ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 1210

2021-01-25 16:53:02 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1210 夏目語

1211 「意味は、普通のとは少し違います」

 

〈意味〉は他人に通じるものだ。というか、そのように思えるのが〈意味〉だ。

 

<意味は人類の知的な範疇(はんちゅう)のなかで基本的なものの一つであり、それを他の語で定義し、代替することが不可能か、少なくとも至難であることは、次の一例からも明らかである。伝統的形式論理学では、概念に「内包(ないほう)」と「外延(がいえん)」を区別した。たとえば「桜」の内包はすべての桜の木に共通の性質、属性であり、外延は桜の木全体の集まりをいう。現代論理では、前者に「……は……より大きい」のような「関係」をも含め、後者は「集合」と割り切ることができよう。このように、関係も含めた内包は「意味」の重要な一部といいうるが、意味を集合と同一視したり、集合で代替しても、集合の要素が集合に属することをいう「帰属」は関係の一部であり、ここに、関係としての意味は最小限度前提されざるをえない。

(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「意味」杖下隆英)<

語り手Sは「困難」の処理を聞き手Pに丸投げする。

<気取り過ぎたと云っても、虚栄心が祟(たた)ったと云っても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」三十一)<

「気取る」や「虚栄」に似た意味の言葉として、「我を張る」(中三)や「虚勢」(上二十二)などが見つかる。なぜ、作者は、ここでこうした言葉を用いないのだろう。

「普通の」とは違う「意味」という言葉の意味は、「普通の」と同じだろうか。

 

<同一言語の話者であっても、その話し方や用語には個人差があるという観点から見た、究極的な個人個人の言語をいう。

(『日本国語大辞典』「個人語」)>

 

「個人差」を自覚したら、通じるような「話し方や用語」に換えるべきだろう。

Pに、「気取るとか虚栄とかいう意味」は「通じ」たのだろうか。

 

<こうして遠くへ(ママ)来てまで、清の身の上を案じていてやりさえすれば、おれの真心(まこと)は清に通じるに違(ちがい)ない。通じさえすれば手紙なんぞやる必要はない。

(夏目漱石『坊っちゃん』一〇)>

 

「遠くへ来てまで」には、〈わざと「遠くへ来て」〉という含意がありそうだ。

Nは、〈情報不足によって真意が通じる〉というふうに勘違いをしていたのではないか。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1210 夏目語

1212 「みんなは云えないのよ」

 

言葉に関するNの主張は、私には理解できない。

 

<この故に言語の能力(狭くいへば文章の力)はこの無限の意識連鎖のうちを此所(ここ)彼所(かしこ)と意識的に、或は無意識的にたどり歩きて吾人思想の伝導器となるにあり。即ち吾人の心の曲線の絶えざる流波をこれに相当する記号にて書き改むるにあらずして、この長き波の一部分を断片的に縫ひ拾ふものといふが適当なるべし。

(夏目漱石『文学論』「第三編 文学的内容の特質」)>

 

「言語の能力」も「文章の力」も「この無限」も「連鎖のうち」も意味不明。「此所(ここ)彼所(かしこ)」は想像できない。〈「意識連鎖のうちを」~「意識的に」〉で躓き、「無意識的に」でずっこけたよ。〈「能力」が「たどり歩きて」〉も、〈「能力」が「伝導器となる」〉も、日本語になっていない。私の辞書に「伝導器」はない。『通底器』(ブルトン)なら、『新和英大辞典』にある。

〈「心」=「意識」〉かな。「連鎖」がね、ほら、「流波」になっちゃった。私の辞書に「流波」はない。「相当する」は意味不明だから、「書き改むる」は不可解で、「あらず」とやったら無意味。「長き」は変。「縫ひ拾ふ」は意味不明。「波」はビーズで、「能力」は針か。

「人は表現したい感情をすでに持っているためではなく、もっぱら持ちたいと思う感情を喚起するために喚(ママ)情的言語を使用する」(オグデン+リチャーズ『意味の意味』)のではないか。

 

<「みんなは云えないのよ。みんな云うと叱られるから。叱られないところだけよ」

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十九)<<


 

どんな事柄であれ、「みんな」を言葉にすることはできない。だが、静はそういう本質的な話をしているのではない。この「みんな」は、〈「云え」そうなことの「みんな」〉だ。

「叱られる」のは、Sからだ。彼女は、どことどこが「叱られないところ」か、Sに教わったのだろうか。そんなはずはない。だから、「叱られないところ」の真意は、〈「叱られ」そうに「ないところ」〉だろう。彼女は、空想と現実を混同している。危ない人だ。

この「ところ」は、Nのいう「一部」と同質だろう。つまり、「みんな」を「書き改むる」のは可能なのに、静も、Nも、わざとそうしないのだろう。Nは、自分の隠蔽体質を正当化するために心理学を悪用しているのだ。

<言語は、われわれにとって、思想伝達の体系以上のものだ。言語は、われわれの精神がまとっている目に見えない衣装であって、精神のすべての象徴的表現に予定された形式をあたえる。その表現がなみなみならぬ意義を有する場合、それは文学と呼ばれる。

(エドワード・サピア『言語 言葉の研究序説』)>

 

「なみなみならぬ意義」について詳述することは困難だろう。

 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1210 夏目語

1213 自分語と個人語

 

あるエッセイストが、〈自分語を持ちなさい〉みたいなことを、Eテレで語っていた。〈自分語〉とは、〈自分勝手にいろんな意味で使える語句〉のことらしい。自分語をいくつか用意しておいて適当に使いまわしをすると、どんな話題を振られてももっともらしい話ができるのだそうだ。間違いを指摘されても、楽に言い訳ができる。黒を白と言いくるめることができるわけだ。あきれた。偽超能力者が手品の種をばらすようなものではないか。

同じくEテレで、心理学者という肩書きの人物が、高校生に向かって、〈ヤバい〉の使用を推奨していた。〈ヤバい〉には両義があるから、人といて適当な話題が見つからないとき、とりあえず、〈あの子のファッション、ヤバくない?〉などと言ってみよう。相手が〈似合ってないよね〉などと受けてくれたら、〈だよね〉と話を合わせる。しかし、相手も同じ魂胆だったらどうしよう。ヤバくね? 超ヤバ。ヤバ卍。チョベリヤバ。ヤバゲバ。野蛮婆。

かつて、ある女性タレントが〈エグい〉という言葉をはやらせようとした。〈渋い〉と似たように仕立てたのだ。後輩たちが〈これってエグいんですよね〉などと上目遣いで尋ねると、彼女は〈うん、エグいね〉とか〈いや、それはエグくないな〉などと判定を下す。話についていけない人が、〈そのエグいって、方言か何かですか〉と恐る恐る聞いた。すると、彼女は〈エグい〉が自分語であることを白状した。悪びれる様子はまったくない。むしろ誇らしげだった。その後、彼女を見かけない。意味不明の〈エグい〉を使う人は今もいる。

自分語と個人語の語句とは違う。自分語はトリックだが、個人語の語句は不可避だ。

実話に基づくらしい『ネル』(アプテッド監督)のヒロインは、密室で育った。彼女は物品を相手に話しながらネル語を作りあげる。発見されたとき、彼女は精神異常者だと思われたが、学者がネル語の翻訳に成功し、正常であることが証明される。

個人語は共通語に翻訳できる。いや、そうした機能を備えているのが共通語だ。

個人語が、いつのまにか、他人にも通じるようになって共通語が変化していくのだろう。だが、自分語は違う。話者自身さえ明確な意味を知らないのだ。いや、わざと曖昧にしている。自己欺瞞だから、翻訳はできない。

Sは自分の使った「虚栄」の意味を知らないのだろう。「虚栄」はSの自分語らしい。

 

<私の答も無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新ら(ママ)しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十六)>

 

「古い不要な言葉」とは「殉死」(下五十六)だが、その「新らしい意義」は示されない。だから、「意義」も意味不明。「盛り得たような」だから、盛れていないのだろう。つまり、「殉死」は、S自身にとってさえ意味不明の自分語なのだ。

「殉死」という言葉は静が先に口にしたものだが、彼女の考える「殉死」の意味が「古い不要な」意味なのかどうか、Sにはわからないはずだ。だったら、聞き手Pにもわかるまい。作者は、どうか。Sの用いる「殉死」が作者の自分語なら、読者には理解できない。

〈Nの自分語〉を〈夏目語〉と書く。

(1210終)


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腐った林檎の匂いのする異星人と一緒 ~12 月世界

2021-01-24 16:16:12 | 小説

   腐った林檎の匂いのする異星人と一緒

       ~12 月世界

 

襖紙が破れて垂れている。鮃のようだ。海底のようだ。天井の四隅の蜘蛛の巣に埃が纏わり垂れる。海草のようだ。

月に魅せられるようになってから、吾一には狭く薄暗い部屋が与えられた。以前は蒲団部屋だ。やがて髪の長い夢千代がやってくるようになる。深夜の徘徊の後など、ときどき泊まってくれる。だが、目が覚めたとき、いない。だからといって、名を呼びはしない。

窓の下に煙草の灰が落ちていた。誰かに覗かれているらしい。骸骨面だろう。

骸骨面の前の妻は淫乱だった。だから、吾一は彼に似ていない。顔が似ていないばかりか、根性も違う。傍にいるだけで鼻の横が痒くなるな。俺様の面に泥を塗るような真似をしでかした日には、ただじゃおかんからな。殺すぞ。その声が吾一の頭の中で反響し続ける。殺すぞ。殺すぞ。わんわん、響く。殺す。長生きしたいわけではない。今すぐ死んでも構わない。

骸骨面に手招きされ、ミクは不安げに産みの母を見上げる。顎で促され、そっと寄る。ミクは未熟児だった。学校に上がってもまだ口が利けない。ところが、歌が大好きで、床の間にぴょんと上り、掛け軸を背景に歌っているふりをする。異様に細い脚。折れそう。

娘は父親に似るものだと不二子が教えてくれた。骸骨面は、酔うとミクを抱き締めて小さな顔に接吻を浴びせ、頬ずりをする。二つの骸骨がぶつかり、がつがつと音を立てる。不二子は茶碗を積む。かつ、かつ。吾一は箸を握ったまま、自分の部屋に逃げ、畳に突き立てる。すでにいくつもの穴、穴、穴。

ミクは、ひゃあひゃあと息を吐き、嬉しがる。鼻水が夜店の飴のように垂れる。お客はまだかと問われ、不二子は黙って首を振る。おまえ、幾つだ。遅かったのよ。幾つだ。遅かったんだってば。

わけもなく、ぴくりと口の端を上げる。不二子の左の頬には傷跡がある。前の夫に切られた。それを注視されたくなくて、人前でよく首を振る。前の夫は死んだ。自殺だが、彼女が殺したようなものだと夢千代が教えてくれた。

骸骨面が娘の乳を探る。まだまだだな。ひゃあひゃあという掠れた息。おい、蒲団。人にものを言いかけるとき、剃髪の百会を押す。

袖が襖に触れ、袖から指が出る。ざわざわと音を立て、襖が細く開く。折敷が畳に置かれた。餌だよ。腕の裏のぷくぷくとした肉が揺れながら、すっと引っ込む。馴れた動き。地図の線路を思わせる古傷の残像。

固形物とそれを流し込むための流動物。目にしただけで喉越しの具合がきつく思われる。食い終わる頃、蓑虫のように巻いた蒲団の端から夢千代の首が出る。髪が引き出される。

吾一ちゃんはママが好き? へえ。もっともらしく装うために、ちょっと間を置く。ママとは、御用聞きと逃げた赤毛のデベソのことではない。不二子のことでもない。夢千代のことだ。夢千代は微笑む。くすりと笑うと、肩まで出る。デベソは御用聞きに捨てられ、そう遠くない町の顔役の妾になった。骸骨面は顔役を恐れて手出しができない。いまいましい。

畳はぼろぼろになった。夢千代が来なくなった。月世界に戻ったのだろう。

夢千代は月世界のママ。

吾一は、この呪文を唱えながら、しばらく生きた。月世界にはいい女がいる。酔った骸骨面が歌うように語った。

汚れきった壁に、掌のような白抜きの跡がある。夢千代によると、それは無人島だ。あるいは、氷山だ。どこでもいいんさ。どこかには、どこだって人間擬きが湧き出して、恐竜やら怪獣やらの餌になるんよ。吸血鬼に血を吸われるんよ。人間擬きは、ピーピー、あわれっぽい声を出して逃げ惑うね。岩陰、洞穴、巨樹の上と。笑えるよ。

掌島に自分の掌を合わせる。合わない。いつも、どの指かが短すぎる。慰めるためか、夢千代が昔話をしてくれる。その頃には蒲団から半身が出ている。

異星人ってのはね、あんたよお、悲しみの熱で溶けかかったアイスクリンみたいにして何でも食うよ。山だって、海だって、ぐんぐん、越えて来てね、夜だってさ。わかるねえ。はいはい、さようでこざんしょう。ほんに? ええ、きっとそのようでありんしょ。吾一の舌が沢庵の厚みを測るときのように、れろれろ。それにつけても思い出されるのはね、あれさ。へえ、あれでござんすね。掌島の秘密基地にはさ、あれさ。へえ、へえ。奥の奥の、そのまた奥に鉄格子があってさ、親の意見を聞かぬ子を矯める道具がたんと揃ってあるよ。ぎりぎり。きゅうきゅう。こきこき。あはは。火も使いましょ? 使わいでかい。煙草の火でやんしょ。よう知っとられる。前に聞きやんした。吾一は自分の帯で首を絞めてみせる。こんなでござんしょか。なんの、なんの。こ、こんなに締めましょか。まだまだ。こ、こ、こ。あは、あは、あは。泣かんし。泣かんし。ふふふう。えっへへ。

昔々、脚のやたらに太い怪鳥が子らを掴み、空中で齧ったんよ。人間擬きらときたら、ほれ、穴から顔を出さんのよ。なんもないふりや。野卑な小唄をがなるしか、才ないんよね。遠くで爆弾が破裂したわ。炒るほどの風が椰子を薙ぎ倒して去ったねえ。いつもでやすな。そよ、いつもやね。

掌島は伸びたり縮んだりする、縦に、横に、斜めに。ときには裏返る。捻じれる。開いたり閉じたり、丸まり、隆起し、拳にもなる。海に沈むと、数万秒は上がってこない。

ふう。

自分が、なぜ、ここにいるのか、わからない。ここがどこなのか、わからない。この部屋、この家、この国、この世界、この宇宙。自分が何者なのか、わからない。今がいつなのか、わからない。未来ではない。過去でもない。現在という言葉は知っている。でも、ただの言葉だ。

誰にでも見える月と誰も見たことのない島。どっちが現実だろう。現実に近いのだろう。

考えても、考えても、いや、考えようがない。

本当に突き刺したいのは、畳ではない。誰かだ。その誰かが思いつかない。骸骨面でないのは確かだ。誰でもいいような気がしてくる。

ついに箸が折れた。ここで今を生きるのに耐えられなくなって、吾一は月世界に潜り込もうとする。用心棒と揉め、突き飛ばされる。歯噛みし、宿無したちが暖を取るドラム缶から角材を抜いて月世界へ投げ入れる。建物の周辺を、ママ、ママと叫んで歩き回っていた。

吾一なんか、知らないね。月世界のママの証言。厚化粧の老女だ。眉を剃っている。目がきつい。夢千代とは似ても似つかない。不二子より背が低い。デブのデベソなんか、論外だ。夢千代は痩せていない。太ってもいない。化粧はしない。眉は、どうだったか。目の色、思い出せない。目は、眉とともに、刺繍を施した半襟で覆われていたか。こめかみで縦に結ぶ。右だったか。いや、左だったか。

炎の中から白い鰐がのそのそと這い出し、二本足で立ち去った。そんな目撃情報が寄せられる。どうせ酔っ払いの幻覚だろう。刑事は取り合わない。そのせいでどんな悲惨な一生を送ることになるか、思いもよらない。呑気な商売だ。

吾一は逃げた。今も逃げている。熱い茶を冷まそうと息を吹きかけるときなど、何かと何かを比べることがある。今昔と有無を比べる秤が中空に浮かぶ。

まだある何かともうある何か。

まだある何かともうない何か。

まだない何かともうある何か。

まだない何かともうない何か。

まだやるかい。もうお止しよ。

昔々、無人島に熱い雨が降り注いだ。動物も植物もみんな死んだ。かろうじて不死鳥だけは飛び去ったとか。島の周囲の海が泡立つ。人間に嫁ぐはずの人魚たちが茹で上がる。七色の鱗が白茶けている。静寂が流し目のように通過すると、どこやら、何やら、むずむずと持ち上がる気配。恨みを含んだ擦過傷のように海底が盛り上がる。瘡蓋みたいに表土が剥がれ、赤黒い血の色の筋が揺らめいて海上を目指す。白い泡と赤い何かは混じりながら、岸辺に打ち寄せた。おや、島の形が変わっているぞ。誰かが掌島と名づけることになる、そんな形。

掌島に最初に上陸する日本人が吾一だ。上陸するとすぐ、浜辺に近い崖を彼は掘り始める。計画通り。

戦後の日本国では、酔眼の骸骨面がゆるゆるの越中褌の脇から粒々の糞をこぼしながら廊下を這っていた。脱ぎかけの袴が膝で引きずられる。皸だらけの手で握った鉄瓶から不二子がしみだらけの男の尻にぽたぽたと熱湯を注ぐ。あっちっちっ。夜が何時だろうと、ミクは突っ立って笑い続ける。声の出ない口は地下壕のように閉じない。

吾一は掘り続ける。地下には水場があって、以前は海底と繋がっていた。あの雨の日、隠れて悪い遊びをしていた人魚が一頭だけ、水場で生きている。放っておけば、やがて死のう。人魚を探して吾一は掘る。その名は決めてある。夢千代。

突き刺したい相手は彼女だ。でなければ、自分。何も見たくない自分の目玉。

もうお止しよ。

(終)

 


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夏目漱石を読むという虚栄 1150

2021-01-23 14:43:10 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1150 「恐ろしい影」

1151 もう一人の自分

 

先に進む前に、言葉に関する次のような俗説を検討しておかねばならない。

 

<「もう一人の自分」は、外から自分のなかへ入って来たのではなく、現実の自分がかたちを変えて分離したのですから、現実の自分の体験や能力を生かして活動するしか方法がありません。夏目漱石の小説『吾輩(わがはい)は猫である』を読むときには、「もう一人の自分」は猫にならなければなりませんが、これもかたちだけの猫で、実際に猫になったのでは文章を読むことさえできません。それゆえ、現実の自分が幼ければ、「もう一人の自分」が大人になったとしても、それはかたちだけの大人でしかありません。現実の自分が成長するにつれて、「もう一人の自分」も成長していきます。また、与えられた作品を「もう一人の自分」として体験したり知識を身につけたりした場合にも、それはつぎに現実の自分にひきつがれ、現実の自分を成長させることになります。こうしてすぐれた芸術は、追体験によって現実の私たちの成長に役立つのです。

(三浦つとむ『こころとことば』)>

 

「もう一人の自分」とは、〈自分を客観視する意識〉を人格化したものだろう。私は、これを〈〉と書く。〈dareka〉の頭文字。「かたちをかえて」は意味不明。

「実際に猫になった」は意味不明。主人公の「猫」なら、字が読めるはずだ。『吾輩は猫である』の読者は、語り手ワガハイにとっての聞き手に擬態すべきだろう。しかし、その聞き手の像は不明。ワガハイが誰に向かって言葉を発しているのか、まったくわからない。

「もう一人の自分」は「成長して」いかないかもしれない。退行するのかもしれない。

何をもって「すぐれた芸術」と判定するのか。「追体験」は意味不明。「還元的感化」(N『文芸の哲学的基礎』)の一種らしい。

 

<他人の体験を、作品などを通して自分の体験として生き生きと、とらえること。

(『日本国語大辞典』「追体験」)>

 

この説明も意味不明。「他人」とは誰か。作家先生か。語り手か。作中人物か。

作家の創作体験の「追体験」をすることが「成長」に役立つことがあるとしても、逆に退行してしまうことだってあるかもしれない。危ない。

 

<誤記憶は実際の経験が歪曲、改ざんされて、異なって追想されるもので、多くは記憶減退を伴っている。偽記憶は事実としては存しなかったことが実際あったとして追想される場合をいう。

(『精神科ポケット辞典 新訂版』「記憶錯誤」)>

 

『ドグラマグラ』(松本俊夫監督)や『シャッター・アイランド』(スコセッシ監督)参照。ついでに『メメント』(ノーラン監督)も。

 

 

 

 

 

 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1150 「恐ろしい影」

1152 さもしき玩具

 

文学に関する眉唾の俗説を、教師根性の持ち主は真実のように語る。

 

<石川啄木の短歌に

 ふるさとの山に向ひて

 言ふことなし

 ふるさとの山はありがたきかな

というのがあります。昔、私の仕事仲間に、この歌がすきで、いつも口にしている男がおりました。自分も、少年のときに友だちと遊んだふるさとの山が、目にやきついていて忘れられないと、話していました。

(三浦つとむ『こころとことば』)>

 

三浦は〈おれの啄木が盗まれちまったぜ〉みたいに思って悔しかったのだろう。

 

<話されたり書かれたりしたことばの意味は、その話し手や書き手の体験から成立しているのですから、ことばの後にかくれている具体的なありかたまでふくめてとりあげなければなりません。啄木の歌ならば、岩手県岩手郡渋(しぶ)民(たみ)村で育った石川一(はじめ)の見た山として、具体的にとりあげなければなりません。

(三浦つとむ『こころとことば』)>

 

「体験から成立して」の「成立」は怪しい。「体験」がないと「ことば」の「意味」は知れないのか。そんなことはない。逆だ。似たような「体験」をしたことがない人に情報を伝達することができなければ、表現は無駄。「ことばの後ろ」は〈眼光紙背に徹する〉を踏まえているつもりか。だとしたら、くだらない。「具体的なありかた」は他人に知れない。

「石川一(はじめ)の見た山」が他人に見えるはずはない。特定の「ふるさと」を想像させたければ、歌人は固有名詞を使ったろう。彼は、歌の中の「ふるさとの山」と人々の「ふるさとの山」の混同を、むしろ望んでいたはずだ。この歌は、その程度のおセンチなものだ。もっとお粗末かもしれない。

 

ふるさとの人に向かひて言ふことなし ふるさとの人はありがたくなし

 

短歌は早熟なハジメちゃんの「具体的なありかた」を隠蔽するためのさもしき玩具だった。

 

<ことばは、人間が心で思っていることをほかの人間に伝えるために、使われています。人間の心のはたらきについてよく理解しないと、ことばの謎は解けないはずです。

(三浦つとむ『こころとことば』)>

 

「人間の心のはたらきについてよく理解し」ていたら、「ことば」なんか、要らないよ。

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1150 「恐ろしい影」

1153 「自分の頭がどうかしたのではなかろうか」

 

「もう一人の自分」つまりが自問自答の相手として有効に働いてくれる場合はある。しかし、侵入者のように錯覚されることもある。

 

<私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃(ひら)めきました。初めはそれが偶然外(そと)から襲って来るのです。私は驚ろ(ママ)きました。私はぞっとしました。然ししばらくしている中(うち)に、私の心がその物凄(ものすご)い閃めきに応ずるようになりました。しまいには外(そと)から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるものの如(ごと)くに思われ出して来たのです。私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑(うたぐ)って見(ママ)ました。けれども私は医者にも誰にも診て貰う気にはなりませんでした。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十四)>

 

「その時分」は、〈静とSの関係がSには修復不可能のように思われだした「時分」〉だろう。「恐ろしい影」は、「もう取り返しが付かないという黒い光」(下四十八)の再来らしい。これが成長して「恐ろしい力」(下五十五)になり、やがて口を利くようになる。一方、Sの気分は萎縮し、混乱する。「閃(ひら)めき」は〈ちらつき〉と解釈する。「閃(ひら)めきました」は、「その時分から時々」に呼応させるには、〈「閃(ひら)め」くようになり「ました」〉などが適当。

「初め」は〈「初め」の頃〉などが適当。「偶然」ではなく、必然かもしれない。「来るのです」は、「初めは」に呼応させるのなら、〈来ていた「のです」〉などが適当。

「しばらく」の長さを想像することはできない。数秒か、数分か、数日か。「しばらく」何を「している」のか。

「しまいには」の結びだから、「思われ出して来たのです」の「出し」は不適当。「如(ごと)く」だから、実際には「自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもの」ではないようだ。真相は一つしか考えられない。「恐ろしい影」は、「偶然外(そと)から襲って来る」のでもなく、「生れた時から潜んでいるもの」でもなく、〈ある刺激に反応して生じる「もの」〉だろう。その刺激とは孤立感などだろう。淋しくて「影」を呼び出ししまうのだ。

「誰」に相当するのは、「診て」を考慮すれば、易者などだ。「医者」に相談する場合、「恐ろしい影」は科学系の幻覚などだ。易者などに相談する場合、「恐ろしい影」は呪術系の霊魂などだ。「恐ろしい影」がSの「外(そと)」に存在するのなら、『こころ』は怪談だ。「胸の底」に潜んでいるのなら、『こころ』は心理小説だ。作者は何をしているのだろう。

 

<よくみられるものに「思路弛緩(しろしかん)があります。話が徐々に別の話題へそれていったり、唐突に別のことを言いだしたりします。重症になると、他の人にはまったく話の意味が理解できない「滅裂思考(めつれつしこう)」になります。

(『家庭医学大事典』「統合失調症」)>

 

語られるSの心理状態がどうなっているのか、よくわからない。だが、語り手Sの思路はかなり怪しくなっている。実際に怪しいのは、作者だろう。

(1150終)

(1100終)

 

 

 


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夏目漱石を読むという虚栄 1140

2021-01-20 23:12:31 | 評論

夏目漱石を読むという虚栄 第一部『こころ』の普通のとは違う「意味」4

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1140 恣意的な読み込み

1141 文豪伝説の主題

 

『こころ』の愛読者は、素直に読解するのではなく、空想して、そして、威張る。

 

<「心」は佳篇である。その全篇にみなぎっている、透徹した、静謐(せいひつ)ともいうべき調子は、自らの主題を的確に、冷静に摑(つか)んでいるものの筆から生れるものである。これほど非感傷的に、人間的愛の絶望的陰影を描いた小説は少い(ママ)。漱石はさながらストア派の哲人が、迫り来る死を語るように、淡々と、しかも沈痛に、「愛」の不可能性を立証する。この恐るべき仕事を成就させた強烈な意志の底にひそむものは、あるいは「愛」を希求すると同様に強烈な願望であるかも知れぬ。そして「先生」は、この精巧な証明を、《私の過去を絵巻物のやうに、あなたの前に展開して呉れと逼(せま)った》「私」に書き残して死ぬ。

(江藤淳『決定版 夏目漱石』)>

「心」は『こころ』のこと。

「みなぎって」は「透徹」や「静謐(せいひつ)」にそぐわない。〈「透徹した」~「調子」〉や「静謐(せいひつ)ともいうべき調子」は意味不明。この「主題」は、「自己の快楽を人間の主題にして生活しよう」(『明暗』百四十一)なんてのと似た意味で用いられているようだ。江藤は文豪伝説の「主題」をNの全作品から読み取っているつもりらしい。〈「主題を」~「摑(つか)んで」〉は意味不明。右手に「筆」を「摑(つか)んで」いるとすれば、「主題」は左手に「摑(つか)んで」いるのか。

ここらの話題は『こころ』の作者のはずだが、江藤はNについて述べているつもりだろう。江藤は、Nと「遺書」の語り手Sを混同しているらしい。

「これ」の指すものは不明。「非感傷的に」も「人間的愛」も「絶望的陰影」も意味不明。

「ストア派の哲人」は誰か。「死を語る」文献も不明。Sにとって、「死」は「迫り来る」ものではなかった。「淡々と、しかも沈痛に」は無意味。鉤付きの「愛」は〈自分が誰かに愛されているという実感〉つまり〈被愛感情〉だ。「「愛」の不可能性」はインポテンツを含むか。〈Sはインポテンツ〉という解釈があったように思う。「立証」は意味不明。

「恐るべき」は意味不明だから、「恐るべき仕事を成就させた」事実は確認しようがない。「意志の底」は意味不明。「希求すると同様に強烈な」は意味不明。こうした「願望」は〈被愛願望〉だろう。これは〈Nという「人間の主題」〉だったようだ。ただし、被愛願望は、Nの意識の「底にひそむもの」であり、明瞭には自覚できなかった。江藤も同様だろう。被愛願望は、恐れや怒りや憎しみなどと関わっている。〈可愛さ余って憎さ百倍〉という。

「そして」は機能していない。ここまでの話題はNだったのに、突如Sが登場する。二重パーレン内は本文からの引用だが、意味不明。「死ぬ」は宙ぶらりん。

 

<自己愛的に欠乏したインナーチャイルドは、愛されることや注目されること、同情されることへのどん欲な要求でおとなになった自分を汚染します。

(ジョン・ブラッドショー『インナーチャイルド 本当のあなたを取り戻す方法』)>

 

江藤やNは、自身の「自己愛的障害」(『インナーチャイルド』)に思い至らなかったようだ。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1140 恣意的な読み込み

1142 ありすぎる主題

 

Nの小説に確かな意味はない。このことは、いわば定説のようだ。

 

<どの作品も没後長く読み継がれているが、各作品に「自己本位」「個人主義」「則天去私」、または実存的主題、自他関係の問題など、時代ごとに多種多様の主題が入れ替わりに読み込まれてきた。こうした多様な読み方を許容する点が「国民的作家」と呼ばれる一因になっている。

(『日本歴史大事典』「夏目漱石」佐藤泉)>

 

「どの作品も」は嘘。「没後」は〈「没後」も〉の略か。ありすぎる「主題」は、どれも難解。「自己本位」と「個人主義」は鉤付きだから、『私の個人主義』(N)からだろうが、この講演は意味不明。「則天去私」は夏目語らしい。「非人情」(『草枕』一)を連想してしまうが、「非人情」も意味不明。「実存的主題」には困る。「実存性を非主題的に前提している了解を、実存的と呼び、実存の哲学的把握としての実存論的了解から区別する」(『哲学事典』「実存的」)とされているからだ。「自他関係」は意味不明。「主題が入れ替わりに読み込まれて」は日本語になっていない。「読み込まれて」は困る。

 

<それは、思想研究がともすれば過去の仏教思想を現代の観点から読み込み、それが戦前の恣意的な国家主義的解釈の横行を許すことになったという反省から、客観性を重んじる歴史研究の方が重んじられるようになったといういきさつがある。

(末木文美士『日蓮入門―現世を撃つ思想』)>

 

「思想研究」に関わる人にとって、〈読み込み〉は「恣意的な」作業で「客観性」を欠き、「反省」が必要な作業らしい。一方、日本近代文学研究者の〈読み込み〉は逆で、「客観性を重んじる歴史研究」をないがしろにしてまでも推進すべき作業らしい。文学研究者の「実存」は、思想研究者のそれと違っているのだろうか。文学は思想の一種ではないのだろうか。あるいは、文学研究者の頭は「戦前」のままで、彼らは「国家主義的解釈の横行」が許容された「時代」を懐かしんでいるのだろうか。猿でもできる「反省」なんか、おかしくてできるものかって。あるいは、「国家主義」と対立しないN式「個人主義」の延命を画策しているのか。そうでもなくて、「時代ごとに」はやりすたりする内外の「思想研究」の「主題」を器用にコピペしちゃって「現代の観点から」読み込める自分を可愛いがるのに忙しく、「自他」の思想的責任に関する考察は思想研究者に丸投げか。ご謙遜も、ほどほどに。

「多様な読み方を許容する」権威者は、どなた? 佐藤様? N様? 「時代」樣? 「作品」樣かな。「国民的作家」は鉤付きだが、出典不明。「呼ばれて」って、誰が呼ぶの? 「こうした多様な読み方を許容する点が」世界的作家と呼ばれない「一因になっている」のかもよ。また、「どの作品も」映画、演劇、漫画などになりにくく、なっても成功しない「一因」だろうね。「一因」しか教えてくれないよ。なぜ、他の「因」を教えてくれないのだろう。最大の「因」は文豪伝説だろう。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1140 恣意的な読み込み

1143 間違いだらけの翻訳のよう

 

あるテレビ局の解説委員が〈Nの言葉は意味不明〉といった不満を漏らした。すると、著名な宗教学者が〈東大生ならわかる〉というようなことを呟いた。し~ん。〈東大生しかわからない〉と言ってほしかった。東大生でなくてもいい。偏差値七〇以上というのでもいいのだ。IQ一五〇以上でもいい。とにかく、〈Nの言葉はある種の優れた日本人にしか理解できない〉といった定説があるのなら、私は『こころ』批判をやらない。

私が批判しているのは、Nの言葉遣いだ。作品の価値ではない。文学史的意義などを論じる資格も、私にはない。Nの信念や生き方などについてだと、もう、考えたくもない。

では、なぜ、『こころ』を選ぶのか。ファンが多そうだからだ。

Nの作品で有名ということなら、『吾輩は猫である』が一番だろう。だが、この晦渋なものを通読した人がどれほどいることか。先に『牡猫ムルの人生観』(ホフマン)を読みなさい。

『坊っちゃん』を通読した人は多そうだが、意味不明の愚作。

『草枕』も有名だが、ほとんどの人は最初の数ページで投げ出すはずだ。

あと、名が知れているのは『三四郎』か。しかし、中身は空っぽ。出来事と夢想の羅列。

『それから』も、ちょっとは有名かもしれない。これは、主人公が私小説を書きそこねて、そして、その様子を語り手が語りそこなったものだ。

小説好きは晩年の『明暗』をほめるようだが、これも意味不明で、何かが起きそうになったところで、Nは死んだ。死ななかったとしても、書き続けることはできなかったろう。続きを書きたくなくて、いわゆる創作上の壁にぶつかり、Nはわざと不摂生をし、擬死再生を企てたようだ。医学的には病死だが、創作家としては一種の自殺だ。

私の批判の対象である文豪伝説の主人公Nは、悩める日本男児を導く人生の達人ではない。バランス感覚に長けた風見鶏的モラリストでもない。人畜無害のくすぐりがお得意の淋しげな元教員でもない。偽善者を憎んだ佯狂でもなく、乙に澄ました謎めいた趣味人でもなく、孤高の憂愁を甘受した受難者でもない。精神の根源に横たわる原生的不安とやらを果敢に剔抉した未曾有の哲人でもなく、工場の煙の下の神経衰弱すれすれの労働者の味方を演じようとして薀蓄を傾けた限りなく優しい教養人でもない。ポストモダンを鋭く予見した驚嘆すべき大天才でもない。妻子を容赦なく苛めぬいた家庭内暴君でもない。鬱ときどき躁の病人でもない。名文家であるかどうかはさておき、〈明文の書き手N〉だ。

ナンセンスはいいのだ。「チッチキチー。意味はないけど楽しい言葉」と大木こだまが語るのを聞いたとき、私は微笑していた。滝沢カレンの言い損ないは、かわいい。ぱみゅぱみゅは楽しい名前。漱石は苦しい名前。石で漱いで何になりたかったの? 超現実主義の「意味のない意味」(滝口修造『詩と実在』)は、むしろ必要。ダダイストの駄々は駄目じゃない。「貧弱な思想家」(上三十一)の駄々が駄目なのだ。

言うまでもあるまいが、作品の全頁に眼を晒したとしても読んだことにはならない。意味もわからず、情景を思い浮かべることもなく、音読しただけでは、理解に程遠い。気に入った文言を暗記しても、理解したことにならない。暗記した文言を勝手な想像の糸で縫い合わせたようなものは、梗概ではない。異本だ。手前味噌の異本について論じたものは、作品論ではない。妄論だ。たわごと、寝言。他人には何の価値もない紙屑。捨てちゃう。

(付記)『カレンの台所』(滝沢カレン)参照。

(1140終)


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夏目漱石を読むという虚栄 1130

2021-01-15 14:00:28 | 評論

夏目漱石を読むという虚栄 第一部『こころ』の普通のとは違う「意味」3

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1130 わかったつもり

1131 浅い理由と深い理由

 

〈『こころ』は名作〉という伝説が終わらない理由は二つある。浅い理由と深い理由だ。浅い理由は、本文が意味不明だからだ。きちんとした意味がなければ、きちんとした批判はできない。きちんとした批判がなされなかったから、伝説が終らないのだ。

 

<齋藤 『こころ』は何度読んでもよくわからない。わからないところを追求(ママ)していくと「こうだったか!」という新しい読み方が出てくる。それが漱石にはよくあります。

奥泉 『こころ』をおもしろく読むにはどうしたらいいのか、というのは批評の一つの使命でもあるかもしれない。「これはこうおもしろく読めるのだ」ということを提出したい感じは僕にもある。少なくともそれに値するテキストではある。

高橋 どの作品もいまだによくわからないんだけど、『こころ』がいちばんよく売れているんだよね。

(奥泉光×斎藤美奈子×高橋源一郎『鼎談 二一世紀に漱石を読む』*)>

 

「新しい読み方」がされてしまう浅い理由は、本文の意味が「よくわからない」からだ。「新しい読み方」が登場するたびに議論をして〈古い「読み方」〉を破棄するのなら、いい。しかし、実際には、「読み方」は増え続けるばかりのようだ。「読み方」のごみ屋敷だね。『こころ』に関することだけでなく、一般に、日本の文系の人々は議論を嫌うらしい。

「『こころ』をおもしろく読むにはどうしたらいいか」だってさ。〈『こころ』はおもしろくない〉と白状したようなものだ。しかも、話題は〈おもしろさ〉ではないのだよ。

〈「よくわからないんだけど」~「売れているんだよね」〉は、ちゃちなはぐらかし。はぐらかしは高橋の得意技らしい。はぐらかすとき、嬉しそうだもんね。

さて、深い理由は何か。

<つまり今日の日本の文化人の世界では、而(しか)も高尚な文化人の世界では、高級常識から云うと、漱石文化が文化そのもののスタンダードになっているのである。科学でも芸術でも、時には宗教さえが(但(ただ)し邪教はいけないが)、このスタンダードに照し(ママ)て評価される。之は現下の日本の、意外に強靭な、高級大常識なのである。このスタンダードは、高い文化水準を意味している。だがそれは高い思想水準と一つではない。又は、(文化という言葉をもっと将来のあるものとして使えば)高い技術水準を意味しているが、高い文化水準を意味していない、と云ってよい。

現代の日本に於けるアカデミシャニズム、及び云わばアカデミコ・ジャーナリズムの、最も優れた形態が殆(ほとん)ど総(すべ)てここに帰着するように思われる。

(戸坂潤『現代に於ける漱石文化』)>

 

深い理由は難しい。ただし、深浅二つの理由は、無関係ではなかろう。

 

*「KAWADE夢ムック 夏目漱石〈増補新版〉百年後に逢いましょう」所収。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1130 わかったつもり

1132 「明治の精神」は時代精神ではない

 

『こころ』に確かな意味があるように思う人は、意味不明の作文をする。

 

<恋のために友人を裏切り、自殺させた過去をもつ先生は、罪の意識ゆえに自己処罰の道を選び、乃木(のぎ)大将の殉死に感動して自殺する。漱石文学の根本の主題である愛とエゴイズムの問題が、つきつめた自己否定に到達した知識人の苦悩を通じて描かれるが、先生を〈明治の精神〉に殉死させたところに、明治的倫理の体現者としての漱石の独自性がみられる。時代精神と人間性に対する洞察の徹底した傑作である。

(『日本大百科事典(ニッポニカ)』「こゝろ」三好行雄)>

〈「恋のために」~「裏切り」〉は意味不明。「自殺させた」は無茶。動機においてSは無罪だ。ただし、〈出血して動かないKを長く放置した〉という行為に関して罪に問われる可能性はある。Kの死後、「早く御前が殺したと白状してしまえ」(下五十一)という幻聴にSは悩まされるから、〈SはKを殺した〉という妄想的な物語はある。「過去をもつ」は意味不明。「罪」の実態は不明。「罪の意識ゆえに自己処罰」は意味不明。「自分で自分を殺すべきだ」(下五十四)とSは考えたが、「死んだ気で生きて行こう」(下五十四)と方針を転換している。「道を選び」は、ひどい誤読。「死の道」(下五十五)以外の「道」がなくなってしまったのだ。ただし、「死の道」は意味不明。「殉死に感動して」なんて、どこにも書かれていない。

〈「漱石文学の根本の主題」がある〉という根拠は何か。〈「主題である」~「問題」〉も、「愛とエゴイズムの問題」も、〈「問題が」~「描かれる」〉も、〈「つきつめた」~「に到達し」〉も、意味不明。「自己否定」は意味不明。Sが「知識人」である証拠はない。「明治的倫理」は意味不明。「独自性」は〈異常性〉と区別できるか。

〈明治時代〉の〈時代〉と「時代精神」の〈時代〉は違う。後者の〈時代〉は、「原始・古代・中世(封建)・近代・現代」(『広辞苑』「時代区分」)などだ。三好は、意味不明の「時勢の推移から来る人間の相違」(下五十六)を「時代精神」と思い込んだのかもしれない。

 

 <①整合的である限りにおいて、複数の想像・仮定、すなわち「解釈」を認めることになります。間違っていない限り、また間違いが露(あら)わになるまで、その解釈は保持されてよいのです。

 ②ある解釈が、整合性を示しているからといって、それが唯一正しい解釈と考えることはできないのです。

 ③しかし、ある解釈が周辺の記述や他の部分の記述と不整合である場合には、その解釈は破棄されなければならないのです。

(西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』」)>

 

「わかったつもり」になるのは不可避だ。良くないのは〈知ったかぶり〉だ。しかし、両者を区別することは、自分自身にとってさえ容易ではない。「わかったつもり」の人を〈知ったかぶり〉と中傷する知ったかぶりは少なくなかろう。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1130 わかったつもり

1133 痩せ我慢

 

「明治の精神」を庶民の言葉に直すと、〈痩せ我慢〉だろう。痩せ我慢で、『草枕』の主人公のように、鬱々としつつ飄々として見せる人もいる。

 

<御祝儀などはほんの一例ですが、凡(すべ)て倫理的意義を含む個人の行為が幾分か従前よりは自由になったため、窮屈(きゅうくつ)の度が取れたため、即ち昔のように強(し)いて行(おこな)い、無理にも為(な)すという瘠(やせ)我慢(がまん)も圧迫も微弱になったため、一言にしていえば徳義上の評価が何時(いつ)となく推移したため、自分の弱点と認めるようなことを恐れもなく人に話すのみか、その弱点を行為の上に露出して我も怪しまず、人も咎(とが)めぬという世の中になったのであります。私は明治維新の丁度(ちょうど)前の年に生れた人間でありますから、今日この聴衆諸君の中(うち)に御見えになる若い方とは違って、どっちかというと中途半端(ちゅうとはんぱ)の教育を受けた海陸(かいりく)両棲(りょうせい)動物のような怪しげなものでありますが、私らのような年輩の過去に比べると、今の若い人はよほど自由が利いているように見えます。また社会がそれだけの自由を許しているように見えます。漢学塾へ(ママ)二年でも三年でも通った経験のある我々には豪(えら)くもないのに豪そうな顔をして見(ママ)たり、性(せい)を矯(た)めて瘠(やせ)我慢(がまん)を言い張って見(ママ)たりする癖が能(よ)くあったものです。――今でも大分その気味があるかも知れませんが。

(夏目漱石『文芸と道徳』)>

「窮屈(きゅうくつ)」から「意地を通せば窮屈だ」(『草枕』一)が連想されよう。

「瘠(やせ)我慢(がまん)」は、「無鉄砲(むてっぽう)」(『坊っちゃん』一)や「意地」の類語だろう。「弱点」は〈恥〉などが適当だろうが、そうした言葉を明示しないのも「明治の精神」のせいらしい。「恐れもなく」は〈恐れ気もなく〉といった意味だろうが、〈恥も外聞もなく〉が適当。

「中途半端(ちゅうとはんぱ)の教育」からは、「自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心」(下十六)が連想される。

「明治の精神」の類語らしいのをざっと挙げてみる。

 

「淋(さび)しい気」(上七) 「どうも仕方がない」(上十三) 「厭世(えんせい)に近い覚悟」(上十五) 「耻(はじ)」(上二十五) 「大変執念深い男」(上三十) 「精神的に癇性」(上三十二) 「人間のどうする事も出来ない持って生れた軽薄」(上三十六) 「卑怯(ひきょう)」(下一) 「矛盾な人間」(下一) 「我(が)」(上一) 「鋭敏過ぎて」(下二) 「倫理的に暗い」(下二) 「物を解きほどいて見(ママ)たり、又ぐるぐる廻して眺めたりする癖」(下三) 「煩悶(はんもん)や苦悩」(下三) 「先祖から譲られた迷信の塊」(下七) 「馬鹿気た意地」(下九) 「他(ひと)は頼りにならないものだという観念」(下十二) 「自分で自分が耻(は)ずかしい程」(下十二) 「猜疑(さいぎ)心(しん)」(下十五) 「狐疑(こぎ)」(下十八) 「偉くなる積り」(下十九) 「神経衰弱」(下二十二) 「道学の余習なのか、又は一種のはにかみなのか」(下二十九) 「元の不安」(下二十九) 「気取るとか虚栄とかいう意味」(下三十一) 「癇癪(かんしゃく)持(もち)」(下三十四) 「狡猾(こうかつ)な男」(下四十七) 「世間体」(下四十八) 「この不可思議な私というもの」(下五十六) 

 

カタカナ語なら、〈スノビズム〉でいいか。

(1130終)


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