ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 1250

2021-01-30 15:33:29 | 評論

    夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1250 自己完結的

1251 二重思考

 

次の作品の語り手は怪しい。作者は、この語り手を軽蔑している。だから、読者は笑おう。

 

<最初の到着地がゼラ星。この星は清潔を主義としているだけあって、すがすがしいきれいな印象です。地球の多くの家庭で使われている室内用の小型自動掃除消毒装置は、この星の製品なんですよ。

つぎに訪れたロプ星は、ご存じのように芸術の星。心が洗われるような気分でしたね。すべてが静かなメロディーにのって動いているんです。気品のある曲線、調和のある色彩。すばらしい町で、ため息が出つづけでした。

(星新一『幸運の副産物』)>

 

次の語り手も怪しい。ところが、作者は気障な語り手に加担している。読者は笑えない。

 

<するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと言う声がしたと思うと、いきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍(ほたる)烏賊(いか)の火を一ぺんに化石させて、そらじゅうに沈めたというぐあい、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫(と)れないふりをして、かくしておいた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばらまいたというふうに、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼をこすってしまいました。

(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』)>

 

「科学において、人は誰にでもわかる方法で、誰も知らなかった内容を語ろうとする。だが、詩において、人はその正反対をおこなう」(オッタヴィアニ『マンガ 現代物理学を築いた巨人 ニールス・ボーアの量子論』)という。理系の詩人は「正反対」のことを同時にやってしまう。

 

<知っていて、かつ知らないでいること――入念に組み立てられた嘘を告げながら、どこまでも真実であると認めること――打ち消し合う二つの意見を同時に奉じ、その二つが矛盾(むじゅん)することを知りながら、両方とも正しいと信ずること――論理に反する論理を用いる――道徳性を否認する一方で、自分には道徳性があると主張すること――民主主義は存在し得ないと信じつつ、党は民主主義の守護者であると信じること――忘れなければいけないことは何であれ忘れ、そのうえで必要になればそれを記憶に引き戻し、そしてまた直(ただ)ちにそれを忘れること、とりわけこの忘却・想起・忘却というプロセスをこのプロセス自体に適用すること(これこそ究極の曰(いわ)く言いがたいデリケートな操作)――意識的に無意識状態になり、それから、自ら行なったばかりのその催眠行為を意識しなくなること。〈二重思考〉という用語を理解するのにさえ、〈二重思考〉が必要だった。

(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)>

『1984』(ラドフォード監督)参照。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1250 自己完結的

1252 丸投げ

 

Sは一方的に語り、一方的に話を打ち切るタイプだった。Kもそうだった、Pもそうだ。相手に話を丸投げするタイプだ。常に傲慢というのではない。ソフトに装うときもある。

 

<相手に情報や意思を伝え、これに了解を求めるというより、発信人ないし発信集団がこれを表現すること自体を目的とし、そのことによって自己(発信人)の心理的緊張を解消し満足させるようなコミュニケーションをさす。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「自己完結的コミュニケーション」)>

 

『文学論』で、Nは自己完結的以心伝心みたいなことをややこしく述べている。

 

<乙を意識している瞬間にはすでに甲は意識されていない。にもかかわらず、甲と乙とを区別(分化)することができるのはなぜか。この矛盾を解決するために漱石が用意したのは、すでに『文学論』の冒頭で紹介されていた「意識の波」の理論である。ただし、「文芸の哲学的基礎」では、上層にある明瞭な乙の意識と下層に残像として遺された不明瞭な甲の意識という二分法に組みかえられる。各瞬間の意識は実体としてあるのではなく、一瞬前の意識を差異化する作用ないしは関係性として把えられなければならないというのだ。こうした言説から、「差延〔すなわち差異・差異化・遅延〕としての時間から出発して、それとの関係で現在を考えなければならない」(『グラマトロジーについて』)というJ・デリダの「差延(différance)」の概念を連想したとしても、それほど不自然ではないだろう。

(前田愛『増補 文学テクスト入門』)>

 

「意識の波」は私の辞書にない。「意識の流れ」はジェームズの用語。

あなたがナニからアレを連想したとしても、それほど不自然ではなかろう。ナニって……、アレだよ。いや、それじゃなくてさ。そう、ソレ、ソレ。意味ありげで、なさげで、うっふん。ほら、ほら、『黄色いさくらんぼ』(浜口庫之助作詞・作曲)だよね。だべさ。

 

<デリダが主張するのは、著者の純粋な思考という唯一無二の起源はないこと、ましてやその起源なるものが自分自身といささかのずれもなく自己現前することはないということである。エクリチュールは、常に起源としての著者の純粋な思考をよみがえらせることに失敗するが、むしろそのことによってその起源について考えることを可能にする。その結果明らかになるのは、起源には自己に対する隔たりと遅れを生む働きしかないことである。そしてデリダは、この差異と遅延を生じる働きを、原(アルシ)エクリチュール、痕跡(トラス)、あるいは差延(différance)と呼んだ。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「エクリチュール」松葉祥一)>

 

ジェームズがデリダへ発展するきっかけをNがこしらえてやったのだろうか。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1250 自己完結的

1253 「殉死」の「意義」

 

静が「殉死」という言葉を口にしたのは、乃木夫妻の自殺よりも前だった。

 

<妻(さい)の笑談(じょうだん)を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積りだと答えました。私の答も無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新ら(ママ)しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十六)>

 

「それ」は〈「殉死」という言葉〉だ。「もし」を読み落としてはならない。〈「始めて」~「思い出し」〉は日本語になっていない。「もし」があるから、「殉死する積りだ」は、〈殉死する積り」になっていること「だ」ろう〉などの不当な略だろう。

「古い不要な言葉」は「殉死」だ。「意義」は意味不明。〈古い「意義」〉から意味不明。「盛り得たような」とあるから、盛り得ていないわけだ。

 

<ここで主人公にとって「殉死」という言葉は、それまでその言葉が持っていた一般的指示性(=意味)を突き破るような新しい響きを持って現われる。「明治の精神に殉死する」といった言葉のアヤによって漱石が表現しようとした問題の芯を、もし心の深い場所で共有するようなひとびとが多くいたならば、その度合いに応じてこの発語(表現)は、「殉死」という語の一般的指示性を動かすことになるだろう。つまりラングは、そういった自己表出性を動機とするパロールによってのみ変化の要因を受けとるのだが、またこの自己表出性(固有の関係の意識)は、そもそも人間がラングの海の中に投げ入れられているのでなければ、はじめから存在のしようがないのである。

(竹田青嗣『世界という背理』)>

 

「殉死」が意味ありげなのは、その対象である「明治の精神」が意味不明だからだ。

「自己表出性」は「思想・感情などが意図せずに表されること」(『ジーニアス英和大辞典』「self‐revelation」)とは違うようだ。「一般的指示性」の「殉死」の対象は人間だから、「明治の精神」は擬人化されていることになる。「明治の精神」氏は、SのDに他ならない。よって、「明治の精神に殉死する」のS的含意は、〈自分で自分を殺して自分はその後を追う〉といった不合理なものになる。「殉死」の「自己表出性」は「無論笑談」なのだよ。

 

<さくらんぼうの種を食べた男の頭に桜が育ち、花が咲く。花見客がうるさいので木を抜くと、その跡が池となり、今度は魚釣り客でにぎわう。悲観した男は、自分の頭の池に身を投げる。

(『広辞苑』「頭山(あたまやま)」)>

 

『マルコビッチの穴』(ジョーンズ監督)参照。

(1250終)(1200終)


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