耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

痛ましい不慮の死~友人の「忌明け法要」に出席して

2009-06-29 12:14:14 | Weblog
 昨日は、先月、不慮の事故で急死した友人の「忌明け法要」に出席した。鹿島市で開く定例の「同級生囲碁会」で顔を合わせた四日後の夜、世話役の T 君から「O.Y君が自宅の裏山で死んだらしい」と電話があった。陶磁器の窯元を息子に譲って事業は続けているといっていたが、当初は事情がわからないまま、仕事上の悩みでもあって自殺したのではないかと仲間内では憶測が飛びかった。後で聞いた奥さんの話。
「野イチゴ採ってくるよ、と声をかけ出て行って間もなしでした。通りかかったトラックの運転手さん(自宅兼窯元は“旧長崎街道”に面している)が崖下に倒れているのを見つけ、119番通報してくれたんです。ほんの2メートルほどの高さで、よほど打ち所が悪かったのでしょう」

 Y 君とは高校時代サッカー部で一緒、おまけにお互いの実家が「焼き物屋」だったので特別親しかった。彼の姉さんは有名な陶芸家・小野珀子さん(1925~1996)。「釉裏金彩」の技法で“豪華絢爛で幽玄な世界観”を表現したと評され、国立近代美術館はじめ国内外の美術館が収蔵、今もあちこちで遺作の個展が開かれているようだ。佐賀県重要無形文化財保持者だった。Y 君は一時期、父親が創始した「琥山窯」を兄弟で経営していたが、今は分離独立し、息子に譲って悠々自適の身だった。


 法要は地元禅寺の同級生僧侶 K 君が“般若心経”“観音経”を唱えるなかしめやかに行なわれた。私は、友人と相談の上『別辞』を用意して行き、彼との交友を織り交ぜ、最後を次のように結んだ。
 
 <…川柳作家の井上信子さんの句に

   一人去り 二人去り 仏と二人

 とありますが、いずれは仏の身元に行く「倶会一処」のわが身です。
 「諸行無常」といい「一期一会」といいますが、Yちゃん、縁あってこの世で君に出会えてよかった。すばらしい想い出をくれた君に、心から感謝し、無念の思いを抱きつつも「さようなら」を言います。
 Yちゃん、安らかにお眠りください。>


 いろいろの出会いがあると同時に、いろいろな別れがある。死期の迫った良寛和尚をみとる貞心尼の様子を水上勉は『良寛』(中公文庫)で書いている。

 <…手をつくし、遠からず逝きたまうお方かと思えば、かなしくなって、ついわれしらず
 
  生き死にの界(さかい)はなれて住む身にも避らぬ別れのあるぞかなしき

 ともらすと、良寛は、それを耳に入れたとみえ、力なく、つぶやくように返した。

  うらをみせおもてをみせて散るもみぢ >


 本来、死とはこういうもの。不慮の死に見舞われる人間の不幸ほど痛ましいものはない。



 

『まんが日本昔ばなし』:「貧乏神と福の神」~ほどほどが一番という話

2009-06-27 10:10:17 | Weblog
 金さえあればなんでも手に入る世の中だが、「豊かさ」の実感はそれほどでもない。まして、“ワーキングプア”などという政治的遺物が存在する社会では「豊かさ」など夢のまた夢だろう。こんな時ふっと、思い出されるのが宮沢賢治の『雨ニモマケズ』である。

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋(イカ)ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル
 一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンヂャウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 小サナ萱(カヤ)ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコワガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒデリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ


 ずいぶん昔のことだが、民間放送夜7時のゴールデンタイムに『まんが日本昔ばなし』という番組があって楽しみに視ていた。市原悦子と富田富士男のなんともいえない包み込むような語りにゾクゾクした覚えがある。その一つを『youtube』でご覧いただきたい。宮沢賢治が思い描く人のおはなしである。


「貧乏神と福の神」:http://www.youtube.com/watch?v=XRhKULxyQ5o&feature=related

「虫が減って受粉できない」~だが、Aさんの畑ではスイカが豊作

2009-06-25 09:31:15 | Weblog
 やっと梅雨らしくなって雨が続き、畑の野菜も元気になった。それはいいが、雨で一日畑に出なかったら、自然生で元気がよく鈴なりの実をつけているミニトマトに“テントウムシダマシ”がびっしりたかって、ほぼ半分の葉を食い荒らしていた。この“テントウムシダマシ”はナスにもたかって、葉っぱを網の目にしている。昨日は朝から捕殺に大わらわだった。マクワウリやカボチャ、キュウリには朽葉色の“ウリハムシ”がつく。この虫は近づく人影を察知するとたちまち飛び去るので、なかなか捕殺できない。地主のおばさんが「朝方なら捕りやすい」というので、早めに行って確かめたら本当だった。昼間とくらべ確かに逃げ足が鈍い。昔の人はよく知っている。無農薬野菜づくりは先人に学びながら害虫との闘いである。ネット検索で知ったが、唐辛子とニンニクの煮汁を冷まして竹酢液を加え、これを噴霧器で散布すればよいとあった。さっそく試してみるつもりである。

 囲碁仲間の A さんが「サツマイモの苗はいらんかネ」というので、貰いに行った。自宅の裏庭に苗床があって、50本ほどいただいた。その苗床のすぐ傍にニホンミツバチの巣箱があり、ハチが飛び回っている。ひと月ほど前、桃の木に「ハチ玉」ができたので、専門家に問い合わせ仮の巣箱を作って入れている話は聞いていたが、専用の巣箱を買い求めて本格的に飼いはじめたらしい。現在の巣箱は二段で、間もなく三段目をつぎ足すと言う。巣箱の位置が邪魔で、ハチが巣箱に戻った夜、5メートルほど移動させたところ、ハチが巣箱を離れもとの場所に戻ってしまった。専門家に電話して訊くと「巣箱をすぐもとの場所に戻しなさい」といわれたので、巣箱を戻すとハチが全部巣に戻ったと驚いていた。ニホンミツバチとセイヨウミツバチの違いをいろいろ教えられ、A さんは「一からハチの習性ば勉強しとっとバイ」と言う。

 ついでに A さんの畑に案内してもらった。友人三人で借りている畑はかなり広い。目についたのはスイカだ。彼の借地三ヵ所では20センチほどのスイカがゴロゴロ実っている。思わず「イヤー、すごいネェ!」と声をあげた。A さんは、上の方の本百姓は「今年はスイカが結果しない」と嘆いているが、自分は朝の散歩前に雄花と雌花を受粉させたという。私は地主のおばさんが「カボチャは受粉させないと成らないよ」と言っていたことを思い出した。A さんは「今年はキュウリの実つきが悪いが虫がいないからだろう」という。そういえば、うちの節成りキュウリも実つきが悪い。今さらながら環境の微妙な変化に驚かされる。


 早朝5時40分からNHKラジオで「健康講話」をやっているが、今週のテーマは「体内時計と健康」で、東京女子医大の大塚教授が興味深い話をしている。すべての生物は太陽や月など宇宙の運行に同調する体内時計を持っていて、その時計に狂いが発生すると生体に異常が生じる。この事実は随分昔からわかっていたが、最近、遺伝子レベルで疾病や死との関連が検証されているらしい。A さんのミツバチの話とも関連し、以前切り抜いていた新聞記事(『毎日新聞』?)からミツバチの「体内時計」について引用しておく。


 <あらゆる虫たちのなかでも特殊な行動形態と機能性を持つのがミツバチです。ミツバチは、その脳の中に「サーカディアン・クロック(リズム)」と呼ばれる約24時間周期で振動している時計機構をもっています。
 たとえばセイヨウミツバチの場合、女王蜂と雄蜂の交尾飛行の時間帯は午後1時~3時。これは遺伝的に決められていて、彼らはデートの時間を勝手に変えることはできません。この、神秘的でかつ非常に正確なミツバチの体内時計は、太陽の運行つまりは光の明暗サイクルに連動させ綿密につくりあげられるメカニズムです。
 ミツバチの体内時計の使い方を知ると、さらにその高度性に驚かされます。そのひとつが「時刻学習」と呼ばれる方法です。
 ミツバチの生活はとても効率的に進められるようになっていて、彼らは少しでもたくさんの濃い蜜をできるだけ労少なく集めようとします。そこで、花が蜜を一番よく出す時間帯を記憶して毎日その時間がくればその花を訪れるという風に時計を利用するわけです。この時間の記憶活動は、ひとつの花だけではなく、A という花なら10時、B は11時……と複数の時刻をデータとしてインプットし毎日設定時間がくるとベルが鳴るタイマーのような働きをします。

 もうひとつは、「時間調整」のメカニズムです。ミツバチは、太陽コンパスを使って密のありかをみつけますが、太陽の運行は季節によって多少のずれがあります。この太陽の動きと体内時計とを連動させて頭の中で計算し、時刻によって角度を補正していきます。
 さらにミツバチの世界では、仲間うちでの時刻情報を交換し合ってもいます。「今何時?」「「もうすぐ1時」とはいかないまでも、ミツバチ同志は暗い巣箱のなかに集まって、互いに体内時計を調整しあうミーティングを開いていることが発見されています。>(資料提供/玉川大学ミツバチ科学研究所)


 この「時計を抱いた生き物たち」という特集には“時を告げる花の美学”“太陽と月に示されてひとは生まれるという……おはなし”などの記事があり、生命の不思議を紹介している。益虫、害虫を問わず、畑の虫たちはまわりの植物と共存しているとみるべきなのだろう。それにしても、大切に育てている野菜を食い荒らす虫には、我慢ができぬ!

明治の「コレラ一揆」と“豚インフル”騒動~「お上」の頭は同じ

2009-06-23 11:35:18 | Weblog
 『厚生労働省崩壊』(講談社)をこの3月に出版した厚労省の現役医系技官・木村盛世さんの「オフィシャルサイト」6月12日の記事。

 <WHOがフェーズを5から6にあげました。つまり世界中に新型インフルエンザが蔓延している(パンデミー)の状態です。
 これをうけて我が国の政府はどう動くのでしょうか。

 おそらく霞ヶ関は頭を抱えていることでしょう。なぜなら間違った行動計画を作成し、検疫偏重を続けたために国内対応がおろそかになり、きちんとした疫学調査など二の次三の次になったからです。
 はたしてどこにどれだけ患者がいるのか定かではありません。このため国内レベルを上げるのかそれとも下げてゆくのか科学的判断ではなく、政治的判断にゆだねられることになるでしょう。

 一番の問題は国内のレベル決めに多くの時間が割かれることです。今早急にしなければならないのは今後毒性が高くなるであろう第2波にむけての国内対応です。そのためには行動計画の抜本的な書き直しと感染症に関わる法改正が必要です。

 国内レベル対応決定は政治家とマスコミ対策にはなりますが、国民にとってはほとんど意味がありません。厚労省がやるべきことは国民の安全を守るという、第一義を優先するのが義務だと思います。>

 すでに本ブログ(5月24日:『現役厚労省技官が告発する「混迷“豚インフルエンザ”対策』)で取り上げたが、厚労省は木村盛世さんの予言どおりの状況に追い込まれている。このごろマスメディアは「豚」の「ぶ」の字も書かないが、頬かむりする厚労省が記者クラブで情報を発信しないのだろう。まったく情けないマスメディア、ジャーナリストだ。


 木村盛世さんの“告発書”には「天然痘テロに日本が襲われる日」と副題がついている。本書未読のため詳しくは知らないが、1980年、WHO(世界保健機構)は天然痘の根絶宣言を出した。「根絶後に予防接種を受けた人はおらず、また予防接種を受けた人でも免疫の持続期間が一般的に5~10年といわれているため、現在では免疫をもっている人はほとんどない。そのため、生物兵器としてテロに流用される場合に大きな被害を出す危険性が指摘されている」(Wikipedia=『天然痘』)ことを言っているらしい。つまり、わが国の防疫体制をはじめとする厚生労働行政のお粗末さを告発しているわけだ。


 天然痘は、どうやら「神代」の昔からあったらしく、天皇初め著名貴族も罹患している。維新後は明治天皇や夏目漱石も天然痘患者だったというから、決して珍しい伝染病ではなかった。今はなくなったが「伝染病予防法」というのがあった。1965年、「衛生管理者」資格試験の時に出題されたこの法律にいう「法定伝染病」は、コレラ、赤痢、痘瘡(天然痘)、ペスト、日本脳炎など11種が指定され、発病者は「隔離病棟」に強制的に収容された。この隔離病棟はかつて「避病院」と呼ばれ、子供のころの記憶ではとても怖れられていた。

 頃は明治の「コレラ一揆」の話である。立川昭二著『明治医事往来』(新潮社)をみてみよう。

 <明治12(1879)年8月8日の『朝野新聞』は、「新潟港の貧民米価暴騰に狂い立ち、大挙米商を襲撃――処々に放火」と大々的に報じている。新潟警察署長が県令に提出した上申書には、暴動の原因として、
  第一条 米価沸騰
  第二条 虎列刺(コレラ)予防に罹る魚類販売禁止
  第三条 虎列刺患者を避病院へ送る事
 と記されている。米価高騰に不満を抱いていた民衆が、コレラ対策を機に暴動化したのである。>

 暴動は各所に発生、凶暴化していく。一人の男が川べりで散薬を服用していたのを見て、毒物を河に投入したと流言し、数十人が集まって分署の巡査に引き渡し、暑気ばらいの服薬と申し立てるのを群集は認めず分署から男を掠奪して撲殺し、血迷った群集は商人数軒と医師二軒を襲い、避病院と検査所を打ちこわしてしまった。応援に駆けつけた本署の警官も襲われ、ついに軍隊が出動、死者13名を出してようやく騒ぎも鎮まった。暴徒は分署に集まって次の要求を突きつける。

一、コレラ患者を避病院に入れず自宅療養とすること
一、コレラ死者の葬儀を自分で行なうこと
一、コレラ予防のため売買禁止になった果物の売買を許すこと
一、魚類も同じ
一、米穀の輸出を差止めること
一、裸体を許すこと

 明治12年新潟県下だけで大小10件のコレラ騒擾事件が発生したという。続いて同書は中見出しに「じゅんさコレラの先走り」として次のように書いている。

 <「コレラ!」ときけば、警官を先頭に吏員・医師が一団となり、お上(かみ)のご威光を笠に、消毒・隔離を強行していった。こうした防疫行政が、たまたま御一新への夢破れた民衆の誤解・反感・憤激をかうのは当然のなりゆきであった。
 サーベルをがちゃつかせる警官が先頭にやってくるとなれば、権力への不信・反感を抱いていた民衆とは対立・抗争は必然的におこった。民衆はコレラそのものよりも、消毒・隔離の名のもとに、有無をいわさず家屋敷のすみずみまで踏みこんでくる警官の方を恐れた。

  いやだいやだよ じゅんさはいやだ
  じゅんさコレラの先走り チョイトチョイト

 明治15年頃にはやったチョイト節の一節である。強制隔離に対する民衆の怨嗟のあらわれといえる。>

 強圧的な防疫対策に食品販売禁止・米価高騰などがからんで、民衆の抵抗運動はついに暴動化し、「コレラ一揆」と呼ばれるまでになった。現代、“豚インフルエンザ”をめぐる「お上」の動きに振り回された自治体や商工業者は、この「コレラ一揆」に悪夢の源流をみる思いがするにちがいない。「お上」(舛添クンは代弁者?)の頭の中身は明治も今も変わらない。(目立つは「民衆の力の衰え」か?)

「おたまじゃくしは蛙の子」~“蛙”雑感

2009-06-21 09:14:38 | Weblog
 もう大方、田植は終わった。夕暮れになると、水がはられた田圃(たんぼ)では蛙の合唱がはじまる。それにしても、蛙の数がめっきり減って、喧騒をきわめた夜の合唱もいまはどこかしらさびしい。

 
 わが国の民話やイソップ寓話集にも蛙を主題にした話は多い。全国に分布する民話で『京の蛙と大阪の蛙』というのがある。(長崎と網島などの地名で語られたり、地名はなくあっちとこっちと語っているのもあるらしい)

 <むかし、大阪の蛙は京見物に、京の蛙が大阪見物に出かけました。とちゅう二匹の蛙は、峠の頂上で出会いました。
「京の町はどんなもんか」
「ここから見えるのが京の町じゃ。大阪の町はどんなもんか」
「ここから見えるのが大阪の町じゃ」
 二匹の蛙は、京や大阪の町を見たくなり、手をとりあって二本足で立ちました。ところが、蛙の目は背中についているので、京の蛙は京を、大阪の蛙は大阪を見ることになってしまいました。
「なんじゃ、京の町はわしの町とちっともかわらん」
「なんじゃ、大阪の町はわしの町とちっともかわらん」
 二匹の蛙はがっかりして、もと来た道を引き返していきました。>(日本民話の会編『日本の民話事典』/講談社+α文庫)

 著書の編集者は「“井の中の蛙(かわず)、大海を知らず”ということわざとこの話との関連も興味深いものがあります」といい、これは「旅」が一般庶民の身近かになってからの話としている。イソップの有名な次の話はご存知だろう。

 <自分たちに支配者がいないことを苦にした蛙たちが、ゼウスの所へ使者を送って、王様を授けて下さい、と頼んだ。ゼウスはこの連中の愚かなのを見すかして、池に木ぎれを放りこんでやった。
 蛙たちは、初めこそドブンという水音に驚いて、池の深みに身を隠したが、そのうちに、木ぎれが動かないものだから、水面に上がって来ると、すっかり木ぎれを馬鹿にして、とび乗って座り込む始末。
 こんな王しか持てぬのは心外だと、蛙たちは再びゼウスを訪ね、支配者を取り替えてほしいと願った。最初のは余りにも愚図だというのだ。すると、ゼウスが大いに腹を立てて、水蛇を遣(つか)わしたので、蛙たちは捕(つか)まって食われていった。
 支配者にするには、事を好むならず者より、愚図でも悪事を働かぬ者がましだ、とこの話は説き明かしている。>

 
 蛙を主題にした童謡も多いが、ここには二つだけ挙げておこう。

 
 『おたまじゃくしは蛙に子』   永田哲夫:作詞・アメリカ民謡

 おたまじゃくしは 蛙の子
 なまずのまごでは ないわいな
   それがなにより 証拠には
   やがて手が出る 足が出る


 『蛙の笛』   斎藤信夫:作詞   海沼 実:作曲

 月夜の 田圃(たんぼ)で コロロコロロ
  コロロコロコロ 鳴る笛は
   あれはね あれはね
   あれは蛙の 銀の笛
      ささ 銀の笛

 あの笛きいてりゃ コロロコロロ
  コロロコロコロ 眠くなる
   あれはね あれはね
   あれは蛙の 子守唄
      ささ 子守唄

 蛙が笛吹きゃ コロロコロロ
  コロロコロコロ 夜が更(ふ)ける
   ごらんよ ごらんよ
   ごらん お月さまも 夢みてる
      ささ 夢みてる

 (次をクリックして選曲すると曲で歌えます)

 『童謡』:http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html


 いつも「癒やし」を頂戴している次の『池さん』のブログをご覧ください。モリアオガエルの産卵の様子が見事に捕らえられています。

 『芦生原生林の博物誌』:http://forestwalk.exblog.jp/d2009-06-16


 およそ半世紀前、彦根の琵琶湖畔(国民宿舎だったか?)で開催された労働組合青年部の「労働講座」に参加した折、研修の合間に琵琶湖に浮かぶ“竹生島”と国宝の“彦根城”を見学した。彦根城は小ぶりな城だが、風格があって名庭園でも知られている。この庭園を廻って池にさしかかると、通路に足の踏み場もないほど小さな蛙がウジャウジャいるではないか。池には蛙の子「おたまじゃくし」がウヨウヨ。さらに池の上の小枝(モミジか?)には「池さん」の写真そっくりの光景が見られた。あれがモリアオガエルだったのだろうか。


 食用蛙(ウシガエル?)は中国・上海でも食べたが、かつてここ佐世保にも、通称「海軍橋」のたもとに専門店があって、よく食べに行った。肉は鶏のささ身のようにさっぱりした味で、主にフライにしていただく。沼などに棲む食用蛙は牛のように「グァオ グァオ」とうるさく鳴くが、最近では遠くまで響くこの独特な鳴き声を聞かない。種類を問わず全体に蛙は減っているらしい。
 
 例年、梅雨時になると植木鉢にアマガエルが数匹姿を見せる。保護色だから、水遣りなどで体をふるわせ、ヤヤッ、こんなところにいたのかと気付くことになる。今年はとっくに“梅雨入り”したというのに雨が来ず、アマガエルとの対面もまだである。


 小林一茶の「痩蛙まけるな一茶是に有」はあまりにも有名だが、これには「むさしの国竹の塚といふに蛙たゝかひありけるに見にまかる四月廿日也けり」と前書がある。「竹ノ塚」は東京・足立区にあり、東武伊勢崎線の北千住から五つ目の駅。小菅刑務所に程近いと言ったほうがわかりやすいか。荒川、中川に挟まれた土地で、さぞや昔は蛙も多かったことだろう。一茶には蛙の句が多いが、いかにもという句を三句選んだ。句から蛙が目の前に現れてくる。

  つくねんと愚を守る也引がへる

  云ぶんのあるつらつきや引がえる

  天文を考え顔の蛙哉

「脳死移植法改正」案衆院で可決~乱暴な“死”のあつかい

2009-06-19 08:58:57 | Weblog
 今日の『西日本新聞』一面トップは、「“脳死は人の死”衆院可決」とある。これまで「本人が生前に書面で意思表示し、家族が同意した場合に限って脳死を人の死」とし、臓器摘出を認めるとしていたことから一歩踏み出し、「脳死は人の死」と定義して本人の意志が不明でも家族の承諾で臓器摘出が可能としたわけだ。とんでもない「法改正」というしかない。

 
 1997年施行の「臓器移植法」の成立は、従来の腎臓移植など死体からの臓器摘出(もしくは血族からの臓器提供)から「人の生死」の境界があいまいな「脳死」の概念を取り入れ、「生体」から臓器移植を可能にしたものだった。この法成立には長い時間を要したが、根拠は1992年1月、臓器移植の可否を論じてきた『脳死臨調』の答申にあったといえるだろう。『脳死臨調』は、脳死の人から移植を認めた上で、次のような見解を示していた。

①脳死は医学的にみて人の死といえる
②脳死は。竹内一夫氏を班長とする厚生省研究班が1985年に定めた判定基準によって正確に判定できる
③医学的にみて、脳死を「人の死」とするのが合理的な考え方で、法的にも「人の死」とすることが自然であり、国際社会の認識とも一致する

 この答申が発表された直後、脳死を「人の死」とは認め難いとする4人の委員(氏名省略)が“少数意見”を発表した。(これに関しては過去記事で取り上げたはずだが、いま掲載月日を特定できない)「脳死を人の死」とすることには根強い異論があって、現行法は厳しい条件(①本人が事前に脳死判定に従う意思を書面で示し②脳死状態で臓器を提供する意思も書面で示し③家族がそれらを拒まない)を付して成立した経緯がある。

 なぜいま、「脳死を人の死」と断定するのか。移植を待ち望む家族の強い要望があったのは確かだが、それにしても「人の死」をこれほど乱暴に扱う国会議員たちの良識を疑わざるをえない。医学史家の川喜多愛郎氏は『脳死臨調』答申をめぐる見解を『医学史と数学史の対話』(川喜多愛郎・佐々木力著/中公新書)で丁寧に論じているが、「脳死を人の死」とすることについてこう言っている。
 
 <脳死状態に陥った人間(ヒトでもあり、人でもある)の身体は単なる「もの」ではなしに、かつて精神をもち、人格をもって人を愛し愛された個人史をもつ遺体です。機械の力を借りているにはしても、生理学に言うところの生体の植物性諸機能を事実営むことのできるそのまだ温かい身体にメスを入れ、その臓器を医療の名において摘出することはメディシンの本質に照らして、あってはならない処置と私は考えます。いわゆる脳死状態においては、人工呼吸器という工学的エネルギーが力添えするにしても、その外呼吸でえられる分子酸素を利用する生きた細胞の代謝による「生化学的エネルギー」を生んで、しばらくは脳以外の身体諸臓器を支えている(例の脳死者が出産したという話が端的に示すように)わけですから、その状態を死と認定することに私は生物学的にも異議を申し立てざるをえないのです。>


 川喜多先生は「臓器移植」そのものに反対されていた。理由は①移植には必ず拒絶反応が伴い、移植後の生存に大きな負担が生じること、②ドナーの絶対的不足から生じる「平等・公正・透明」性の保障確保の困難などである。

(この項書きかけ)


  生きている臓器が欲しくて
  脳死という死を作る人間怖し     (静岡市) 鷲津錦司

 平成4(1992)年3月1日の朝日新聞歌壇に選ばれた歌をひいて、科学・医学史家の立川昭二さんは言う。

 <人間は、顕微鏡受精などで「生」をつくったように、おなじ科学技術によって脳死という「死」をつくったのである。そして、さらに今、その「つくられた死」をめぐって、これまでとは異なる「死」の医学的定義や社会的概念や法的解釈を「つくる」ことに躍起になっている。あるいは躍起にならざるを得ない時点に遭遇
しているのである。
 人間が「死をつくる」時代にきている以上、その事実を避けて通ることは、もはやできない。しかし――、だからこそ、そうした「死」をつくる科学技術のアンビバレンツ(両義性)に目を据え、「死」までもつくる人間自身を“怖し”と受けとめるメンタリティを、「ふつうの人びと」が失ってはならないということではないだろうか……。>(立川昭二著『臨死のまなざし』/新潮社)


 「死」をつくる立法府にしてはならない。参議院の良識に期待したい。

“君が代”「不起立」を闘う“根津公子”さんの『日記』を読む

2009-06-17 09:18:53 | Weblog
 まず、反吐の出そうな次の映像をご覧ください。

 「傲岸不遜」:http://www.youtube.com/watch?v=PwGbfMoCuHU

 この品性下劣な石原慎太郎都知事のもとで、「国粋教育」の見せしめに不当弾圧を受ける多数の教員がいる。その象徴的存在の“根津公子”さんの日記を読んでみよう。わが国がどのように毒されているかが了解できる。この毒は子どもたちの未来におよぶ。いま、「良心の自由」という“毒消し”が求められているのだ。

 
 百年前、ドイツ法学者・ルードルフ・フォン・イェーリングは「権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。…権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。
 世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。」(『権利のための闘争』)と言ったが、根津さんをはじめ都教委と闘う人々はこの言葉の実践者である。

 根津さん、がんばれ!


『根津公子さんの停職「出勤」日記 9』  ~『レイバーネット』より

・6月9日(火)

 あきる野学園に。3回続けてあきる野学園の「出勤」日に雨だったので、2週間前に都庁前で配ったチラシを今朝やっと同僚たちに配った。今日は一日中曇りの非常に過ごしやすい気候だった。

 ご近所にお住まいとおっしゃる60代と思われる男性と出会った。プラカードの前で立ち止まり、「いつのことですか」と聞いてこられた。「今はマスコミで取り上げていないから」とこの件は過去のことと思われていたらしい。土肥校長の提訴のニュースから「君が代」処分まで、今まさしく「戦前」の学校の現状を説明した。「停職6ヶ月はひどいよね。生活厳しいでしょう。がんばってください」。優しい声だった。

 今日も学外学習の子供たちを見送り出迎え、スクールバスのかたと話をし、ゆったりした時を過ごした。


・6月10日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。今年は南大沢に「出勤」すると、必ず晴れて暑くなる。今日も一日中曇りという予報だったのに、途中から晴れてきて、蒸し暑い。校外学習に行き来する子どもたちの中には、湯気を出している子もいた。

 今朝、高等部の一人の生徒が、プラカードを見てしばらく歩を止めていた。「お話しするの初めてよね。これ、私のことって、知っていた?」と話しかけると、「それは知っていたけれど、どういうことかわからなかった。どういうことかなと思って」。そこで少しばかり説明した。「わかりました。がんばってください」と言い、頭をぴょこんと下げて、中に入っていった。

 お子さんを送ってこられた A さんのお母さんが、「まだまだ解決はできないんですか」と声をかけてくださった。「あの都知事では、まず無理でしょうね」と答えると、「石原都知事は、福祉も切り捨てるし、早く辞めていただきたいですね」とおっしゃる。早朝から来てくださった御近所の S さんと、「私たちの周りに石原都知事を支持する人はいないよね。どこに支持する人がいるんだろうか」という話になった。

 S さんが帰られ、一人読書をしていると、頭の上で声がした。昨年知り合ったご近所の女性だった。しばらく、話し込んで行かれた。

 Sa さんも来てくれた。

(中略)


・6月13日(土)

 解雇をさせない会の2009総会と講演「抵抗の火は消せない! 新たな『皇民化教育』にどう立ち向かうか?」を開催。講演は、山田昭次さんの「関東大震災時の朝鮮人虐殺と秋田雨雀」。自警団に参加し、朝鮮人虐殺に加わっていった当時の人たちの、進んで国家のために身をささげるように手なづけられた国民意識について指摘した秋田について。

「お前のやったすべてのことはお前の身になって帰ってくるのを知らないのか?/お前の敵はお前の迷信の中に巣くっているのを知らないのか?
市民よ!/征服と屈従と野蛮と無反省を美徳として教えたのは誰だ
市民よ!/お前の敵は果たして誰かよく見よ!/お前は何を血迷っているのだ?」

 自身の中に巣くう迷信あるいは世間と向き合うこと、これは今日的問題、今の私たちの問題だ。

 続いて昨年、今年の「君が代」不起立教員であるDさん、Eさん、近藤順一さんが思いを語られた。Dさんは生徒との関係性の中で、「生徒に嘘はつけない」とおっしゃる。Eさんは、不起立は団塊の世代がいなくなってからと先延ばしにしてきたが、今年「主任教諭」が導入され、学校がいよいよめちゃめちゃにされる中、処分を受ける不起立を選択されたとおっしゃる。お二人の話を伺うのは、初めて。とっても共感した。

 名古屋の小野政美さんから、当地で集会をするので「気持ちで参加。気持ちは参加」と電話があり、メッセージをいただいた。私(たち)を支えてくれる。

 以下、一部割愛して掲載する。


ひるまず、あきらめず、しなやかに
~「河原井さん根津さんらの「君が代」解雇させない会」2009総会へのアピール~
2009.6.13 小野政美(愛知・小学校・「再任用」教員)

思想・信条・良心の自由を蹂躙する「日の丸・君が代」強制に反対する人々がいる
「日の丸・君が代」で処分された全国の人々がいる
そして、日本社会で自由と平等の抑圧に抵抗する人々がいる
それらの人々をつなぎ、さまざまな場で、
あきらめず、ひるまず、しなやかに、多彩に闘い続ける人々がいる
それらの多くの人々に、闘う勇気と確信を送るかけがえのない闘いがある。
それが、根津さん河原井さんを解雇させないという闘い。
合言葉は、二人の著書。

河原井純子『学校は雑木林』
根津公子『希望は生徒』

2008年3月31日の雨の朝、
東京・八王子・南大沢学園養護学校前の光景を僕は忘れない
「やったぞ~!」「かったぞ~!」「この雨は天のうれし涙だア!」
予想に反しての都教委の処分内容に、思わず泣き叫んでいた僕たち。

誰彼と言わず泣きじゃくり、抱き合って喜び合ったあの雨の朝の南大沢養護学校校門前。
そして、一年後、
2009年3月31日、水道橋、東京都研修センター前での処分発令の日のこと。

2008年3月31日の雨の朝、
僕は、マイクで叫んでいた。
「全国の人々に伝えます。
都教委は、根津さんを免職にすることが出来ませんでした。
根津さんは、都教委に勝ちました。
『君が代』不服従・不起立の闘いは、今日から新しい段階に入りました。
『勝って兜の緒を締めよ』の言葉通り、
気を許さず、粘り強く闘い続けていきましょう」

「君が代」斉唱時の不起立での6ヶ月定職は、決して喜ぶべきことではない。
都教委が宣言予告していたように、誰もがそう思いこんでいたように、
根津さんへの停職6ヶ月処分の次に来るのは免職しかない。

僕もまた、そう思い込んでいた。
だが、根津さんだけを他の処分者と分離し、
勤務先養護学校に出向いて処分発令するという姑息な手段を弄した都教委として
もなお、根津さんを「見せしめ免職」にできなかった。

 なぜ都教委は根津さんを免職に出来なかったのか。
それは、何よりも、「君が代」不起立で、
子どもたちの人権と教員の教育の自由・思想良心の自由を守り抜くために、
「不起立」という表現手段で抵抗する教員を免職する根拠がどこにもないことである。

同時に、全国各地で、そして、いくつかの外国から、
根津さんへの「君が代」免職を許すな!と、
電話・FAX・メール・署名という方法で、
あるいは、僕も何回か同行した、都教委への出向いての連日の要請で、
あるいは、集会や学習会で、
あるいは、裁判の傍聴で、
あるいは、「『君が代』不起立」や「あきらめない」の映画会で、
新聞への意見広告で……、

根津さん河原井さんの不服従・抵抗・闘いに連帯・支援する、
文字通りの草の根からの多くの良心的な人々による、
多様で多彩な活動があったからに違いない。

もしも、
根津さんが、河原井さんが、
子どもたちとともに生きる現場で、
自分の生きている存在のすべてをかけた不屈の抵抗・闘いを続けなかったとしたら……、根津さん河原井さんの抵抗・闘いに、誰も連帯・支援の行動を起こさなかったとしたら……、もしも、連帯・支援の行動が、大きなうねりのように広がらなかったら……、
大方の予想通り、都教委の処分は、
根津さん免職しかなかったであろう。

「(03年)10.23通達」以来、
423名の処分(2009.5.29現在)を発令し続けてきた都教委をして、
根津さん河原井さんを免職解雇することが出来なかった。

小学校現場勤務31年間、
ささやかに、「君が代・日の丸」不服従の抵抗を続けてきた。
根津さん河原井さんの不服従・不起立に連帯することはもちろんとして、
僕の出来る、僕が当然しなければならない、
支援というより、根津さんとの連帯のささやかな行動。

 (中略)

根津さん、河原井さんたちに繫がる連帯・支援の闘いの列に加わる
多くの仲間たちとともに、
僕の好きな二人の不服従の思想家、
魯迅とベンヤミンの言葉を噛みしめたい。

「思うに希望とは、もともとあるともいえぬし、ないともいえない。
それは地上の道のようなものである。
もともと地上に道はない。
歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」
~魯迅『故郷』(1921.5)<竹内好訳>

「夜の闇のなかを歩みとおすとき、
助けになるのは、
橋でも、翼でもなく、友の足音だ」
~ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミンの生涯』(野村修訳)


 今年、三鷹高校を定年退職した土肥校長の闘いについては、『janjanニュース』「東京都を訴えた都立三鷹高校の土肥信雄前校長に聞く」(三上英次記者)次のリンクをご覧ください。三鷹高校生が土肥さんに送った「卒業証書」が見事です。

 『janjanニュース』(6月16日):http://www.news.janjan.jp/living/0906/0906155123/1.php

加藤周一「追悼講演会」大盛会~一緒に歌おう!“我が窮状”

2009-06-15 09:03:45 | Weblog
 後で知ったことだが、6月2日、東京・日比谷公会堂で全国から2千人以上が集まって、『九条の会』発起人だった加藤周一さんの「追悼講演会」を開催したという。大手新聞は書かないが、『北海道新聞』6月7日コラム「卓上四季」がその模様を伝えている。

 <壇上の遺影がほほ笑みかけていた。平和憲法を守ろうと各地で活動する「九条の会」。呼びかけ人の一人で、運動をけん引したが昨年12月に89歳で亡くなった評論家の加藤周一さんだ▼東京・日比谷公会堂で2日開かれた追悼講演会。北海道から沖縄まで2千人以上が集まり熱気にあふれた。作家の井上ひさしさんは加藤さんの思いを「戦争で死んだ友達を裏切らない」と語った▼「(死んだ)彼が決していわなかったであろうことをいったり、彼が黙っていなかったろうことを沈黙したりということは、したくない」。加藤さんは「私にとっての20世紀」でそう記した▼国家に強いられた友人の理不尽な死。戦争への怒りが「九条の会」結成につながった。晩年はユーモアを交え「老人と学生の同盟」を力説した。人生には2度自由の山がある。就職前の学生時代と定年退職以後▼「2つの自由な精神」の協同・協力が日本社会を変える力だ―と。それは、なし崩し的に進む憲法9条の空洞化への警鐘だったろう。米国一辺倒の外交と自衛隊の相次ぐ海外派遣。政府の政策に対する社会の批判力の衰え。若い世代に奮起を促した加藤さんにどう応えるか▼会場では大勢の人たちが運営費をカンパした。千円札と百円硬貨の入った封筒にはこう書かれていたそうだ。「小銭は子どもたちの小遣いからです」。志は世代を超えて引き継がれていく。>


 ここに出てくる加藤周一さんの著者『私にとっての20世紀』(岩波現代文庫)第4章「言葉・ナショナリズム」には、「日本人は“国”と言う言葉を使いたがる」と傾聴すべき指摘をされている。「日本には国という言葉と国家と言う言葉を、はっきり区別する習慣がないのです」といい、日本国憲法を例に次のように指摘する。

 <「われら日本の人民は」という箇所は、英語だと「We the Japanese people」となる。ところが日本語だと、「われら日本国民は」と“国”が入っている。その場合の国という字は「We the Japanese people」には入っていないのです。“Country”も“State”も入っていない。なぜだろうということです。「国民」はpeople とは違うと思うのです。people という言葉は人々です。…
 
 だから、人権の問題が出てきても、日本はそういう考えをもっていないのです。人権というのは日本国民の権利ではありません。あらゆる人間の権利が人権ですから、それは people から引き出すことはできても国民からは引き出せない。>

 加藤さんによって、「日本国憲法」はこのように読み解かれている。志をもって生きることを教えた加藤さんに学び、平和・人権の依り代である「憲法」を“人民”のもとして活かさねばならない。

 
 「憲法第九条」に思いを寄せつつ、歌手・沢田研二の『我が窮状』を一緒に歌いましょう! まず、歌詞の紹介…。


  作詞:沢田研二  作曲:大野克夫

 『我が窮状』

 麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが
 忌まわしい時代に 遡るのは 賢明じゃない
 英霊の涙に変えて 授かった宝だ
 この窮状を 救うために 声なき声を集え
 我が窮状 守りきれたら 残す未来輝くよ

 麗しの国 日本の核が 歯車を狂わせたんだ
 老いたるは無力を気骨に変えて 礎石となろうぜ
 諦めは取り返せない 過ちを招くだけ
 この窮状 救いたいよ 声を集め歌おう
 我が窮状 守れないなら 真の平和はありえない

 この窮状 救えるのは静かに通る言葉
 我が窮状 守りきりたい 許しあい信じよう


 『我が窮状』:http://www.youtube.com/watch?v=l2GdRkSvbFQ

孤高の人“竹林伸幸”~あなたに出会えてよかった!

2009-06-13 11:59:48 | Weblog
 畏友“竹林伸幸”さんが亡くなった。(それも一年半ほど前に!事情は後で述べる)

 “竹林伸幸”と言ってもご存知の方は少ないだろうが、関西を中心に、広島、長崎、沖縄では「反戦平和の闘士」としてその姿を目にされた人も多かろう。

 昨日、かつての組合運動仲間 I.Y 君から「竹林さんが亡くなったの知っとるネ?」と電話があった。「やっぱり、そうだったか」と、この一年有半、彼の消息が絶えていた理由を納得した。I.Y 君が「ネット検索で偶然知った」と言うので、“竹林伸幸”を検索するとトップの「関西共同行動ホームページ」2008年3月1日付、急報記事として竹林さんの死亡を知らせている。


 竹林さんは、精神の所在がどこか“種田山頭火”に似ていたような気がする。一本道をわき目もふらず歩き続けた孤高の人だった。四国・丸亀の旧家の出で、1966年、高松市の栗林公園会館で挙行された彼の結婚式に出席したのは、親族以外では私ぐらいだったろう。それだけに彼の訃報には感慨常ならぬものがある。

 出会いは東京オリンピックがあった1964年6月、私が佐世保重工労働組合から造船総連中央執行委員に選出された年である。その頃、佐世保重工本社は東京丸の内の「新丸ビル」9階にあったが、本社支部労働組合に赴任の挨拶に行った時の支部書記長が竹林さんだった。委員長はのちに香港所長を最後に退社し、今も交友のある大阪在住の Y さん。大卒ばかりの執行部で、ほとんどの人が管理職になったが、竹林さんは例外の道を歩んだ。その端緒を、拙著『労働組合は死んだ』(文芸社:1999刊)に私はこう書いている。多少長くなるが、彼の人生の岐路を知る手がかりとして、関連全文を記しておく。

 
 <京都大学経済学部を出た竹林伸幸は、4年前の74年8月行なわれた組合役員選挙で突然、委員長に立候補して組合員を愕かせた。愕いたのは組合員ばかりではない。執行部はもちろん会社も慌てた。学卒者が組合役員に立候補した例がなかったからである。
 彼はかつて東京本社にいた時、佐世保重工労働組合本社支部の書記長をしていた。64年夏季一時金交渉がねじれ組合がストに突入した時、彼らは初めてのストを東京ステーションホテルの一室に陣取って指揮していたが、この年造船総連中執になったばかりの私は、組合本部の要請で支部オルグに入り、二人の交友はそれ以来である。私が造船総連から職場復帰した70年に、偶然、彼も佐世保造船所勤務となり、彼が創設した[中国語同好会]のメンバーにも加わっていた。

 職場復帰してすぐの組合役員選挙に立候補した私は、思いがけない誹謗中傷に見舞われる。
 “香月(注:私のペンネーム)の嬶は中国人!”
 “香月は毛沢東主義者!”
 “赤色労働組合主義者に組合を渡すな!”
 職場で「赤攻撃」が組織的に登場したのはこの時がはじめてである。“嬶が中国人”というのは、私の妻が中国から帰還してまだ日が浅く、日本語が十分でなかったことからきていた。当時、中国の文革は終息しておらず、こうしたレッテルは穏健中道を「伝統」とする組織ではきわめて有効な礫(つぶて)であった。組合が労使癒着を強め、反執行部とみなす者への卑劣な攻撃を加えるなかで、[中国語同好会]を通じ竹林や元中国解放軍兵士の長谷部忠雄らとの親密な関係が深まっていた。それにしても、竹林が会社幹部への道を捨てて組合役員に転進しようとは想像できないことであった。

 無名の新人竹林の出現は、執行部に対し鬱屈した心情を抱いていた組合員に新鮮な驚きをもって迎えられた。職場では竹林旋風が巻き起こり、選挙戦は優勢に推移していく。国松委員長は狼狽し、会社は慌てた。しかし、所詮、会社の組織力に敵うはずはなく敗退する。陰謀詭計渦巻く中で、それでも竹林が獲得した得票率は45%にのぼった。翌年早々、彼は「大阪営業所勤務を命じる」との辞令を受ける。会社の意図が本人の組合活動封じにあるとみた私たちは、本人が組合の苦情処理委員会に救済を申し立てたところ却下されたのをうけ、『竹林不当配転に反対する会』を結成して裁判所に「地位保全仮処分申請」を行なったが、“疏明なきこと”を理由に却下され、彼は最後の陳述書に、
  連帯を求めて孤立を恐れず
  力尽きて倒れるとも
  闘わずして屈することを拒否す
 との言葉を残して大阪へ去っていったのである。>(著書では仮名を使っているが、竹林のみ本名に変えた)

 
 大阪転勤後も、会社との対決は長く烈しく続く。佐世保重工が“坪内寿夫”に乗っ取られ、悪名高い「社内研修」を拒否(私と彼の二人だった?)して解雇処分を受けこれを提訴、90年7月、「解雇撤回、自主退職」の和解が成立して佐世保重工を去っている。その後、中国語翻訳業などをしながら「反戦平和」運動に没頭していたわけだ。

 彼との付き合いには語りつくせぬ想い出があるが、もう時効として許してもらえるはずの彼を偲ぶエピソードを一つだけ書いておく。

 
 およそ5年前の2004年8月、「長崎(原爆の日)の前に“佐世保行動”(日蓮宗日本山僧侶等と米軍基地への示威行動)をやるので会えないか」と連絡があった。元中国解放軍兵士で現在中国語通訳をしているかつての同志 H さんに連絡、私の家で会うことにした。広島では宿賃がなく野宿したという彼は、今日泊るところもないといいながら、「所持金はこれだけや」とポケットから千円あまりのバラ銭をテーブルの上に投げ出した。これから長崎、沖縄へ行くというのにあきれた話である。私が1万円、H さんが5千円をカンパ、当日はわが家に泊る。私の連れ合いが「洗濯物があれば出してください」というと、背嚢からごっそり出して渡す。明朝出発に間に合うようにコインランドリーで洗濯・乾燥。連れ合いが「時間があれば新しいのを買って持たせたのに」とあとで言っていたわけは、およそ見当がつくことだろう。「着たきり雀」で「行き当たりバッタリ」が彼の行動スタイルだった。

 
 運動面では一致できなかったものの、私の知る限り、彼ほど“純粋”な言行一致の思想家はいなかった。それだけに3,4年前、前立腺ガンを告白した彼の健康が気がかりだった。竹林さんは西宮に住んでいて、共通の友人である大阪の Y さん(かつての東京支部委員長)とはとくに親密で、昨年私は、Y さんとこんなメールのやりとりをしている。

・2008年4月27日「Y さんのメール」
 <昨日、竹林君のメールアドレスにメール送信するも、送信したメールには返送されてこないので、メールアドレスは維持されていると思うので、暫らく返信を待ちながら、マンションの管理人に連絡をとれるかトライしてみるつもりです。>

・2008年4月28日「私の返信」
 <竹林さんの件、メール拝見しました。ぼくも気がかりですので、よろしくお願い致します。>

・2008年5月3日「Y さんのメール」
 <今日、西宮の東雲マンション(管理人室が無いと分かったので)B棟201号を訪ねたところ、居住者から「昨年末に引越しされました」と確認。元気であったようで、少し安心したところです。>

・2008年5月3日「私の返信」
 <竹林さんの件、ご苦労様でした。安堵いたしました。何かお力添えできることがあれば申し付けて下さい。>

 竹林さんの死去が昨年1月27日(もしくは28日)とされているから、このメールのやりとり時にはすでに亡くなっていたことになる。昨日、Y さんに電話して彼の死を知っていたかどうか確認したら、「まったく知らなかった」と驚愕していた。Y さんは前立腺ガンを発症して16年になるが、竹林さんには「ガン先輩」としていろいろアドバイスをしていたらしい。


 子供や奥さんからも見放されつつ孤高の「闘い」を続けた彼だが、最後は奥さんに買い物を依頼し、身内で告別式も行われたらしいから、もって瞑すべしだろう。
ここには引用しないが、ネットでは彼の最後のメッセージ『ブッシュ大統領への手紙』がある。彼の思想の集大成かも知れない。


 竹林さん、あなたに出会えてよかった。お別れは言えなかったが、安らかに眠ってほしい。
                              合掌

 

“男泣き”する父~わたしの“いのち”にこめられた涙

2009-06-11 08:57:55 | Weblog
 古稀寸前にこの世を去った父より五歳も長く生き延び、当分、お迎えは来そうもない毎日を送っていると、時に、父や母のことを想い出す。あの謹厳な父の素顔を覗きみるような話が一つある。立ち会った伯母らから、父のエピソードとしてよく聞かされたものだ。

 誕生時の体重が一貫目(3.75キロ)を超え、県の「赤ん坊大会」で三位になったという私は、疳の強い児だったらしい。歩き立ちが出来るようになって間もなく、テーブルの縁で額を打って泣き切り、息が出来なくなった。母はかねて聞き覚えの養生法を思い出し、梅酢を口に含んで鼻から吹き込んだ。それが気管に入って逆療法になり、まったく息をしなくなった。すぐ医者を呼びに使いを出す。伯母や母たちは仏前に灯明を上げ、「ナマンダブ、ナマンダブ」と唱える。駆けつけた医者が「これは難しい」と、いったん匙を投げたが、鼻からブツブツと小さい泡が噴出しはじめ、「おやッ、助かるか知れんぞ!」と新たな手当をはじめたという。この間、五十を過ぎた父は、納戸で蒲団をかぶって泣いていたらしい。

 小学低学年の頃、悪さをして、ステッキを振り上げ怒り狂った父に追い回された記憶もあるが、私にとって究極の父は、「蒲団をかぶって泣いてくれる」人だった。

 
 幾度か紹介した作家・森敦さんのエッセイ集『天に送る手紙』(小学館ライブラリー)に「人生の神仏」という一文がある。ここで森敦さんは“父”を見事に語っている。 


 <戦後、このごろの小学生は男の子でも、女の子と同様に運針や炊事を習うと聞いて、わが耳を疑ったことがある。ところが、いまでは共稼ぎが普通になり、単身赴任も常識のようになって来た。とすれば、男の子に女の子と同様運針や炊事を習わせたのは達見と言わねばならぬ。これが家庭生活を豊かにし、ほとんどの子供たちに高等教育を受けさせ、国の水準をも高からしめる原因になった。当然、主婦は単に女性といわるべきものに還元するが、女性は必ずしも主婦ではない。その矛盾をまともに受けるのは子供ではあるまいか。なぜなら、子供は矛盾なきものとして、主婦のものとして、主人のものとしてあるべきものであるからである。
 
わたしは幸いにして、共稼ぎや単身赴任をしなければならない家庭に育たなかった。しかし、母は懇請されて女学校に勤めなければならなくなった。父は左様なことを好む人ではない。さりとて、のっぴきならぬことを強いて拒む人でもなかった。母の勤めは女学校であるから、定刻に出て定刻に帰る。それでも、時には会議があるらしく、遅くなるときがないではない。
 
そんなときは必ず夕食の用意をして置いてくれる。母には夜食が出るから、わたしたちは先にすませて、わたしは寝る。ふと目を覚ますと、父は机に向かって書物を読んでいる。お母さんはまだ、とわたしは訊く。父は答える。もう校門を出たところだ。見えるだろう。ふとまた目を覚まして、お母さんはまだと訊く。父は答える。もう電車に乗ってるよ。見えるだろう。ふとまた目を覚まして、お母さんはまだと訊く。父は答える。もうすぐだよ、電車を降りたから、見えるだろう。わたしはほんとうに眠る。ほんとうに眠って目を覚ますと、母はほんとうにいるのである。神仏はいつもそのようにして現れて来ると思うようになった。もしそのとき、ほんとうに母がいなかったとしたら、わたしは後々人生で、神仏を失ったかも知れない。>


 当たり前のことだが、父と母が存在しなければ私はいない。私の存在はさらに、二人の祖父と二人の祖母へさかのぼり、未生の過去を遍歴する。不思議としか言いようのない「存在」の背後に、“神仏”がましますわけだ。父や母への思いが、神仏を見失わない手立てになっていることを、森さんは教えている。