モロシになりそう。
~逃亡者
半月ほど前から、ときどき、〈オーサキ〉という音が頭の中で鳴る。意味不明。
人名か? 大崎か。そうじゃないような気がする。大前ではない。太崎は無理だな。
小学校四年の同級生で、大崎という少年がいたんだ。大崎マ…… 大崎正典? 大崎正博? 違うな。
大崎という姓は知っていても、下の名は知らなかった。親しくなかった。クラスで一番背が低かった。いや、一番ではないかもしれない。三番目ぐらいか。顔つきが幼くて、二年生ぐらいに見えて、だから、背まで低く感じていたのかもしれない。
教師が彼に向かってよく言っていた。
「オーサキ真っ暗だなあ、うん? 大崎」
近頃、御先真っ暗と思うことがよくあって、でも、その言葉をはっきりと意識したくなくて、オーサキという音が鳴るのかもしれない。
授業が沈滞したとき、教師は「大崎真っ暗」と言って生徒たちを笑わせた。
頭の中で鳴るオーサキの典拠がこれなら、一息つけるのだが。
不安は、幾重にも折りたたまれている。不安から逃げようとすると、逆に、もっと不安になる。薄皮を剥ぐように、不安の物語を発見する。あるいは、想像する。そうやって生き延びるか。
「現在を、今夜を、そして、明日を生きるために」
別の教師の話芸を思い出した。
「こんなことは成り立たないよね、成田さん」
教師は、問題の解説をするとき、自ら誤答を示しておいて、こう言うのだった。
成田さんは非常におとなしい少女で、いつも俯いていた。美少女だったような記憶があるが、顔を上げないから、よくわからない。彼女を励ます意図もあって、教師は「成田さん」と言っていたのだろうが、言われると彼女はいよいよ顔を伏せた。頬が真赤になった。当時は恥じらっているのだと思っていたが、今になって思えば、彼女は怒っていたのかもしれない。教師が「成り立たないよね」と言うと、おっちょこちょいの生徒たちの何人かが、「成田さん」と唱和する。彼女の体は、ぎゅうっと縮こまるのだった。
休み時間に、ある生徒が「成り立たないよね、成田さん」と言ったら、彼女は泣き出しそうな顔をした。だから、彼女にそんな言葉を掛ける生徒は、滅多にいなかった。
荒木レイ子という生徒がいた。教師が出席簿を見て、「あら、綺麗」と言って笑いながら、「どの子だ?」という顔をして見渡した。みんなは無反応だった。彼女はブスでデブで陰気だったからだ。成績は悪くなかったらしい。女子の優等生はブスと決まっていた。陰気なブスは無視される。
大崎の場合は違う。生徒が「大崎真っ暗」と言うと、彼は怒る。だから、弄っていいと思うのだ。
あるとき、一人の少年が寄ってきて、「大崎に向かって笑いかけながら、こうして顔の左側で手をパンパンと二度叩くと怒るぞ。面白いから、やってみろ」と言った。
別にやりたくはなかった。なぜ、怒るのかも、知らない。しかし、やらないという選択肢はなかった。で、やった。
机の二列向うにいた彼は怒って、その二列分を迂回して頭から突っ込んできた。
私はかっとなって、彼の髪の毛を掴んで廊下へ引きずって行って、押し倒して、床に頭を三度ばかり、ごんごんとぶつけた。さっきまでの強がりはあっさりと消え、彼はわんわんと幼稚園児みたいに泣きだした。見ていた連中は大笑いだ。私に拍手をする子もいたようだ。
その後、彼は私を見かけると自分から寄ってきて、親しげに話しかけるようになった。媚びているのではない。私は避けた。彼には魅力がなかったし、彼の気持ちがよくわからなかったからでもある。
今、彼の気持ちを想像してみた。彼に対して本気になって相手をしたのは、私だけだったのかもしれない。だから、彼は私に頼りたくなったのだろう。そういうことであれば、まあ、いいか。
実は、私も、あれほど乱暴なことをしたのは、後にも先にも、あの時だけだ。私には何の悪意もなかったのに突撃されて、かっとなってしまった。周囲の子らの目も気にしたか。
この夏、惨事が起きる。そんな気がしてならない。逃げたいが、どこに逃げたらいいか、まるで見当もつかない。
御先真っ暗。
「彼は逃げる、執拗なジェラード警部の追跡を躱しながら」
ジェラード警部って、誰だ? 何の比喩だ?
ああ、考えたくない。
笑うしかない。
(終)