耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

今日はインド独立の父“マハトマ・ガンジー”の60回忌

2008-01-30 10:51:20 | Weblog
 インド独立の父といわれる“マハトマ・ガンジー”が凶弾に倒れたのは1948年1月30日、今日は60回忌にあたる。“マハトマ(マハートーマ)”とは「偉大なる魂」の意で、インドの詩聖タゴールから贈られた尊称とか。大衆は親しみをこめて「バーブー」(父親)とも呼んでいた。

 「マハトマ・ガンジー」:http://ja.wikipedia.org/wiki/マハトマ・ガンジー

 “ガンジー”でただちに想い起こされることは「無抵抗非暴力主義」だろう。加えて「菜食主義」「禁欲主義」など、そのどれもが、タゴールが贈った「偉大なる魂」にふさわしい“聖なる人”を連想させる。

 “ガンジー”の「非暴力主義」はサティア(真理)グラハ(把握)の闘いとして生まれたといわれる。「自分自身を抑制し、純潔な生活にはいることなしには、他人に奉仕することもできなければ、多数の人に呼びかけて行動にたち上がらせ、それを指導することもできない」との信念を背景としていて、「非暴力は、単純に暴力に対置されるものではなく、暴力の不正(非真理)に対して、真理を代表するものであった。」(坂本徳松著『ガンジー』/清水書院:以下<>は同書より)

 これほどの自己規制があってはじめて、たびたびの断食行動が成果を挙げえたのであろう。断食に関するエピソードは多いが、晩年の1943年2月9日から3月2日までの獄中断食では、断食の決意を伝えた手紙に対し英国のリンリスゴウ総督が「政治的脅迫の一種と考える」と述べたことにこう答えた。

 <あなたはそれ(断食)を、「政治的脅迫行為の一形式」といわれましたが、わたしにとっては、それはわたしがあなたから守りそこなった正義のための最高法廷への上訴であります。もし、わたしがこの試練に耐えて生きながらえないのであれば、わたしは自分の無実に全幅の信頼をもって、審判の席につきましょう。あらゆる権力をそなえた政府の代表であるあなたと、断食をもって祖国と人類へ奉仕しようとした、つつましい一人の人間としてのわたしとの問題は、後世の歴史が審判するでしょう。>

 “ガンジー”より八つ年上のノーベル文学賞受賞者“タゴール”は、“ガンジー”の対英不服従・非協力の呼びかけに必ずしも全面的には同調していなかった。両者は三回にわたって論争している。今日的に興味ある論争の一端をみてみよう。“タゴール”は「イギリス製織物の焼き払い運動」に反対し疑問を投げかけた。

 <特別製(イギリス製品の意味)の衣類を着るか、着ないかの問題は、主として経済学に属する。したがって、この問題についてのインド人の討論は、経済学のことばでやらねばならない。…
 つまり、ガンジーの命令に盲従して、衣類を焼くような蛮行はやめて、貧しい人たちに着せればいいではないか、というのである。>

 これに対し“ガンジー”は祖国インドを火事場にたとえている。火がついているからには水をかけて消すのが先決だ。まわりに飢えて死にかかっている人たちがいるとき、唯一の仕事は飢えをみたすことだ、という。

 <われわれの都市は、インドではない。インドは、全国七十五万の村落のなかにある。都会はこれらの村落のうえに生きている。かれらは外の国から富をもってくるのではない。都会の人たちは、外国のブローカーであり、仲介の代理業者だ…>

 これは現状認識として言いえて妙である。“ガンジー”は農村、農民に目を注ぎ、飢えからの脱出を願い、かつ、外国製衣類への依存から抜け出すため「紡ぎ車」の普及を提唱、自ら「糸紡ぎ」に取り組みこう言っている。

 <われわれの非協力は、イギリスとの非協力でもなければ、西方との非協力でもない。われわれの非協力は、イギリスがつくりだした制度との非協力であり、物質文明およびそれにともなう貪欲(どんよく)と、弱者に対する搾取との非協力である。…溺れかかった者は、他人を救うことはできない。他人を救うのにふさわしくなろうとすれば、われわれ自身を救うことにつとめなければならない。インドの民族主義は、排他的でも、攻撃的でも、破壊的でもない。それは健全な、宗教的な、したがって人道主義的なものである。>

 「物質文明およびそれにともなう貪欲と、弱者に対する搾取」、この言葉は現代に通用する。イギリスに代わって世界の盟主となったアメリカの最近の混迷ぶりは「歴史は繰り返す」ことを示していないか。“ガンジー”は機械文明に否定的だった。ある大学の学生との質疑でこう言う。

 <学生「あなたは、機械にたいしてすべて反対なのですか。」
 ガンジー「どうしてそんな……わたしは人間の身体も、機械のもっともデリケートな部品だと考えているのですよ。紡ぎ車自体も機械です。わたしはそのような機械にたいしてではなく、機械への狂信に反対しているのです。」>

 インドは有名な階級社会である。一般に「カースト制度」をいうが、それは四(ないし五)の身分階層を意味する。バラモン(祭官階級)、クシャトリア(王族・武人階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴婢階級)という四つの種姓(この下に「不可触民」がつけ加わる)からなる。

 「カースト」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88
 
 “ガンジー”は「不可触民」廃止には献身したが、「カースト制」には必ずしも反対ではなかったといわれる。坂本徳松著は「“民族に強く、階級に弱い”のは、ガンジーの欠陥である」と書いているが、敬虔なヒンズー教徒であるカストルバ夫人の反対を押し切って「不可触民」を迎え入れ、のちに夫妻は「不可触民」出身の女の子をひきとり幼女として育てた。

 日本の侵略に反対した“ガンジー”は1942年7月26日『ハリジャン』紙に、「すべての日本人に」と題し書いた。

 <…もしも、伝えられているように、あなた方が、インドの独立を熱望しているならば、イギリスがインドの独立を承認すれば、インドに攻撃を加える口実は、いっさいあなた方からなくなってしまうのです。…わたしが読んでいるすべてのものは、あなた方が訴えに耳を傾けないで、剣に耳を傾ける、ということを教えています。…>

 これに先立つ2月には蒋介石とカルカッタで会談、6月には手紙を出して「日本の侵略に立ち向かう」強い意志を示し、日本の「聖戦」の実態をはっきり見抜いてもいた。

 1942年8月9日早朝、“ネルー”など他の会議派指導者とともに“ガンジー”も逮捕された。約10回におよぶ牢獄生活の最後の牢獄入りで、夫人や秘書等も一緒だった。二十歳も若い忠実な秘書のデサイは逮捕後六日めに、突然の心臓発作で死に、1944年2月にはカストルバ夫人が獄中死する。獄中での“ガンジー”の日課は、小さい頃十分な勉強ができなかったカストルバ夫人にインドの地理やその他のことを教えることだった。ともに13歳で結婚し、37歳で「禁欲生活」にはいるが、熱愛する夫人との性行為中だったため父の臨終を見届けることが出来なかったのがきっかけだったことを告白している。同行二人で闘い、よき理解者、協力者だった伴侶を失い、老齢の“ガンジー”にはこたえた。

 1945年8月15日、第二次世界大戦は終止符を打ち、戦勝国イギリスはチャーチル首相から労働党のアトリー首相に代わった。インド各地では独立の叫びが強まっていた。インド独立にはヒンズー教徒と回教徒の融和統一という難題をかかえ、“ガンジー”は「一つの祖国インド」の実現に注力していた。

 <1947年8月15日は、インド独立と同時にインドとパキスタン分離の日であった。分離独立を祝う気のしなかったガンジーは、ニューデリーでの式典には出席しなかったし、メッセージも送らなかった。
 分離にともなう両教徒の間の殺戮・暴行・掠奪・放火、そして騒乱のなかの民族大移動の悲劇を目の前にしながら、ガンジーは、カルカッタのスラム街で依然両教徒の融和と統一を説いていたのである。>

 融和と統一を願う断食は断続的に続けられた。翌年1月20日、宿舎の前での夕べの祈りには爆弾が投げられた。“ガンジー”への敵意は、ヒンズー教徒、回教徒双方から向けられていた。1月30日午後4時半、“ガンジー”は最後の晩餐をとった。5時の祈りの時間に、両側に付き添う二人の孫娘の肩に腕をもたれかけ、祈りの壇上へ向かっていた。

 <そのとき、突然会衆をかき分けて来たひとりの若い男が、ガンジーにナマステ(合掌)の挨拶をするかのように、やや膝を折ると同時に、かくし持っていた小型自動ピストルで、わずか2フィート(約0.6メートル)の近距離から、パン、パン、パンと三発発射した。
 半裸に近いガンジーの裸体は、白い上着に血をにじませて倒れた。芝ふの上に、めがねとサンダルが飛び散った。>


 “ガンジー”の「非暴力主義」に対しては、その徹底した行動力への称賛とともに、一方ではさまざまな批判が投げかけられている。「カースト制」を半ば容認していたこと、非暴力の名において大衆の革命的行動がしばしば抑圧されたこと、などはその代表例であろう。だが、こんにちの混迷する世界情勢を見るとき、“ガンジー”の思想は見直さるべきときにあると言えないだろうか。
 
 およそ40年前に書かれた坂本徳松著『ガンジー』を参考にこの記事を書いたが、最後に、印象的な言葉を引いておく。

 <ガンジーは自ら非暴力と断食の叙事詩でつづった生涯の最後を、さらに劇的な死でかざった。この劇的な死に照らして、かれの劇的な生をたどるとき、「真理への忠誠」に生きたこの人の七十九年の生涯は、教訓のかずかずを無言のうちになお力強く、私たちに呼びかけてやまないように私には思われてならないのである。>

「厭離穢土、欣求浄土」のドラマ~『観無量寿経』の世界

2008-01-28 10:56:47 | Weblog
 『般若心経』は、車の運転時や散歩の時などいつも称じているが、呼吸・拍動に同調し、気分が安定してくる。西洋の「心身」とは逆に仏教では「身心」(道元禅師の「身心脱落」など)と「体}が先で、「行(ぎょう)」に伴って「心」の安定を求めているといえるだろう。お経(声明一般)もその例外ではないのかも知れない。そんなことを考えていたら、『観無量寿経』のドラマを想い出したので書き止めて置きたい。

 
 阿弥陀如来のはたらきと阿弥陀様がおられる極楽浄土の様子を説いたのが『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』で、これを『浄土三部経』という。よく知られていることだが、具体的な出来事・人物が登場し、悲劇のドラマを描いているのが『観無量寿経』である。“法然上人”や弟子の“親鸞”の教義にもたびたび登場する悲劇の主人公「韋提希(いだいけ=バイデーヒ)夫人」に、釈尊が浄土往生の方法を説く場面が描かれている。

 霊鷲山(りょうじゅせん)のふもとのマガタ国の王舎城で、父親の頻婆娑羅(びんばしゃら)王を子の阿[じゃ]世太子(以下“アジャセ”と書く)が牢獄に幽閉し、王位を奪うという反逆事件が起きる。この事件を挑発したのは太子の悪友で釈尊の従兄“提婆達多(だいばだった=デーヴァダッタ)”だった。実は、この反逆事件には隠された背景があった。その背景は『涅槃経』に詳しく述べられている。(注:[じゃ]は門がまえに者)

 頻婆娑羅(以下“ビンバシャラ”と書く)王には世継ぎの子がいなかった。そのために悩み、占い師に見てもらったところ、「今、ヒマラヤの山中で修行している一人の仙人が、あと三年すると寿命が尽きる。そうすれば輪廻転生してあなたの子が生まれる」と予言する。王はすぐにも子が欲しかったので、どうせ王子として生まれかわるのなら本望だろうから死んでもらおうと掛け合ったが、「あと三年の命を大切に生きたい」と拒絶される。世継ぎがほしい王はそれを待ちきれず、人を遣わして仙人を殺してしまう。すると予言どおり、皇后の韋提希(以下“イダイケ”と書く)は懐妊する。

 さて、懐妊はしたものの生まれる日が近づくにつれ“イダイケ”夫人は、王が仙人を殺した悪行の結果が現れはしないかと恐れ、恐れが高じて、夫人は子どもを産むとすぐに高殿から突き落とすが、子は奇跡的に助かって、指一本傷つけただけだった。

 ここで注釈しておくと、“アジャセ”のサンスクリット名はアジャータシャトゥルで、アは否定の意、ジャータは「生まれる」、シャトゥルは「怨み」という意味。つまり、「未生怨(みしょうおん)」(未だ生まれざる前の怨み)という名まえだったのである。

 悪友の“ダイバダッタ”は、「両親はあなたを殺そうとしたのだ。それが証拠に君の指は一本欠けているだろう」と、親の秘密を“アジャセ”に暴露して謀叛をそそのかし、父を牢獄に幽閉して食べ物を与えず餓死させる計画だったと『涅槃経』に書かれている。『観無量寿経』はこの幽閉した場面から始まるわけだ。


 夫の“ビンバシャラ”王を敬愛する“イダイケ”夫人は、沐浴して体を清め、小麦粉のようなものを蜜でねって体に塗り、胸飾りの玉の中には葡萄酒を入れ、番人の目を盗んでひそかに牢獄の王に与えていた。餓死をまぬかれた王は、釈尊のおられる霊鷲山に向かって「あなたの弟子の目連尊者は私の親友です。どうかお慈悲をもって目連尊者を私のもとに遣わして、八戒を授けてください」と願う。願いを聞いた釈尊はさっそく王のもとに目連を遣わし、戒を授け、王は釈尊に帰依する。(ここは「超人説話」で目連は空中を飛翔して王のもとを訪れることになっている)


 あるとき“アジャセ”が牢獄を見回り、門番に尋ねた。「父王はまだ健在か」と。すると門番は「皇后様が食べ物や飲み物をひそかに運んで父王に与え、さらに釈尊の弟子が毎日やってきて説法をしており、とても元気です」と答える。これを聞いた“アジャセ”は怒り狂い、母を呼びつけ斬りつけようとした。

 これを止めたのが二人の大臣、聡明な“月光”と侍医の“ギバ”だった。“月光”大臣は言う。「ヴェーダ聖典によれば、父王を殺害した王は1万8千人いたが、母親を殺害した王はいない。もし母を殺せば王族階級の名を汚すことになる。そんなことをすれば宮殿にいるわけにはいかない」と諌める。“アジャセ”は“ギバ”に「お前はおれの味方になってくれないのか」と迫るが、“ギバ”も「お母さんを傷つけてはなりません」と諫言したので、やむなく“アジャセ”は剣を捨てて母殺害を思いとどまる。しかし、殺害のかわりに母親も奥深い部屋に幽閉してしまう。


 ここでまた、母親幽閉後の“アジャセ”がどうなったか、『観無量寿経』では欠落していて『涅槃経』を見るしかない。『涅槃経』によれば、“イダイケ”夫人が幽閉され食べ物の差し入れができなくなって、“ビンバシャラ”王は食を断たれ獄中で餓死する。父王を殺した“アジャセ”は次第に良心の呵責にさいなまれ、体中に吹き出物ができて悪臭を放つ病にかかる。病に取り付かれた“アジャセ”に「あなたに罪はない、父から帝位を奪った王は数え切れません」などと甘言を弄する家臣が多いなかで、侍医の“ギバ”だけは「身の病を治す名医はいくらでもいるが、あなたの病は心の病で釈尊以外に治す人はいません。釈尊に懺悔し教えを聞きなさい」と勧める。

 決心しかねる“アジャセ”の病はますます悪化し、七転八倒する苦しみに見舞われる。そこに天空からの声が“アジャセ”の耳に届く。「おれは父“ビンバシャラ”だ。法を聞けと言う“ギバ”の勧めに従い、今すぐ釈尊を訪ねよ」と。この声を耳にしながら“アジャセ”は気を失った。

 どん底に落ちた“アジャセ”に懺悔の心を芽生えさせたのはわが子を想う父と父の想いを受けとめた釈尊だった。父“ビンバシャラ”の願いに応え、釈尊は「月愛三昧(がつあいさんまい)」に入り、この「月愛三昧」の気が“アジャセ”の心にふれてかさぶただらけの重篤な身を癒してくれたのである。「月愛三昧」とは何かと問う“アジャセ”に“ギバ”が答える。

 <たとえば月の光よく一切の優鉢羅華(うはつらけ)~青い蓮華、ウットパラのこと~をして開敷(かいふ)し鮮明(せんみょう)ならしむるがごとし。月愛三昧もまたかくのごとし、よく衆生をして善心開敷せしむ、このゆえに名づけて「月愛三昧」とす>

 ちょうど月の光が青い蓮の華を開かせ、鮮やかな色を浮き出させるように、その三昧(精神集中が深まりきった状態)から発する心にふれた衆生は善の心がおのずから花開くというのだ。こうして“アジャセ”の深い病は癒されていく。ここから再び話は『観無量寿経』に移り、“イダイケ”夫人の苦悩の叫びが語られる。


 王舎城の奥深く幽閉された“イダイケ”夫人は、憔悴しきってやつれはて釈尊に助けを求める。「昔、いつも阿難を王舎城に遣わして法を説いて慰めて下さいました。どうか、目連と阿難を遣わして説法を聞かせて下さい」と、はるか霊鷲山へ向かって号泣しつつ礼拝した。釈尊はこれを聞いてただちに弟子を遣わしたばかりか、自ら王舎城の奥深い牢獄にいる“イダイケ”夫人の前に姿を現す。

 <時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、自ら瓔珞(きらびな装身具)を絶ち、身を挙げて地に投ぐ。号泣して仏に向かいて白(もう)して言(もう)さく、「世尊、我、宿(むかし)何の罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また何等の因縁ましましてか、提婆達多と共に眷属たる。…>

 「こんなつらい思いをする私がどんな悪いことをしたというのでしょう。そしてまた“アジャセ”の悪友である“ダイバダッタ”が釈尊の親戚とは一体どういうことですか」と訴えるのだ。こうして何もかもぶちまけたあと“イダイケ”夫人はあらたまって、「私のために苦しみ・悩みなどまったくない場所、境地をお説き下さい」と願う。つまり「厭離穢土、欣求浄土」を願うわけだ。このあと釈尊は「悟りへの道」を諄々と“イダイケ”夫人に説き聞かせるが、説法の終わりのころ有名な経文がでてくる。

 <光明、遍照十方世界、念仏衆生、摂取不捨>
 (一一の光明遍(あまね)く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず)

 古来、ここで言う「念仏衆生、摂取不捨」から「念仏を称しない者は捨てられるのか」という疑問が提起されてきた。“法然上人”は応えて詠っている。

 月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の 心にぞすむ

 「月が出ていてもこれを見る心のない人には見えないものだ」、つまり仏の法は誰にでも平等に送られているが、受け取らない人には届かないというのである。

 さて最後の釈尊の言葉を聞いてみよう。

 <仏、阿難に告げてたまわく、「汝好くこの語(ことば)を持(たも)て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名(みな)を持てとなり」。仏この語を説きたまう時、尊者目連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きて、みな大きに歓喜す。>

 この「無量寿仏すなわち阿弥陀仏の名(みな)を持(たも)て」(すなわち「南無阿弥陀仏」の称号)というのが『観無量寿経』の結論とされている。
 (参照:坂東性純著『浄土三部経の真実』/NHK出版)


 浄土往生のために説かれた「十三観法」などはすべて省略したが、王舎城のドラマチックな悲劇から「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」を願う人間模様が鮮やかに読みとれるだろう。古代にこのような説話がどのようにして成立し、ありがたい「お経」としてわれわれに伝えられたかを想うと、歴史の深遠さに圧倒され、最近の俗世の出来事(大阪府知事に下劣輩当選!など)がいよいよ浅薄に感じられてきてならない。
 

“犯罪と失業率の相関”~注目の『松尾匡のホームページ』

2008-01-26 11:18:00 | Weblog
 『松尾匡のホームページ』に「私の主張」というのがある。項目を挙げてみよう。

1.新興大国の75歳寿命説
2.コンドラチェフ長期波動と今日の激動
3.ソ連型体制は国家資本主義だった
4.民営化・規制緩和の悪魔的傾向は社会主義への前進!
5.民族自決に反対せよ
6.世界春闘を実現しよう。戦闘的に!国際的に!
7.市場でもなく、国家でもなく、その中間でもなく
8.非営利・協同ネットワークと個人のアイデンティティ

 実に内容の詰まった論文で一読物である。「4.民営化・規制緩和の悪魔的傾向は社会主義への前進!」などは、逆説的な表題ながらナルホドと納得してしまう。

 『松尾匡』氏のプロフィール紹介によれば、1964年7月25日生まれの石川県出身、本職:家事・育児、地域活動、久留米大学学内運営諸雑務。副業:久留米大学経済学部での教育。趣味:理論経済学研究とある。

 『松尾匡のホームページ』:http://www.std.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/index.html

 このサイトの「最近感じること」というエッセイコーナー1月14日に、松尾先生のゼミ生清水咲希さんが挑戦して作成した『犯罪の九割は失業率で説明がつく』という論文がある。この記事には多くのコメントが寄せられたらしく、16日、17日、25日と追記、続報が掲載されている。政治・経済が不安定な状況下では国民の心理が動揺するのは当然で、それが犯罪の増加につながるというのもうなずける現象だろうが、失業率と犯罪の相関関係を長期にわたり理論的に分析し、解明していることは注目に値する。参考文献もリンクしてあるからぜひご覧いただきたい。

 『犯罪の九割は失業率で説明がつく』:http://www.std.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_80114.html

 『やっぱり九割がたの説明がつく』:http://www.std.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_80124.html

 論文作成者の清水咲希さんは「少年犯罪についてもやってみたいと言うから、渡した資料の中に管賀江留郎著『戦前の少年犯罪』(築地書房)を入れておいたら、論文締め切りが迫る中、データを読む前に本文に読みふけったそうで、結局少年犯罪の分析は何もしないままに終わってしまった」と松尾先生が書いている。この『少年犯罪』がデータベース化され、リンクがあったので見てみたが、清水さんならずとも「ハマッテ」しまって、つい時間を忘れそうになった。ご覧下さい。

 『少年犯罪データベース』:http://kangaeru.s59.xrea.com/

 これをみればわかるが、近年、残忍な犯罪や猟奇的な犯罪が増えているように思われがちだが、実際はそうではなく、どこかで世論がゆがめられている気配がある。つまり、政治的、経済的政策の齟齬によって人心がすさんでいく事実を隠蔽している勢力が存在すると見るべきだろう。松尾先生の本論文に関するコメントをつけておく。

 <失業者というのは、民族性や身分や性別と違って、個人の属性でもないし、多くの場合個人の責任でなったわけでもない。無策や誤った政策で作られたものです。そして民族性や身分や性別と違って、本来はなくすことを目指して政策がとられるべきものです。犯罪や教育や道徳のせいにして真の原因を放置することこそ、一部の人々には不幸な境遇を強いる差別につながるのではないかと思っています。>

 『松尾匡のホームページ』は読んで得した気になるサイトの一つである。

明日は“法然上人”忌~「極楽往生うたがいなし」

2008-01-24 13:58:10 | Weblog
 明日は“法然上人”忌。1212(建暦2)年正月25日午後半ばごろに命終、80歳の生涯だった。“法然上人”の最晩年の病状と死因について、上人晩年に随仕した“勢観房源智”による『御臨終日記』などの記述から医師石井二郎氏は次のように診たてている。

 <視聴の衰えは「この3,4年よりこのかたは、耳目蒙昧にして色を見、声をきき給事ともに分明ならず」と記述にあるが、何れも老人性白内障と老人性神経性難聴と考えられ、疾病によるものではなく、生理的老化現象の軽度のもので、不可逆性の重症なものではないと推定してよい。…
 従って宗祖法然上人の死因は、特定の疾病がなく、加齢によってホメオスターシス(生体は生命維持のために内部環境を一定に保つ機構をもっており、この機構をいう)が維持できくなっての死であって、今日の病理解剖学的見地からしても、極めて稀な厳密な意味での老衰死と推定される。(宗祖法然上人の御生涯~その医学的見地からの研究~)>(大橋俊雄著『法然入門』/春秋社より)

 “法然上人”は入滅前の1212(建暦2)年正月3日、看病の弟子に言った。

 <ワレハモト天竺ニアリテ、声聞僧ニマシワリテ、頭陀ヲ行セシノミ、コノ日本ニキタリテ、天台宗ニ入テ、マタコノ念仏ノ法門ニアヘリトノタマイケリ。ソノ時看病ノ人ノ中ニ、ヒトリノ僧アリテ、トヒタテマツリテ申スヤウ、極楽ヘハ往生シタマフヘシヤト申ケレハ、答テノタマハク、ワレハモト極楽ニアリシ身ナレハ、サコソハアラムスラメトノタマヒケリ。>

 看病人の一人が「本当に極楽に往生されるのですか」と問いかけると、「自分はもともと極楽にいたのだから、ただそこに戻っていくまでだ」と答えた。

 さらに、入滅前後の様子はどうだったか。

 <スヘテ聖人念仏ノツトメオコタラスオハシケル上ニ、正月23日ヨリ25日ニイタルマテ、三箇日ノアイタ、コトニツネヨリモ、ツヨク高声ノ念仏ヲ申タマヒケル事、或ハ半時ハカリナトシタマヒケルアヒタ、人ミナオトロキサワキ侍ル。…聖人ヒコロツタヘモチタマヒタリケル慈覚大師ノ九条ノ御袈裟ヲカケテ、マクラヲキタニシ、オモテヲ西ニシテ、フシナカラ仏号ヲトナヘテ、ネルカコトクシテ、正月25日午時ノナカラハカリニ、往生シタマヒケリ。ソノノチヨトツノ人人キオイアツマリテ、オカミ申コトカキリナシ。>

 …上人は、慈覚大師(円仁)伝来の九条の袈裟を身に着けて、北枕で西向きに横になって、念仏を称えておられたが、1月25日の午後半ばごろ、往生された。その後、多くの人々が集まってきて、そのお姿を拝んだ。(いずれも『御臨終日記』)

 上人滅後15年の1227(嘉禄3)年6月、延暦寺の衆徒が「専修念仏の輩」一掃のため、手始めに東山大谷にある上人の墓の破却に乗り出した。いち早くそれを察知した門徒たちは上人の遺骸を掘り出して嵯峨野へ運んだ。これを「嘉禄の法難」という。『四十八巻伝』は移送の様子を伝える。

 <西郊にわたし奉るに、路次の障難を恐れて、宇都宮弥三郎入道蓮生、塩谷入道信生、千葉六郎大夫入道法阿、渋谷七郎入道道遍、頓宮兵衛入道西仏等、出家の身なりと雖も法衣の上に兵杖を帯して、お供に参じければ家子郎党などあい従いけるほどに、軍兵済々として前に囲めり。遺弟以下御供に参ずる人一千余人、おのおの涙を流し、悲しみぞふくみけり。>

 「損壊をまぬかれた遺骸は、嵯峨のニ尊院や太秦(うずまさ)の広隆寺、また西光寺などを転々とし、年が改まるとさらに西山の粟生野(あおの・現長岡京市)へ運ばれ、そこで火葬に付されたという。」(寺内大吉著『法然讃歌』/中公新書)

 三年前に訪ねた粟生野の光明寺(“法然上人”の弟子だった熊谷次郎直実が一坊を建立したことにはじまる)には、たしかに「御火葬跡」の石碑があった。

 「光明寺」:http://tabitano.main.jp/7komyoji.html

 「嘉禄の法難」は、かえって専修念仏の信仰に火をつけ、これによって“法然上人”への思慕・尊崇がますます高まったといわれる。浄土教義を明らかにした上人の『選択本願念仏集』(「嘉禄の法難」でこの版木も焼かれた)を批判した“明恵”は『[さい]邪輪』でこう言った。(注:[さい]は手偏に崔)

 <ついに(法然)滅後のころにおよんで、在家・出家、男女、貴賎、皆恋慕を凝らし、追善を修すること諸国に遍満し、称計すべからず。>

 さらに“日蓮”は自著『撰時抄』で言っている。

 <日本国みな一同に、法然房の弟子と見えけり。この五十年が間、一天四海、一人もなく法然が弟子となる。>

 “法然上人”入滅の年正月2日、最古の弟子“信空”が師に問うた。

 <古来の先徳みなその遺跡あり。しかるにいま精舎一宇も建立なし。御入滅の後、いずくをもってか御遺跡とすべきや。>

 上人は答えた。

 <あとを一廟にしぬれば、遺法あまねからず。予が遺跡は、諸州に遍満すべし。ゆえいかんとなれば、念仏の興行は愚老一期(いちご)の勧化(かんげ)なり。されば、念仏を修せんところは、貴賎を論ぜず、海人・漁人がとまやまでもみなこれ予が遺跡なるべし。>(『四十八巻伝』)

 “法然上人”は死の15年前に二章からなる『没後遺誡』を書いた。最初の章は「財産分与」。わずかな畑と建物(東山大谷の禅房三棟)。次章は「自分の死後、念仏者は一つ場所に集ってはいけない。争いを起こす原因は集会である。わが弟子、同法の者はそれぞれが草庵を結び、静かに、ねんごろに、私が新しく生まれる浄土を祈って欲しい」とあった。(寺内大吉著『法然讃歌』より)

 多数集って行う追善回向も禁じていたが、“法蓮房信空”のはからいで「中陰(死後四十九日間)法要」が営まれた。七日ごとに導師を立て、それに「諷誦文(ふじゅもん)」を献ずる檀那が付く。六七日の檀那には比叡山座主“慈円”が付いた。その「諷誦文」は以下のとおり。

 <仏子、上人(法然)存日の間、しばしば法文を談じ、常に唱導を用う。結縁の思い浅からず、済度の願、深きが如し。これによりて今、六七日の忌辰(忌日)にあたりて、いささか三敬の諷誦を修す。法衣をささげて往生の家におくる。解脱の衣、これなり。法食をもうけて化城(けじょう)の門に施す。解脱の食これなり。然れば則ち聖霊は、かの平生の願にこたえて必ず上品(じょうぼん)の蓮台に生じ、仏子は真実の思によりて、速かに最初の引接(いんじょう)を得ん。>

 これについて寺内大吉は「見事な、そして空疎な修辞である。法然が生きている間、しばしば法文を談じたという。それを説法(唱導)に用いた。お互いの人間関係は浅くなく、かつ衆生を救おうとする願いは深かった、とも言う。“建永ノ年、法然房トイウ上人アリキ”と書き出す『愚管抄』のよそよそしさが思い出される。解脱の法衣や法食を法然はどのように受けとめたことであろうか」と、醒めた目で解説している。(『法然讃歌』)


 “法然上人”入滅前後について書き置いたが、上人を偲ぶ心で“吉田兼好”著『徒然草』第三十九段を引いておく。

 <或人、法然上人に、「念仏の時、睡(ねぶり)にをかされて、行(ぎょう)を怠り侍る事、いかゞして、この障りを止め侍らん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。
 また、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。
 また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。>

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 …

昔“臨時工”、今“非正規社員”~峰村光郎先生からの手紙

2008-01-22 11:13:02 | Weblog
 『週刊 金曜日』1月11日号に新春特別インタビュー「首切りの嵐にどう立ち向かう~存在意義問われる労働組合」という記事があった。“連合”の高木剛会長と“全労連”の坂内三夫議長に編集委員・佐高信が、「ナショナルセンターの共闘の可能性」を中心に今年の運動の抱負を聞いている。読んでいて、なんともパッとしない内容で、とくに“連合”の高木会長の話は歯切れの悪い指導制に乏しいものである。佐高信が「腑抜けた経営者に対してストライキを打つのもいいと思うんですが」と挑発するが、「最近はストライキという刀がなかなか抜けない。できない組合が多いですね」と人ごとのように言っている。

 ストライキのできない組合ばかりだから、資本・経営側になめられて「労働者派遣法」が導入され、これを逐次ほぼ全産業に適用した結果、派遣業者は賃金のピンハネで丸儲け、一方の派遣労働者はカツカツの生活に追い込まれているのだ。このことについては次の記事ですでにふれたとおりである。

 「今は昔の“ストライキ”の話~その1:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070817

 「“ワーキングプア”~NHKの特番をみて:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20071217


 さて、“正社員”でない労働者は“非正規社員(もしくは非正規雇用)”というらしい。一般に、“非正規社員”にはフリーターやワーキングプアと呼ばれる労働者も含まれるようだが、昔は“正社員”を“本工(常用雇)”、“非正規社員”を“臨時工(臨時雇)”あるいは“日雇”などと言っていた。

 1956年、私が造船所に入社した日、1ヵ月間の「日雇契約書」に署名・捺印するよういわれ、「日雇労働者健康保険被保険者手帳」を渡された。この手帳を毎日庶務係に提出して、健康保険印紙(当時16円)の貼付を受けるよう指示された。雇用身分は日給295円の「日雇」。1ヵ月後、1ヵ月更新の「臨時工(臨時雇)」に改められ、その後しばらく経って雇用契約は3ヵ月ごとに更新されることになる。

 「臨時工」の労働条件はまったく同じ仕事をしながら「本工」のほぼ半分。入社1年後、そういう“不条理”は許せないと同志と計らって「臨時工労働組合」を結成、紆余曲折があって組合結成から5年後、「臨時工制度」は撤廃され、試用期間1年で全員「本工」に採用するという「試用工制度」を勝ち取って組合は解散した。私は4年半「臨時工」だった。

 手元に昭和34年8月3日付の古ぼけた一通の手紙がある。差出人は今は故人だが、元慶応大学法学部長で公労委(公共企業体等労働委員会)会長もされた峰村光郎先生である。(注:公労委は1988年10月、中央労働委員会に合体された)
 毎年恒例になっていた「労働講座」の講師として雲仙にお見えになった先生へ、組合執行部の受講者に託して届けた私の手紙に対する返事である。先生の返答は、私の手紙の裏面に書かれていて、質問した内容が明らかだ。要点を抜き出してみよう。

 <…私は慶応義塾の通信教育生として一般教養科目の法学を先生より学んでいます。…。私は一臨時工労働者です。会社には本工が2500名弱、臨時工が約1000名います。本工と臨時工の労働内容は全く同じにもかかわらず賃金はほぼ2分の1です。本年の夏季一時金でみると、本工の平均が4万3000円に対し臨時工平均は2万1700円であります。こうした差別待遇は企業の脱法行為と思われますが、具体的な次の例についてどう解釈すればよいかお訊ねいたします。

 A,B,Cの三人は同じ条件で同じ日に同じ職場に入社しました。年齢も同じで初任給も同じです。入社数年後、この三人に本工登用(登用者数は1名)の機会が廻ってきました。勤務成績に差はないと観られていたのですが、結局Aが本工に登用され、その結果、Aの賃金はB,Cより約3000円(三人の賃金<日給月給>は約8000円)上回ることになりました。このAの労働力とB,Cの労働力の評価の明らかな相違を法律上どのように理解したらよいのか、お教え下さい。

 この「臨時工制度」は単に労働問題のみでなく民法第90条(公序良俗違反)にもふれ、経済、社会一般の問題として多くの不合理が存在していると思われます。機会があれば、もっと赤裸な実態についてご質問申しあげ、私たち労働者の「身分的差別」をなくす糧にしたいと念願する次第であります。>


 これに対し達筆でしたためられた先生の手紙が職場宛に届いたが、その内容は以下のとおりだった。(全文)

 <○○様
 雲仙の講座が終了した後御手紙を係の者から手渡されました。すぐ諫早に出て昨夜唐津に参りました。今日講座が済み次第特別サクラ(注:特急「さくら」号)で帰京します。
 只今唐津の宿で講座に出掛ける前にペンをとったのですが、田舎の宿のことでありレター・ペーパーも封筒もありませんので、御手紙の裏を使わせて頂きます。右の次第ご了承願います。
 
 御質疑の臨時工の労働法上の問題は労組法第17条の協約の一般的拘束力の問題でもあり、労組法3条、4条の均等待遇、同一価値労働同一原則の問題でもあります。これらの問題については普通の労働法の本にも註解が出ていますから御らん下さい。小生も「臨時工~その実体と法律問題」という本を数年前に出版して居ります。
 御手紙によりますと貴社における常用工組合へ臨時工の加入が認められているかどうか判明しません。労組法17条の4分の3、4分の1の割合の条件を欠いているようですが、ご質問のA,B,Cの関係の問題は民法90条の問題ではなく、労働基準法3条の均等待遇の原則に違反していると考えられます。
 
 問題は臨時工組合があるかどうか、若しあるとすれば右様の事態にどう対処しょうとされているかにありますし、また常用工組合がどのように見ているかによって問題解決にとっての難易があります。
 旅先のこと、時間もなく十分お答えするには時間も不足、事情を詳しく承ってからでないと思い違いもありますのでこの程度で御了承下さい。
 労働法の解説書をごらんになれば大抵は御質問のようなことなら説明があります。
   8月3日 朝8時半   唐津の宿にて
                           峰 村 光 郎>

 翌年8月、スクーリングで東京三田の大学に出席した折、約束を取り付け先生の教室を訪ねていろいろご教示を頂いたことを想い出す。こんにち、派遣労働者、パート労働者たちが独自の「ユニオン(組合)」をあちこちで立ち上げつつあるようだが、その輪が広がることを切に祈っている。百数十年前に書かれたルードルフ・フォン・イェーリング(1818~1892)著『権利のための闘争』の冒頭の言葉を、苦難の境涯にある労働者たちは想い起こして欲しい。

 <権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。権利=法が不法による侵害を予想してこれに対抗しなければならない限り~世界が滅びるまでその必要はなくならないのだが~権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。
 世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。>

 “正社員”と“非正規社員”の不当待遇は、明らかに労働基準法第3条の「均等待遇の原則」に違反している。この「原則」は歴史の中で「闘い取られた」ものだ。資本・経営側の理不尽な政策、加えて大企業労組の「御用組合化」によってこの「既得権」が侵害されている。イェーリングの言葉通り、これを奪い返すには「闘う」しかないのだ。

 最後に、労働現場における「身分差別」について書いた3月5日の記事をぜひ読んで欲しい。

 「“ウンコ”堀り~労働は商品ではない」:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070305

シベリア俘虜記『極光のかげに』の著者“高杉一郎”氏逝く

2008-01-20 12:00:08 | Weblog
 去る1月9日、作家で翻訳家の“高杉一郎”(本名・小川五郎)氏が亡くなった。99歳だった。このブログを始めて間もなく、『本当に情けない』(2006年12月19日)と題して取り上げているが、苛酷な収容所生活を強いたスターリン体制下のソ連の実像を描いたシベリア抑留記『極光のかげに』(1950年12月15日初版)は芥川賞候補にもあがりベストセラーになった。

 『本当に情けない』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20061219

 記事では、その『極光のかげに』が日本共産党から激しく批判されたと書いたが、具体的な部分についてはふれていない。歴史を学ぶことは肝心だと思うので、高杉一郎氏が明かした証言を書き留めておきたいと思う。

 
 高杉一郎氏は、シベリアから帰還して家族が待つ郷里の静岡に移り住んだ。『極光のかげに』は雑誌『人間』に連載されていたが、『人間』の木村編集長は戦前勤めていた『改造』社時代の同僚で、高杉一家の窮乏を察して一刻も早く印税をと考え、連載未完のまま単行本として出版されたものという。(のちに、この木村はベストセラーの印税を一銭も支払わず姿を消す)

 <その初版本が確実に贈呈先に届いたろうと思われるころを見はからって、12月20日(注:1950年)だったろうか、私は恩師や親しくしていた旧知にシベリアから帰還した挨拶をするために上京した。>(『征きて還りし兵の記憶』/岩波現代文庫:以下<>は同書より引用)

 まず当時、東京教育大学文学部長をしていた英文学者の恩師福原麟太郎を訪ね、その足で本郷駒込の中条(宮本百合子)邸へ向かう。宮本百合子とは戦前からの付き合いで、1944年、高杉氏が「出征」する時は東京駅まで見送りに駆けつけ、また長女の名付け親になってくれたほどの家族ぐるみの親しい間柄だった。東京駅で別れて6年半ぶりに訪ねた中条邸。宮本百合子は、飛び出すようにして玄関に出てきた。

 <私の顔を見るなり、「額にあった神経質な線がなくなって、健康な顔になったわ」と言った。
 「いや、栄養失調でむくんでいるだけですよ」
 これが、戦争から生き残った私たちのとりかわした最初の会話だった。>

 宮本百合子は、「すえ子さんに仕事を手伝ってもらっている」と告げる。すえ子(注:大森寿恵子)とは高杉一郎夫人の妹のことである。難民となって母や兄嫁とその子たちを引きつれ旧満州から引き揚げて来た妹の働き口を、高杉夫人が宮本百合子に依頼したところ、彼女の秘書として働くことになったのだ。もちろん、高杉氏はまだ帰還していない時期の話である。

 ひとしきり昔の話をし終えると、宮本百合子は『極光のかげに』をとりだしてきて、ところどころ傍線を引いている個所についてつぎつぎに質問する。彼女は、昭和初期の世界恐慌の最中、ロシアの三年間を見てきていた。第一次五ヵ年計画に取り組み意気さかんな社会主義国家を目にした彼女だから、シベリア抑留を通じてスターリン体制を批判した高杉氏は、彼女から手厳しい批判があるかもしれないと思いながらもありのままを語った。

 <彼女が最後に口にしたことばは「やっぱり、こういうことがあるのねぇ」というつぶやきだけだった。>

 宮本百合子のこの「つぶやき」がどうして発声されたか、高杉氏は彼女の死後ずっとあとになって、この会話の前年の彼女の日記に発見する。その部分はここでは省略して、現代史でもきわめて注目すべき高杉一郎氏の証言に耳を傾けてみよう。この証言は、1990年の『スターリン体験』で一度出ているが、その際は「あるコミュニスト」と書かれていて実名は出てこない。ここにははっきり実名が記されている。

 <宮本百合子が私のシベリアの話を聞きおわったころ、彼女の部屋の壁の向う側が階段になっているらしく、階段を降りてくる足音が聞こえた。その足音が廊下へ降りて、私たちの話し合っている部屋のまえまで来たと思うと、引き戸がいきおいよく開けられた。坐ったままの位置で、私はうしろをふり向いた。戸口いっぱいに立っていたのは、宮本顕治だろうと思われた。雑誌『改造』の懸賞論文で一等に当選した「敗北の文学」の筆者として私が知っている、そして宮本百合子が暗い独房に閉じこめられている夫の目にあかるく映るようにと、若い頃のはなやかな色彩のきものを着て巣鴨拘置所へ面会にいったとはなしていた、そのひとだろうと思った。
 
 宮本百合子が、坐ったままの場所から私を紹介した。雑誌『文藝』の編集者だった、そしてこのあいだ贈られてきた『極光のかげに』の著者としての私を。
 すると、その戸口に立ったままのひとは、いきなり「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」と言い、間をおいて「こんどだけは見のがしてやるが」とつけ加えた。私は唖然とした。返すことばを知らなかった。
 
 やがて彼は戸を閉めると、立ち去ってゆき、壁の向うの階段を上がってゆく足音が聞こえた。私は宮本百合子の方へ向きなおったが、あのせりふを聞いたときの彼女の表情はもうたしかめることができなかった。真顔にかえっていた彼女が言った。
 「わたしはあなたが島木健作のような動きかたをするひとだとはけっして思わないけど、文壇というところには他人の脚をはらってやろうと身がまえている人間がたくさんいるから、これから書くものには細心の注意をなさい」
 私は、なぜとつぜん島木健作の名まえが出てきたのかわからなかったが、彼女のことばと表情のなかにむかしのままの誠実な友情をたしかめたので、「ありがとう」と言って起ち上り、別れを告げた。>

 1950年を年表でみると、以下のような出来事があった。

・1.6 コミンフォルム、日本共産党指導者野坂参三の平和革命論を批判。以後内部対立激化。
・2.9 マッカーシー旋風はじまる。
・6.25 朝鮮戦争始まる。
・7.11 日本労働組合総評議会(総評)結成。
・8.10 警察予備隊令公布。
 (『年表 昭和史』/岩波ブックレット)

 コミンフォルムによる日本共産党への批判に対する態度をめぐっては、党は「所感派」(徳田球一・志田重男ら多数派)と「国際派」(宮本顕治・志賀義雄ら反主流派)に分裂、宮本は国際派のリーダー的存在となる。絶対多数派の「所感派」が打ち出した武装闘争方針が国民の支持を失い国会から共産党議席がなくなるのはこのときである。

 世界の社会主義勢力のリーダーであったソ連共産党、しかもそのカリスマ的存在のスターリンが批判されているのを知って、「国際派」の宮本顕治が顔色あらわに言い放ったことばは、現代史のひとコマを鮮やかに映し出している。高杉一郎氏の証言はなお続く。

 <年が明けて1951年1月21日、宮本百合子が急死した(注:51歳)。その報道が、はじめ私には信じられなかった。わずか一ヵ月まえ、何時間も向いあって話しあってきたばかりではないか。しかし、それがまちがいのない事実だということがたしかめられると、私は二人と得がたい誠実な友人を失った深い悲しみのなかに落ちこんでいった。>

 高杉一郎氏が宮本百合子と再会したあの日、宮本顕治はすでに、高杉一郎氏の義妹で宮本百合子の秘書である大森寿恵子と「できていた」のだ。百合子が死んだときも顕治は不在で、葬儀の準備などは友人によって行われたらしい。宮本百合子が死んで5年後、高杉一郎氏は義妹大森寿恵子からの手紙を受け取る。

 <「百合子さんが亡くなってから五年が経過したので、宮本顕治さんと結婚することにしました。上京して、その式に立ち会ってください。顕治さんの友だちへの披露は、それがすんだあと、日をえらんで自宅でやることにしますが、そのときは五郎さん(注:高杉一郎の本名)も出てください」>

 高杉一郎氏はこの披露宴に出席したことにもふれているが、ここではブログ『リベラル21』1月13日の記事「現代史の証人・高杉一郎さん逝く」(元朝日新聞記者・岩垂弘筆)を見てもらったがいいだろう。3年前の2005年3月と翌年5月、渋谷神宮前の高級マンションにある高杉一郎氏宅を訪問した時のことだ。
 「高杉さんも披露宴に招かれた。“その席で、二人の結婚を祝う歌をドイツ語で歌ったんだよ。こんなふうにね”。そう言って笑った高杉さんは、私たちを前に、その時のドイツ語の歌をひとしきり口ずさんだ。」

 「リベラル21」:http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-220.html

 披露宴で自ら立ち働く義妹をみかねて、宮本顕治のすぐ横に「あんたはここに坐っていなさい」といって座らせると、「結婚記念の歌をうたいます。男が新妻に終生の愛を誓う歌です」といって高杉氏はうたうのだ。

 <Darum du mein Liebes Kind,
Lass uns heren kussen,
Bis die Locken silber sind,
Und wir scheiden mussen.

 うたい終った私が席に坐ると、左隣りの中野重治が言った。
 「おい、日本語で説明しろよ」
 私は答えた。
 「あんたは独文出身じゃないか」>


 高杉一郎氏はまれにみる「誠実」なひとだった。ご冥福を心から祈る。

“市町村合併”~長野県栄村が教えるもの

2008-01-18 09:04:50 | Weblog
 「平成の大合併」で、馴染みの町や村が消えていく。郷里の町も、古い温泉で知られた隣町と合併し、その温泉町の名をとって新しい市になった。しばらくは馴染めず、従兄や旧友への便りも旧宛名で出す始末。今年の年賀状は初めてパソコンで宛名書きして済ませた。1999(平成11)年3月末に3,232あった市町村が、2006(平成18)年4月には1,820にまで減った。2005(平成17)年4月施行の「合併新法」の期限である2010(平成22)年3月まで合併は進むとみられている。

 政府は合併の主要なネライを、
○自治体財政力の強化
○生活圏の広域化に対応
○政令指定都市や中核市・特例市に権限委譲
などに置いているようだが、「ハコモノ行政」で疲弊した地方自治体の鼻先に財政支援というエサをぶらさげて、苦しい国家財政のつじつま合わせ、ないしは問題先送りに「合併」を利用しているようにも見える。

 政府主導のこの合併ブームには批判も少なくないようだが、福島県東白川郡矢祭町(やまつりまち)は「合併しない宣言」をいち早く打ち出して注目された。六期24年務めた前町長の根本良一は、収入役の廃止、議員定数を18人から10人に削減、庁舎清掃は町長以下全職員でするなど、徹底した財政削減策を講じて成功する。なかでも住民基本台帳ネットワークシステムに非接続、図書館設立に際し蔵書の寄贈を募り全国から約43万5000冊集めたこと、介護保険料が福島県一安いなどで注目をあび、テレビなどでも紹介され全国の顔として話題をさらった。その行政実績は後任の町長に受け継がれているという。

 参照:「矢祭町」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E7%A5%AD%E7%94%BA


 この矢祭町同様「合併しない宣言」をした市町村がいくつかあるようだが、宣言をしないまでも「自立(自律)」を掲げて苦闘している素晴らしい村がある。『東京新聞』WEB版に今年元日から連載されている『結いの心 市場原理と山里』は、日本一の豪雪地である長野県下水内郡栄村の生き残りをかけた凄絶とも言える物語である。

 “栄村”(村長・高橋彦芳)は「中央政権による一律(高基準)の補助金を受けた場合、補助金はあくまで補助金であるため、当地の財政は破綻すると考えた村長は、独自の政策を掲げて運営してきた。」という。具体的にみると、「“紐付き”補助金に頼らない田直し事業や、山間の“下駄履きヘルパー”を派遣する事業を実施するなど、過疎地にあわせた政策を展開している」と紹介されている。

 参照:「栄村」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E6%9D%91


 さて、『東京新聞』の連載『結いの心 市場原理と山里』だが、元日から「村長の夢 (1)~(6)」引き続き「米づくり(1)~(8)」(17日現在)となっている。これは必見の“物語”である。どういう内容かはリンクを見てほしいが、「村長の夢(2)」の「『百姓』の誇り 合併反対」(1月3日)を収録して、ご参考に供したい。

 <その日は、栄村(長野県)にとって運命の日だった。

 「栄村は自立の村づくりを進める」

 2004年1月30日。合併を問う村議会で、村長の高橋彦芳(79)は公式に決意表明した。自立か合併か。採決の二時間前、合併推進派はすし店に集結し「一票差で勝てる!」。だが、多数決の結果は村長に同意。おもいもかけない「裏切り」のためだった。

 結束を破った桜沢恒友(75)は採決前、言いようのない「迷い」を感じていた。桜沢は一町二反(約1万2千平方メートル)の田を耕す「代々の百姓」。高度成長の1960年代、冬は東京で過ごした。三世代の大家族を養うため、新宿・歌舞伎町で「焼きイモのバイ(売)」をする出稼ぎだった。

 酔客が面白いように買ってくれた。空き缶にどんどんたまる百円玉。「よう儲(もう)かったなぁ」と振り返る。よく売れたのは九州産。二つに割ると黄色の実からモワッと上がる湯気。「いいイモつくるよなぁ」。ネオンと喧騒(けんそう)のど真ん中で一人の「百姓」に戻り、見知らぬ「百姓」をたたえていた。

 「だけど、おれも米つくりなら誰にも負けねぇ。日本一って自負はある」

 都会の主婦から「デパートの最高級の米よりおいしいです」という手紙も受け取った。稼ぎがどれだけだろうが、米作りを捨てようと思ったことはない。

 採決前。一人の「百姓」として立ち止まった。「合併しなきゃやっていけんほど、ここは“駄目なところ”なんか」。何で立ってんだー。合併派の面々は目を疑った。桜沢が村長に「同意」の起立をしていた。

 隣接する飯山市にはやがて北陸新幹線の駅ができる。「合併で新幹線のある市になりゃ若いもんも(村に)残る」。合併派は「裏切りもん」と今も桜沢に憤る。

 消えてはよぎる問い。高橋も同じだった。「首長としてはなぁ」。長いものに巻かれ、大樹に寄るのが山村行政の常識。巨大な風車に向かうドン・キホーテになりはしないかーと。

 幼いころの忘れがたい記憶がある。

 「こんな猫の額のような狭いところにいるより広い満州(中国東北部)を目指せ」。戦前、都会から来た若い教師の口癖に、高橋は「この野郎」という怒りを胸にためた。イネを背負い田んぼで山鳥を追いかけた。学校帰りに飛び込んだ夏の川、河原の石のじんわりとしたぬくもり。父と糸を垂らしたイワナ釣り。ふるさとを「猫の額」と切って捨てる物言いが、幼心に許せなかった。

 そして今、効率論が山村切捨てに向かう。ふるさとの価値に気づかない日本人が、ふるさとを踏みにじる。

 先月、高橋は今期限りでの引退を表明した。

 「いくらか、きっかけはつくれた。あとは一人一人の自立。自分たちで考え、自分たちで守る。でないと、山っぺたの小さな村なんて簡単にのみ込まれちまう」

 自然と田園と人の絆(きずな)~お金に換えられない村の宝を守るのは“一人のリーダー”ではない。そのことに、高橋は気づいている。>

 『結いの心 市場原理と山里』:http://www.tokyo-np.co.jp/feature/yui/

 
 「村長の夢(6)」は「田守り“ここで土になる”」で終わるが、その冒頭はこうである。

 <今春、長野県栄村の村長を退き何をやるか。高橋彦芳(79)はもう決めている。

 村長をはじめ三十ほどの肩書をすべて捨てても、これだけは外せない。「百姓さ。おれは根っからの百姓だから」…>


 多くの場合、「何を捨て、何を守るのか」の民意が十分には問われないまま、市町村合併が進行してはいないか。

 話は飛ぶようだが、長崎県、佐賀県は「地元同意条件」を踏みにじって長崎新幹線建設を強行しようとしている。新幹線は本当に必要なのか。長崎県は巨大開発「諫早湾干拓事業」の失敗から何も学んでいないらしい。少数派を切り捨て、弱いものの立場への配慮を忘れた行政が、地方を疲弊させ、過疎化を加速させ、国土の荒廃を招いているのではないのか。栄村の事例から学ぶべきことは多いはずだ。

 「栄村ホームページ」:http://www.vill.sakae.nagano.jp/

“貴あれば賎あり”ということ

2008-01-16 23:16:42 | Weblog
 被差別をテーマにした小説『橋のない川』を書いた“住井すえ”(1902~1997)は、「石川君が心配だ」とずっと言っていたと、娘の“増田れい子”(元毎日新聞論説委員・エッセイスト)が語っている。

 <最後までその思いをもって、あの世へ行った。あの世へ行ったら天国か地獄かどちらがいいと聞かれると「地獄のほうがいい。昭和天皇も行ってるじゃないか。あの人といろんなことを話して、いろんなことを明らかにしたい。あの世へ行ってからの楽しみだ」といっていた。>(2005年5月24日・「狭山事件の再審を求める市民集会」http://www.sayama-case.com/appeal.html

 「石川君」とはもちろん、戦後最大の冤罪事件とされる「狭山事件」の[被告人]“石川一雄”氏のことである。

 参照:「狭山事件」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AD%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 「石川君が心配だ」と言っていた“住井すえ”は、永六輔との対談で「住井さんに影響を与えた方というのはいらっしゃいますか」と問われて「幸徳秋水ただ一人です」と答えている。

 <…あの6月2日か3日かに幸徳事件が新聞に発表になったとき、校長が子供を運動場に全部集めて訓辞をやったときにね、一から十まで私が考えているのと同じことを幸徳がいっているんですよね。だから私はこの世の中に同志がいた、と。校長が批判する貧富の差をなくす、天皇制という制度を廃止する、両方ともいいことだと私は思ったね。…>(住井すえと永六輔の『人間宣言(じんかんせんげん)』/光文社)

 その幸徳秋水が首謀とされた「幸徳事件」では、1910(明治43)年、「大逆罪」(旧刑法第73条「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」)に問われ12名が絞首刑に処せられた。
 
 参照:「幸徳事件」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E5%BE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 「狭山事件」同様この「幸徳事件」もいわゆる「権力」による謀略だったことは、戦後明らかになった隠匿資料によって暴かれたが、実は、当時から明治政府の謀略であることは周知のことであった。徳富蘆花は12名の処刑8日後、一高生への講演で述べている。

 <諸君、幸徳君らは、時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。新しいものは、つねに謀叛なのである。…
 身を殺しても、魂を殺す能わざる者を恐るるなかれ。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂である。…幸徳らは、政治上に謀叛して死んだ。死んでもはや復活した。墓は空虚だ。いつまでも墓に縋りついてはならぬ。>

 戦前も戦後も「権力」(もしくは「権威」)の実相に変わりはない。野間宏・安岡章太郎編『差別~その根源を問う上・下』(朝日選書)は、被差別出身の作家中上健次や在日朝鮮人詩人の金時鐘、水上勉ら作家数人、民俗学者、弁護士による「狭山事件“最高裁決定”の背景を掘り起こす」としてその辺の事情にもふれていて格好の手引きである。

 1927(昭和2)年、軍隊内の差別問題で天皇に直訴し陸軍衛戌監獄に入獄し、戦後も解放同盟の指導者だった“北原泰作”は自著『の後裔~わが屈辱の抵抗と半生』(筑摩書房)でこんなことを書いている。

 <の住民はすべて浄土真宗の門徒であるが、老人はとくに熱心な信者であった。現世の苦悩は前世からの宿業だと信じている彼らは、ひたすら死後の世界に救いを求めて極楽浄土にあこがれた。後生願いといわれる人たちが主催して、年に一度はかならず先祖の霊をなぐさめるための合同法要がいとなまれた。西本願寺の布教師という肩書を持つ僧侶がその法要に招かれて、説教の講座にのぼった。
 ~鶴の脚は長い脚、亀の脚は短い脚、その身そのまんまのお助けじゃぞよ~
 高座の説教師が抑揚のある節をつけて法話を語ると、満員の信者たちは一斉に合掌して、「ありがとうございます」といい、「なまんだぶ、なまんだぶ」と念仏を唱えた。
 いわゆる節談説教というやつである。差別と貧乏に苦しむ彼らにとって、無差別平等の救いを約束する仏の教えこそ唯一の解放の光明であったのだ。>

 「一向一揆」敗退後に創出された被差別だが、それから400年後、民の心の支えとなったのは、あの自分たちを裏切ったはずの「転向宗教」であったことを“北原泰作”はあぶりだした。

 「鶴の脚」とは「貴」のことである。「亀の脚」とは「賎」のことである。「貴あれば賎あり」ということだ。“住井すえ”が「天皇制の廃止」をいうのは、これをなくさないかぎり「真の平等」はあり得ないとみるからである。

 最後に、「幸徳事件」に連座し、死刑から無期懲役に減刑された浄土真宗の僧侶・高木顕明師だが、事件後、浄土真宗大谷派は高木師を[ひん]斥処分にした。
 (注:[ひん]=手偏に賓)
 その経緯および戦後(事件から80年後)やっと処分取り消しを通達した大谷派本山の記録をリンクしておく。

 参照:「処分の経緯」http://www1.ocn.ne.jp/~jyosenji/taigiyakujiken.htm

    「処分取り消し」http://www1.ocn.ne.jp/~jyosenji/kokuji.htm

“親鸞”から「差別」の根源に迫る~河田光夫の『被差別民』

2008-01-14 12:09:04 | Weblog
 “親鸞”を祖師としていることから、「浄土真宗・本願寺」の創設者を“親鸞”と誤解している人も多い。「本願寺」創設にあたって、“親鸞”を祖とする“血脈相伝”をでっち上げた自称「第三代」“覚如”の著書『戒邪鈔』には、“親鸞”の言葉としてこんなことが記載されている。

 <某(それがし) 親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚(うお)にあたふべし>
(浄土真宗本願寺派発行『浄土真宗聖典』937頁)

 つまり“親鸞”は「わしが死んだら賀茂川に捨ててくれ」と言うのだ。このあと“覚如”はこう言っている。

 <これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしますゆゑなり。これをもっておもふに、いよいよ喪葬(もそう)を一大事とすべきにあらず、もっとも停止(ちょうじ)すべし。>
 (注:喪葬=死者の喪(も)と葬式。)

 祖師“親鸞”の教えは「信心為本(信心を本とす)」なのだから、死者の喪や葬式にこだわってはならない、と“覚如”は言うのだ。この言説を正直に解釈すれば、「弥陀の本願を信じさえすれば誰でも救われる」ということで、死者の喪や葬式に格式(身分、家柄)などはないと読める。ところが、およそ200年後の“蓮如”が祖師“親鸞”の「信心為本」を、(時代的背景がそうさせたと言えなくもないが)「王法為本(国法を本とす)」へと導いて権力に迎合したことが、ひいては「一向一揆」敗退後の統治システムとしての「被差別」を創出し、「寺」や「差別戒名」の受容へと「転向宗教」の道を歩むことになったのだ。

 
 「差別」を根源的に問い続けた人の一人に“河田光夫”(1938~1993)という人がいる。終生、大阪府立今宮工業高校定時制に勤務しながら「“親鸞”と被差別民」を研究し続けた人である。1983年、定時制高校の軟式野球大会があって、当時の中曽根総理大臣が、「昼働いて、夜、一生懸命勉強しているにもかかわらず、皆さんは非常に明るい」と挨拶した。何々にもかかわらず明るい。苦労している“のに”明るいという見方だった。それが崩れるまで数年かかった、と河田光夫は言っている。どういうことだろう。

 <そうじゃない、“のに”じゃなくて、“そうであるから”明るさを持っているわけなんですね。苦労して働いている、だから明るさがある。>

 定時制の中には被差別の生徒がいる。無免許で単車を乗り回して事故起こして学校に居つかないのがいて、部落研の生徒がそいつに「お前、今度単車乗ったらしばき上げるぞ!」と怒鳴りつける。こういう言葉に込められている、ほんとうの人間の温かさというのが、なかなか感じとれなかった。

 <一見非常に粗野に見えて、非常に荒っぽく見えて、その中に、大学を出た我われの仲間の世界にはない温かさというものが、感じられるわけです。
 それを、「苦労している“のに”」じゃなくて「苦労している“から”」そういう人間的輝きをもつことができるんだということに気がついた時、ハッとして、そこに親鸞の「悪人である“から”往生するんだ」と、「悪人である“から”ひとえに他力をたのみたてまつるんだ」という論理に気がつくわけです。>

 上の話は河田光夫著『親鸞と被差別民衆』(明石書店)にあるのだが、本書は1984年9月、真宗教学研究所での講演録である。講演の主題はもちろん「差別」だが、“親鸞”の教説に頻出する「悪人」とはどういうものかを当時の資料からまず確認する。“親鸞”の時代に『塵袋(ちろぶくろ)』という「辞典」があって、それに「キヨメニエタト云フハ何ナル詞バゾ」とあって、「エタ」ということが取り上げられているが、種々説明しているものの「エタ」を“穢れ”とは捉えておらず、総じて「悪人」と呼んでいる。「差別」とは言ってもいわば「悪人差別」で、「けがれ差別」が出てくるのは室町時代以後であると指摘する。河田光夫は“親鸞”の「悪人正因説」をこういう視点から解き明かしているわけだ。

 <例えば殺生を生業としている被差別民には、殺生戒というのありますから、これははじめから、持戒持律に進もうとする気持ちがないわけです。それだったら生活できませんから、自分で悪を離れて善へ進もうという自力の心ははじめからないわけです。この、はじめからないというその存在、実はこれこそ最高の存在じゃないですかね。>

 “親鸞”は「自力の心を捨てる」とたびたび書いているが、人間にとって「捨てる」ということがどんなに難しいことか“親鸞”自身がよく知っている。ところがよく考えてみると、被差別民たちは「捨てるべき物」は何も持っていないのだ。

 <つまり、親鸞が到達する目標自体が、被差別民と接する中で形成されてきたんじゃないかと、私は思います。被差別民が、造像起塔・持戒持律、そんなものをしようとする心がみじんもないし、また、そんな自力の心に揺れようとする誘惑さえもまったく持っていない、はじめから他力そのままの存在として、存在している。>

 人間にとって至難な自力の心を「捨てる」こと、“親鸞”が追求する「他力本願」が被差別民衆の中では生活として存在していた。河田光夫は“親鸞”の悪人正因思想の系譜として『宣言』をあげこう言っている。

 <「人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間をいたわる事が何んであるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛(がんぐらいさん)するものである」。私はこの文章をいつもこういう論理で読みとるんです。人の世の冷たさがどんなに冷たいかということを一番自分たちが知っている。“だから”それゆえに、ここを決して“にもかかわらず”と言うたらいかんです。はじめに言った中曽根氏の論理になってしまう。…心から熱と光を願求礼賛する、これはやはり親鸞の悪人正因思想、悪人なるがゆえに持つことができる、阿弥陀仏に対する、他力をたのみたてまつる信心、熱烈な信心、これがここでは人生の熱と光を願求礼賛すると書いてますが、やはりそこに悪人正因思想の系譜をみることができると思います。>

 河田光夫がこうした見解に辿りつくには「差別」を根源的に見据える目が必要だった。河田光夫は「宗教というのは、一つの差別思想である」という。つまり、宗教には必ず救われる者と救われざる者というのが設定される。これを「宗教的差別」と呼んでいる。

 <ただ大事なのはこの宗教的差別がしばしば社会的差別と結びつく、つまり法敵を非難する時によく差別用語が出てくる。…日蓮も『法華経』を信じない者を罵倒する中で、あんな者はみんな「ライ者」になるんだというようなことを言っています。
 親鸞もいっていますね。…弾圧者に対して、眼のない人のようだ耳のない人のようだ、と云う言葉を使っています。
 親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」があります。これは私、平等思想とはやはり呼びたくない。これは善人を差別した思想なんです。…>

 ここまで「差別」を掘り下げた上で、河田光夫が“親鸞”から発見したことは、「差別があるという事実を否定しないで、差別に目をつむるのではなく、差別されている人びと“こそ”が仏の本願にかなう人々である(救われる)と説く、この宗教的差別によって社会的差別を転倒させてしまった論理にあった。

 
 いわば市井の研究者に過ぎなかった河田光夫は、学会で脚光をあびることはなかったようだが、「親鸞研究」をとおして「被差別民衆」に迫った独自の研究は、解放同盟や仏教団体の各種解放研、あるいは「古田史学」で知られる古田武彦を囲む人びとの支持を得て、研究の輪は広がっていった。これからのさらなる研究展開が待ち望まれていたが、急逝されたのである。『河田光夫著作集』全三巻は私の貴重な財産となっている。


 参照:「“親鸞”の教えとは?」http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070920

被差別部落形成は“一向一揆”の敗退後~本願寺も一役

2008-01-12 10:58:13 | Weblog
 「被差別の発生」には諸説あって未確定とみてよさそうだが、「一向一揆」との関係を重視する有力な説がある。つまり、織田・豊臣政権が天下統一を成し遂げるには「一向一揆」衆の討伐が最大の課題だったが、このとき討伐された「一向衆」が身分を貶められ、一定地域に定住させられたというのである。

 周知のとおり「一向」とは「浄土真宗」の別称「一向宗」を指す。浄土真宗第3代法主“覚如”が祖師“親鸞”の遺志に背いて本願寺を創設したが、“親鸞”の関東門徒衆、中でも高田専修寺や仏光寺教団が隆盛で、本願寺は「さびさび」たるありさまだった。本願寺の興隆は第8代法主“蓮如”の功績によるとされている。比叡山など旧仏教の妨害を受けながら“蓮如”は、持ち前の人柄と「六字名号」(南無阿弥陀仏)や「十字名号」(帰命尽十方無碍光如来)の下付という独特の布教法で近江、美濃、越前、越後などへ教線を拡げていく。“蓮如”には5人の妻に27人の子どもがあり、それぞれ各地の寺院と縁を結んで地盤を強化していった。(参照:5月28日の記事:『浄土真宗・中興の祖“蓮如”をどうみるか』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070528
 
 この“蓮如”の教線拡大の過程で生まれたいわば「鬼子」が「一向一揆」なのだ。

 中世後半になると、いわゆる「下克上」の時代。1467年に守護大名同士が争った「応仁の乱」をきっかけに、戦乱は全国に広がり約一世紀続く。史上初の一揆は1428(正長元)年に起きた「正長の土一揆(徳政一揆)」。このあと民衆の政治的要求である「土一揆」はあちこちで頻発する。一方、「一向一揆」は信仰と結びついて団結した民衆の強力な権力闘争へと発展するが、最初の「一向一揆」は1466年、近江で発生した。後に「王法為本(国法を本とする)」を鮮明にする“蓮如”は、この「一揆」を押さえにかかるが、民衆の政治的要求は高まるばかりで、1474年越前、1480年越中、1488年加賀、1532年畿内、1563年三河、1567年伊勢、そして1570年の「石山本願寺合戦」へとなだれ込んでいく。特に加賀では、「百姓の持たる国」(加賀100万石)がおよそ100年続いたのである。

 天下統一を目指す織田信長の最大の課題は、この「一向衆」の平定にあった。“蓮如”が隠居寺として建てた石山本願寺(1497年建立:現在の大阪城一帯)は、孫の証如の代(1533)には寺域が拡大され、堅牢な堀・塀を擁する要害と化していた。1554年、死んだ証如の跡を継いだ第11代法主・顕如が織田信長陣と対決することになるが、この「石山本願寺合戦」は1570年から足掛け11年間にわたる壮絶な戦いであった。結局、信長は殲滅手段をとらず「勅命講和」を選び、講和条件に「惣赦免」(全員の生命の保証)と「大坂退城」を提示、本願寺方はこれを受け入れ降伏する。

 信長死去(1582)のあと、天下統一事業を継承した豊臣秀吉は、各地に残る一揆討滅に力を注ぐ。たとえば1585(天正13)年3月、紀州の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆討滅には10万余の大軍をさしむけた。根来寺衆の城といわれた千石堀城には雑賀・根来衆1500人とその家族を含めて5000人近い人が立て篭もっていたが、秀吉軍に包囲され全員焼き殺された。雑賀衆の砦・太田城を攻撃した秀吉は、同年3月27日、家臣前田玄以にあてた書状で、雑賀衆を獣とみなし「鹿垣(ししがき)」をめぐらして一人も漏らさず「干殺(ひごろし)」にするといい、秀吉得意の水攻めで雑賀衆は一ヵ月後に降伏、百姓は助命したが、首謀者53人は首を刎ねさせ、わざわざ天王寺・阿倍野に運び、そこに晒して見せしめにし、さらにその女房たち23人を太田村において磔にした。
 
 秀吉は一揆解体をすすめる一方「刀狩り」を始め、また明智光秀を破った直後から「検地」にとりかかる。検地は1歩を6尺3寸四方とし、300歩を1反とした。田畑の等級も上・中・下・下々に分け、石盛(こくもり:反当り平均収穫量)も定められ、枡(ます)も京枡に統一された。この検地政策は政治的、経済的、社会的影響がきわめて大きく、近世身分制の根幹をなす兵農分離が推進され、やがて士・農・工・商・(えた)・の階級社会を形成する。

 「近世の成立過程」を考察した寺木伸明は「寺院の開基年代に古いものが少なくなく、実際、一向一揆にかかわっていたの先祖も確認されることから、一向一揆、とくに最後まで頑強に抵抗した部分が粛清されて身分貶下(へんか)され、近世に組み込まれた場合のあった可能性は否定できない。」(『被差別の起源』/明石書店)と述べているが、もっと直截な見解を示しているのは石尾芳久著『続・一向一揆と』である。
 注:「貶下」=身分や地位を落とすこと。

 石尾芳久は、といわれる人々の原型である「かわた」(牛馬等の皮剥ぎなど卑賤な職の者をさす)、警察・行刑役(首討ち役など)を科せられた「かわた村(役人村)」、一向一揆が勅命講和によって終息した1580(天正8)年以降に変化する「差別戒名」にふれつつ、次のように述べている。

 <天正13年(1585)これは最後の一向一揆といわれる根来・雑賀一揆が粛清された重大な時です。寺社領の検地がこの粛清により可能になったといわれます。全国的な太閤検地といいますのは、最後の一向一揆を滅ぼした時から可能になったのですが、丁度その時に「かわた」身分差別と「役人村」と「差別戒名」の三者が必然的な関係をもって、権力とそれに合体した転向宗教によって行使されたということは疑うことのできない事実であると思います。>

 ここで「転向宗教」というのは、10年にもおよぶ信長との戦いに門徒衆を巻き込みながら「勅命講和」を受け入れて権力に恭順した顕如・「本願寺」を指している。実は本願寺は「転向宗教」であるばかりか、最後まで抵抗した末々の門徒衆を無惨にも裏切っているのだ。一例を挙げれば、秀吉による天正13年の根来寺攻撃に際し、根来の裏坂よりの攻略の道を教えたのは顕如の指示を受けた貝塚願泉寺の坊主だという。さらに、信じ難いことだが、「寺(穢寺ともいう)」の創設に本願寺が深く関与していることである。

 参照:「寺」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%A2%E5%A4%9A%E5%AF%BA

 石尾芳久は、一向一揆が勅命講和で終息した天正8年(1580)、「差別戒名」が決定的な変化を示していることに注目している。最古の「差別戒名」手引書である『貞観政要格式目』の「三家者位牌」には“連寂白馬開墳(某甲)革門○”とあるのに対し、天正8年以後には“連寂白馬開墳(某甲)革門卜○”と、「○」が「卜○」に変化している。「○」は「霊」の略字、「卜」は「歩」の略字で、「歩」は十分の一という意味だから「卜○」は十分の一の仏性となる。こう指摘して石尾芳久は次のように言っている。(注:○は大の上にヨと書き、霊の略字とされている)

 <…天正8年以後、差別戒名が決定的となり、本格的になったのです。これは真の仏教では考えられないことです。人間性の絶対平等こそ真の意味の仏教、すなわち救済宗教としての仏教の本義であろうと私は考えます。これが死後も十分の一の仏性しか認めないということでは、現世の身分体制が死後も続くということを認めることになります。…権力の手先になってしまって本来の宗教を忘れて呪術に転化してしまった形骸的宗教・転向宗教と考えられると思います。>

 この後、石尾芳久は本願寺・顕如が太田城で戦って助命された「残之衆」にあてた手紙「太田退衆中へ 顕如」を取り上げ、<最後の一向一揆を闘った人たち、「太田退衆」「残之衆」がたしかに「かわた」身分に身分をおとされているという事実をここに確認することができる。>と結論している。

 参考資料:神田千里著『一向一揆と真宗信仰』(吉川弘文館)
      寺木伸明著『被差別の起源』(明石書店)
      石尾芳久著『続・一向一揆と』(三一新書)
      大阪人権歴史資料館編『日本の歴史と人権問題』(解放出版社)