聞き違い
~五輪夢中
偽る いつ終わる
満身創痍 慢心総意
二正面 寝小便
五里霧中 五輪喪中
(終)
金がない
隣から 自殺する若者の声がする
けれども 問題は 今日の米
金がない
冷たい人と詰られそうだけど
金のこと以外 考えられない
それで いいのだろう
生きなくちゃ 米を食べて
生きなくちゃ
米のために 金なくちゃ
金がない
(終)
夏目漱石を読むという虚栄
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3300 明示しない精神
3320 スタイル
3321 「奇々怪々の妖魔文章」
Nの小説は総じて意味不明なのだが、それらに関する論評なども意味不明だ。なぜ、こんなことになっているのだろう。なぜ、出版社はこうした不可解なものを平然と世に送り出してきているのだろう。
「明治の精神」のせいだ。
「明治の精神」を〈明治天皇の精神〉と誤読する人がいる。しかし、「明治の精神」が漠然と暗示している気分か何かは、明治天皇の生誕や即位、「崩御(ほうぎょ)」などと、直接の関係はない。あるとしても検証不能だろう。
「明治の精神」の意味は推測するしかない。私の大雑把な印象では、「明治の精神」はある種の思想や信念ではない。スタイルだ。文体。態度。構え。規範。癖。
<福地が標的とするのは、なんと大日本帝国憲法の告文と憲法発布の勅語の文体である。たとえば、後者の勅語の冒頭はこんなぐあいである。「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗に承クルノ大権に依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」。
このような布告や勅語を拝読して正しく解釈できる者は、「此四千余万の日本臣民中」に何人いるだろうか、と福地は問いかける。おそらく大学を卒業した秀才でも理解できないはずだ。というのは、このような文は「支那古文中にても尤も典雅を以て称せられたる尚書の文体」に則っているからだ。けれども、専門の漢学者であっても、これらの文を正確に解釈することはできないはずだ。なぜなら、「其文字言語の特別なる新意義は彼輩(漢学者)が更に知り得ざる所たればなり。現に帝国憲法七章七十六条中に掲げられたる文字には自から特別の意義を表し其秘密術語を知るに非ざれば得て通暁し難き所あればなり」。こうした漢文体の文章は、形式的には古典漢文にもとづいているかもしれないが、意味内容の面ではそうではない。その文体は、「特別の意義」がこめられた「秘密術語」によって組み立てられているため、特定の者にしか理解することのできない、いやもしかしたら誰にも理解することのできない独特の文章になっているからである。福地は痛烈にもこのような文章を「奇々怪々の妖魔文章」となづける。
(イ・ヨンスク『「放縦文法」から「妖魔文章」へ』)>
翻訳不能の「妖魔文章」は〈霞が関文学〉を含む現代日本文学および論文の源流か。
Sから「明治の精神」という、痛切なようでも意味不明の造語めいた言葉を聞かされ、静は「殉死」という前近代的な言葉を返してきた。負けそうになったSは、二つの言葉を繋ぎ合わせ、「明治の精神に殉死する」という文を急造する。ただし、さらに意味不明になった。だから、「殉死」に「新らしい意義」があるみたいに自己欺瞞する。その「意義」が静に理解できたかどうか、不明。Pに理解できたのかも、不明。だが、そんなことは、Sにとって、いや、作者にとって、どうでもいいのだろう。
「明治の精神に殉死する」という言葉は「奇々怪々の妖魔文章」であると同時に、「明治の精神」の発露でもある。『こころ』は「妖魔文章」だ。Nの他の小説も同様。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3300 明示しない精神
3320 スタイル
3322 「よいどれ語」
〈意味〉について、基礎から確認しなければならないらしい。
<ところで、言語活動の中に結晶してひそんでいる本質主義的な偏見のとりことなっているのは、とりわけ価値に関する語彙である。「おくびょう者」、「不潔なブルジョワ」、「アラビア野郎」、「コミュニスト」などと言うことは、いいかえれば自分がぶつかったテーブルを、それが憎いからといってなぐるようなものだ。
ここでもわれわれは、個人的で移ろいやすい主観的判断をもって絶対的な特徴とみなしている。特に道徳的価値に関する言語活動は、もはや現実の構造に対応していないし、われわれの経験と無関係に、責任とか刑罰とかの概念を含んでいる。
このような語は絶えず再定義されなければならないのだが、そのことは語が抽象的になるにつれてますます困難になる。われわれの「fusil〔銃〕」が祖父の時代のfusil〔火打石〕ではないということはいつでも検証できる。だが、「paresse〔怠惰〕」とは何か?自分の課題を果さないことか、水を汲まないことか、材木を切らないことなのか? 「自由」とか「民主主義」というたぐいの抽象語になるとさらに、定義のための検証されうる具体的な実体から遠ざかる。そしてそれらの語の価値が進化するばかりか、それらの指示内容についてさえだれも一致しないことになる。まことに、錨索を切り、冒険に向って漂流しはじめるよいどれ語なのだ。
(ピエール・ギロー『意味論―ことばの意味―』「第6章 さまざまの意味論」)>
平成生まれは〈差別的表現は、昭和なら許されたけど、令和では駄目なんだよね〉なんて嘯く。大間違い。昭和にも禁句はあった。言葉狩りもあった。
<本質主義とは、男性や女性の中に、ある生物学的・心理的な〈本質〉を認め、さらにそれを時代が変わっても変化することのない、普遍的で絶対的なものだとする考え方のこと。逆に構成主義とは、人は社会の中でさまざまな要素から〈構成〉されるものであって、絶対的かつ普遍的な本質などないのだとする考え方。
(『百科事典マイペディア』「本質主義・構成主義」)>
この意味での「構成主義」は〈構築主義〉とも訳されるそうだ。
<たとえば、多くの人々は「地球は丸い」ということを体験的に確認しているわけではなく、物理的計算や史実に基づいて共有された社会的な現実として認識している。このように、客観的かつ物理的な現実として存在すると考えられている「丸い地球」も、人々が共有する「地球は丸いものだ」という認識によって構築された現実として理解される。
(『日本大百科事典(ニッポニカ)』「構築主義」田中智仁)>
本質主義であれ、構築主義であれ、私としては「通じさえすれば満足」なのだが。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3300 明示しない精神
3320 スタイル
3323 スキゾフレニア
「不可思議な恐ろしい力」(下五十五)と「この不可思議な私というもの」(下五十六)の関係は、私にはわからない。「遺書」が、いや、『こころ』そのものが、私にとって「不可思議な」ものだからだ。「不可思議」という言葉こそが意味不明だ。
<実際、前世紀の後半から徐々に胎動をはじめて今世紀初頭に顕現する文化や芸術のさまざまな流れはそれ自体、スキゾフレニアの文化的成就と言っても過言ではないほどで、ヤスパースはすでに一九二二年に「一八世紀以前の精神にとってヒステリーが自然的な適合性をもったように、精神分裂病は現代になんらかの適合性があると想像できるかもしれない」(前掲書)と、スキゾフレニアと現代文化との親和性を控え目ながら指摘しているし、同じドイツのウィンクラーは一九四九年に、自然主義にのっとってきたそれまでの「循環気質性芸術」にたいして、反自然、非現実を標榜する現代芸術をはっきり「分裂気質性芸術」と名づけているほどである(『現代芸術の心理』)。
(宮本忠雄『言語と妄想 危機意識の病理』「現代文化の精神病理」)>
「前世紀」は一九世紀。「今世紀」は二十世紀。
『こころ』は、「スキゾフレニアの文化的成就」として高い評価を得ているのではなかろう。しかし、建前と本音は違っていて、逆の可能性がある。日本人は「スキゾフレニア」を〈英知〉などを混同してしまいがちなのかもしれない。
<これまでの検討で示されたように、日本語という私たちのことばは、危機状況に際して、ど表音性と表意性の二方向に乖離する傾向のあるらしいことがわかるのだが、しかし、考えてみると、もともと、表音文字と表意文字の両系列からなる日本語では、表音性と表意性がこれまでもけっして安定した均衡をたもっていたわけではなく、むしろ、長い歴史のなかで絶えず動揺にさらされていたと見るのが真実に即している。むろん、これは戦後の国語審議会のレベルの話などではない。この辺の消息は私のようなことばの非専門家のよく解説できるところではないにしても、大ざっぱにみて、たとえば、日本の上代に中国文化の渡来とともに入ってきた漢字がその表意性によってやまとことばの表音性を浸食したのは事実だろうし、また、くだって明治期に、こんどは西欧の言語や思考が導入されて、それまで数百年にわたる安定をたもっていたことばの記号体系が激変をこうむった経緯もまちがいなく指摘できるだろう。日本語にとって、こんにちの言語状況は、いってみれば歴史上第三の危機であって、表音性は表意性にたいしてふたたび優位に立とうとしているのが実情のようにみえる。
このように、日本語はその成立の宿命からして表音性と表意性が遊離しやすい傾向を潜在的にそなえているわけだが、これは精神病理の領域でいよいよ鮮明に顕在化する。
((宮本忠雄『言語と妄想 危機意識の病理』「日本語と言語危機」)>
日本文学の「領域で」はスキゾ的傾向が「顕在化し」にくいのだ。
(3320終)
夏目漱石を読むという虚栄
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3300 明示しない精神
3310 逆説的勧善懲悪主義
3311 『文芸と道徳』
イソップの『北風と太陽』から教訓を抽出するのは容易だ。太陽政策が有効。〈北風は旅人を凍え死にさせてから着物を奪った〉という異本も可能だろう。この場合、〈先に太陽が旅人を暖かく照らしたが、旅人は着物を脱がなかった〉という話がなければならない。この話には無理がある。この寓話が有名なのは、「説得は暴力に勝る、という教訓」(『ニッポニカ』「北風と太陽」)が優れているせいではない。話としてわかりやすいからだ。
『猿蟹合戦』に、〈蟹は親の仇の猿を許す〉という異本があるらしい。本来の昔話の後半の主題は孝行だろう。異本の場合、博愛だろう。〈どちらの主題が道徳的に立派か〉ということを問題にしたら、本末転倒だ。〈どちらの物語が合理的か〉という問題を先に解かなければならない。そして、合理的な方の物語の教訓を尊ぶ。さもないと、話がいたずらに難しくなる。たとえば孝行が儒教的徳目で博愛が仏教的徳目だとすると、〈儒教と仏教のどちらが偉いか〉という問題になってしまう。
『こころ』の場合も同様だ。〈親友と争う〉という物語はないから、〈親友と争うのは悪い〉という教訓も抽出できない。〈Sと静とKの三角関係〉という物語はないのだ。この物語は、語られるSの危惧の表出でしかない。
<もし活社会の要する道徳に反対した文芸が存在するならば……存在するならばではない、そんなものは死文芸としてよりほかに存在はできないものである、枯れてしまわなければならないのである。人工的にいくら声を嗄(か)らして天下に呼号してもほとんど無益かと考えます。社会が文芸を生むか、または文芸に生まれるかどっちかはしばらく措(お)いて、いやしくも社会の道徳と切っても切れない縁で結びつけられている以上、倫理面に活動するていの文芸はけっして吾人内心の欲する道徳と乖離(かいり)して栄える訳がない。
(夏目漱石『文芸と道徳』)>
「活社会」は意味不明。「死文芸」は意味不明。〈「死文芸」として「存在」する〉も意味不明。だから、「存在できないもの」は無意味。Nは混乱している。
「枯れてしまわなければ」というのだから、実際には「枯れて」いないのだろう。
「人工的に」は意味不明。「呼号しても」は、形式的には〈「死文芸」を「呼号しても」〉の略のようだが、常識的には〈「道徳」を「呼号しても」〉だろう。「ほとんど」は笑える。少しは利益があるみたい。だったら、確信犯は諦めまい。
「文芸に生まれる」は意味不明。因果関係が不明の「縁」を、どうやって尊重しよう。「倫理面に活動するてい」は意味不明。「活社会」の住人である「吾人」が内心では異端者である可能性はないのか。「栄える」必要はなく、発禁にならないだけで十分だろう。
Nの「欲する道徳」は、大多数の人々の「欲する道徳」とは違っていた。だからこそ、彼は虚構を利用したはずなのだ。
文芸と道徳にどのような関係があろうと、道徳には確かな意味がなければならない。〈ナンセンス文芸〉はある。だが、〈ナンセンス道徳〉は「存在できないもの」だ。意味不明の文芸作品に道徳を「結び付けられて」は困る。どんな道徳であれ、非常に困る。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3300 明示しない精神
3310 逆説的勧善懲悪主義
3312 『坊っちゃん』
『坊っちゃん』は、ひどく誤読されてきた。
<田舎の中学に赴任した江戸っ子教師の若い正義感が因襲と衝突するさまを描く。
(『広辞苑』「坊っちゃん」)>
「田舎」は間違い。地方都市だ。「正義感」は〈正義漢〉の誤記か。「因習」は誤読。「正義派の江戸っ子教師の痛快な活躍ぶり」(『マイペディア』「坊っちゃん」)なども誤読。語り手の「五分刈り」の口調に騙されているようだ。「歯切れのよい文体と、わかりやすい筋立て」(『ブリタニカ』「坊つちやん」)なんてのも伝説。「筋立て」など、ない。
<些細な事柄についてのこのような神経の過敏さ、このような傷つきやすさは、アメリカでは、不良青年の記録や、神経病患者の病歴簿の中で見受けられるだけである。ところが日本では、これが美徳とされている。
(ルース・ベネディクト『菊と刀―日本文化の型―』「第五章 過去と世間に負目を負う者」)>
これは「五分刈り」に対する評価だが、まったく正当なものだ。「五分刈り」自身も、「おれは到底(とうてい)人に好かれる性(たち)でない」(『坊っちゃん』一)と認めている。「五分刈り」は嫌われ者なので、変人の清にすがるしかなかった。東京を出て、そのことを思い知るわけだ。
<人生観と云(い)ったとて、そんなむずかしいものじゃない。手近な話が、『坊ち(ママ)ゃん』の中の坊ちゃんという人物は或(ある)点までは愛すべく、同情を表すべき価値のある人物であるが、単純過ぎて経験が乏し過ぎて現今の様(よう)な複雑な社会には円満に生存しにくい人だなと読者が感じて合点しさえすれば、それで作者の人生観が読者に徹したと云うてよいのです。
(夏目漱石『文学談』)>
Nは、彼の聞き手に「合点し」てもらいたくて、「生存しにくい人だな」で切っている。正しくは、〈「坊ちやんといふ人物は」「単純過ぎて経験が乏し過ぎて現今の様な複雑な社会には円満に生存しにくい人」「であるが、」「或点までは愛すべく、同情を表すべき価値のある人物」「だな」〉でなければならない。「それ」の指すものはない。
<然(しか)もその人生観が間違って居らぬと作者の見識で判断し得たとき、作者は幾分でも文学を以(もっ)て世道(せどう)人心(じんしん)に裨(ひ)益(えき)したのである。勧善懲悪主義を文学上に発揮し得たのである。
(夏目漱石『文学談』)>
N的「勧善懲悪主義」とは、〈「社会」で「悪」とされる言動も見方を変えれば「善」になるという「主義」〉のことで、逆説だ。〈勧偽悪・懲偽善〉か。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3300 明示しない精神
3310 逆説的勧善懲悪主義
3313 ゲゼルシャフトとゲマインシャフト
平成にドラマ化された『坊っちゃん』(フジテレビ)では、「天に代って誅戮(ちゅうりく)を加える夜遊び」(『坊っちゃん』十一)が完全にカットされていた。他にも作り替えは多々あった。
<さて小説『坊つちやん』の世界は、この狸校長に胡麻をすって自己の立身出世をはかる、赤シャツやノダが、利益社会の主要なメンバーである。これに対して人格社会には、坊っちゃんと山嵐がある。この二人には利害の打算はない。開放された自由な心魂の交流があるばかりだ。
(宮井一郎『『猫』の周辺』)>
「利益社会」は〈ゲゼルシャフト〉の訳語だろう。「誅戮(ちゅうりく)」は、ここでの仕事だ。
<成員が各自の利益的関心に基づいてその人格の一部分をもって結合する社会。成員間の関係は表面的には親密に見えても、本質的には疎遠である。大都市・会社・国家など。
(『広辞苑』「ゲゼルシャフト」)>
「人格社会」は〈ゲマインシャフト〉の訳語だろう。「夜遊び」は、ここでの仕事だ。
<共同社会とも訳す。成員が互いに感情的に融合し、全人格をもって結合する社会。血縁に基づく家族、地域に基づく村落、友愛に基づく都市など。
(『広辞苑』「ゲマインシャフト」)>
「五分刈り」と「山嵐」の「友愛」は継続したか。不明。
<注意すべきは表面的には、そして常識からすれば、校長に善があり、坊っちゃんに悪があるにもかかわらず読者は、その内面の真実を読み透して校長を悪玉、坊っちゃんを善玉と、全く逆な認識をして、しかもそのことにすこしも疑問をもたないことである。つまり読者もいつの間にか作者と共に、利益社会に対峙する人格社会をその魂に溶融しているからである。この微妙な倫理感(ママ)の転換に、やくざの任侠に喝采する活劇などとは、全く異質の近代小説の作用があるのだ。
(宮井一郎『『猫』の周辺』)>
「読み透して」は意味不明。「認識」は〈判断〉が適当か。『坊っちゃん』では、〈「誅戮(ちゅうりく)」の物語〉も〈「夜遊び」の物語〉も終わっていない。だから、「五分刈り」はどちらの社会にも属していない。「そのことにすこしも疑問をもたない」のは読み落としなのだ。
「その魂に溶融して」は〈「利益社会」と「人格社会」に二股をかけて〉が適当。「微妙な」は〈奇妙な〉が適当。「倫理感」は意味不明。「弱きをたすけ強きをくじく気性」(『広辞苑』「任侠」)ですらないのなら、正気のサタデー・ナイト・フィーバーだ。
(3310終)