回文
~穏健派
三杯よ もつ鍋夏も 良い晩さ
(さんばいよ もつなべなつも よいばんさ)
穏健派 ジンクス訓示 半嫌悪
(おんけんは じんくすくんじ はんけんお)
掻い撫でし 恋し欲しい子 詩でないか
(かいなでし こいしほしいこ しでないか)
勧進し 奇人断食 信心か
(かんじんし きじんだんじき しんじんか)
(終)
回文
~穏健派
三杯よ もつ鍋夏も 良い晩さ
(さんばいよ もつなべなつも よいばんさ)
穏健派 ジンクス訓示 半嫌悪
(おんけんは じんくすくんじ はんけんお)
掻い撫でし 恋し欲しい子 詩でないか
(かいなでし こいしほしいこ しでないか)
勧進し 奇人断食 信心か
(かんじんし きじんだんじき しんじんか)
(終)
夏目漱石を読むという虚栄
7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
7100 北極あるいは肛門
7150 二種の思想
7151 知識人とイデオローグ
「教育勅語」の作者は「明治国家のイデオローグ」(『ブリタニカ国際大百科事典』「井上毅」)とされる。
われわれの思考することはわれわれの具体的な物質的社会生活によって規定されている。
(『現代哲学事典』「イデオロギー」足立和浩)
「具体的な物質的社会」などと規定するのがイデオローグだ。
イデオロギーということばを初めて学問的に用いたのは、18世紀末期のフランスの唯物論哲学者デスチュット・ド・トラシであった。彼を含む当時の急進的唯物論者たちは、政治的にはナポレオンの反対者であった。ナポレオンは、彼らが民衆の社会意識の合理的啓蒙(けいもう)を企図したことを怒り、「空虚な観念をもてあそぶもの」という軽蔑(けいべつ)の意味を込めて「イデオローグ」ということばをトラシらに投げつけた。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「イデオローグ」田中義久)
私は〈イデオローグ〉という言葉をナポレオン的に用いる。頭でっかちの輩。
イデオローグは袋小路に入り込んだ知識人だ。
1950年代の半ばごろから、アメリカの社会科学者のあいだで、現代の社会的、思想的な状況を特徴づける言葉として用いられはじめ、1960に社会学者D.ベルが同名の著書を発表してから、急速にひろまった言葉。
(『哲学事典』「イデオロギーの終焉」)
「イデオロギーの終焉」という考えもイデオロギーの一種と疑われる。
しかし、これに対しては、そうした主張そのものが、実は現実の内包する根本的な諸矛盾を隠蔽し、人々の体制変革的な志向やエネルギーを麻痺させ、これを体制内に組み込んでいく、新しい国家主義的なイデオロギーとしての性格をもつものではないか、という批判も現われてきている。
(『哲学事典』「イデオロギーの終焉」)
イデオロギーは反イデオロギーを内包する。つまり、本質的に無意味なのだ。だから、彼らが依存するイデオロギーのあれこれを批判するのは徒労でしかない。
私にできることは、知識人の言説を常に疑うことだ。彼らの作文を数行読むだけでその怪しさに気づくことだ。また、私自身が知識人になっていないかどうか、反省することだ。すなわち、校閲せよ。ただし、検閲するのではない。この違いは大きい。
7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
7100 北極あるいは肛門
7150 二種の思想
7152 「思想家」
PはSを「思想家」(上十五)と見なす。「思想」は意味不明。
「思想」という用語は、日本において、とくに第2次世界大戦後の日本において、広く一般に使われているものであるが、皮肉なことに、哲学、思想用語中もっとも曖昧なものの一つにさえなっている。それは簡単にいうなら、用語の厳密さを欠いたムード的使い方の結果であるとすることができようが、そのこと自身が日本の「思想」的体質、あるいは精神風土にかかわるものであれば、はじめに、第2次世界大戦以前の日本における「思想」という用語の使われ方を瞥見しておくことが必要であろう。
(『哲学事典』「思想」)
「曖昧なもの」に注意。「曖昧(あいまい)な返事」(下五十四)と関係がありそう。
これが明治30年代の後半にはいると島村抱月が『新小説』に書いた「思想問題」をはじめ、主として「社会主義」との関連で「思想」という用語がかなり頻繁に使われるようになり、「社会主義思想」のほか、「虚無思想」「自由思想」が問題にされるようになる。そうした基礎のもとに1912(大正1)に大杉栄、荒畑寒村らが雑誌『近代思想』を創刊したのは、「思想」という用語の定着にも、一つの時期を画している。そしてこの場合「近代思想」とは社会主義とリベラリズムとを同時的課題としてうけとったものの表現である。
(『哲学事典』「思想」)
「同時的」は〈同時代的〉と解釈する。
Sのいう「現代の思想問題」(下二)は「「社会主義」との関連」で用いられているのだろうか。そうではなかろう。すると、「現代」という言葉までが意味不明になる。この「現代」は「覚悟」(上十四)宣言に含まれたそれと同じ意味だろうが、この宣言そのものが意味不明だ。〔3433 許容使役〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 3430 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
ところで、本項の最初に、日本語の「思想」に対応する英独仏語として、thought,Denken,pensée,とidea,Idee, ideéとの2系列をあげたが、この2系列のそれぞれの内部においてさえ、各国語によってかなりのニュアンスの相違をもっている。しかし、それはさておいても、日本語の「思想」がこの二つの系列の両方にまたがっていることに注意しておく必要がある。すなわち、簡単にいって前者は個人的色彩がつよく、後者は客体化されたものとしての色彩がつよい。日本語の「思想」はこの二つの要素を共に、しかし曖昧に含んでいるところに、便利さと曖昧さとがある。
(『哲学事典』「思想」)
この説明も「曖昧」だ。
7000 「自由と独立と己れ」の交錯する「現代」
7100 北極あるいは肛門
7150 二種の思想
7153 口舌の徒
『哲学事典』の「思想」の欄を読み終えよう。
そして、「思想」が真にその名に値するための前提条件として、(1)現実(事物)に対するリアルで醒めた認識、(2)理論や思想における自己客体化、(3)自明性の打破と考えうるさまざまな反論に抗しての考察、の三つをあげることができ、これらの三つの条件をみたす「思想」をモデル化して示せば、「現実」のもつさまざまな局面を思想的にうけとめ、そのうけとめたものを自己の検討の対象とし、さらにそれを自明性の背後にまでさかのぼって、すすんであらゆる異論とつき合わせ、それらを克服し、あるいは一貫性をもちながらそれらを包みこんでいく完結したシステムということになる。この場合、「現実」がトータルな現実であるとき、そこに得られるものが堅固な世界観にほかならない。
(『哲学事典』「思想」)
意味不明。
「自明性の背後」が「強い事実」(上十五)や「背景」(下二)の類語だとすると、Sは「あらゆる異論とつき合わせ」るという仕事を怠けているから、「思想家」とは認めがたい。〔1542 「強い事実」〕および〔3422 傲慢〕参照。夏目漱石を読むという虚栄 3420 - ヒルネボウ (goo.ne.jp)
もともと中国の古典では、〈心に浮かんだ思いや考え〉という意味で用いられた。
(『ベネッセ表現読解国語辞典』「思想」)
こういう意味でなら、言葉を操れる人の誰もが思想家だ。
言葉は状況の様相を変える。言葉は担保であると同時に契約であり、一見、自由の譲渡と思われるかもしれないが、実は、服従によって人間を確実に新しい自由に到達させる契約への署名である。
(ジョルジュ・ギュスドルフ『言葉』「言葉の倫理確立のために」)
Sは「服従」を拒んだ。「言葉の倫理」に反する知識人だ。
鈴木君は利口者である。いらざる抵抗は避けらるるだけ避けるのが当世で、無要の口論は時代の遺物と心得ている。人生の目的は口舌(こうぜつ)ではない実行にある。
(夏目漱石『吾輩は猫である』四)
「無要の口論」には〈あらゆる「口論」は「無要」〉という含意がある。この含意は無根拠だ。「実行」を重んじる人は有用な「口論」も避ける。だから、「利口者」とは限らない。
Nの小説に出てくる男たちは、思想家ではない。俗受けしない知識人だ。言うまでもなく、登場人物の性格などが作品の文芸的価値を決めるわけではない。問題は、〈作者こそが知識人ではないのか〉ということだ。
(7150終)
(替え歌)
辛苦ラーメン 納棺オンリー
回った胃瘻シッター
辛苦ラーメン 報道
酢が死因 慰問の罠 医院
(「シクラメンのかほり」)
(終)
(書評)
頭木弘樹・編訳『絶望名人カフカの人生論』(新潮社)
池内紀・編訳『カフカ寓話集』(岩波書店)
「絶望名人」といった評価は「カフカ伝説」(『カフカ寓話集』池内「解説」)だそうだ。
伝説でもいいけど、『絶望名人』の解釈は意味不明。同書の山田太一の解説も怪しい。彼らはカフカの作品よりも「カフカ伝説」の方が大事らしい。そういうの、飽き飽き。
カフカの作品を初めて翻訳したのは中島敦だそうだが、中島もかなり怪しい。中島は「「狼疾記(ろうしつき)」という短編小説の中でも、カフカの「巣穴」という短編にふれて」(『絶望人生』「あとがき」)いるそうだ。
『巣穴』は『寓話集』に収められている。
*
想像力はかたときも休まず、私は実際、信じかけているのだが――わざわざ自分をくらましてみてどうなるだろう――あの音は、獣のたてる音であって、しかもちっぽけな連中などではなくて、一匹の大きなやつだ。反証はいくらでもあるだろう。音はどこにも聞こえ、いつも一定であって、昼夜を問わず変わらない。だからしてやはり、多くのちっぽけなやつらのせいと思いがちだが、そうであれば、あれほどの試掘で見つかりそうなものなのに一匹も見つからなかった。とすると大きな獣という仮定をたてるしかないのである。矛盾に思えることも多々あるが、この仮定を捨てるよりも、むしろその獣が想像を越えて危険なものだと考えるべきではあるまいか。その一点で、私はこの仮定を避けてきたのだが、いつまでも自己欺瞞をつづけてはならないのだ。ずっと前からひそかに思っていたことであるが、うんと離れていても音が聞こえるということについてである。そやつが猛烈に作業をしているからではなかろうか。まるで散歩中の人が野をどんどん歩いていくように、そんなふうに土を掘りすすんでいる。大いなる勢いのため、掘ったあともまわりの土がふるえていて、余震と作業の音が一つに合わさり、それが遠くから伝わってくる。巣穴にとどくのは、ほとんど消えかけた状態で、だからこそいたるところで一定の音として聞こえるのだ。獣は私をめざしてくるのではなく、むしろはっきりしたプランがあるかのようだ。それがいかなるプランであるかは見通せないのだが、想像してみるに、そやつはこちらをとり囲もうとしている。私そのものは知らないにせよ、私のいるところに円を描き、すでにわが巣穴をとり巻いて、二、三の円周をつくり終えているかもしれない。
(『カフカ寓話集』「巣穴」)
*
「私」は被害妄想に囚われているみたいだ。その自覚もありそうだ。
「そやつ」の原型は、カフカの父親だろう。父親は、世間的には「ちっぽけな連中」の一人だが、息子にとっては「一匹の大きなやつ」なのだ。
こうした解釈は、文芸的価値とは関係がない。
『絶望名人』に変なことが書いてある。
*
遺稿として、三つの長編『失踪者(しっそうしゃ)(アメリカ)』、『訴訟(審判)』(夏目漱石の「こころ」と同じ年に書かれた)、『城』のほか、たくさんの短編や断片、日記や手紙などが残された。
(頭木弘樹『絶望名人カフカの人生論』「あとがき」)
*
『こころ』は、小賢しい知識人を、本物の芸術家や思想家などから区別するための試金石として使える。
『こころ』を褒める人は知識人だ。間違いない。間違ってもいい。知識人の作文は、読んではいけない。読まざるを得ないときは警戒を怠るな。ぼおっとして読んでいると、頭が悪くなるよ。間違いない。
GOTO 『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告『夏目漱石を読むという虚栄』第七章予告 (1/12) 知識人批判 - ヒルネボウ (goo.ne.jp) ~
(終)
笑うしかない友
~猛暑
さっき、道、歩いててね。
うん。
通りすがりの人と目が合ったわけよ。
ああ。
そしたら、その人が目を逸らしながら「暑い」って言ったんだよね。
ふん。
で、そのまま、行っちゃった。
はあ。
それからしばらく耳の奥で「暑い」って声がずっと響いててさ。
ふうん。
「暑い、暑い、暑い」って。
もう。
ただでさえ暑いのに、「暑い、暑い」ってさ、聞こえるんだよ。
うん。
わかるけど、でもさ、わざわざ、こっち見て言うこたないよね。
あはあ。
こっちのせいじゃないのに。
俺のせいじゃないよ。
言いたくなるのはわかるんだよ、でも、どうしてこっち見て……
うるせえ!
(終)