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夏目漱石を読むという虚栄 1140

2021-01-20 23:12:31 | 評論

夏目漱石を読むという虚栄 第一部『こころ』の普通のとは違う「意味」4

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1140 恣意的な読み込み

1141 文豪伝説の主題

 

『こころ』の愛読者は、素直に読解するのではなく、空想して、そして、威張る。

 

<「心」は佳篇である。その全篇にみなぎっている、透徹した、静謐(せいひつ)ともいうべき調子は、自らの主題を的確に、冷静に摑(つか)んでいるものの筆から生れるものである。これほど非感傷的に、人間的愛の絶望的陰影を描いた小説は少い(ママ)。漱石はさながらストア派の哲人が、迫り来る死を語るように、淡々と、しかも沈痛に、「愛」の不可能性を立証する。この恐るべき仕事を成就させた強烈な意志の底にひそむものは、あるいは「愛」を希求すると同様に強烈な願望であるかも知れぬ。そして「先生」は、この精巧な証明を、《私の過去を絵巻物のやうに、あなたの前に展開して呉れと逼(せま)った》「私」に書き残して死ぬ。

(江藤淳『決定版 夏目漱石』)>

「心」は『こころ』のこと。

「みなぎって」は「透徹」や「静謐(せいひつ)」にそぐわない。〈「透徹した」~「調子」〉や「静謐(せいひつ)ともいうべき調子」は意味不明。この「主題」は、「自己の快楽を人間の主題にして生活しよう」(『明暗』百四十一)なんてのと似た意味で用いられているようだ。江藤は文豪伝説の「主題」をNの全作品から読み取っているつもりらしい。〈「主題を」~「摑(つか)んで」〉は意味不明。右手に「筆」を「摑(つか)んで」いるとすれば、「主題」は左手に「摑(つか)んで」いるのか。

ここらの話題は『こころ』の作者のはずだが、江藤はNについて述べているつもりだろう。江藤は、Nと「遺書」の語り手Sを混同しているらしい。

「これ」の指すものは不明。「非感傷的に」も「人間的愛」も「絶望的陰影」も意味不明。

「ストア派の哲人」は誰か。「死を語る」文献も不明。Sにとって、「死」は「迫り来る」ものではなかった。「淡々と、しかも沈痛に」は無意味。鉤付きの「愛」は〈自分が誰かに愛されているという実感〉つまり〈被愛感情〉だ。「「愛」の不可能性」はインポテンツを含むか。〈Sはインポテンツ〉という解釈があったように思う。「立証」は意味不明。

「恐るべき」は意味不明だから、「恐るべき仕事を成就させた」事実は確認しようがない。「意志の底」は意味不明。「希求すると同様に強烈な」は意味不明。こうした「願望」は〈被愛願望〉だろう。これは〈Nという「人間の主題」〉だったようだ。ただし、被愛願望は、Nの意識の「底にひそむもの」であり、明瞭には自覚できなかった。江藤も同様だろう。被愛願望は、恐れや怒りや憎しみなどと関わっている。〈可愛さ余って憎さ百倍〉という。

「そして」は機能していない。ここまでの話題はNだったのに、突如Sが登場する。二重パーレン内は本文からの引用だが、意味不明。「死ぬ」は宙ぶらりん。

 

<自己愛的に欠乏したインナーチャイルドは、愛されることや注目されること、同情されることへのどん欲な要求でおとなになった自分を汚染します。

(ジョン・ブラッドショー『インナーチャイルド 本当のあなたを取り戻す方法』)>

 

江藤やNは、自身の「自己愛的障害」(『インナーチャイルド』)に思い至らなかったようだ。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1140 恣意的な読み込み

1142 ありすぎる主題

 

Nの小説に確かな意味はない。このことは、いわば定説のようだ。

 

<どの作品も没後長く読み継がれているが、各作品に「自己本位」「個人主義」「則天去私」、または実存的主題、自他関係の問題など、時代ごとに多種多様の主題が入れ替わりに読み込まれてきた。こうした多様な読み方を許容する点が「国民的作家」と呼ばれる一因になっている。

(『日本歴史大事典』「夏目漱石」佐藤泉)>

 

「どの作品も」は嘘。「没後」は〈「没後」も〉の略か。ありすぎる「主題」は、どれも難解。「自己本位」と「個人主義」は鉤付きだから、『私の個人主義』(N)からだろうが、この講演は意味不明。「則天去私」は夏目語らしい。「非人情」(『草枕』一)を連想してしまうが、「非人情」も意味不明。「実存的主題」には困る。「実存性を非主題的に前提している了解を、実存的と呼び、実存の哲学的把握としての実存論的了解から区別する」(『哲学事典』「実存的」)とされているからだ。「自他関係」は意味不明。「主題が入れ替わりに読み込まれて」は日本語になっていない。「読み込まれて」は困る。

 

<それは、思想研究がともすれば過去の仏教思想を現代の観点から読み込み、それが戦前の恣意的な国家主義的解釈の横行を許すことになったという反省から、客観性を重んじる歴史研究の方が重んじられるようになったといういきさつがある。

(末木文美士『日蓮入門―現世を撃つ思想』)>

 

「思想研究」に関わる人にとって、〈読み込み〉は「恣意的な」作業で「客観性」を欠き、「反省」が必要な作業らしい。一方、日本近代文学研究者の〈読み込み〉は逆で、「客観性を重んじる歴史研究」をないがしろにしてまでも推進すべき作業らしい。文学研究者の「実存」は、思想研究者のそれと違っているのだろうか。文学は思想の一種ではないのだろうか。あるいは、文学研究者の頭は「戦前」のままで、彼らは「国家主義的解釈の横行」が許容された「時代」を懐かしんでいるのだろうか。猿でもできる「反省」なんか、おかしくてできるものかって。あるいは、「国家主義」と対立しないN式「個人主義」の延命を画策しているのか。そうでもなくて、「時代ごとに」はやりすたりする内外の「思想研究」の「主題」を器用にコピペしちゃって「現代の観点から」読み込める自分を可愛いがるのに忙しく、「自他」の思想的責任に関する考察は思想研究者に丸投げか。ご謙遜も、ほどほどに。

「多様な読み方を許容する」権威者は、どなた? 佐藤様? N様? 「時代」樣? 「作品」樣かな。「国民的作家」は鉤付きだが、出典不明。「呼ばれて」って、誰が呼ぶの? 「こうした多様な読み方を許容する点が」世界的作家と呼ばれない「一因になっている」のかもよ。また、「どの作品も」映画、演劇、漫画などになりにくく、なっても成功しない「一因」だろうね。「一因」しか教えてくれないよ。なぜ、他の「因」を教えてくれないのだろう。最大の「因」は文豪伝説だろう。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1100 文豪伝説

1140 恣意的な読み込み

1143 間違いだらけの翻訳のよう

 

あるテレビ局の解説委員が〈Nの言葉は意味不明〉といった不満を漏らした。すると、著名な宗教学者が〈東大生ならわかる〉というようなことを呟いた。し~ん。〈東大生しかわからない〉と言ってほしかった。東大生でなくてもいい。偏差値七〇以上というのでもいいのだ。IQ一五〇以上でもいい。とにかく、〈Nの言葉はある種の優れた日本人にしか理解できない〉といった定説があるのなら、私は『こころ』批判をやらない。

私が批判しているのは、Nの言葉遣いだ。作品の価値ではない。文学史的意義などを論じる資格も、私にはない。Nの信念や生き方などについてだと、もう、考えたくもない。

では、なぜ、『こころ』を選ぶのか。ファンが多そうだからだ。

Nの作品で有名ということなら、『吾輩は猫である』が一番だろう。だが、この晦渋なものを通読した人がどれほどいることか。先に『牡猫ムルの人生観』(ホフマン)を読みなさい。

『坊っちゃん』を通読した人は多そうだが、意味不明の愚作。

『草枕』も有名だが、ほとんどの人は最初の数ページで投げ出すはずだ。

あと、名が知れているのは『三四郎』か。しかし、中身は空っぽ。出来事と夢想の羅列。

『それから』も、ちょっとは有名かもしれない。これは、主人公が私小説を書きそこねて、そして、その様子を語り手が語りそこなったものだ。

小説好きは晩年の『明暗』をほめるようだが、これも意味不明で、何かが起きそうになったところで、Nは死んだ。死ななかったとしても、書き続けることはできなかったろう。続きを書きたくなくて、いわゆる創作上の壁にぶつかり、Nはわざと不摂生をし、擬死再生を企てたようだ。医学的には病死だが、創作家としては一種の自殺だ。

私の批判の対象である文豪伝説の主人公Nは、悩める日本男児を導く人生の達人ではない。バランス感覚に長けた風見鶏的モラリストでもない。人畜無害のくすぐりがお得意の淋しげな元教員でもない。偽善者を憎んだ佯狂でもなく、乙に澄ました謎めいた趣味人でもなく、孤高の憂愁を甘受した受難者でもない。精神の根源に横たわる原生的不安とやらを果敢に剔抉した未曾有の哲人でもなく、工場の煙の下の神経衰弱すれすれの労働者の味方を演じようとして薀蓄を傾けた限りなく優しい教養人でもない。ポストモダンを鋭く予見した驚嘆すべき大天才でもない。妻子を容赦なく苛めぬいた家庭内暴君でもない。鬱ときどき躁の病人でもない。名文家であるかどうかはさておき、〈明文の書き手N〉だ。

ナンセンスはいいのだ。「チッチキチー。意味はないけど楽しい言葉」と大木こだまが語るのを聞いたとき、私は微笑していた。滝沢カレンの言い損ないは、かわいい。ぱみゅぱみゅは楽しい名前。漱石は苦しい名前。石で漱いで何になりたかったの? 超現実主義の「意味のない意味」(滝口修造『詩と実在』)は、むしろ必要。ダダイストの駄々は駄目じゃない。「貧弱な思想家」(上三十一)の駄々が駄目なのだ。

言うまでもあるまいが、作品の全頁に眼を晒したとしても読んだことにはならない。意味もわからず、情景を思い浮かべることもなく、音読しただけでは、理解に程遠い。気に入った文言を暗記しても、理解したことにならない。暗記した文言を勝手な想像の糸で縫い合わせたようなものは、梗概ではない。異本だ。手前味噌の異本について論じたものは、作品論ではない。妄論だ。たわごと、寝言。他人には何の価値もない紙屑。捨てちゃう。

(付記)『カレンの台所』(滝沢カレン)参照。

(1140終)


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