耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“親鸞”から「差別」の根源に迫る~河田光夫の『被差別民』

2008-01-14 12:09:04 | Weblog
 “親鸞”を祖師としていることから、「浄土真宗・本願寺」の創設者を“親鸞”と誤解している人も多い。「本願寺」創設にあたって、“親鸞”を祖とする“血脈相伝”をでっち上げた自称「第三代」“覚如”の著書『戒邪鈔』には、“親鸞”の言葉としてこんなことが記載されている。

 <某(それがし) 親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚(うお)にあたふべし>
(浄土真宗本願寺派発行『浄土真宗聖典』937頁)

 つまり“親鸞”は「わしが死んだら賀茂川に捨ててくれ」と言うのだ。このあと“覚如”はこう言っている。

 <これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしますゆゑなり。これをもっておもふに、いよいよ喪葬(もそう)を一大事とすべきにあらず、もっとも停止(ちょうじ)すべし。>
 (注:喪葬=死者の喪(も)と葬式。)

 祖師“親鸞”の教えは「信心為本(信心を本とす)」なのだから、死者の喪や葬式にこだわってはならない、と“覚如”は言うのだ。この言説を正直に解釈すれば、「弥陀の本願を信じさえすれば誰でも救われる」ということで、死者の喪や葬式に格式(身分、家柄)などはないと読める。ところが、およそ200年後の“蓮如”が祖師“親鸞”の「信心為本」を、(時代的背景がそうさせたと言えなくもないが)「王法為本(国法を本とす)」へと導いて権力に迎合したことが、ひいては「一向一揆」敗退後の統治システムとしての「被差別」を創出し、「寺」や「差別戒名」の受容へと「転向宗教」の道を歩むことになったのだ。

 
 「差別」を根源的に問い続けた人の一人に“河田光夫”(1938~1993)という人がいる。終生、大阪府立今宮工業高校定時制に勤務しながら「“親鸞”と被差別民」を研究し続けた人である。1983年、定時制高校の軟式野球大会があって、当時の中曽根総理大臣が、「昼働いて、夜、一生懸命勉強しているにもかかわらず、皆さんは非常に明るい」と挨拶した。何々にもかかわらず明るい。苦労している“のに”明るいという見方だった。それが崩れるまで数年かかった、と河田光夫は言っている。どういうことだろう。

 <そうじゃない、“のに”じゃなくて、“そうであるから”明るさを持っているわけなんですね。苦労して働いている、だから明るさがある。>

 定時制の中には被差別の生徒がいる。無免許で単車を乗り回して事故起こして学校に居つかないのがいて、部落研の生徒がそいつに「お前、今度単車乗ったらしばき上げるぞ!」と怒鳴りつける。こういう言葉に込められている、ほんとうの人間の温かさというのが、なかなか感じとれなかった。

 <一見非常に粗野に見えて、非常に荒っぽく見えて、その中に、大学を出た我われの仲間の世界にはない温かさというものが、感じられるわけです。
 それを、「苦労している“のに”」じゃなくて「苦労している“から”」そういう人間的輝きをもつことができるんだということに気がついた時、ハッとして、そこに親鸞の「悪人である“から”往生するんだ」と、「悪人である“から”ひとえに他力をたのみたてまつるんだ」という論理に気がつくわけです。>

 上の話は河田光夫著『親鸞と被差別民衆』(明石書店)にあるのだが、本書は1984年9月、真宗教学研究所での講演録である。講演の主題はもちろん「差別」だが、“親鸞”の教説に頻出する「悪人」とはどういうものかを当時の資料からまず確認する。“親鸞”の時代に『塵袋(ちろぶくろ)』という「辞典」があって、それに「キヨメニエタト云フハ何ナル詞バゾ」とあって、「エタ」ということが取り上げられているが、種々説明しているものの「エタ」を“穢れ”とは捉えておらず、総じて「悪人」と呼んでいる。「差別」とは言ってもいわば「悪人差別」で、「けがれ差別」が出てくるのは室町時代以後であると指摘する。河田光夫は“親鸞”の「悪人正因説」をこういう視点から解き明かしているわけだ。

 <例えば殺生を生業としている被差別民には、殺生戒というのありますから、これははじめから、持戒持律に進もうとする気持ちがないわけです。それだったら生活できませんから、自分で悪を離れて善へ進もうという自力の心ははじめからないわけです。この、はじめからないというその存在、実はこれこそ最高の存在じゃないですかね。>

 “親鸞”は「自力の心を捨てる」とたびたび書いているが、人間にとって「捨てる」ということがどんなに難しいことか“親鸞”自身がよく知っている。ところがよく考えてみると、被差別民たちは「捨てるべき物」は何も持っていないのだ。

 <つまり、親鸞が到達する目標自体が、被差別民と接する中で形成されてきたんじゃないかと、私は思います。被差別民が、造像起塔・持戒持律、そんなものをしようとする心がみじんもないし、また、そんな自力の心に揺れようとする誘惑さえもまったく持っていない、はじめから他力そのままの存在として、存在している。>

 人間にとって至難な自力の心を「捨てる」こと、“親鸞”が追求する「他力本願」が被差別民衆の中では生活として存在していた。河田光夫は“親鸞”の悪人正因思想の系譜として『宣言』をあげこう言っている。

 <「人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間をいたわる事が何んであるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛(がんぐらいさん)するものである」。私はこの文章をいつもこういう論理で読みとるんです。人の世の冷たさがどんなに冷たいかということを一番自分たちが知っている。“だから”それゆえに、ここを決して“にもかかわらず”と言うたらいかんです。はじめに言った中曽根氏の論理になってしまう。…心から熱と光を願求礼賛する、これはやはり親鸞の悪人正因思想、悪人なるがゆえに持つことができる、阿弥陀仏に対する、他力をたのみたてまつる信心、熱烈な信心、これがここでは人生の熱と光を願求礼賛すると書いてますが、やはりそこに悪人正因思想の系譜をみることができると思います。>

 河田光夫がこうした見解に辿りつくには「差別」を根源的に見据える目が必要だった。河田光夫は「宗教というのは、一つの差別思想である」という。つまり、宗教には必ず救われる者と救われざる者というのが設定される。これを「宗教的差別」と呼んでいる。

 <ただ大事なのはこの宗教的差別がしばしば社会的差別と結びつく、つまり法敵を非難する時によく差別用語が出てくる。…日蓮も『法華経』を信じない者を罵倒する中で、あんな者はみんな「ライ者」になるんだというようなことを言っています。
 親鸞もいっていますね。…弾圧者に対して、眼のない人のようだ耳のない人のようだ、と云う言葉を使っています。
 親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」があります。これは私、平等思想とはやはり呼びたくない。これは善人を差別した思想なんです。…>

 ここまで「差別」を掘り下げた上で、河田光夫が“親鸞”から発見したことは、「差別があるという事実を否定しないで、差別に目をつむるのではなく、差別されている人びと“こそ”が仏の本願にかなう人々である(救われる)と説く、この宗教的差別によって社会的差別を転倒させてしまった論理にあった。

 
 いわば市井の研究者に過ぎなかった河田光夫は、学会で脚光をあびることはなかったようだが、「親鸞研究」をとおして「被差別民衆」に迫った独自の研究は、解放同盟や仏教団体の各種解放研、あるいは「古田史学」で知られる古田武彦を囲む人びとの支持を得て、研究の輪は広がっていった。これからのさらなる研究展開が待ち望まれていたが、急逝されたのである。『河田光夫著作集』全三巻は私の貴重な財産となっている。


 参照:「“親鸞”の教えとは?」http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070920