義者だ。彼には、自分を褒めてくれる権威が必要なのだが、「父」にはその権威がないので、いらついている。ただし、そうした文芸的表現にはなっていない。

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6140 スローガン

6143 『ドイツの悲劇』あるいは『茶の湯』

 

代助のような軽薄才子が全体主義的風潮を準備する。その思想的傾向などとは無関係だ。いや、彼らにきちんとした思想など、ない。思想家ぶって語り、書き散らす。

 

<ここではただ、かつて数年前にあるすぐれた観察者がわたしに気づかせてくれたとくに典型的な一つの場合を、述べることにしたい。なぜならこれは、ヒトラー的人間性においてしばしば繰り返されるある種の特徴を理解させるからである。

第三帝国に先だつ時代のこの観察者は、次のように語った。大学でりっぱな専門教育をうけてた技術家、技師等々は、十年ないし十五年間は自己の職業にまったく献身的に専念し、脇目もふらずにひたすら有能な専門家になろうとする場合が、現在非常に多い。やがてしかし、三十代の中ごろないし終わりころになると、かれらが以前にはけっして知らなかったあるもの、かれらが職業教育をうけたさいにもかれらにはまったく近づかなかったもの――おさえつけられた形而上的要求と呼んでもよいもの――が、かれらのなかで目をさます。そしていまやかれらは、なにかある特殊な精神的な仕事に、すなわち、国民のあるいは個人の幸福にとってとくに重要であると自分に思われるところの、ちょうど流行しているなにかある事柄に――それは禁酒論でも、土地改革でも、優生学でも、神秘学でもよい――はげしい食欲をもって身を投ずる。そのとき、従来の分別ある専門家は、一種の予言者に、熱狂家に、あるいはそれどころが狂信家や偏執狂に変化する。世界改革者の類型はこのようにして発生する、と。

ここにわれわれは、知性の一面的な訓練は、しばしば分業的な技術に導くこと、またかえりみられなかった非合理的な心の衝動にとつぜん反作用をおこさせるおそれがあること、だがしかし、批判的な規律や創造的な内面性をそなえた真の調和をもたらすのではなく、いまや荒々しくかつ際限なく広がるあらたな一面性に導くことを、知るのである。

(フリードリヒ・マイネッケ『ドイツの悲劇』「Ⅴ 理性人と工作人」)>

 

「荒々しく際限なく広がるあらたな一面に導く」原因などは何か。

 

<さあ、こうなると、もともと倹約なひとですから、茶の湯もいいが、こう羊かんに金がかかってはたまらない。なにか自分で菓子をこしらえようと、さつまいもを一俵買いまして、よくふかしますと、きれいに皮をむいて、摺(す)り鉢(ばち)のなかへいれまして、黒砂糖と蜜をくわえて、摺り粉木でさかんに摺ります。摺りあがったところで、手ごろな茶わんへぎゅっとつめて、ぽんとぬこうとしたが、ぬけません。そうでしょう。一方が瀬戸物もので、一方がべっとりしたさつまいもですから、どうしてもぬけません。そこで、油をつけたらうまくぬけるだろうと気がつきましたが、あいにくごま油がありませんので、灯油(ともしあぶら)を綿へひたして、十分に茶わんへ塗って、そこへいもをつめますと、すぽんとうまくぬけます。

(古典落語『茶の湯』)>

 

「倹約なひと」がエスカレートするのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6140 スローガン

6144 威張って使へ代用品

 

軽薄才子は、意味ありげなスローガンによって自他を欺瞞する。

 

<進め日の丸つづけ国民。護れ日の丸汚すな歴史。国に縋るな国を負え。国の矢となれ盾となれ。我が子育てる心で興亜。尽せ銃後へ召されぬ体。遂げよ聖戦興せよ東亜。新秩序立つまで脱がず鉄兜。聖戦へ民一億の体当り。聖戦だ己れ殺して国生かせ。これからだこれからだ。敵より恐い心のゆるみ。短気ぢゃ勝てぬ長期戦。亜細亜興すは口より手足。戸毎戸毎が聖戦本部。増産は土の戦士の殊勲甲。この感激を増産へ。見たか戦果知ったか底力。屠れ米英われらの敵だ。臣道は一億民の突撃路。進め一億火の玉だ。子も馬も捧げて次は鉄と銅。鍛えて待たうお召の日。人の和で築け明るい大東亜。足らぬ足らぬは工夫が足らぬ。欲しがりません勝つまでは。すべてを戦争へ。働かぬ手に箸持つな。今日も決戦明日も決戦。み民いま立上る時は来た。ぼくらの心は弾丸だ。科学戦にも神を出せ。長びけば日増しに強し共栄圏。日の丸広げて世界を包め。日の丸で埋めよ倫敦紐育。米英を消して明るい世界地図。一億抜刀米英打倒。撃ちてし止まむ。遊んで聞けるか輝く戦果。切り詰めて米英陣を切り崩せ。もう一段暮しを下げてもう一艦。意気、和気、根気、総決起。決戦だ身体鍛へて二人分。恥ぢよ贅沢護国の霊に。一億がみんな興亜へ散る覚悟。忠孝の華咲き乱れ薫る国。贈答品より慰問品。贅沢品こそ興亜の廃品。美食装飾銃後の恥辱。国債は総力戦の従軍証。国債はアジヤを護る福のカミ。粗食に興亜の真剣味。興亜の宿題滅私で解かう。働けば何でもうまい興亜食。節米へ興亜の主婦の腕試し。私腹肥やすな国肥やせ。仰げ英霊労われ遺族。国が第一私は第二。国策へ理屈は抜きだ実践だ。家憲の一条公益優先。不平は出世の行止り。古釘も生れ代れば陸奥長門。一億の心に染めよ日章旗。一億皆兵心の武装。一億一列一歩調。まだまだ足りない辛抱努力。職場も戦場死守する覚悟。みんなで分け合へ御国の苦労。導く民の自覚持て。国債は愛国心の証明書。アジヤは一家日本は柱。大和心をアジヤへ根分け。新体制代用品の衣食住。科学に輝け日本精神。無職はお国の寄生虫。導く民の自覚持て。よい児殖やして興亜をリレー。真剣は銃後にかざす日本刀。励め蟻さえ協力一致。大日本一億にして一家族。二人して五人育てて一人前。晴れるまで征くぞ正義の大日本。働かう英霊の分兵の分。草の根をかむとも倒せ米と英。起て撃て忍べ勝て興せ。負けるな敵の少年工に。宿敵米英今ぞ撃つ時。忠魂に合わせらねぬぞ懐手。職場でも米英相手の生産戦。皆労だ女子も職場の華と咲け。勝に踊るな歓呼に酔ふな。万歳の手で絞め直せ兜の緒。敵もねばるぞ勝つても緊まれ。牙城貫きとどめは本土。征け米英にとどめ刺すまで。次々に牙城を抜いて本土まで。今ぞ目指すは米英本土。侵略の地に共栄の日章旗。ツギ当ても銃後誉れの弾痕だ。買溜めは米英の手先。勇んで出征進んで納税。伸ばせ国力延ばすな納税。税で後押せ興亜の偉業。税で報国身で護国。手近な臣道税から実践。科学の誇り代用品。国策へ代用品で御奉公。威張って使へ代用品。代用品を愛用品へ。代用品これぞ興亜の常用品。

(駕籠真太郎『輝け!大東亜共栄圏』表紙・裏表紙より)>

 

「明治の精神に殉死する」なんてのも、こけおどしのスローガンだ。

(6140終)

 

 

 


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『冬のソナタ』を読む 「記憶の欠片(ピース)」(上p7~p31) 3 指輪とレコード

2022-01-28 22:19:47 | 評論

    『冬のソナタ』を読む

      「記憶の欠片(ピース)」(上p7~p31)

3 指輪とレコード

 

記憶には、本物と偽物がある。

指輪には、本物と偽物がある。

 

 <ついに二人はお互いの指に同じ指輪をはめることができた。予行演習のときのように。

(上p25)>

 

この「指輪」は偽物だ。だから、このときも「予行演習」に終わる。

 

<チェリンが歩んで来てユジンの手を握った。一瞬、ユジンはチェリンの手から得体の知れない敵意を感じた。

(上p25)>

 

チェリンは皮肉なキャラだ。「敵意」が好意と同じ結果になる。彼女は悪魔のような天使だ。

 

<ユジンはチェリンの笑みが気になった。しかも、自分がよくかけていた「初めて」という曲をジンスクがかけると、なおさら落ち着きをなくしてしまった。その曲は、ジュンサンがユジンにプレゼントしたレコードだったのだ。

(上p25)>

 

「初めて」のレコード。

「初めて」の記憶。

 

<そのとき、ノックがした。

(上p26)>

 

本物の指輪が届いた? 

(終)


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聞き違い

2022-01-27 22:01:15 | ジョーク

   聞き違い

my darling 毎度あり

coquetry 苔取り

market share 負けとせや

rehearsal 利を漁る

(終)

 


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夏目漱石を読むという虚栄 6130

2022-01-26 14:57:25 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6130 「国家社会のために」

6131 『正義派』

 

Nの小説に出て来る男あるいは牡は軽薄才子だ。

 

<ファシズム化がますます進行するなかで、トップにたつ支配層と密着して末端においてファシズムの社会的担い手になった町工場主、小売店主、学校教員、下級官僚、僧職、神官などを、丸山真男(まさお)は「擬似インテリゲンチャ」と名づけているが、本来的知識階級は、ほぼ体制維持派を除けば、閉塞(へいそく)的状況に置かれたといってよい。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「インテリゲンチャ」鈴木幸寿)>

 

「ファシズム化」を実際に進めるのは、異常な独裁者ではなく、正常な軽薄才子だ。裸の王様だって、取り捲きがいるから王様でいられる。「学校教員」は「擬似」か。「本来的知識階級」とその他を分けるのは差別だろう。

 

<読・書・算(スリーアールズ)を中心に教えるドリルマスターの系譜をひく大衆子弟向けの学校に現れた教師と、人文主義的な教育を施すキュンストラーの系譜をひく選良子弟向けの学校に現れた教師の2系譜(学校体系)が各国にあり、その統一が問題になっている。

(『百科事典マイペディア』「教員」)>

 

「キュンストラー」は調べられなかった。

 

<文学と政治を正面から論じた文学史上先駆的な評論として位置づけられる。

(『日本歴史大事典』「時代閉塞の現状」中丸宣明」)>

 

「文学と政治を」は意味不明。『時代閉塞の現状』(石川啄木)も意味不明。

 

<そして彼等は何か知れぬ一種の愉快な興奮が互の心に通い合っているのを感じた。彼等は何(な)故(ぜ)かいつもより巻舌で物を云いたかった。擦(す)れ違いの人にも「俺達を知らねえか!」こんな事でも云ってやりたいような気がした。

「ベラ棒め、いつまでいったって、悪い方は悪いんだ」

(志賀直哉『正義派』下)>

 

正義派や自粛警察どもは、不倫を種に騒ぎたてて人から仕事を奪う。万引の顔をネットで晒す。お玉をお股に当てた程度のことで、店の冷蔵庫に入った程度のことで、大騒ぎをする。痴漢を追っかけて死なす。巨悪はほったらかし。公害企業や軍需産業などは無視。正義派こそが社会の混乱を増大させ、さらなる悲惨へと導く。

『M』(ラング監督)および『カリガリからヒトラーへ ドイツ映画1918-33における集心理の構造分析』(クラカウアー)参照。

 

 

 

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6130 「国家社会のために」

6132 「頭の中の世界と、頭の外の世界」

 

Nの小説に出てくるインテリっぽい男たちは、ことごとく自滅する。

 

<「国家社会の為に尽して、金が御父さん位儲(もう)かるなら、僕も尽しても好い」

(夏目漱石『それから』三)>

 

代助の発言。「国家社会」は意味不明。

 

<社会の主要な形態の一つ。国家はあらゆる社会を包括する全体社会であるとする一元的国家論(国家主義的)に対して、国家は人間の集団的生活の様々な形態のうちの一つの部分社会を形成するものであるとする多元的国家論(民主主義的)の立場からとらえた国家。

(『日本国語大辞典』「国家社会」)>

 

この辞典は、先の代助の発言を引用し、これに含まれた「国家社会」について、「国家と社会、国と世の中」と説明する。意味不明。

 

<社会はいかなる状態にあっても歓迎される。だが国家は、この上なく健全な状態にあっても必要悪にすぎない。

(トマス・ペイン『コモン・センス』)>

 

代助は非常識ですらない。彼を旧友の平岡が次のように酷評する。

 

<僕は僕の意志を現実社会に働き掛けて、その現実社会が、僕の意志の為に、幾分でも、僕の思い通りになったと云(ママ)う確証を握らなくっちゃ、生きていられないね。そこに僕と云(ママ)うものの存在の価値を認めるんだ。君はただ考えている。考えるだけだから、頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に建立(こんりゅう)して生きている。この大不調和を忍んでいる所が、既に無形の大失敗じゃないか。

(夏目漱石『それから』六)>

 

平岡は、まだ代助を買いかぶっている。代助は「頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に建立(こんりゅう)して」はいない。彼は夢想家としてさえ「大失敗」をしているのだ。

意味不明の「国家社会」発言によって、代助は自分の能力の限界を露呈している。彼は、父の生き方とは違った、自分なりの生き方を構想できない。「金(かね)」が要らないのなら、皮肉は成り立つ。要るのなら、〈自分は父と同じ生き方を選ぶ〉と宣言したことになる。

彼の発言を皮肉ととった場合、〈父は「国家社会の為に尽して」いない〉という含意が生じる。だが、この含意の真偽は不明だ。むしろ、虚偽に近い。なぜなら、金が儲かって納税額が増えれば、貧困者より「国家社会の為に尽して」いることになるからだ。

 

 

 

 

 

 

6000 『それから』から『道草』まで

6100 『それから』の「減らず口」

6130 「国家社会のために」

6133 社会のような家族

 

「国家社会」の真意は〈社会のような家族〉だろう。代助は〈父は子に尽くすべき労力や時間などを金儲けのために使った〉と非難したくてもできなくて皮肉に逃げたが、不発。

 

<従つ(ママ)て私的なものは、即ち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴つていた。営利とか恋愛とかの場合、特にそうである。そうして私事の私的性格が端的に認められない結果は、それに国家的意義を何とかして結びつけ、それによつて後ろめたさの感じから救われようとするのである。漱石の「それから」の中に、代助と嫂とが、

「一体今日は何を叱られたのです」

「何を叱られたんだか、あんまり要領を得ない。然し御父さんの国家社会の為に尽く(ママ)すには驚いた。何でも十八の年から今日迄のべつに尽くしているんだつてね」

「それだから、あの位に御成りになつたんじやありませんか」

「国家社会の為に尽くして、金がお父さん位儲かるなら、僕も尽く(ママ)しても好い」(傍点丸山)

という対話を交す所があるが、この漱石の痛烈な皮肉を浴びた代助の父は日本の資本家のサンプルではないのか。こうして「栄え行く道」(野間清治)と国家主義とは手に手をつなぎ合つ(ママ)て近代日本を「躍進」せしめ同時に腐敗せしめた。「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのである。

(丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』「第一部 現代日本政治の精神状況」)>

 

意味不明。堂々巡りのようだ。

「私的なもの」に「うしろめたさ」が伴うのは自明だろう。傍点を打つ意図は不明。その後、「後ろめたさ」となっている。その理由も不明。

「私事の私的性格」はナンセンス。

「この漱石の痛烈な皮肉」は、「傍点」を考慮すれば「何でも」以下を指すようだが、よくわからない。代助の「皮肉」は、作中の誰にも通じていない。

「「私事」の倫理性」は意味不明。「倫理性が自らの内部に」も意味不明。

〈「この論理は裏返しにすれば」~「結果となるのである」〉は意味不明。

丸山は、「倫理性」が個人の「内部」に自然発生するとでも信じているのだろうか。

 

<そして寛容の精神は、社会関係の円滑な運行に都合のよいもののみを保持する一方、主観的信念は、「個人の自由」として公的(パブリック)な議論から排除しようとした。その結果実質的な道徳は「私的(プライベート)」なものとなった。

(『現代哲学事典』「個人主義と全体主義」塚本明子)>

 

意味不明。「ものとなった」は〈「寛容の精神」が「ものと」した〉ということか。

(6130終)

 

 


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