ヒルネボウ

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腐った林檎の匂いのする異星人と一緒 ~12 月世界

2021-01-24 16:16:12 | 小説

   腐った林檎の匂いのする異星人と一緒

       ~12 月世界

 

襖紙が破れて垂れている。鮃のようだ。海底のようだ。天井の四隅の蜘蛛の巣に埃が纏わり垂れる。海草のようだ。

月に魅せられるようになってから、吾一には狭く薄暗い部屋が与えられた。以前は蒲団部屋だ。やがて髪の長い夢千代がやってくるようになる。深夜の徘徊の後など、ときどき泊まってくれる。だが、目が覚めたとき、いない。だからといって、名を呼びはしない。

窓の下に煙草の灰が落ちていた。誰かに覗かれているらしい。骸骨面だろう。

骸骨面の前の妻は淫乱だった。だから、吾一は彼に似ていない。顔が似ていないばかりか、根性も違う。傍にいるだけで鼻の横が痒くなるな。俺様の面に泥を塗るような真似をしでかした日には、ただじゃおかんからな。殺すぞ。その声が吾一の頭の中で反響し続ける。殺すぞ。殺すぞ。わんわん、響く。殺す。長生きしたいわけではない。今すぐ死んでも構わない。

骸骨面に手招きされ、ミクは不安げに産みの母を見上げる。顎で促され、そっと寄る。ミクは未熟児だった。学校に上がってもまだ口が利けない。ところが、歌が大好きで、床の間にぴょんと上り、掛け軸を背景に歌っているふりをする。異様に細い脚。折れそう。

娘は父親に似るものだと不二子が教えてくれた。骸骨面は、酔うとミクを抱き締めて小さな顔に接吻を浴びせ、頬ずりをする。二つの骸骨がぶつかり、がつがつと音を立てる。不二子は茶碗を積む。かつ、かつ。吾一は箸を握ったまま、自分の部屋に逃げ、畳に突き立てる。すでにいくつもの穴、穴、穴。

ミクは、ひゃあひゃあと息を吐き、嬉しがる。鼻水が夜店の飴のように垂れる。お客はまだかと問われ、不二子は黙って首を振る。おまえ、幾つだ。遅かったのよ。幾つだ。遅かったんだってば。

わけもなく、ぴくりと口の端を上げる。不二子の左の頬には傷跡がある。前の夫に切られた。それを注視されたくなくて、人前でよく首を振る。前の夫は死んだ。自殺だが、彼女が殺したようなものだと夢千代が教えてくれた。

骸骨面が娘の乳を探る。まだまだだな。ひゃあひゃあという掠れた息。おい、蒲団。人にものを言いかけるとき、剃髪の百会を押す。

袖が襖に触れ、袖から指が出る。ざわざわと音を立て、襖が細く開く。折敷が畳に置かれた。餌だよ。腕の裏のぷくぷくとした肉が揺れながら、すっと引っ込む。馴れた動き。地図の線路を思わせる古傷の残像。

固形物とそれを流し込むための流動物。目にしただけで喉越しの具合がきつく思われる。食い終わる頃、蓑虫のように巻いた蒲団の端から夢千代の首が出る。髪が引き出される。

吾一ちゃんはママが好き? へえ。もっともらしく装うために、ちょっと間を置く。ママとは、御用聞きと逃げた赤毛のデベソのことではない。不二子のことでもない。夢千代のことだ。夢千代は微笑む。くすりと笑うと、肩まで出る。デベソは御用聞きに捨てられ、そう遠くない町の顔役の妾になった。骸骨面は顔役を恐れて手出しができない。いまいましい。

畳はぼろぼろになった。夢千代が来なくなった。月世界に戻ったのだろう。

夢千代は月世界のママ。

吾一は、この呪文を唱えながら、しばらく生きた。月世界にはいい女がいる。酔った骸骨面が歌うように語った。

汚れきった壁に、掌のような白抜きの跡がある。夢千代によると、それは無人島だ。あるいは、氷山だ。どこでもいいんさ。どこかには、どこだって人間擬きが湧き出して、恐竜やら怪獣やらの餌になるんよ。吸血鬼に血を吸われるんよ。人間擬きは、ピーピー、あわれっぽい声を出して逃げ惑うね。岩陰、洞穴、巨樹の上と。笑えるよ。

掌島に自分の掌を合わせる。合わない。いつも、どの指かが短すぎる。慰めるためか、夢千代が昔話をしてくれる。その頃には蒲団から半身が出ている。

異星人ってのはね、あんたよお、悲しみの熱で溶けかかったアイスクリンみたいにして何でも食うよ。山だって、海だって、ぐんぐん、越えて来てね、夜だってさ。わかるねえ。はいはい、さようでこざんしょう。ほんに? ええ、きっとそのようでありんしょ。吾一の舌が沢庵の厚みを測るときのように、れろれろ。それにつけても思い出されるのはね、あれさ。へえ、あれでござんすね。掌島の秘密基地にはさ、あれさ。へえ、へえ。奥の奥の、そのまた奥に鉄格子があってさ、親の意見を聞かぬ子を矯める道具がたんと揃ってあるよ。ぎりぎり。きゅうきゅう。こきこき。あはは。火も使いましょ? 使わいでかい。煙草の火でやんしょ。よう知っとられる。前に聞きやんした。吾一は自分の帯で首を絞めてみせる。こんなでござんしょか。なんの、なんの。こ、こんなに締めましょか。まだまだ。こ、こ、こ。あは、あは、あは。泣かんし。泣かんし。ふふふう。えっへへ。

昔々、脚のやたらに太い怪鳥が子らを掴み、空中で齧ったんよ。人間擬きらときたら、ほれ、穴から顔を出さんのよ。なんもないふりや。野卑な小唄をがなるしか、才ないんよね。遠くで爆弾が破裂したわ。炒るほどの風が椰子を薙ぎ倒して去ったねえ。いつもでやすな。そよ、いつもやね。

掌島は伸びたり縮んだりする、縦に、横に、斜めに。ときには裏返る。捻じれる。開いたり閉じたり、丸まり、隆起し、拳にもなる。海に沈むと、数万秒は上がってこない。

ふう。

自分が、なぜ、ここにいるのか、わからない。ここがどこなのか、わからない。この部屋、この家、この国、この世界、この宇宙。自分が何者なのか、わからない。今がいつなのか、わからない。未来ではない。過去でもない。現在という言葉は知っている。でも、ただの言葉だ。

誰にでも見える月と誰も見たことのない島。どっちが現実だろう。現実に近いのだろう。

考えても、考えても、いや、考えようがない。

本当に突き刺したいのは、畳ではない。誰かだ。その誰かが思いつかない。骸骨面でないのは確かだ。誰でもいいような気がしてくる。

ついに箸が折れた。ここで今を生きるのに耐えられなくなって、吾一は月世界に潜り込もうとする。用心棒と揉め、突き飛ばされる。歯噛みし、宿無したちが暖を取るドラム缶から角材を抜いて月世界へ投げ入れる。建物の周辺を、ママ、ママと叫んで歩き回っていた。

吾一なんか、知らないね。月世界のママの証言。厚化粧の老女だ。眉を剃っている。目がきつい。夢千代とは似ても似つかない。不二子より背が低い。デブのデベソなんか、論外だ。夢千代は痩せていない。太ってもいない。化粧はしない。眉は、どうだったか。目の色、思い出せない。目は、眉とともに、刺繍を施した半襟で覆われていたか。こめかみで縦に結ぶ。右だったか。いや、左だったか。

炎の中から白い鰐がのそのそと這い出し、二本足で立ち去った。そんな目撃情報が寄せられる。どうせ酔っ払いの幻覚だろう。刑事は取り合わない。そのせいでどんな悲惨な一生を送ることになるか、思いもよらない。呑気な商売だ。

吾一は逃げた。今も逃げている。熱い茶を冷まそうと息を吹きかけるときなど、何かと何かを比べることがある。今昔と有無を比べる秤が中空に浮かぶ。

まだある何かともうある何か。

まだある何かともうない何か。

まだない何かともうある何か。

まだない何かともうない何か。

まだやるかい。もうお止しよ。

昔々、無人島に熱い雨が降り注いだ。動物も植物もみんな死んだ。かろうじて不死鳥だけは飛び去ったとか。島の周囲の海が泡立つ。人間に嫁ぐはずの人魚たちが茹で上がる。七色の鱗が白茶けている。静寂が流し目のように通過すると、どこやら、何やら、むずむずと持ち上がる気配。恨みを含んだ擦過傷のように海底が盛り上がる。瘡蓋みたいに表土が剥がれ、赤黒い血の色の筋が揺らめいて海上を目指す。白い泡と赤い何かは混じりながら、岸辺に打ち寄せた。おや、島の形が変わっているぞ。誰かが掌島と名づけることになる、そんな形。

掌島に最初に上陸する日本人が吾一だ。上陸するとすぐ、浜辺に近い崖を彼は掘り始める。計画通り。

戦後の日本国では、酔眼の骸骨面がゆるゆるの越中褌の脇から粒々の糞をこぼしながら廊下を這っていた。脱ぎかけの袴が膝で引きずられる。皸だらけの手で握った鉄瓶から不二子がしみだらけの男の尻にぽたぽたと熱湯を注ぐ。あっちっちっ。夜が何時だろうと、ミクは突っ立って笑い続ける。声の出ない口は地下壕のように閉じない。

吾一は掘り続ける。地下には水場があって、以前は海底と繋がっていた。あの雨の日、隠れて悪い遊びをしていた人魚が一頭だけ、水場で生きている。放っておけば、やがて死のう。人魚を探して吾一は掘る。その名は決めてある。夢千代。

突き刺したい相手は彼女だ。でなければ、自分。何も見たくない自分の目玉。

もうお止しよ。

(終)

 


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