耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

最後の遣唐使~“円仁”の菩薩行 ー その2

2008-01-06 08:57:11 | Weblog
 「廃仏」の嵐は吹き荒れていた。843(会昌3)年4月中旬には「勅がくだって全国の摩尼(まに)教の布教者を殺させた。髪を剃って袈裟をつけさせ僧の姿にしてから彼らを殺した」と書いている。

 <6月13日。東宮職長官の韋宗卿は「涅槃経疏」20巻を天子にたてまつった。今上天子はご覧になったあと、この経疏を火にくべ焼き棄ててしまった。…その際の勅文は左のとおりである。
 
 “かたじけなくも高位に列する者は当然儒教の精神に従うべきである。しかるに邪説に溺れるのは、これこそ妖しげな気風を煽動することであり、すでに誘惑の端緒を作ったことになり全く中国の三王五帝の書の趣旨に反している。…孔子・墨子の教えを広く普及させることをしないで、逆に仏陀を信じ溺れ、やたらに仏教書を作り軽々しく天子にたてまつってきた。このうえ中国の民衆が長くこの悪い習慣に染まってしまうことは断じて許し難い。…
 会昌3年6月13日  勅をくだす”>(深谷憲一訳『入唐求法巡礼行記』/中公文庫:以下<>は同書)

 教典だけでなく、仏像・菩薩像・天王像などが破却され、長安城内の商店街も多数焼かれた。かわって“老子”を祖とする「道教」が幅を利かせるようになる。この動乱の中、会昌3年7月24日、これまで行を共にしてきた弟子の一人“惟暁”が死ぬ。

 <7月25日。…
 日本国僧円仁の弟子の亡き僧惟暁について
 右、円仁の弟子僧惟暁はなくなりましたが、また困ったことには土地を買う金もありません。どうか寺の三綱(三役僧)の和尚のご慈悲によって一墓地を与え賜わり、埋葬させていただきたくお願いいたします。…
  会昌3年7月25日          日本国僧円仁謹しんで記す
 寺の役僧は事情を了解して一墓地を与えてくれた。>

 仏教弾圧が続くなかで“円仁”は帰国願いを出し続けていた。

 <5月14日。
 そもそも会昌元年からこれまで功徳使を通じて文書を提出し、日本国に帰りたいと請願すること合計百余回に及んだのだった。また以前数人の有力者に頼んで物を贈ったりなどして帰国の許可を得ようとはかったが、どうしても帰国することを認められなかった。それなのに今、僧尼が強制的に還俗させられるという災難に遭うことによってまさしく帰国することができるようになったのである。一方では廃仏のことを悲しみ、一方では帰国できることになったことを喜んだ。>

 845(会昌5)年5月15日、混乱の中、多くの人々に見送られ“円仁”は長安を出立する。ある仏弟子は「行く先々にある州県の旧知の役人宛」に手紙をしたため、他の人たちは餞別に「絹二疋」「蒙頂茶二斤」「団茶一串」「銭二貫文」「呉綾十疋」「檀香木一本」「和香一びん」「フェルトの帽子二つ」「銀字の金剛経一巻」「軟らかいくつ一足」などなど、「いちいち詳しく記録することができない」ほど贈られる。別れを惜しんで一人が言う。

 <あなたの仏弟子李元佐は輪廻多生してお会いできてしあわせでした。和尚が遠く日本からやって来られて仏法を求める時に遭うことができ、数年の間供養をいたしましたが、心はまだ十分満足しておりません。一生和尚のお近くを離れ難く思っております。和尚はいま天子の災難に遭って日本に帰って行こうとしています。その弟子が考えますに、今生ではまさに再びお会いすることはあり得ないでしょう。来世には必ず諸仏のおられる浄土でまた今日のように和尚の弟子となりましょう。和尚が成仏されるときにはどうかこの弟子のことを忘れないでください、云々>

 “円仁”が人々にいかに敬愛されていたかがわかる。長安を出て2年4ヶ月後の847(会昌7)年9月2日、赤山浦を出航し、9月18日、博多の鴻ろ舘に着く。筆舌に尽くし難い辛苦の旅程であったことは、このとき命を賭して持ち帰ったものの一覧を見れば分かるだろう。

【入唐新求聖教目録】
 
 長安・五台山および揚州などで求めた経論・念誦の法門および章疏・伝記等すべて計584部、802巻。胎蔵・金剛両部の大曼荼羅および諸尊の壇像、舎利ならびに高僧の真影など合わせて計50点。このうち長安城に滞在中に求めた経論・章疏伝等は423部、559巻、胎蔵・金剛両部の大曼荼羅および諸尊の曼荼羅・壇像その他道具等が21点である。また五台山にあって求めた天台の教跡および諸章疏伝は34部、37巻と五台山の土石など3点である。揚州で求めた経論・章疏伝等は128部、198巻、胎蔵・金剛両部の大曼荼羅および諸尊の壇像、高僧の影像と舎利等22点である。


 帰国時の“円仁”は54歳で、71歳で没している。没後2年にして大師号が諡(おく)られ「慈覚大師円仁」と呼ばれるが、これは比叡山延暦寺を開いた“円仁”の師・伝教大師最澄とともに賜わったわが国では最初の大師号である。大師といえば弘法大師空海が有名だが、空海は没後86年目、最澄、円仁より55年後に大師号を賜っている。

 それはともかく、“円仁”の『入唐求法巡礼行記』は特筆すべき記録である。われわれ日本人は一読する義務がありはしないだろうか。


 参照:「“円仁”と多神教」http://www.st.rim.or.jp/~success/ennin_ye.html