ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 1240

2021-01-29 10:04:03 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1240 怪しい語り手たち

1241 「奥さんは今でもそれを知らずに」

 

語り手Pは怪しい。

 

<先生は美く(ママ)しい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生に取(ママ)って見(み)惨(じめ)なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十二)>

 

「恋愛の裏」は意味不明。『こころ』のどこにも「恋愛」や「悲劇」は語られていない。語り手Pは嘘をついているようなものだ。ところが、作者が〈語り手Pは嘘をついている〉という表現をしている様子はない。だから、『こころ』は意味不明なのだ。

〈「悲劇の」~「見(み)惨(じめ)なもの」〉は意味不明。〈「悲劇」の「相手」〉は意味不明。「悲劇」がないから、「まるで知れていなかった」と、Pは断言できるわけだ。「知れていなかった」には、〈今からは「知れて」しまう〉という含意がある。この含意は次の文で否定されるが、否定するぐらいなら、「いなかった」という言葉を使うべきではない。使う必要があったとすれば、〈「知れていなかった」から「奥さんは」困っていたが、「先生」が生きている間は、まだ我慢できた〉などと続けるべきだ。不当に切った理由は、静の「沈んだ心」(上十六)をPが詳述できないからだ。この語りの時点において詳述したくないのではない。語り手Pに「知れて」いないのだ。勿論、読者は、〈「恐ろしい悲劇」について、静は知らないが、Pは知っている〉と解釈せねばならない。ところが、この解釈の正しさを証明することはできない。「遺書」の語り手Sが「恐ろしい悲劇」を語っていないからだ。静は「云えないのよ」と自己規制をしているふうだが、その理由は不明。「云えない」のは、静ではなく、作者だろう。書けない。作者の構想として、「悲劇」は「遺書」で明かす予定になっていた。だから、〈「悲劇」は後に語られる〉という印象を読者に与えようとした。しかし、この企画は、結局、企画倒れに終わる。語り手Pは、作者の抱く不安とは逆の暗示、虚偽の暗示をしていることになる。つまり、作者は「虚勢」を張っている。

「知らずにいる」というが、Pは読心術者か。「今でもそれを知らずにいる」の含意は〈「今」からは「それを知らずに」いられまい〉などだろうか。

 

<そして、そのかみのすきまから、いっぴきのごきぶりがはいだしてきたことに、だれもきがつかなかった。

(矢玉四郎『ぼくときどきぶた』)>

 

これは末文だが、〈つづく〉という文字が透けて見える。続編を予感させるホラー映画の終わり方に似ている。この語り手は普通の人間である「ぼく」だから、「だれも」は〈「ぼく」以外の「だれも」〉と解釈したくなるが、そういう話ではない。万能の神のような語り手ではない「ぼく」が「だれもきがつかなかった」と語るのは不合理だ。作者は、〈でも、ぼうはんカメラにはばっちりうつっていた〉などと続けるべきだった。惜しい。

(付記)『バロン』(ギリアム監督)参照。ただし、原作とはかなり違う。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1240 怪しい語り手たち

1242 「胡(ご)魔化(まか)されて」

 

『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー)の語り手は「ほらふき」だ。彼の名に因んだ〈ミュンヒハウゼン症候群〉という病名がある。この病気の患者は〈かわいそうな私〉を演じ続ける。〈代理ミュンヒハウゼン症候群〉だと、患者は加害者になる。

小説の作者が語り手に嘘をつかせることは許される。典型的なのは推理小説の語り手だ。彼らは真犯人を知っていながら、明かさない。『こころ』は推理小説的だ。

『藪の中』(芥川龍之介)には、複数の一人称の語り手が登場する。彼らの証言は一致しない。しかし、彼らの全員が少しずつ嘘をついているとしたら、あるいは事実誤認をしているとしたら、不思議なことはない。むしろ、ありふれたことだ。作者は読者を誑かしている。勿論、無駄に深読みすることはできる。たとえば、〈なぜ、それぞれの証言者は嘘をついたのか。あるいは、事実を誤認したのか〉などと考えて遊ぶことはできる。

『藪の中』を映画化した『羅生門』(黒沢監督)は奇妙な東洋趣味か何かが漂い、欧米人が喜んで騙されている。そして、その真似を日本人がやっている。

 

<一人称の語り手によってしか情報の与えられない小説(『坊っちゃん』もそのひとつである)にたいして、読者には、その情報の信憑性(しんぴょうせい)を疑う楽しみがある。坊っちゃんの言うことをどこまで信じていいのか。思い違いはないのか。あまりに一方的な情報が多すぎるのではないか。疑問は多々ある。赤シャツの立場から書かれた『坊っちゃん』もあっていいのではなかろうか。

(『文豪ナビ 夏目漱石』編者)>

 

形式は三人称でも実質的には一人称ということがある。Nの小説は、実質的には一人称であることが多い。語り手が主人公の自己欺瞞を正当化するように語るわけだ。視点的人物が複数でも、スタイルは同じ。作中の客観的事実が想像しにくい。

『坊っちゃん』の語り手「五分刈り」は、冗談めかして嘘をついている。妙に自嘲的だ。『坊っちゃん』を読む楽しみがあるとすれば、それは子どもの作り話を真に受けて遊んでやるような楽しみぐらいだろう。

 

<私のこせつき方は頭の中の現象で、それ程外へ出なかったようにも考えられますから、或(あるい)は奥さんの方で胡(ご)魔化(まか)されていたのかも解りません。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十三)>

 

この文には次のような含意がある。

〈「私のこせつき方は頭の中の現象で」はあっても、ある程度「外へ出」ていた「ようにも考えられますから、或は奥さんの方で胡(ご)魔化(まか)されて」くれて「いたのかも解りません」〉

語り手Sは、語られるSの想像力の欠如を揶揄している。同時に、語りの時点における自分の想像力の欠如を隠蔽している。過去の自分をスケープ・ゴートにして、現在の自分は生き延びようと企んでいるのだ。聞き手Pは、語り手Sに「胡(ご)魔化(まか)されて」いるらしい。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1200 語り手は嘘をつく

1240 怪しい語り手たち

1243 「解釈は頭のある貴方に任せる」

 

〈小説の語り手が嘘をつくはずはない〉と信じている人は少なくなさそうだ。

 

>自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛(ママ)び、そのまま幅飛(ママ)びのように前方へ飛(ママ)んでしまって、砂地にドスンと尻餅(しりもち)をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ(ママ)来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁(ささや)きました。

「ワザ。ワザ」

自分は震撼(しんかん)しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。

(太宰治『人間失格』「第二の手記」)>

 

この「手記」そのものが「ワザ」なのだよ。

「自分」つまり少年葉蔵が「わざと出来るだけ厳粛な顔をして」身構えたとき、「皆」は〈あいつがまた道化をしでかすぞ〉と予感した。笑う準備さえしていたことだろう。「ワザ、ワザ」なんて、わざわざ指摘したのは、竹一が「白痴に似た生徒」(『人間失格』「第二の手記」)だからだ。少年葉蔵は自分自身をだませただけ。この程度の反省が成人してもできないから、葉蔵は社会人失格なんだな。

「皆の大笑い」を確認するゆとりなど、少年葉蔵にはなかったはずだ。彼は〈自分の物語〉の世界に入り込んでいたのにすぎない。「皆」は、この物語の登場人物であり、『人間失格』という作品の内部の世界に実在した人々とは違う。葉蔵が普通の大人になっていたら、〈「大笑い」をしたのは「皆」とは限らないか〉と反省できるはずだ。回想のカメラをロングにすると、〈うぜえんだよ〉と呟いて砂場に唾を吐く少年の姿が見えるよね。ぺっ。

〈目立ちたがりの少年を憐れんで「皆」は笑ってくれた〉といった想像ができないのなら、ダサいおっさんは小説家失格だろうね。ぺっ。

語り手としての葉蔵は怪しい。その根本的な原因は、「手記」の聞き手の像が不明だからだ。同様に、P文書の語り手Pは怪しい。聞き手Qの像が不明だからだ。「遺書」の聞き手はPだから、語り手Sはあまり怪しくない。ところが、不意にRが出て怪しくなる。

 

<ところで、この日記は何かヘンだと思いませんか? 日記のくせにタイトルがついていたり、読者を想定して語りかけるような文体だったり、未来に起こることをあらかじめ予想して、すでに全体の構成が考えられているかのようだったり。これはつまり、一つには僕のクサい文学趣味のなせるワザでして。もう一つは、要するに僕は飽きっぽいので日記をつけることに向いていない、ということだ。

(会田誠『青春と変態』)>

 

この「読者」は〈聞き手〉だ。

(1240終)


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