4月13日『東京新聞』Webで「専ら派遣」という言葉にお目にかかった。一体何のことかと読んでみると、人材派遣会社が特定の会社だけに労働者を派遣することだという。Web内辞書で調べたら次のように解説してある。
[専ら派遣]
特定企業に対してのみスタッフを派遣することを言います。派遣社員は、あくまでも一時的な労働力として用いられることが前提なので、派遣が特定の企業の労働力確保源となってしまうと、正社員の雇用を阻害すると考えられるため、この「専ら派遣」は労働者派遣法で禁じられています。
“労働者派遣法”の細かいことは承知していなかったので迂闊といえば迂闊だが、こんな悪質な雇用形態が現実に存在しえるとは正直想像できなかったのである。『東京新聞』は「労働者派遣法は専ら派遣を原則禁じているが、規定があいまいなため、事実上の野放し状態が続いている」としてその例を挙げている。
<関西地方に拠点を置く大手アパレルグループは四年前、全額出資の派遣子会社を設立。約百人の派遣社員は数人を除き、グループ企業に派遣されている。本社に派遣され、業務書類の作成を任された二十代の女性は「一日約八時間労働で月収十七万円。同年代の正社員は二十五万円で、待遇の差が大きすぎる」と不満を訴える。
このアパレルグループの本社は「新ブランドの設立など本社の業務拡大で、人材が必要になった」と説明。賃金格差の理由は「派遣社員は簡単な作業が多いため」と話す。しかし、派遣された女性は「正社員がやっていた仕事を引き継いだので、仕事の内容に差がないはず」と証言する。…>
他にもいくつか例を挙げて「専ら派遣」が野放しになっているといい、野党が労働者派遣法の改正にあわせ「日雇い派遣」の禁止とともに「専ら派遣」の規制強化を目指していると伝え、最後に脇田滋龍谷大学教授(労働法)の話を載せている。
<専ら派遣は外国には存在しない日本独自の仕組みだ。企業は安上がりに派遣労働者を長期確保する目的で系列派遣会社を利用している。だが、常用雇用の代替として派遣労働を利用しないことが労働者派遣法の基本であり、これに反する専ら派遣は許されない。非正規雇用を拡大させ、雇用の不安定を招く重大な要因となっており、厳しく規制する必要がある。>
“労働者派遣法”の正式名称は「労働者派遣事業の適正な運営の確保および派遣労働者の就業条件の整備等に関する法律」というらしい。1986年7月1日施行時は適用業種はごく一部に過ぎなかったが、1999年に大幅改正、さらに2003年には港湾運送業、建設業、警備業、医療の一部を除き原則自由化されて今日にいたったものだが、グッドウィルの折口雅博元会長(安部晋三前首相の盟友で2004年に経団連理事、2005年に紺綬褒章を受章)のような悪質な手口で派遣業が賃金のピンハネ手段として利用されてきたことは周知の通りである。
この“労働者派遣法”が資本・経営の強い要求で生み出されたあくどい賃金のピンハネ法であることは、労働法学者らによって当初から指摘されていたことだった。だが、主に大企業の“正社員”で組織するわが国最大の労働組合「連合」は、“正社員”労働者の保身のためのみか、ベッタリ癒着した資本・経営の意向に逆らえず、この悪法の成立を簡単に許してしまった経緯がある。
憲法第27条(勤労の権利及び義務、勤労条件の基準、児童酷使の禁止)、第28条(勤労者の団結権)をはじめ、これに基づく労働基準法、労働組合法などの「労働者保護法」の成立過程についてここで改めて述べる必要はないと思うが、財界天皇といわれる経団連会長の御手洗富士夫という人物は、中央大学法学部で学び司法試験に挑戦して失敗したらしいが、この「労働者保護法規」だけはまったく学んでいなかったとみえて、自社のキャノンでは悪質広範な派遣法違反が常態化しており、たびたび国会で追及されている。こういう下劣な財界人がわが国産業界を支配しているかぎり、「賃金のピンハネ」つまり「搾取」される哀れな労働者はなくなりはしないだろう。
「労働」に関しては5月10日の記事(『“労働とはなにか”を教わった今村仁司氏逝く』:
http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070510)でもふれたが、60数年前に宣言されたすばらしい包括的な「労働観」をここに引いておく。
【フィラデルフィア宣言】(「国際労働機関の目的に関する宣言」)
(a)労働は商品ではない。
(b)表現および結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。
(c)一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。
(d)欠乏に対する戦いは、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、一般の福祉を増進するために自由な討議及び民主的な決定とともに参加する継続的且つ協調的な国際的努力によって、遂行することを要する。
「労働」の価値は、ここに表明される普遍的な精神によって確保され、保障され、保護されるものだろう。わが国政府や産業界の指導者たちは、この【宣言】を想い起こしてみるべきだ。
哲学者の内山節は「労働」に関しこんなことを言っている。
<…労働とは何かという問いに対して、私は正しい答えはないと考えています。なぜなら労働とは、概念を定めることによって生れたものではなく、自然におこなわれてきたものを、どのような労働概念によってとらえるのか、ということなのですから、どのような概念によって労働をとらえることも可能なのです。その点では、労働とは労苦であると規定しても、逆に労働は自由な創造であると規定したとしても、それ自体は誤りではありません。労働に関するかぎり、認識は自由なのです。
それにもかかわらず、私自身は、労働の認識方法にこだわります。なぜかといえば、どのような視点から労働をみたとき、どんな世界がみえてくるのかが、私にとっては重要だからなのです。…>(内山節・竹内静子共著『往復書簡 思想としての労働』/農文協)
内山節は本来の労働を「仕事」と「稼ぎ」の二つに分けて考える。暮らしを創造していく労働を「仕事」(「畑仕事」「山仕事」「手仕事」や共同体内の協同作業など)、稼ぐことを目的とした労働を「稼ぎ」(しなくてよいなら無視するが、現実には稼がなければならないからする労働)だという。哲学者らしい考えだが、現代人は「稼ぎ」がなければ生きていけなくなっているだ。
一般に近代の「労働」とは、賃金を得るために自分の自由時間を売って働くことである。その「労働」の変遷を概観すれば、「人間ー道具系」にはじまり、「人間ー機械系」から「人間ーコンピュータ系」へと変容してきた。(参照:千田忠男編『労働科学論入門』/北大路書房)しかもこの間、生産過程のスピードは飛躍的に上昇し、労働者は肉体的疲労より精神的疲労に悩まされるようになった。かつては、労苦があっても自己の「労働」に喜びや誇りを見出すことが出来たが、いまや「労働」は苦役そのものである。諸外国に例のない「Karoshi(過労死)」が頻発するわが国では、「奴隷的労働」が珍しくなくなった。とくに小泉純一郎政権の「規制緩和路線」による新自由主義(市場主義)がもたらした利益優先思想が、公益を私益へと誘導し、弱肉強食の社会を生みだし、「ワーキングプア」「フリーター」などのおぞましい言葉が氾濫する有様だ。
今村仁司著『近代の労働観』(岩波新書)には、1930年に発刊されたベルギーの社会主義者アンリ・ドマンの著書『労働の喜び』(1920年代のドイツ労働者たちの労働経験の調査報告に著者の解釈を加えた書)を取り上げ分析している。
<…ドマンは人間労働の本質についてはじめからひとつの判断をもっている。「労働の喜びへの欲求は、最初から、正常な人間の自然な状態である」と彼は言っている。つまり労働は本来的に、そして本質的に、労働の喜びを内在させているのであって、それは人間が「生きる」意志と一体であり、人間が「生きる」ことは幸福への欲望と分離できない。労働の喜びは人生の喜びを与え、またそれを支える。しかし現実はけっして労働の喜びを素直に実現させない。労働の喜びを妨げる障害が多々あるからである。ドマンは喜びの感情を妨害する条件を詳細に分析していくが、その分析を導く思想は、妨害の条件を除去するなら労働の喜びは現実になるだろうという考えである。妨害条件の除去する社会改革をめざすところにドマンの社会民主主義思想がある。要するに、ドマンの労働本質論は、人生の意味と一体となった労働の喜びが労働に内在しているというテーゼにまとめられる。首尾よく妨害条件、つまり労働者に不利な社会的状態を改革できるなら、労働に内在する喜びの感情はきっと自然に湧き出てくるはずであるというのである。…>
ドマンがいう「労働の喜び」論が登場した背景として今村仁司氏は、二十世紀前半(1929年までの時期)は機械と技術による労働者の「解放」が可能であると予測された時代であった、と指摘し、「それは、自由主義者だけでなく、ドマンのような社会主義者やロシアのマルクス主義者にも共通の期待であった」という。今村仁司氏は自著の末尾でマルクスの娘婿ポール・ラファルグをとりあげ、「労働という狂気」と題して書いている。
<労働の中に人生の意味を求めたり、労働を人間にとってもっとも大切な基礎と考えたりすること、要するに労働を人間の本質とするような思想を、ポール・ラファルグは「破滅的なドグマ」であると批判する。彼によれば、それは労働の狂気であり労働への激情であり、一種の労働の宗教である。禁欲主義的労働などは労働の狂気そのものであり、もってのほかだと言うのである。ラファルグはこう述べている。
「資本主義文明が支配する諸国民の労働階級を奇妙な狂気がとらえている。この狂気は、この200年来、あわれな人類を苦しめる個人的・社会的悲惨をもたらしてきた。この狂気とは労働への愛、病的なまでの労働への情熱であり、その狂気はついには個人と子孫の生命力を涸渇させるほど強烈である。(…)資本主義社会では、労働はすべての知的堕落、あらゆる身体的歪みの原因である。(…)労働は隷属状態のなかでももっとも最悪のものだ」>
ラファルグの思想に加筆するように今村仁司氏は言う。
<マルクスはエンゲルスとの共同草稿『ドイツ・イデオロギー』のなかで、労働の解放を条件としつつも、さらに一歩進んで労働からの解放あるいは労働の「廃棄」をも構想していた。労働が本質的に隷属的であるからこそ、労働からの解放あるいは労働の廃棄の思想がすなおに出てくるのである。ラファルグの文章は、マルクスの「忘れられた思想」を、当時の社会民主党の主流に抵抗する形で、つまり異端的なやり方で、表明したものである。ラファルグは、けっして自分の心情をぶちまけたわけではない。>
現代の労働について語るとき、今村仁司氏の次の言葉はきわめて重要である。
<現実の労働は労苦である。労働条件の改善はつねに必要である。こうした改善は「労働の解放」であるが、労働からの解放ではない。労働条件の改善は、たとえドラスティックな改善であっても、必然の領域に留まり、労働は依然として労苦である。改善された条件の下での軽減された労働でも、労働は本質的に隷属的であり、その隷属性のゆえに労働は労苦でありつづける。人間が身体を所有する限り、必然と必要の労働、つまり隷属的労苦としての労働はなくならない。人間にできることは、隷属的労苦でありつづける時間を最小限にすることだけである。>
フランスでは、資本・経営側が国際競争に勝てないことを理由に現行の「週35時間労働」を2時間程度延長するよう組合側に提案したが、組合側はこれを拒否した。これに比べわが国では「週42時間労働」だから、フランスより一日「徒(ただ)働き」していることになる。そればかりか最近裁判沙汰になっている「名ばかり店長」は残業代なしで長時間労働を強いられてきたというが、わが国では以前から「サービス残業」が常態化し、これが「Karoshi(過労死)」の素因とも言われてきた。およそ諸外国では考えられない労働実態で、奴隷的労働そのものである。
労働は本質的に隷属的労苦であるというが、「細切れにされた労働」である“派遣労働”などは労苦のみか“心苦”をともない、人間性を貶める奴隷的労苦である。労働からの解放を求めてきた人間の営為は夢に過ぎなかったのだろうか。アンリ・ドマンがいう「労働の喜び」は永遠に味うことは出来ず、ラファルグのいう「労働の狂気」のなかで労働者たちはあえぎつづけるしかないのだろうか。