耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

40年前のコラム“氷焔”~確かに「時代はめぐる」

2008-04-29 09:24:58 | Weblog
 佐藤首相が福田首相になり、灘尾文相が渡海文相になり、ベトナム戦争がイラク戦争になり、トロッキストというレッテルがテロリストというレッテルに変ったこの40年という年月を、あなたはどうみますか。“氷焔”の筆者・刀鬼(須田禎一)氏のこの文は、今日の日付であっても何の不思議も感じさせない。周期性をもって「時代はめぐる」のだろうか。それにしても、筆者のペンは相変わらず冴えている。 


<政治分裂の季節に、経済は寡占化へエスカレート。
 なるほど“政経分離”かな。

 設備投資が調整できて大きなプラス――とおっしゃるが、どなたにとってのプラスかな。
 たそがれの色濃い独禁法。
 とっぷり陽(ひ)の沈むようなことはあるまいな。

 
 ソウルの朴(パク)さんをホノルルに迎えて手をにぎったり。
 人口密集地帯への北爆をくりかえしたり、未練がましい、テキサス育ちの二挺拳銃の“勇者”。

 “米国人は、ベトナムで奪い取ったあらゆる軍事的地位を放棄せねばならぬ、ということをまだ想像できないでいる”――エドガー・スノー。

 わが佐藤さんも、政治的破産に直面する事態を、まだ想像できないでいるようだ。

 “和平を考えていたなら、政治家は、和平の方向を打ち出して行動しなければならないんです。考えていたというだけじゃ、それは一国の総理だの、一党の首脳だのじゃありませんよ”――与党の赤城代議士すら、こう評しているではないか(本誌前号)。


 閣僚のなかでいちばんの“人格者”といわれる灘尾文相までが、都知事の認可した朝鮮大学校を目のカタキにして、外国人学校法案の成立を急ぐ、とおっしゃる。

 “違法ではないにしても妥当性にかける行為”は、政府側にこそ数えきれない。

 政治資金規正法案の流れるのには頬かぶりして、外国人学校法案に熱をいれるとは、灘尾“修身”先生も根性まがり。


 ドイツに“ドチュケの乱”。
 英国に“オルダーマストンの行進”。
 そして米国になおつづく“カーマイケルの旋風”。

 “トロッキスト”とか“ブランキースト”とか、古くさいレッテルを若い人たちに貼りつけるだけでは、新しいエネルギーを敵にまわす結果を生むのみ。


 ドランの“ロンドンの橋”に深い霧かかり、モジリアニの“女の顔”は涙でくもるか。

 “民主政治”や“平和主義”のニセモノなら、赤外線写真をわずらわさずとも、国民大衆の“眼光”で見破り得るかな。


 “ひとりこい
  ふたりこい
  みんなこい
  長屋の子どもは
  みんな出ろ
  おいらは腹がへった
  手をつなげ
  町のまんなか
  ねりあるこう”

 メーデーが近づいたので、槇本楠郎の童謡を思いだす。>(1968年4月30日号)
         

“航空幕僚長”の妄言「関係ねぇ」~断じて許せぬ

2008-04-27 12:00:47 | Weblog
 歴代最低の“上底(あげぞこ)”首相だった小泉純一郎は数々の迷言を残したが、党首討論で「非戦闘地域とは?」と聞かれ「自衛隊がいる所が非戦闘地域」と素っ頓狂な答弁をし国民を唖然とさせた。アメリカの忠犬として「イラク侵略戦争」に加担し、能天気なブッシュ大統領でさえ「大量破壊兵器はなかった」ことを認めているのに、自公政府はいまだに「開戦理由」の誤りを認めようとはしていない。泥沼にはまり込んだアメリカにわが国の税金がたれ流され、一方では「年金」「医療」「派遣労働」など弱い者いじめの施政が国民に襲いかかっている。

 4月13日の記事(『“良心の囚人”たちに有罪判決~愧じ知らずの最高裁』)でも書いたが、最近の司法の動きを見ていると行政に引き摺られ、本当に「司法の独立性」が保持されているのか疑問に思う人は少なくなかっただろう。そんな中で、当たり前のこととは言え、イラクに派遣された航空自衛隊の空輸活動について、名古屋高裁が「憲法九条に違反する」と明解な判決を下したことには溜飲の下がる思いがした。

 「自衛隊イラク判決理由の要旨」:http://www.news-pj.net/siryou/pdf/iraku-nagoyayoushi_20080417.pdf
 
 自衛隊のイラク特措法にもとづく「派兵」は違憲だとして「派兵」の差し止めと慰謝料の支払いを求めた訴訟の控訴審判決だが、航空自衛隊の現地での活動に関し、①空輸先のバグダッドは「戦闘地帯」②多国籍軍の武装兵の空輸は他国の武力行使と一体化している、と認定し、イラク特措法と憲法九条に違反すると明言したのだ。小泉純一郎らが国民にいかに詭弁を弄してきたかが断罪された判決と言っていいだろう。ところが呆れたことに、福田首相や町村官房長官はこの判決を「傍論」だの「裁判官はどこまで実態が分かっているのか」などと言い、「セセラ」笑っているのだ。(ちなみに『大辞泉』には「暴論」とはあるが「傍論」はない)

 とくに聞き捨てならないのは、田母神俊雄航空幕僚長が「(派遣隊員の)心境を代弁すれば『そんなこと関係ねぇ』という状況だ」と述べたことだ。これは明らかに司法無視の「暴言」ではすまない憲法第99条『憲法尊重擁護の義務』に違反する重大な発言である。現実の自衛隊が「軍隊」であることは世界の常識だが、イージス艦『あたご』による漁船衝突事件時の自衛隊の対応など最近のわが国の「軍隊」の動きには、戦前回帰の憂いなしとしないものがある。『週刊 金曜日』4月25日号では「高裁判決」の記事で田母神航空幕僚長の発言に触れ「自衛隊の発足以来、制服組がこれほど露骨に憲法と司法を蹂躙する暴言を吐いたのは前代未聞だ」(成澤宗男記者)と書いているが、主要マスコミがこの発言を機敏に糾弾した形跡がないのは不思議と言うしかない。

 今回の高裁判決が聞かれた同じ名古屋に、戦前、個人雑誌『他山の石』というのがあった。少し長くなるがその一節を引用する。

 <だから言ったではないか。国体明徴よりも軍勅(軍人勅諭)明徴が先であると。
 だから言ったではないか、5・15事件の犯人に対して一部国民が盲目的、雷同的の賛辞を呈すれば、これが模倣を防ぎ能はないと。
 だから言ったではないか、疾きに軍部の盲動を誡めなければ、その害の及ぶところ実に測り知るべからざるものがあると。
 だから、私たちは平生軍部と政府とに苦言を呈して、幾たびとなく発禁の厄に遇ったではないか。
 国民はここに至って、漸く目ざめた、目ざめたけれどももう遅い。……彼らはその武器、しかも天皇の忠勇なる兵卒を濫用して敵を屠ることをなさず、却って同胞を惨殺した。しかもこの同胞はいづれも国家枢要なる機関の地位にあり、内外に陛下輔弼の大任にあるもの……
 国民の目ざめ、それはもう遅いけれども、目ざめないのにまさること万々である。軍部よ、今目ざめたる国民の声を聞け。今度こそ、国民は断じて彼らの罪を看過しないであろう……次には国民みずからがこの憂を除くべく努力するであらうと。>(発行人・桐生悠々『他山の石』第三年第五号、1936年3月5日=色川大吉著『ある昭和史』参照)

 
 「国民のめざめ」が遅かったために、国がどうなったか、われわれは知っている。“桐生悠々”の言葉をいま、重く受け止めなければ、再び禍根を残すことになりはしないだろうか。

 

『国宝 大絵巻展』に行く~“国宝 語りだす”は本当だった

2008-04-25 15:58:00 | Weblog
 入場案内に“国宝 語りだす”とあったが、嘘ではなかった。

 「入場案内」:

 この『国宝 大絵巻展』は前期(3月22日~4月28日)と後期(4月29日~6月1日)に分かれていて、前期・後期でほとんどの作品が展示替えされることになっている。前期の国宝展示品は次の通り。

・「絵因果経(えいんがきょう・前半部分)」
・「粉河寺縁起(こかわでらえんぎ・前半部分)」
・「病草紙(やまいぞうし・10面のうち4面[風病・小舌の男・歯のゆらぐ男・霍乱])」
・「白描絵料紙金光明経巻第三(目無経)」
・「華厳宗祖師絵伝 義湘(ぎしょう)絵(第2巻)」
・「一遍聖絵(いっぺんひじりえ・第10巻)」
・「法然上人絵伝(第1巻)」
・「本願寺聖人伝絵(第三巻)」
・「融通念仏縁起(上巻)」

 入場案内文にはこう書かれている。

 <物語を描いた絵を巻子(かんす・巻物)に表装した絵巻は、日本において豊かな展開を遂げた美術の代表例です。ただ美しいだけではなく、いにしえの人々の切なる想いを今日に伝え、ときに奇想天外な物語や、絵と詞(ことば)の絶妙なコラボレーションで見るものを楽しませます。
 この展覧会では、明治30年(1897)に開館し千年の都・京都にかかわる文化財を公開してきた京都国立博物館に企画協力をいただき、同館の所蔵品および寄託品のうち奈良時代から室町時代までの国宝九件・重要文化財十四件を含む名品二十六件、あわせて約百五十場面を展示いたしました。
 絵巻に焦点をあてた大規模な特別展としては九州で初めての開催となる「国宝 大絵巻展」、この絶好の機会に美術と文学の織りなす魅力的な絵巻の世界をどうぞ心ゆくまでご鑑賞下さい。>

 
 どれもが作品の一部分の展示に過ぎないのはいうまでもないが、たとえば『四十八巻伝』ともいわれる『法然上人絵伝』は、十数年前にも東京国立博物館でその「一部」の展示を拝見したのだが、今回はじめて「館襲撃の図」をみるにつけ、もし『四十八巻』全部が拝見できたらと夢想しながら、それぞれの展示品に生き生きと描かれたいにしえの人々のたたずまいや風景に目を奪われるのだった。写真撮影はご法度だからここに掲載できないが、『名品紹介』のサイトで『病草紙』その他いくつか見ることができるので参考にしてほしい。

 『名品紹介』:http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kaiga/emaki/index.html

『名品紹介』にはないが、時宗の開祖一遍(1239~1289)の伝記を描いた『一遍聖絵』は、一遍没後10年の1299(正安元)年、一遍の高弟聖戒が撰述し法眼円伊の筆によるもので、画面には一遍が訪れた社寺や名所が登場、とくに安芸国の厳島神社の場面は当時の様子を髣髴とさせる。次のリンクを参照して下さい。

 『一遍上人絵伝 巻七』:http://www.emuseum.jp/cgi/pkihon.cgi?SyoID=1&ID=w052&SubID=s000

 「国宝」をいまこうして見られるのは、これらを命がけで守ってきた先人たちのたゆまぬ努力があったればこそと思う。世界的にも貴重な「宝物」が後世に引き継がれ、魂の糧になることを願わずにはおれない。

 なお、ついでに天満宮の大楠を写真に収めてきたのでアップしておく。

 「大楠」:

 「千年楠の梢遠景」:

 「屋根をつらぬく楠」:

“食み切り包丁”ご存知ですか。「食糧自給」に取り組む

2008-04-23 15:40:35 | Weblog
 豊穣な有明海を「死の海」にしつつある“諫早湾干拓”事業が昨年11月完成し、入植者による本格的な大規模農業が始まり、昨日、レタスが初出荷されたと報道さていた。紆余曲折の末、農作物の出荷までこぎつけた関係者は、さぞほっとされていることだろうが、果たして今後問題はないのだろうか。たとえば、有明海に排水する調整池の水質は一向に改善されていないといい、これが農業用水として適当かどうか疑問視されている。次の記事は、この国営事業がいかに大きな問題をかかえているかを教えている。

 「長崎新聞 諫干、完成へ 残された課題」:http://www.nagasaki-np.co.jp/press/isahaya/2007/kikaku2/05.html

 
 「諫早干拓の残した課題と日本の干潟」:http://www005.upp.so-net.ne.jp/sanbanze/san010.html


 莫大な税金を使った問題の多い半世紀に及ぶ「国営事業」だが、この間一方で、過疎地の農地は荒れ果ててきた。身近なことから話を進めてみよう。次の写真は私の借地の風景である。

 「畑の石垣」:

 わが国の中山間地にある田畑ではどこでも見られる風景である。この畑の上方にはまだ数段の棚田があるが、荒れ果てている。石垣の一つ一つの石を見てほしい。どれもが一人でやっと抱き上げられるものか、中にはどうして運んだか首を傾げたくなるような大きな石も混じっている。この一つ一つの石で2メートルを超える高さの石垣を築いた遠い昔の人々の労苦を、いつも想い起こさずにはいられない。思わず手を合わせたくなるような先祖の人々の営為だ。その営為を守り続けてきた子孫が、いま絶えようとしているのである。

 一方、豊かな自然を犠牲にする目くらましの策をでっち上げ、大型土木建設機械を動員し、莫大な資金を投入して広大な農地を作り上げた国策事業。中山間地の田畑が荒廃したのは、後継者がいなくなったためと言われるが、諫早干拓事業からわが国農政を俯瞰すれば、それだけが要因とは思えない。

 宇沢弘文氏は、日本の農業は「全般的危機」に直面していると指摘し、その原因を二点挙げている。一つは、日本の農業の基本的な条件が1940年前後につくられた立法措置。戦争のために食糧を確保するという名目で、農民を生産面、生活面で完全にコントロール、規制して、管理するという制度。農業協同組合の原型もそのときできた。もう一つは、1961年制定の根本的な欠陥をもった悪法である「農業基本法」。とくに問題なのは「自立経営農家」という概念。

 当時の農林省が考えた「自立経営農家」とはどういうものか。水田にすると、だいたい平均一戸あたり八〇町歩の水田農家を想定。深耕が可能な大型トラクターを二台持って、種蒔きから施肥、除草、収穫まですべて機械化される。当時のアメリカの農法をそのまま日本に持ち込む構想。その後八〇町歩が15~20町歩に規模縮小されたが、基本は変らない。この政策が農協を通じて遂行された。農協はタネから肥料、農機具はもちろん、生活必需品の大部分も一手に取り扱った。宇沢氏は「農協というのは、農家にとって完全に一つの寄生虫的な存在」で、「農水省のまわりの農業経済学者は、依然として、基本法、農業協同組合を軸にして、農民を徹底的に搾取するという政策を展開している」という。(宇沢弘文・宮本憲一ほか『社会の現実と経済学~21世紀に向けて考える』/岩波書店)

 中小・零細農民は切り捨てられる「運命」になっていたのだ。ここにも小泉純一郎流の弱肉強食の論理が潜んでいた。数え切れない大小の石を集め、一つ一つ積み重ねて作った石垣の上の田畑は、効率至上主義の農法になじむはずはない。しかも、農業への手厚い補助金は中小・零細農民には届かず、彼らの子どもたちは先祖の貴重な財産を見放さざるを得なかった。後継者がいなくなったのではなく、「お上」が効率の悪いものは切り捨て、後継者を育てようとしなかったのだ。

 ここにきて、世界に例を見ない食糧自給率が問題視されているが、国のすみずみで気の遠くなるような「石積み」をしてきた先祖の「たたり」と自戒したくもなる。


 さて、「食糧自給率」を高めるため荒地を拓くことにした。

 「拓いている荒地」:

 一部、エンドウ、ジャガイモ、トマト、ピーマンを作付けしているが、ここにはこれから落花生とササゲをつくる予定。写真奥の青い網はイノシシ除けに張っているものだが、網の下からもぐりこんでくるので、もう一工夫を要する。拓いた畑には、刈った草を“食み切り包丁”で細かく切って撒き、そこに油粕と米糠をばら撒いて土と馴染ませる。「大地の会」で習った方法で、完全無農薬栽培である。石垣を築いた先人たちが見守ってくれていると思いながらの作業。なんだか、励まされているようで、苦にならない。

 「食(は)み切り包丁」:

 この「食み切り包丁」は地主のおばさんのものだが、年期が入っていて、錆びてはいるがよく切れる。こんな山間地でも農作業には牛が欠かせなかったといい、この包丁は牛の餌を切るのに使っていたものだ。戦前、私の生家でも陶磁器運搬用の馬車があって馬を飼っていたので、「食み切り包丁」には馴染みがある。これからもおばさんと昔話をしながら「食糧」生産に励もうと覚悟を決めている今日この頃である。

“春爛漫”~神さまの贈りもの

2008-04-21 14:08:11 | Weblog
 花を見ていると、誰が作ってくれたのかと思えてくる。やっぱり、神さまの贈りものに違いあるまい。

 「わが家の盆栽」:

『傷春五首』 其の二     杜甫

鶯入新年語   鶯新年に入りて語る
花開満故枝   花開きて故枝に満つ
天清風巻幔   天清くして風幔をまき
草碧水連池   草碧(みどり)にして水池に連(つら)なる
牢落官軍遠   牢落官軍遠く
蕭条万事危   蕭条(しょうじょう)万事危し
鬢毛元自白   鬢毛(びんもう)元自(おのず)から白し
涙点向来垂   涙点(るいてん)向来(きょうらい)垂る
不是無兄弟   是れ兄弟(けいてい)無きならず
其如有別離   其れ別離有るを如(いか)にせん
巴山春色静   巴山(はざん)春色静なり
北望転逶迤   北望転(うた)た逶迤(いい)たり

【意訳】
鶯は年明けてさえずり合い、
花は去年の枝に満開になった。
空は清くすがしく風が幔幕を巻き上げ、
草は青あおとして水は池に流れ込む。
寂しいことに官軍は遠くにいて、
心細く、すべてが危い。鬢の毛は、もともと白かったが、
涙の雫は、これまでもこぼれ続けている。
私には兄弟がいるのだが、
離ればなれになっているのを、どうにもできない。
四川の山やまは春景色で落ち着いているが、
北の方を眺めると、その山はますますうねうねと、はるか遠くまで続いている。
             (石川忠久著『漢詩への誘い』/NHK出版)



いま、“働く”ことによろこびはあるのか

2008-04-19 22:00:53 | Weblog
 4月13日『東京新聞』Webで「専ら派遣」という言葉にお目にかかった。一体何のことかと読んでみると、人材派遣会社が特定の会社だけに労働者を派遣することだという。Web内辞書で調べたら次のように解説してある。

[専ら派遣]
 特定企業に対してのみスタッフを派遣することを言います。派遣社員は、あくまでも一時的な労働力として用いられることが前提なので、派遣が特定の企業の労働力確保源となってしまうと、正社員の雇用を阻害すると考えられるため、この「専ら派遣」は労働者派遣法で禁じられています。

 “労働者派遣法”の細かいことは承知していなかったので迂闊といえば迂闊だが、こんな悪質な雇用形態が現実に存在しえるとは正直想像できなかったのである。『東京新聞』は「労働者派遣法は専ら派遣を原則禁じているが、規定があいまいなため、事実上の野放し状態が続いている」としてその例を挙げている。

 <関西地方に拠点を置く大手アパレルグループは四年前、全額出資の派遣子会社を設立。約百人の派遣社員は数人を除き、グループ企業に派遣されている。本社に派遣され、業務書類の作成を任された二十代の女性は「一日約八時間労働で月収十七万円。同年代の正社員は二十五万円で、待遇の差が大きすぎる」と不満を訴える。
 このアパレルグループの本社は「新ブランドの設立など本社の業務拡大で、人材が必要になった」と説明。賃金格差の理由は「派遣社員は簡単な作業が多いため」と話す。しかし、派遣された女性は「正社員がやっていた仕事を引き継いだので、仕事の内容に差がないはず」と証言する。…>

 他にもいくつか例を挙げて「専ら派遣」が野放しになっているといい、野党が労働者派遣法の改正にあわせ「日雇い派遣」の禁止とともに「専ら派遣」の規制強化を目指していると伝え、最後に脇田滋龍谷大学教授(労働法)の話を載せている。

 <専ら派遣は外国には存在しない日本独自の仕組みだ。企業は安上がりに派遣労働者を長期確保する目的で系列派遣会社を利用している。だが、常用雇用の代替として派遣労働を利用しないことが労働者派遣法の基本であり、これに反する専ら派遣は許されない。非正規雇用を拡大させ、雇用の不安定を招く重大な要因となっており、厳しく規制する必要がある。>


 “労働者派遣法”の正式名称は「労働者派遣事業の適正な運営の確保および派遣労働者の就業条件の整備等に関する法律」というらしい。1986年7月1日施行時は適用業種はごく一部に過ぎなかったが、1999年に大幅改正、さらに2003年には港湾運送業、建設業、警備業、医療の一部を除き原則自由化されて今日にいたったものだが、グッドウィルの折口雅博元会長(安部晋三前首相の盟友で2004年に経団連理事、2005年に紺綬褒章を受章)のような悪質な手口で派遣業が賃金のピンハネ手段として利用されてきたことは周知の通りである。

 この“労働者派遣法”が資本・経営の強い要求で生み出されたあくどい賃金のピンハネ法であることは、労働法学者らによって当初から指摘されていたことだった。だが、主に大企業の“正社員”で組織するわが国最大の労働組合「連合」は、“正社員”労働者の保身のためのみか、ベッタリ癒着した資本・経営の意向に逆らえず、この悪法の成立を簡単に許してしまった経緯がある。


 憲法第27条(勤労の権利及び義務、勤労条件の基準、児童酷使の禁止)、第28条(勤労者の団結権)をはじめ、これに基づく労働基準法、労働組合法などの「労働者保護法」の成立過程についてここで改めて述べる必要はないと思うが、財界天皇といわれる経団連会長の御手洗富士夫という人物は、中央大学法学部で学び司法試験に挑戦して失敗したらしいが、この「労働者保護法規」だけはまったく学んでいなかったとみえて、自社のキャノンでは悪質広範な派遣法違反が常態化しており、たびたび国会で追及されている。こういう下劣な財界人がわが国産業界を支配しているかぎり、「賃金のピンハネ」つまり「搾取」される哀れな労働者はなくなりはしないだろう。

 「労働」に関しては5月10日の記事(『“労働とはなにか”を教わった今村仁司氏逝く』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070510)でもふれたが、60数年前に宣言されたすばらしい包括的な「労働観」をここに引いておく。


【フィラデルフィア宣言】(「国際労働機関の目的に関する宣言」)

(a)労働は商品ではない。
(b)表現および結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。
(c)一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。
(d)欠乏に対する戦いは、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、一般の福祉を増進するために自由な討議及び民主的な決定とともに参加する継続的且つ協調的な国際的努力によって、遂行することを要する。

 
 「労働」の価値は、ここに表明される普遍的な精神によって確保され、保障され、保護されるものだろう。わが国政府や産業界の指導者たちは、この【宣言】を想い起こしてみるべきだ。

 哲学者の内山節は「労働」に関しこんなことを言っている。

 <…労働とは何かという問いに対して、私は正しい答えはないと考えています。なぜなら労働とは、概念を定めることによって生れたものではなく、自然におこなわれてきたものを、どのような労働概念によってとらえるのか、ということなのですから、どのような概念によって労働をとらえることも可能なのです。その点では、労働とは労苦であると規定しても、逆に労働は自由な創造であると規定したとしても、それ自体は誤りではありません。労働に関するかぎり、認識は自由なのです。
 それにもかかわらず、私自身は、労働の認識方法にこだわります。なぜかといえば、どのような視点から労働をみたとき、どんな世界がみえてくるのかが、私にとっては重要だからなのです。…>(内山節・竹内静子共著『往復書簡 思想としての労働』/農文協)

 内山節は本来の労働を「仕事」と「稼ぎ」の二つに分けて考える。暮らしを創造していく労働を「仕事」(「畑仕事」「山仕事」「手仕事」や共同体内の協同作業など)、稼ぐことを目的とした労働を「稼ぎ」(しなくてよいなら無視するが、現実には稼がなければならないからする労働)だという。哲学者らしい考えだが、現代人は「稼ぎ」がなければ生きていけなくなっているだ。

 一般に近代の「労働」とは、賃金を得るために自分の自由時間を売って働くことである。その「労働」の変遷を概観すれば、「人間ー道具系」にはじまり、「人間ー機械系」から「人間ーコンピュータ系」へと変容してきた。(参照:千田忠男編『労働科学論入門』/北大路書房)しかもこの間、生産過程のスピードは飛躍的に上昇し、労働者は肉体的疲労より精神的疲労に悩まされるようになった。かつては、労苦があっても自己の「労働」に喜びや誇りを見出すことが出来たが、いまや「労働」は苦役そのものである。諸外国に例のない「Karoshi(過労死)」が頻発するわが国では、「奴隷的労働」が珍しくなくなった。とくに小泉純一郎政権の「規制緩和路線」による新自由主義(市場主義)がもたらした利益優先思想が、公益を私益へと誘導し、弱肉強食の社会を生みだし、「ワーキングプア」「フリーター」などのおぞましい言葉が氾濫する有様だ。

 今村仁司著『近代の労働観』(岩波新書)には、1930年に発刊されたベルギーの社会主義者アンリ・ドマンの著書『労働の喜び』(1920年代のドイツ労働者たちの労働経験の調査報告に著者の解釈を加えた書)を取り上げ分析している。

 <…ドマンは人間労働の本質についてはじめからひとつの判断をもっている。「労働の喜びへの欲求は、最初から、正常な人間の自然な状態である」と彼は言っている。つまり労働は本来的に、そして本質的に、労働の喜びを内在させているのであって、それは人間が「生きる」意志と一体であり、人間が「生きる」ことは幸福への欲望と分離できない。労働の喜びは人生の喜びを与え、またそれを支える。しかし現実はけっして労働の喜びを素直に実現させない。労働の喜びを妨げる障害が多々あるからである。ドマンは喜びの感情を妨害する条件を詳細に分析していくが、その分析を導く思想は、妨害の条件を除去するなら労働の喜びは現実になるだろうという考えである。妨害条件の除去する社会改革をめざすところにドマンの社会民主主義思想がある。要するに、ドマンの労働本質論は、人生の意味と一体となった労働の喜びが労働に内在しているというテーゼにまとめられる。首尾よく妨害条件、つまり労働者に不利な社会的状態を改革できるなら、労働に内在する喜びの感情はきっと自然に湧き出てくるはずであるというのである。…>

 ドマンがいう「労働の喜び」論が登場した背景として今村仁司氏は、二十世紀前半(1929年までの時期)は機械と技術による労働者の「解放」が可能であると予測された時代であった、と指摘し、「それは、自由主義者だけでなく、ドマンのような社会主義者やロシアのマルクス主義者にも共通の期待であった」という。今村仁司氏は自著の末尾でマルクスの娘婿ポール・ラファルグをとりあげ、「労働という狂気」と題して書いている。

 <労働の中に人生の意味を求めたり、労働を人間にとってもっとも大切な基礎と考えたりすること、要するに労働を人間の本質とするような思想を、ポール・ラファルグは「破滅的なドグマ」であると批判する。彼によれば、それは労働の狂気であり労働への激情であり、一種の労働の宗教である。禁欲主義的労働などは労働の狂気そのものであり、もってのほかだと言うのである。ラファルグはこう述べている。
 「資本主義文明が支配する諸国民の労働階級を奇妙な狂気がとらえている。この狂気は、この200年来、あわれな人類を苦しめる個人的・社会的悲惨をもたらしてきた。この狂気とは労働への愛、病的なまでの労働への情熱であり、その狂気はついには個人と子孫の生命力を涸渇させるほど強烈である。(…)資本主義社会では、労働はすべての知的堕落、あらゆる身体的歪みの原因である。(…)労働は隷属状態のなかでももっとも最悪のものだ」>

 ラファルグの思想に加筆するように今村仁司氏は言う。

 <マルクスはエンゲルスとの共同草稿『ドイツ・イデオロギー』のなかで、労働の解放を条件としつつも、さらに一歩進んで労働からの解放あるいは労働の「廃棄」をも構想していた。労働が本質的に隷属的であるからこそ、労働からの解放あるいは労働の廃棄の思想がすなおに出てくるのである。ラファルグの文章は、マルクスの「忘れられた思想」を、当時の社会民主党の主流に抵抗する形で、つまり異端的なやり方で、表明したものである。ラファルグは、けっして自分の心情をぶちまけたわけではない。>

 現代の労働について語るとき、今村仁司氏の次の言葉はきわめて重要である。

 <現実の労働は労苦である。労働条件の改善はつねに必要である。こうした改善は「労働の解放」であるが、労働からの解放ではない。労働条件の改善は、たとえドラスティックな改善であっても、必然の領域に留まり、労働は依然として労苦である。改善された条件の下での軽減された労働でも、労働は本質的に隷属的であり、その隷属性のゆえに労働は労苦でありつづける。人間が身体を所有する限り、必然と必要の労働、つまり隷属的労苦としての労働はなくならない。人間にできることは、隷属的労苦でありつづける時間を最小限にすることだけである。>

 フランスでは、資本・経営側が国際競争に勝てないことを理由に現行の「週35時間労働」を2時間程度延長するよう組合側に提案したが、組合側はこれを拒否した。これに比べわが国では「週42時間労働」だから、フランスより一日「徒(ただ)働き」していることになる。そればかりか最近裁判沙汰になっている「名ばかり店長」は残業代なしで長時間労働を強いられてきたというが、わが国では以前から「サービス残業」が常態化し、これが「Karoshi(過労死)」の素因とも言われてきた。およそ諸外国では考えられない労働実態で、奴隷的労働そのものである。

 労働は本質的に隷属的労苦であるというが、「細切れにされた労働」である“派遣労働”などは労苦のみか“心苦”をともない、人間性を貶める奴隷的労苦である。労働からの解放を求めてきた人間の営為は夢に過ぎなかったのだろうか。アンリ・ドマンがいう「労働の喜び」は永遠に味うことは出来ず、ラファルグのいう「労働の狂気」のなかで労働者たちはあえぎつづけるしかないのだろうか。

再び『わが別辞』~「吉行淳之介さん追悼」から見える“水上勉”

2008-04-17 11:03:34 | Weblog
 “吉行淳之介”という作家は、話題の多い人だったらしい。没後、晩年の愛人大塚英子が『「暗室」のなかで吉行淳之介と私が隠れた深い穴』(河出書房新社・1995年)を、宮城まり子が『淳之介さんのこと』(文芸春秋社・2001年)を、本妻の吉行文枝が『淳之介の背中』(新宿書房・2004年)をそれぞれ出版したことでもうなずけよう。本妻は最後まで離婚を認めなかったが、事実上の配偶者は歌手・俳優の宮城まり子だった。彼女とはじめて会ったのは、雑誌かなにかの三人の企画対談で、この対談のあと吉行淳之介が「今、病気で入院しているから、見舞いに来てくれ」と手紙を書いた。その手紙には「見舞の品を持って」とあったから、彼女は見舞の品を持参して病院を訪れる。これが二人の交渉の発端だった、という。

 参照:「吉行淳之介の純愛」http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/yosiyuki.html 

 本妻は離婚を認めなかったから、宮城まり子との三角関係は彼の死まで続くのだが、肝臓ガンで聖路加病院に入院して死までの二ヶ月間、病院関係者の誰もが驚くほどの手厚い看護に当たった宮城まり子に、吉行淳之介は「まりちゃん」と今際の言葉を残し逝ったという。「吉行淳之介文学館」は宮城まり子が1968年に障害者施設として設立した“ねむの木学園”(現在は掛川市に所在)に付設されているというが、35年間も寄り添ってきた二人の関係からすれば当然のことかもしれない。

 その吉行淳之介とも交流の深かった水上勉は、『わが別辞』で吉行に関するいくつかのエピソードを披露しているが、「すばる」(平成6年9月号)の『吉行さん追悼』ではほとんどが“身の上話”になっていて興味深い。いわゆる「売文稼業」の切なくも凄絶な一面がうかがえ、なにごとも才能だけでは片付かないことを教えてくれる。


 <あれは昭和26年の夏だったと思う。その頃浦和の白幡町にいた。夏だと記憶しているのは素足に下駄をはいていたのを思いだすからだが、半袖シャツに半ズボンで東京に出て、新富町にあったモダン日本社へいって吉行さんに会った。同社は二階屋で、階下の三和土に五つほどの机が向きあっていたように思う。向い机との境界にゲラや原稿が乱雑に積みかさねられ、同僚の顔が見えぬぐらいに高積みされていた。そんな机に向って吉行さんはいた。たぶん私は「真実」の編集長だった某氏の紹介でか柴田錬三郎さんの紹介で、吉行さんを識ったと思う。…

 私は妻に逃げられ、三歳の子とふたりで農家の離れにいたのだが、読物雑誌に原稿をもち込んで喰おうとしていた田舎者であった。私は年だけは四つ上だったのに、なぜだか、吉行さんの都会的な風貌骨格に魅せられていて、原稿をもちこみつづけたのも、吉行さんから、おもしろいものが出来たらもってきなさい、といわれていたからだと思う。「堕胎奉賀帖」は、吉行さんの目にかなった。下宿屋でくらす男主人公が、田舎出の女中さんの妊娠に同情して、身におぼえのない人も、ある人もいくらかずつ彼女のために拠出させて、医者代を募る話だったように思う。…
私は吉行さんから前払いでもらった原稿料で、娘をつれて若狭へ帰る汽車賃にしたのをおぼえている。

 私の逃げた妻は日本橋Sクラブという焼けのこったデパートの裏口エレベーターから上るダンスホールにつとめていたが、このホールへも、深夜、ゴム長をはいてエレベーター口へボーイさんに追いかえされる私になぜか吉行さんがついてきてくれていた記憶がある。吉行さんも迷惑だったろうが、私が同道をせがんだからだと思う。その頃はまだ、東京はバラックと焼け残りのビルの迷彩壁面も露わな廃墟に等しかった。だが、いまのようにこせこせしていなくて、町歩きも楽しかったように思う。つぎの妻、(というといまの家内のことであるが)にも神田司町にあったサロンMで働いてもらっていたことがあって、私は小説をあきらめ、洋服の行商をしていたのだが、家内の夜の勤め先である、サロンMへ吉行さんと私は行ったのである。吉行さんは家内の友人にお気に入りのひとがいたようで、私はそうそうゆけなかった。吉行さんは買い立ての中古車で(たぶんダットサンだったと思う。家内の話だと、うしろの方に傷がついていて、ボンネットもつっかい棒がしてあった由)、夜のあそびはもっぱら運転練習もかねてのはずで、近藤啓太郎さんもよくご一しょだった、と家内はいまもいっている。…

 私は、きのう夜信州の家で、テレビで吉行さんの訃報に接した。今日、ひる上野に着いて、山の上ホテルにはいったが、その部屋がまた吉行さんが嘗て愛用していた部屋なのでうろたえ、昔のことが、あれこれと浮かんで、とても、いま上野毛のご自宅で別れてきた直後とはいえど、その死が信じられないでいる。私は、五年前に心筋梗塞で死にかけ、吉行さん宅の近くの病院の集中治療室にいて、命をとりとめたのだが、辛うじて生きている身に吉行さんから長い勇気づけの手紙をもらっていたが、まったくあべこべの気持ちで、いま、暗澹としているのである。
 飢餓地獄のあの時代から、終始、私に親切だった人を失って、眼先に幕が降りた気持である。合掌。1994年7月27日>


 水上勉も、どこかで「女性にはマメだった」と告白していたように記憶するのだが、吉行淳之介とはそんなところからも「馬が合った」のかもしれない。『わが別辞』「あとがき」でも書いているが、水上勉は宇野浩二の口述筆記を引き受け、「生活上にも文学上にも、一大事といえる影響を受けた」といい、「思い出せば、宇野邸は私の文学道場だった気がする。妻に家出され、五歳の娘をつれて宇野邸通いをはじめた日々を思いおこすと、辛い日々ではあったが、幸運なことでもあったといまにして思う。」と述懐する。人との“縁”が己が人生を形作っていく。“縁”で結ばれた人との別れを語ることは、自らの生を語ることであることを示している。

気骨の“文人”たち~水上勉の『わが別辞』から

2008-04-15 12:40:11 | Weblog
 水上勉著『わが別辞~導かれた日々』(小沢書店)は、著者が交流のあった22人の有名作家を偲ぶ文集である。故人のことを偲びつつわがことをたくみに語ってみせる著者の筆はさすが。檀一雄、中野重治、小林秀雄、大岡昇平、井上靖、松本清張、中上健次、井伏鱒二、吉行淳之介等々、どの『別辞』も著者の人柄がにじみ出ている。なかでも、ともに世田谷・成城に住み近所付き合いをしていた“大岡昇平”氏への『別辞』は、著者の障害のある次女直子さんと大岡昇平氏との交流がなんとも胸を熱くさせる。本書には「朝日ジャーナル」「中央公論」「ちくま」「群像」「新潮」への寄稿五編が収められているが、「中央公論」にはこんな文がある。

 <…ぼくの娘が障害児で歩けぬ事情にあるのを大岡さんは心にとめて下さっていた。妻が娘のために腰骨の一部を切って与えたのは別府の病院でだったが、ぼくはこの翌日、那須で大岡さんも待っておられるゴルフ仲間に参加するのに、一日約束を破った。かけつけて遅刻の理由をのべたが、大岡さんの顔つきがこの日から変った。大岡さんには、わが娘にしろ、母が自分の骨を切る行為が衝撃だったのだろう。昭和46年の「婦人公論」一月からの連載小説「青い光」のこの話が少し形をかえてつかわれることになった。直子(娘の名)の誕生日をおぼえて下さっていて、クリスマスには花が届けられるようになった。冬のことなので、鉢植えのシクラメンや蘭が多かった。娘はその都度手紙を書くようになった。娘は、母から骨をもらったけれど、結局歩けずじまいで、くるま椅子で和光大学を八年がかりで卒業できた。あとで大岡さんのお孫さんが転入される東横学園への橋わたしも娘の縁といえた。娘にあてたハガキの二つを披露しておくが、「おじさん」と書いて、「おじいさん」と「い」があとで挿入されている。もう先がみじかいから、というようなことが書いているのもいまぼくの心を打つ。
 「きれいなお花どうもありがとう。七十八のぼけじいさんになりました。ご卒業おめでとう。あるたけの才能をのばして、がんばって下さい。いのちのつづくかぎりおとなりから見守っています。さよなら」
 これは三月六日の日付だ。娘は先生の明治四十二年三月六日の誕生日を空んじていて、花を送ったらしい。その返事である。娘は絵をやっているので小さな作品の写真を大岡さんに進呈したことがあったらしい。大岡さんはこれを客間の壁に飾り、くる人ごとに見せて、誰の作かと客がいぶかるのを見て愉快だとおっしゃり、「新しい画家の誕生に乾杯」とむすんでおられた。また、もう一つには、「この世には、直子ちゃんよりめぐまれない子もいるので、その人たちを助けてあげる人になって下さい。自分はいのちのつづくかぎり、おとなりで見守っている」と書いて下さっているのだった。ぼくは、直子をくるま椅子にのせ、遺言によって簡素きわまりなかった先生の野辺送りの日、七丁目まで妻に押させて見送りさせた。ぼくは、家をしょっちゅう留守にし、京都にいるので、娘がこんなに泣いた日をあとにも先にもしらない。うちの娘にだけではあるまい、大岡昇平という、男性的で、硬派だった文学者はひそかに身辺の人々に、このようなやさしさを保ちつづけた人だったのである。…>

 「朝日ジャーナル」にはこんな一節もある。

 <…うちの歩けない子が大事にしている赤いビニールのハンドバッグがある。大きな赤い花びらが、バッグの一面いっぱいにひらいていて、何ともはなやかなものだ。これは、去る日、大岡さんが、玉川の高島屋のウインドウで見つけられたもので、奥様のはなしだと、その場に釘づけになってうごかれなかったという。
 「これは、直ちゃんにいいなあ」
 とひとこといっての衝動買いだったと奥さまから妻がつたえきいている。足がよわられてからの散策途中に立ちよられたデパートでのこの心のこもった贈り物は、先生が日常、ぼくの家庭のことを考えていて下さった証しだと思う。…>

 「ちくま」で水上勉は大岡昇平を偲んで痛恨の胸のうちを語っている。

 <日本の文壇は、命がけで戦争にこだわりつづけた稀有ともいえる誠実なる文学者を失った。その逝去の昭和六十三年十二月二十五日は、昭和という時代が終る十二日前のことだった。大岡さんの死は、ぼくにとってたまらなく悲しかった。「証言その時々」を読んでみるがよい。戦争時から大岡さんは、軍閥に抵抗しておられた。ぼくなどは、召集をうけて内地勤務で命拾いした仲間だが、上官にへつらい、自分にも嘘をついて体裁よく生きてきた。そんなぼくに、大岡さんは良心の作家として、いつまでも、前方に光をさし示しておられる気がする。合掌。>


 ここで想い出すのは、『中央公論』1963年6月号に公開質問状の形で発表された「拝啓 池田総理大臣殿」という水上勉の一文である。貧困な福祉行政への怒りの声として社会的な注目を集めたのを忘れられない。

 <こんなことがありますか。水上勉個人が、一人の障害児を持っていて、その子を育てながら1,100万円の税金を払うのに、日本に国立重症児施設が一つもなくて、私立の施設(島田養育園)が出来てそれに援助する額が1年間で400万円とは何事ですか。>

 これに対し翌月の同誌に「拝啓 水上勉様」という池田首相からの返書が掲載され、福祉行政へのなにがしかの配慮がなされたと記憶するが、それもその場限りのことだったのはいうまでもない。

 今日は、「後期高齢者医療制度」発足から最初の“年金受給日”で、報道によれば、納得できないお年寄りが役所に多数押しかけたと伝えている。
 政府・与党の政治家に大岡昇平氏の“いたわりの心”を求めることは、「天に橋をかける」ほど難儀なことだと思い知らされる。また、水上勉氏が提起した福祉行政見直しの怒り声は、結局、政治の扉を開くことにはならなかった。いま、直子さんがどうしておられるか知る由もないが、いわゆる社会的「弱者」がますます生きづらくなっていることを思うと、この『わが別辞』に登場する「社会派」文人たちがほんとうに懐かしく偲ばれてならない。



 

“良心の囚人”たちに有罪判決~愧じ知らずの最高裁

2008-04-13 14:53:49 | Weblog
 最高裁は、<立川反戦ビラ配布事件>の上告を棄却した。この事件の概要を見てみよう。

 <東京・立川基地の在日米軍が横田基地に移った後、自衛隊が使用することに反対した市民らが1972年、市民団体「立川自衛隊監視テント村」を結成。反戦や基地反対を訴えた。2004年1月に「自衛隊のイラク派兵反対!」と書いたビラを各戸の新聞受けに入れるため、隊宿舎の通路や階段に立ち入ったとして、警視庁は翌2月、住居侵入容疑でメンバー3人を逮捕。東京地検八王子支部が起訴した。3人は75日間拘置された。人権団体のアムネスティ・インターナショナルは04年、3人を思想信条を理由に拘束された「良心の囚人」に日本で初認定した。>(『東京新聞』4月12日より)

 一審の東京地裁は「ビラ配りは憲法で保障された政治的表現活動。住民の被害は小さく、刑事罰にするほどの違法性はない」として“無罪”を言い渡したが、検察が控訴した東京高裁は「住民の不快感を考えれば被害は軽微ではない」として三人に10万~20万円の罰金刑にしたのである。これを不服とした被告側が最高裁に上告した結果が今回の判決で「3人の行為を罪に問うことは、表現の自由を保障した憲法に違反しない」というわけだ。

 東京・立川基地および横田基地は、かつて3年間そのすぐ近くに居住し、反基地闘争や騒音被害も体験してきただけに、この事件には特別な関心を抱き見つめていたが、この事件は近年、「ビラ配り」逮捕が目立って多くなっている情況から最高裁がどう裁くか、社会的な関心と注目を集めていた事件でもあった。明解な見識で解説した『東京新聞』4月12日社説は、見出しで「反戦ビラ有罪 自由を萎縮させるな」として次のように述べている。

 <自衛隊のイラク派遣に反対するビラを官舎で配った。最高裁は住居侵入罪にあたるとした。有罪が確定する。「ビラ配布有罪」が続いている。この積み重なりが、表現の自由をさらに息苦しくする。…

 判決には、具体的にどのように平穏が乱されたか、どんな精神的被害があったか、言及はなかった。…

 見のがせないのは、証拠隠滅の恐れを理由に、七十五日間も拘置されたことだ。科されたのは罰金刑なのに、それほどの長期間、拘束する必要があったのか。

 国際人権団体アムネスティ・インターナショナル本部は、「反戦ビラ」の被告たちを日本で初めて「良心の囚人」と認定した。非暴力で権利を行使しただけで、拘束された人々のことである。ミャンマーの民主化指導者アウン・サン・スー・チーさんや、旧ソ連のノーベル平和賞の故サハロス博士らも名を連ねた。

 共産党の印刷物を配布し、住居侵入罪に問われた東京葛飾区の僧侶も、一審無罪が二審で逆転有罪、共産党の機関誌を配った社会保険庁職員は国家公務員法違反で、有罪判決。有罪が続く。

 まるで「反体制」や「左翼」と呼ばれる人々を狙い撃ちしている印象を与えかねない。これでは、政治について声を上げ、それを伝達することすら、ためらいが生ずるのではないか。

 多様な意見を自由に述べることこそが、民主主義の根幹である。“良心の囚人”が増えれば、自由は必ず萎縮(いしゅく)する。>

 『毎日新聞』も解説記事で、<判決はまた「表現そのものではなく、表現の手段が問われた事件」としてビラの内容を判断の対象としていないことを示している。だとすれば、広告など「商業ビラ」の配布が問題とされないのに、3人を摘発したことへに疑問は残る。>といい、判決に首を傾ける。しかも、「住民の被害届」はあらかじめ警察が準備したことが公判のなかで明らかにされているのに、最高裁はこれも無視した。

 この事件後サンデープロジェクト(取材者)が自衛隊官舎に張り込んでいたところピザ屋や寿司屋、クリーニング屋などが頻繁に出入りしているのを目撃している。「住居無断侵入」が罪というなら、これらの業者はすべて逮捕しなければならなくなる。さらに1審では官舎を「住居」としていたが、2審では「邸宅」と書き換え、最高裁判決もそのまま「邸宅」としている。

 警察は逮捕後三人を「過激派」に仕立て上げ、接見禁止のうえ七十五日間も拘置した。同房者は「殺人とか凶悪犯と思った。なんでそんなことで捕まるの」と驚いていた、という。(『東京新聞』)


 編集人をしていた造船総連機関誌『労働青年』8号(1965年9月発行)の巻頭言に私は次のように書いている。

 <ある一人の大学生が“ベトナム戦争反対”というゼッケンをつけて、国会周辺を歩いていたそうである。そこへ機動隊がきて、道路交通法の“異様な粧いをして…”という規定にひっかかると言って警察へ連行し、三時間にわたり取調べを行ったという。このことを紹介したある雑誌は“もし、どこかのサンドイッチマンが国会周辺を歩いていたら、やはり警察は道交法に照らして連行するだろうか”と皮肉っていた。…>

 この記述は、40年前から警察「権力」の本質はなんら変わってはいないことを教えているが、最近目だって横柄になった権力側の仕打ちや司法の不当判決の連発をみていると、共通するあることに気づく。それは“想像力の欠如”である。

 
 われわれは「時間」と「空間」の制約の中に存在するわけだが、当然ながら「時間」は“流れ”、「空間」は“広がり”をもつ。“想像力”はこの“流れ”と“広がり”をどう認識するかにかかっている。“想像力の欠如”は“流れ”の停滞、“広がり”の抑制の結果である。“想像力の豊かさ”は“流れ”に柔軟に従い、“広がり”に抱擁された自己の存在認識から生れる。

 最高裁判決文を読めば、“想像力の欠如”が著しいことがよくわかる。最高裁だけではない。最近の政界や財界をはじめわが国指導層のすべてに言えることだが、“想像力”の欠乏がこの国の品性を貶めていると言えないだろうか。繰り返す「薬害」、心ない「後期高齢者医療制度」、価値なき労働「ワーキングプア」等々も“想像力”が豊かならば決して生じていなかったといえよう。

 参考までに最高裁法廷を傍聴した“ひらのゆきこ”JANJAN記者の記事をリンクさせていただく。

 「JANJANニュース」:http://www.news.janjan.jp/government/0804/0804114728/1.php 


“松下禅尼”の話~この母にしてこの子あり

2008-04-11 11:51:13 | Weblog
 いよいよ世界情勢の先行きが怪しくなってきたが、わが国では「日銀首脳人事」をめぐって福田首相が見苦しい“怨み節”を披露して、日本の政治指数の低さをあらためて露呈した。年金問題、後期高齢者医療制度、道路特定財源など、どれもこれもにっちもさっちもいかない課題をかかえ、一方、国民は得体の知れない物価高に翻弄されつつある。

 一体、物価高の原因はどこにあるのか。

 世界情勢が怪しくなっているいわば「火元」は、アメリカのこれまでの消費行動にあることは周知の事実である。政府の政策に乗せられたアメリカ国民は、家も家具も電化製品も自動車も旅行もすべて担保なしのローンで手に入れ、国は虚栄を誇り民は豊かさを満喫してきた。その背景に高度にシステム化された金融商品が存在し、これが悪質消費者金融の仕組みであることが暴露され、大混乱に陥っているというわけだ。アメリカ国民が多重債務をかかえているばかりか、米国自体が多重債務者になってしまっているのである。アメリカの虚栄に依存してきた世界経済が機能不全に陥ったのは、経済法則にかなった当然の帰結である。

 ところが、このとばっちりをまともに受けて苦しんでいる多くの人々が存在する。国連の支援でやっと食いつないできた貧困国の人々である。穀物を中心とした食糧価格の高騰のため、世界各地で暴動が起きていることはあまり報道されていない。食糧問題が深刻なのは、温暖化による気象変動の影響や穀物のバイオ燃料への転用、それに中国、インドなど新興国の食肉消費量の増大などの要因が挙げられている。とくに、燃料への転用が問題視され、それが的外れとは言えないまでも、食肉消費量の飛躍的な増大は見過ごすことのできない現象であろう。世界の穀物生産の約4割が食肉飼料に消費されているそうだが、1㎏の食肉に要する穀物は、牛で11kg、豚7kg、鶏4kgだという。食肉を大量に消費する食生活が拡大する一方で、貧困国では飢餓人口が増大していく。

 参照「JANJANニュース」:http://www.news.janjan.jp/world/0804/0804084481/1.php

 
 仏典や中国古典に“知足安分”もしくは“少欲知足”などとあることは前にもふれたが、「暖衣飽食」に慣れたわが身を振り返り、あらためて“知足安分”に心をいたさねばと自戒しつつ、鎌倉幕府執権だった北条時頼の母“松下禅尼”の有名な話を『徒然草』から引いておく。「仁慈・公平を旨とする政治で世の尊信を集めた」という北条時頼。その母のすがすがしい親心が民への思いと重なって胸を熱くする。


 <相模守時頼(さがみのかみときより)の母は、松下禅尼(まつしたのぜんに)とぞ申しける。守(かみ)を入れ申さるゝ事ありけるに、煤(すす)けたる明り障子の破ればかりを、禅尼、手づから、小刀(こがたな)して切り廻しつゝ張られければ、兄(せうと)の城介義景(じょうのすけよしかげ)、その日のけいめいして候ひけるが、「給(みたま)はりて、某男(なにがしをのこ)に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候ふ」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ」とて、なほ、一間(ひとま)づゝ張られけるを、義景、「皆を張り替へ候はんは、遥かにたやすく候ふべし。斑(まだ)らに候ふも見苦しくや」と重ねて申されければ、「尼も、後(のち)は、さはさはと張り替へんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理(しゅり)して用(もち)ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心づけんためなり」と申されける、いと有難かりけり。
 世を治むる道、倹約を本(もと)とす。女性(にゅしやう)なれども、聖人の心に通(かよ)へり。天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、たゞ人(びと)にはあらざりけるとぞ。>

[注]
・北条時頼=鎌倉幕府第五代の執権。時氏の次男に生れ、1246年に、20歳で執権、1249年に、23歳で相模守となった。1256年に、30歳で執権を辞して出家し、道崇(どうすう)と称した。1263年に、37歳で最明寺で寂した。仁慈・公平を旨とする政治で世の尊信を集めた。
・松下禅尼=秋田城介(じょうのすけ)、安達景盛の娘で、北条時氏に嫁し、経頼・時頼を生んだ。夫、時氏は、1230年に28歳で世を去り、その直後、尼となり、30年も過した。生没年不詳。本段は、時頼の23歳から27歳までの間のこと。「禅尼」は、剃髪・受戒して仏門に入った、在家の沙弥尼(しゃみに)。
          (西尾実・安良岡康作校注『新訂 徒然草』/岩波文庫)

【現代語訳】
 相模守時頼の母は、松下禅尼という人であった。ある時、相模守を自邸に招かれたことがあるが、そのおり、すすけた明り障子の破れたところを禅尼自ら小刀であちこち切り取って張っておられた。その日の接待の手配をしていた兄の城介義景が
これを見て、「その仕事は然る男にやらせましょう。とても上手にできる男ですから」と申すのに答えて禅尼は、「その男は、よもや私より上手ではありますまい」と言って、かまわず一枠ずつ張り続けていた。義景が、「全部を張り替えてしまえばはるかに簡単ですし、見栄えもよいではありませんか」と言うと、「私もさっぱりと全部張り替えようと思っているのですが、今日だけは、わざとこうしているのです。物は傷んだところだけを修理して用いることが大事だと、若い人に見習わせ、心に刻んでもらうためなのです」と申されたのだった。まことに、有難い話である。
 世を治める道は、倹約が肝要である。女性ではあるが、禅尼の心がけは聖人の心に通じている。天下を治めるほどの人を子として持たれたのは、なるほど、ただの人ではなかったと語りつがれている。