ウロシだった。
~動物物語3
「ものがたる」は「物語る」と書くのに、「ものがたり」は「物語」と書いて、「り」がない。「浄瑠璃語り」には「り」がある。
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1959年(昭和34)、それまでまちまちであった送り仮名法に対して、初めての公的な基準「送りがなのつけ方」が内閣訓令・告示をもって定められた。これを改定して、73年に「送り仮名の付け方」が内閣訓令・告示をもって公布された。これは七つの通則からなり、本則のほか例外、許容を設けている。改定前のものに比べて、例外、許容を大幅に認めるとともに、その運用は個々人の自由な選択にゆだねるようになっている。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「送り仮名」)
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59年から73年の間、つまり、「個々人の自由な選択」が制限されていた頃、六年生の担任が送り仮名についてうまく説明できず、独り笑いをしながら、〈「受付」は「受け付け」と書いてなくても「うけつけ」と読む〉と言った。私は抗議した。「受付」は「ジュフ」としか読めない。すると、教師は「ジュフという言葉はない」と反論した。私は再反論した。でも、「ジュフ」と読むべきだ。教師は呆れて沈黙し、嘲笑した。
「ジュフ」という言葉があるとか、ないとか、どうやって知るのか。辞書には載っていない。〈だから、ジュフはないのだ〉と断言することはできない。辞書になくても、巷にはあるかもしれない。今はなくても、将来、そんな読み方ができるかもしれない。
たとえば――
「自民」という言葉は戦後にできた。これを「ジミン」と読むことは、誰かが勝手に決めた。「ジミン」に意味はない。〈おのずからたみ〉と読むのか。
「文科」は、普通、「ブンカ」としか読まない。だが、「文科省」の「文科」は「モンカ」と読む。二十世紀にこんな読み方はなかった。
「動物語」は何と読むか。「ドウブツゴ」か。「ドウブツがたり」か。「動く物語」か。「ドウブツゴ」は『ドリトル先生』に出てくる。「ドウブツがたり」は、動物が語り手の『黒馬物語』とか。「動く物語」には詩的な意味がありそうだ。つまり、適当な文脈があれば意味が生まれそうだ。
私は、どうやったら完璧に漢字を読めるようになるのか。
答えはない。
規則と常識が相容れないとき、どうしたらいいのか。笑って済ませるようなことではない。
法律と慣習。ルールとマナー。知識と印象。これらが矛盾するとき、どうすればいいのか。
私は非常識な規則を批判しているのではない。子供に規則を押し付けておきながら、その当人が規則を軽視する。そんな大人の狡さ。これに苛立っていた。
大人は信用できない。
ウロシだった。
(動物物語 終)