耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“土用の丑のウナギ”考

2007-07-30 08:02:35 | Weblog
 今日は“土用の丑の日”である。“ウナギ”を食べる日とされている。

 (参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%A8%E3%81%AE%E4%B8%91%E3%81%AE%E6%97%A5

 “土用の丑の日”に“ウナギ”を食べる習慣は「平賀源内」によるとされているが、吉野裕子著『ダルマの民俗学』(岩波新書)では、『陰陽五行説』から次のように説いている。

 <…土用とは「四立(立春・立夏・立秋・立冬)」の前18日間をさすので、年間、四回あるわけである。しかしふつう、土用といえば、それは七月、つまり旧六月・未月の夏の土用のことで、その「土用の丑の日」が、ウナギの日となっている。
 なぜ夏の土用が土用として意識され、またこの夏の土用中の「丑」の日がウナギの日とされているのだろう。>

 中国古代哲学思想の根幹をなす『陰陽五行論』については前に何回かふれた。この「陰陽」と「五行(木・火・土・金・水)」、それに「十干十二支」の組み合わせによる「宇宙循環論」の理解は簡単ではないが、古代日本の律令制下の中務省には『陰陽五行論』に立脚した「陰陽寮」という機関が置かれ、役職の一つに有名な「陰陽師」があり、政治に重きをおく役職だった。およそ1400年後のこんにち、その名残りが日常生活の中に鮮明に受け継がれている。「還暦」などはその代表例だろう。

 吉野裕子説を理解するためだけでなく、わが国の民族・風習の背景を知るためにもぜひ次を参照いただきたい。

 「陰陽五行説」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E8%AA%AC

 さて吉野裕子説にもどるが、年4回ある「土用」のうち夏(火気)の土用はカラカラに乾燥している「燥土」で、これに対し冬(水気)の土用は「湿土」である。カラカラに乾燥した暑熱の「土気」に当たれば、悪疫が流行し、人に害を与える。これを鎮めるためには「湿土」が必要となる。

 <旧六月(未)に対するものは十二月(丑)。この丑月の土用は前に述べたように湿土なので、この「丑」を重ね合わせればいいわけであるが、月を動かすことは不可能である。
 そこで丑月の代わりに、これを日でとって、丑日を重ね合わせる。つまり、夏の土用の丑日はすなはち「土用丑日」ということになるから、これで乾燥した土を、湿土で中和できるのである。

 丑日ということなので本来は「牛」を食するべきであるが、牛は農耕にとって大切な獣だったため、それはタブーだった。そこでウのつくものなら、「ウナギでもよかろう、万葉の昔からウナギは精のつくものとされていたから」という理由で、おそらく、「土用丑日のウナギ」という習俗が定着した、と私は思う。現にウナギのほか、ウメでもウリでもウの字がつくものが、この日の食物とされているところもある。…>

 「土用丑の日のウナギ」は平賀源内(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E8%AA%AC)説が有力とされているが、私は「陰陽五行論」由来とする吉野裕子説に賛同する。中国医学(漢方)が「陰陽五行論」を基礎に成立していることからみても、この方が説得力があると思う。


 ところで、「ウナギ(鰻)」の性味・効用は、
・性味 温、甘
・帰経 脾、胃、肝経
・効用 体の弱っている場合に、よく補養して元気を回復させる。夜盲症や条虫を除くのに有効である。(山崎郁子著『中医営養学』)

 「民間療法」として以下の処方がある。(『漢方・鍼灸・家庭療法』:保健同人社)
・【目の疲れ】
 ヤツメウナギのかば焼きを食べる。または、そのくん製一匹を5日分とし、焼いて食べる。ウナギのかば焼き、ドジョウの柳川鍋なども、昔から推奨されている。
・【肺炎】
 ウナギをびんに入れ、酒の燗をするようにして、一時間沸騰させると、ウナギの脂がたまる。これをさかずきで一杯、塩をすこし加えて飲む。
・【胸膜炎】
 クマヤナギの葉、茎15グラムにウナギの頭三個をあわせて一日量とし、二合半の水で半量に煮つめ、毎食前30分に分服する。

 江戸時代の『日用食鑑』には「甘、温、毒なし、腰を温め、陽を起こし、食を進め、肉を長(こや)し元気を壮んにす。又痔疾、悪瘡(悪性のできもの)及小児の疳疾(栄養不良)を治す。あるいは味噌汁に煮て食えば、小児の雀目(とりめ)を治す」とあり、さらに「西瓜、ぼけ、梅酢、もち」などとの食い合わせが悪いとある。

 貝原益軒の『養生訓』には、銀杏(ぎんなん)とウナギの食い合わせが悪いと書いている。また、生きたウナギを一寸ぐらいに切り、熱燗の酒の中に入れ、冷やしてから飲ませると、酒飲みは酒がきらいになるという。

 劉大器著『薬膳』には「中国では昔から“精が尽きたらぬめりのあるものを食べよ。根(こん)が尽きたら根(ね)のある野菜を食べよ”といわれています。魚ではウナギ…、野菜ではヤマイモ(山薬)…。ウナギには強壮・強精作用があります。また、冷えによる痛みやはれを除くはたらきもあります。」といい、【よく効く食べ方】として「“動悸・息切れ”にウナギ1尾、ガーゼに包んだ黄ぎ15グラムをよく煮て、スープを飲み、ウナギも食べる」とある。

 近年、ウナギ生産量の減少、中国産ウナギの汚染問題など話題が多いが、夏ばて防止に「土用の丑のウナギ」を頂くのも悪くはないだろう。
 

 

“また、対米支援のための改憲かい”~白州次郎が生きていたら

2007-07-28 11:32:07 | Weblog
 明日は参議院議員選挙の投票日である。

 理不尽な手段で手中にした衆議院の絶対多数にあぐらをかき、やりたい放題の「自公政権」を許すかどうかが争点である。まことに幼稚な話だが、ウソやゴマカシを国会から一掃する気持ちで投票しようと思う。

 「占領軍押し付け憲法」論者が「改憲」を声高に唱える昨今、新憲法改定に深くかかわったとされる“白州次郎”が再評価されているようだが、5年前、生誕百年を記念して発刊された『総特集・白州次郎』(「文芸別冊」:河出書房新社)に、当時『共同通信社』論説委員だった春名幹男氏の“また、対米支援のための改憲かい”(副題「あの甘えなき国際人が生きていたら」)というコラムがある。いま読み返してもまことに新鮮である。こんな書き出しではじまる。

 <戦後57年間、日本のリーダーたちはどのような建国の思想と理想があったというのだろうか。
 いまの日本のありようを見るにつけ、二十一世紀の日本は、白州次郎が生きていたら、忌み嫌うような国のかたちになってしまった、と、思えてならない。
 白州は「情けない」と言うであろう。…>

 1946年2月、終戦連絡事務局参与だった白州は、吉田茂外相らとともに、連合国軍司令部(GHQ)民生局長ホイットニー准将らから憲法の草案を受け取る。「象徴天皇」「戦争放棄」など急激な改革に驚き、白州はホイットニー准将に「私信」を送るが一蹴され、新憲法は決まる。

 <GHQの指示を受けて、白州は外務省翻訳官らとともに憲法草案の翻訳を行った。「象徴天皇」の翻訳は白州たちの“発明”である。一週間の缶詰め作業から帰宅した白州は「強姦されたら、アイノコが生まれた」と、いまは禁止用語となっている過激な表現でうそぶいたという。彼自身が国際的経験から培った勘からみて[これではうまく行かない」と直感したのであろう。…>

 この「勘」は当たる。朝鮮戦争をつうじて冷戦が始まるとアメリカは日本に憲法改正の圧力をかけ、再軍備を強要する。当初、「自衛のための必要最小限度の軍備」だったはずの自衛隊は、いまは世界有数の戦力を保有する。この戦力はすべてアメリカから買わされたものだ。湾岸戦争などでもアメリカは日本に支援を求め、アフガニスタン、イラクではついに「海外派兵」の道を開いた。本来なら「憲法違反」の事例が「解釈改憲」法案で多数決決議されたものだ。

 <いま憲法改正論議は「集団的自衛権」の問題などで盛り上がりつつあるように見える。だが、その経緯からして、日本人が自らの思想と理想を築くために憲法改正を目指している、などとは決していえまい。その実は、まさに「対米支援のための憲法改正」と言っても過言ではない。「またアメリカのために改正するのかい」白州が生きていたら、そう問うのではないか。…>

 1951年の講和条約と日米安保条約締結に際し白州次郎は、戦争を放棄した国が外国の軍隊に守ってもらうのはおかしい、と思い、私的見解として米側にひそかに伝えていたという。
 「日本は(憲法で)国家として戦争を放棄したのだから、日米協定で米軍基地を日本に置いて戦争に具えることも、憲法上難しい」と。

 <吉田も白州も、岸信介らが(戦前の)商工省で築いた管理貿易、統制経済的手法からの脱皮、汚職の一掃を目指した。だが、白州が去った後、旧通産省は何を達成したか。まさに、戦時動員体制を“輸出マシーン”に置き換えるマジックの成功である。その路線は、50年代の朝鮮戦争、60~70年代のベトナム戦争と冷戦構造が固定化する中で、アメリカが求めた「日本再工業化」の戦略と一致した。>

 安部晋三首相が「経済成長路線」を信条に「改憲」を叫ぶ根拠は、祖父岸信介の手法を信奉している証しなのだろう。春名幹男のコラムはこう結んでいる。

 <だがその間、一般の日本国民の生活は世界第二位の経済力に見合った質的向上を達成したとは言い難い。まさに、アメリカの戦略に流され、「甘え」てきた結果ではなかったか。>

 今度の選挙は、まさにこの「甘え」からの脱却が問われている選挙といえないだろうか。

 
 白州次郎:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E

 

“不老不死”を売る“方士・徐福”という人物

2007-07-26 17:43:06 | Weblog
 “「東方の三神山に不老長寿の霊薬がある」と具申して、始皇帝の命を受け、財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出した。到着した土地で、徐福は「平原広沢」の王となり中国に戻らなかった。”(『史記』秦始皇本紀28年(紀元前219)の条:wikipesia)

 周知のとおり「徐福伝説」は各地に伝わるが、ここでは1989年4月29・30日佐賀市で開催された日中友好佐賀シンポジウム「徐福をさぐる」の記録『徐福伝説を探る~日中合同シンポジウム』(小学館)を参考にする。

 佐賀で開催されたのは、1986年の発掘調査で「吉野ヶ里遺跡」が世間の注目を集めていた時期で、「徐福伝説」と吉野ヶ里遺跡に接点がありはしないかと日中の学者の関心が高まっていたためである。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1

 “不老長寿”とは読んで字のごとく「老いることなく生きながらえる」ことである。古代中国には“不老不死”を求めた神仙の方術「仙術」があるが、元来頑健でなかった秦の始皇帝はこの「仙術」を用いる“方士”を身近においていたといわれる。現代風に言えば“老化せずにいつまでも若々しく”ありたいという願望が強かったのだろう。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D

『道教と不老長寿の医学』(平河出版社)の著者吉元昭治医師はいう。

 <多くの人々は、生への欲望は医学に、死への恐怖は宗教にたよるようになる。つまり、「生と死」「医学と宗教」とは、表と裏の関係にあるわけで、人類の長い歴史のなかで、この両者は全く同じ時代をすごした時があって、世界のどこでも、医学の始まりは、巫医時代という、両者が一つであった時を経験した。…>

 つまり、“不老長寿”とは人間の「生への欲望」で、時代にかかわらず人びとの心に宿る本能みたいなものであろう。吉元昭治氏がいう「巫医時代」は弘法大師空海が「医僧」であった例でわかるように、中世から近世に至るまで僧もしくは寺院が医療に関与した例は多い。先日述べた“永観堂 禅林寺”の施療院もそうだし、薬草園を手広く開く外国の僧院もその名残だろう。現代でもこの巫医雑混のあやしい“不老長寿”の宣伝が目につくが、そこには人びとの「生への欲望」をかきたて、くすぐる仕掛けが潜んでいる。

 絶大な権力を手にした秦の始皇帝がもっとも怖れたのは「自分自身の身体」だった。釈迦が説くように、「生・老・病・死」は生あるものの定めで避けようがないのだが、皮膚がたるみ、視力が落ち、毛髪に白いものが目立ち始めたわが身を怖れた。側近の“方士”たちはその始皇帝をサポートしていたが、ここに「東方に霊薬あり」という方士“徐福”が登場する。

 始皇帝は“徐福”に莫大な資金を与えその「霊薬」を採りに行かせる。旅立って9年後、“徐福”は始皇帝の前に現れ、「大鮫に邪魔されて辿り着けなかった」という。さらに、「海神が礼が薄いといって薬を採るのを許さない」といって、良家の童男童女3000人とさまざまな技術者、五穀の種などを始皇帝からせしめて再び旅立ち、海を隔てた東方に「平原広沢」の地を得て王となり、二度と秦に戻らなかった。(『史記』)

 “徐福”が辿り着いた「平原広沢」とはいったいどこか。説は多いが、いまだ確定していない。私の関心は「平原広沢」ではなく、“徐福”がいう“不老長寿の霊薬”にある。日中シンポジウム『徐福伝説を探る』には「道教」研究の大家・故福永光司先生の「徐福と吉野ヶ里遺跡の墳丘墓」と題する講話が掲載されている。ここに興味深い話がある。

 福永光司先生は、『史記』の記述から“徐福”が実在の人物だったと断定し、彼が“方士”であったことに注目する。

 <この時代つまり秦漢時代、西暦前3世紀から前2世紀、1世紀のころ、いまの山東省から河北省、日本や朝鮮と海を隔てて隣接している地域ですけれども、そこにたくさんの方士という職業集団の人たちがいて、皇帝やその他の政治権力者たちに自分の不老不死の技術の売込みをやるわけです。
 すべて人間の欲望は、最終的には不老不死の欲望となる。…戦場で戦闘にあけくれてくたびれますと、とにかく欲望というのは、ただ寝ることだけですね。…眠りが少し足りると、あとは食い気で、腹がある程度ふくれますと、今度は色気になる。…そのつぎは名利の欲望になる。…その上へずっと行きますと、結局、権力欲、他人を支配したいという欲望にとりつかれて、それの絶頂に立つと、あとは死にたくないという欲望にとりつかれるようです。…>

 “方士”とは、宗教と医学、薬学を含む広い意味の科学技術の専門業者。この“方士”たちが「不老不死」を実現するために行なった術に錬金術があげられている。『史記』に記す。

 「少君言上曰、祀竃則致物、丹沙可化為黄金。黄金成以為飲食器則益寿。」

 福永先生の解説。

 <「上に言いて曰く、竃を祀れば、則ち、物を致す」。この場合の物というのは、神仙とか鬼神とかいう超越的な存在。物の怪の物です。…そして朱の原料になる丹沙、これを化して黄金と為すべし。丹沙を原料にし、水銀をつくって、それをさらに化学処理して黄金をつくることができる。

「黄金成りて以て飲食の器と為せば、則ち寿(よわい)を益す」。つまりその黄金を飲み食いの器に使うだけでも不老長生の効果がある。
 
 これを日本でまじめに実行したのは、九州の名護屋に来た豊臣秀吉です。金屏風をめぐらせて、茶器も全部純金製の黄金を使っていますけれども、あれは熱烈な道教信仰です。この秀吉の使ったものが、いま京都の西本願寺に持ち込まれていますけれども、それ見ると、秀吉がいかに中国の黄金神仙信仰のとりこになっていたかということがよくわかります。
 
 現に金沢で盛んな金細工の職人は、ふつうの人よりだいたい十年は長生きするというふうにいわれていて、それは金粉をしょっちゅう扱うから、金粉が体内に入って、その作用で長生きするんだという説があります。…>

 秦の始皇帝は50歳で死んだ。“方士”による薬剤処方(水銀多用?)ミスが寿命を縮めたともいわれる。「不老不死」を探究した始皇帝だけでなく、のちの皇帝のほとんどが短命だったという。これは「寿は自然にしかず」の教えを示したものといえそうである。
 
 http://www2.saganet.ne.jp/jyofuku/

 http://inoues.net/mystery/jyofuku.html
 

“原発”はこのままでいいのか…

2007-07-24 14:09:06 | Weblog
 7月20日の記事でふれたが、柏崎刈羽原発には一般に知られていないきわめて重大な問題が隠されているようだ。まず、『JANJANインターネット新聞』のご了解を得たので次のリンクを見てほしい。(とくに武本和幸さんのインタビュー映像をご覧下さい)

 http://www.news.janjan.jp/world/0707/0707200426/1.php

 「原発反対刈羽村を守る会」の武本さんたちは、1974年から直下型地震の懸念を指摘し原子力発電所立地に不適と主張、原発の建設に反対してきた。この間、運転差し止めを求めて訴訟を起こし、地裁、高裁は東電・国の主張を認め訴えを却下、現在最高裁で争っているという。

 私は、この「JANJANニュース}ではじめて知ったが、マス・メディアが報じないから多分、多くの皆さんはご存じないのではないかと思われる。この訴訟にかかわっている伊東良徳弁護士が22日、社民党調査団の一員として現場を視察、その模様を自分のサイトで紹介している。

 http://www.shomin-law.com/katudoukashiwazakichuetsuoki.html

 これらの記事を読んで、1978年、私が在職した造船所で起きた重大事故を想い起こす。このことにふれて『長崎新聞・読者欄』に投書したメモが残っている。

 <【監督行政はこれでいいのか】
 
 去る11日佐世保重工で船火事があり、2人死亡、1人重体の惨事が起きた。痛ましいことだ。
 造船不況のなかで経営危機に見舞われた佐世保重工は、昨年(1978)6月坪内新社長を迎え再建に踏み出し、例の「坪内イズム」で徹底した合理化を進めてきた。…
 従業員である私は、昨年10月、労働時間などに関し労働基準法違反の疑いがあるとして、佐世保労働基準監督署に是正を申告したが、その折、監督署に対し労働時間の延長ならびに労働密度の高まりは必然的に災害多発を招き、このままではそのうち重大災害が発生しかねない旨、指摘していた。しかし、監督署はなんら具体的な動きはとらなかった。そして今回の災害である。…>(新聞記事切り抜きが所在不明で事故日が確認できない)

 私が監督署に「是正申告」をしたのは、労働組合に申し入れても相手にされなかったためである。職場の問題は「労働者の働く権利」を守る労働組合が解決するのが当然の責務だが、「労使協調」一辺倒の当時の民社党・同盟系の組合は、労働組合としての任務を果すのではなく、事実上会社の「第二労務部」だったため、会社にとって不都合なことはとり上げようとしなかった。やむをえず監督署へ「告発」したのだが、監督署も耳を傾けず、結局、尊い人命が失われる結果を生んだ。

 本ブログでは何度か取り上げたが、刈羽原発が直面する危機的状況も、一義的には「社会正義」を担うべき労働組合の問題で、武本さんたちの懸念にはいっさい耳を傾けず、会社の言いなりになってきた労働組合の責任がまずは問われなければならないだろう。東電の組合も旧民社党・同盟系で、現在は「民主党・連合」右派と見られているが、いま話題の“ワーキングプアー”に代表される「労働弱者」を大量派生させたのは、「労使運命共同体」路線を堅持する彼らにほかならない。労働組合の指導者が「労使対等」原則にのっとり、「社会正義」に反する企業行動をつねにチェックしていたら、今日の事態はもっと変わっていたはずである。

 現在、参議院選挙終盤で迂闊なことは言えないが、少なくとも東電労組は、災害による現場検証に会社が進んで協力するよう労使協議会を開催し申し入れるべきだろう。それも出来ないようなら、上部組織の「連合」がしかるべき措置を講じるのが筋である。それも不可能なら民主党が表に立って「社会正義」を貫かねばならない。ことは東電労組組合員の生命だけでなく、周辺住民はおろか国民全体の生命・財産にかかわることなのだ。

 監督官庁の責任も重大だが、武本和幸さんらの訴えを却下した企業・国にべったりの地裁・高裁の裁判官は今回の震災被災をどう受け止めているだろうか。最高裁はこの事実から目を逸らせるわけにはいくまい。

 震災に遭いながら、真実を追究し続ける武本和幸さんに心から敬意を表したい。

 

“みかえり阿弥陀(顧如来)”~“みかえり”を今の世に

2007-07-22 08:54:57 | Weblog
 <永保2(1082)年2月15日朝律師道場ニ入リ念仏シ行道スルニ、本尊ハ壇上ヨリ降下シテ、律師ニ先キ立チ共ニ行道シ玉フ。律師感涙ニ堪ヘズ。乾(いぬい=北西)ノ隅ニ躊躇ス。時ニ本尊左に顧ヘリ永観遅シト霊告アリー。…>(永観堂禅林寺略伝)

 一日6万遍という気の遠くなるような念仏三昧の行道の最中の出来事。永観(ようかん)律師が、念仏を唱えながら阿弥陀如来のまわりをぐるぐる回っていたとき、驚いたことに如来が前に降り立ち、まるで律師を導くかのように行道されたのである。律師が思わず足を止めて茫然としていると、如来はうしろを振り返り「永観おそいぞ」と声をかけられたという。そのかたが永観堂におわす“みかえり阿弥陀”さまである。

 http://www.eikando.or.jp/mikaeriamida.htm

 この“顧(みかえり)弥陀”を拝したのは2004年秋、紅葉の夜(ライトアップ中)であった。リンクの像ではわかりにくいが、手元の『法然と浄土信仰』(読売新聞社刊・A4版)にある大写しのお顔を拝見すると、その唇から今にもやさしいお声が聞けるような温顔である。

 http://www.eikando.or.jp/lightup.htm

 http://www.eikando.or.jp/aki.htm

 「永観堂 禅林寺」は浄土宗西山禅林寺派総本山で、宗祖はもちろん法然上人である。さきの「永観堂禅林寺略伝」にはこうある。

 <吉水円光大師(法然上人)ノ選択集ヲ閲シ、頓(にわか)ニ浄教ニ帰依シ、大師ヲ師父トシ立テ、前一代に推尊ス。又派祖西山弥天国師(証空上人=法然上人の高弟)ヲ法兄トシ、後ニ斯ノ山ヲ国師ニ譲ル。>

 つまり、源頼朝の帰依をうけた真言宗の学匠静遍僧都が法然上人の死後、その著『選択本願念仏集』にある念仏義を批判するために、再三再四読み下すうちに、自らの非を覚り、誹謗の罪をくいて、法然上人をこの寺の一代に推し、高弟西山証空上人に譲ることを法然上人墓前に誓われたことに由来するとある。(「永観堂 禅林寺」入場パンフレット)

 http://www.eikando.or.jp/

 法然上人は永観律師滅後22年の生誕だが、この“みかえり阿弥陀”は永観の懇望で平安末から鎌倉初期につくられていて、「施療院」もあった禅林寺で熱心な念仏行道に励んだ永観律師の存在を法然上人が知らなかったとは思えない。だとすれば、勝手な想像だが、法然上人はこの“みかえり阿弥陀”と対面されていてもおかしくない。前述の『法然と浄土信仰』にはA4一面に数珠を繰る「法然上人像」(隆信御影)があるが、そのお顔がどこか“みかえり阿弥陀”さまを想わせる。

 禅林寺では、“みかえり”の意味を現代風に解釈している。

・自分たちより遅れる者たちを待つ姿勢
・自分自身の立場をかえりみる姿勢
・愛や情けをかける姿勢
・思いやり深く周囲をみつめる姿勢
・衆生とともに正しく前へ進むためのリーダーの把握のふりむき
 
 そして「真正面からおびただしい人々の心を濃く受けとめても、なお正面にまわれない人びとのことを案じて、横をみかえらずにはいられない阿弥陀仏のみ心」とまとめている。

 
 ロマン豊かな“みかえり阿弥陀”さまの出現に勇気付けられた中世の人びとが羨ましい。わが国の指導者たちも、たまには永観堂を訪ね、“みかえり如来”と対話してみてはいかがか。

今頃ですが、“原子力船「むつ」”の話

2007-07-20 16:52:21 | Weblog
 柏崎市長から「運転停止」を命じられた刈羽原発は、日が経つにつれて杜撰な安全軽視が表面化してきた。世界最大の出力規模といわれる原子力施設が、これほど脆弱な基盤の上に建設され、しかも火災訓練もろくにしてなかったというのだから、周辺住民だけでなく国民すべてを馬鹿にした話というべきだろう。社長や行政がいくら頭を下げても承知できるものではない。チェルノブイリ級の事故ならわが国だけでなく近隣諸国も甚大な影響を受けることから、海外の報道にむしろ深刻さがみられる。

 英科学誌ネイチャーは17日電子版に「日本の原発は耐震設計が不十分?」という記事を掲載。今回、設計時の想定の2倍を超える揺れが記録されたことを取り上げ、「今後の安全評価報告の結論次第では(柏崎刈羽)7基の原発が閉鎖される可能性がある」と報じた。(参照)

 http://www.asahi.com/international/update/0719/TKY200707180681.html

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-18/2007071806_02_0.html

 このところ各地で原発事故が頻発しているが、公表の遅れや隠蔽、公表数字の改竄などがくり返され、電力会社のみならず国の責任も問われているが、いま話題の「年金問題」などすべて根っこは同じで、大企業経営者を含め政府・役人の「体質」に由来するものだ。その典型例が「沖縄返還密約事件」(「西山事件」)だろう。

 「西山事件」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 この事件は現在係争中で、公判での国側の言い分を聞いて呆れるが、忘れてならないことは国や大企業を増長させているのがマス・メディアであることだろう。

 ここで思い出すのは、原子力船「むつ」である。1974年8月完成した「むつ」は、同月26日漁船団の包囲網のなか台風14号のスキをついて定係港の青森・大湊を出港、9月1日航行中放射線(中性子)漏れを観測、試験中止。陸奥湾漁民らの帰港反対で「むつ」は洋上「漂流」を始める。10月14日、自民党、青森知事、むつ市長、県漁連会長4者が合意(2年半以内に母港撤去、半年以内に新母港決定、地元対策に12億円)調印して「漂流」から1ヵ月半後に「むつ」は帰港し、原子炉を封印、係留した。そして、すったもんだの挙句、1978年10月16日、反対を押し切って長崎県佐世保に入港することになる。

 参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%80%E3%81%A4_(%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E8%88%B9)

 佐世保での「むつ」反対闘争は1975年5月に始まる。労組、漁連、婦人会など反対機運は大いに盛り上がった。1977年2月私たちは、入港阻止の手段として【反むつ条例をつくる会】を結成。住民による直接請求は、東京・立川市の「反軍平和条例」についで全国二例目だった。法定数の6倍に達する2万余の署名を提出、「反むつ」請求市議会では機動隊が導入され「条例」は強行否決された。

 「むつ」はIHI(石川島播磨重工)東京第2工場で建造された。放射線漏れは設計ミスによるとされていたから、修理は当然、建造された工場で行なうべきである、というのが私たちの見解だった。なぜ、他の造船所でなければならないのか、政府は道理にかなった説明をしなかった。この頃、辺野古沖に新しい米軍基地を建設する問題が浮上しているが、ジュゴンや珊瑚の生息する環境調査もきわめて杜撰だと専門家は指摘する。国がやっていることは昔も今も変わっていない。「むつ」は結局「廃船」になり、T佐世保市長が「佐世保を原子力平和利用のメッカに」しようとしたことや、「原子力商船」は夢に終った。

 「むつ」から何を学んだのか。「西山事件」は何を教えているか。そして「刈羽原発」は何を語っているか。考えてみるべきことは多い。
 
 http://cnic.jp/modules/xfsection/article.php?articleid=26


【反「むつ」条例をつくる会】が発行した“「むつ」くるな!報告集”(A5版・134頁)に書いた一文をのせておく。 


 『眠らぬやつは尻ねずむ』

 戦後間もない頃、中学生だったぼくは、よく公役(くやく)に出された。田舎では新しく農道をつくったり、川幅を広くしたりするのは、おおかた住民の労役に頼っていた。公役の場合、男一人役に対して女は七合ぐらいだったろうか。女が出た家は、あとでいくらか金を追徴された。
 ぼくは、公役で男女差扱いのあることがどうしてもわからなかった。
「女が男よい力のなかとは当たり前。ばってん、男がもともと持っとる十の力を十出しとるなら、おんなも持っとる十の力を出しとるはず。そいで、なんで金ば取るとですか」
 と、おとなたちに聞いてみた。
「そいは、理くつたい」
 と、おとなたちは答えた。そして、おとなの一人は、
「男も女ごも一緒にしたら、公役には女ごしか出らんごとなる。そしたら、仕事にならんじゃろが」
 と言う。「それもそうだなぁ」と思い、ぼくは黙ってしまった。女手ばかりでは、トロッコの線路を敷いたり、土手を築いたり、本来男の仕事とされてきた領分ができず、工事は進まないのではないか、と考えたのだ。
 ずっとあとになった、組合運動に関わるようになったぼくは、なんとなく心にひっかかっていた公役での「男女差別取り扱い」のことを、もう一度思いなおさずにおれなかった。そして、あの時のおとなたちの説こそ、実は「理くつ」に「屁」がつくものと知ったのである。その理由は、ここで述べる必要はあるまい。
 戦後、民主主義の世の中になっても、戦前からの「ものの考え方」「ことの処し方」が根強く残った。日本帝国主義をとことん拒絶して、自分の手で民主主義を創出することがなかったためであろう。公役での男女差扱いが「当たり前」とされたのも、おそらくそれと無関係とは言えまい。
 民主主義とは基本的人権と同義ともいわれ、サルトルはそれを「自由」という言葉で表現しているという。
 「議会制民主主義の形骸化」がいわれはじめてすでに久しいが、それは「本来他のいかなるものにも譲渡できない個人の基本的権利」を、仮に委譲するというシクミの中で、委譲した方も、委譲された方も、その「委譲した中味」がどんなものか失念したためとでもいうしかなかろう。
 しかも、失念している間に、土堤を蟻が崩すように、着実に人権は空洞化されてきたのである。「五木の子守うた」にいう。

 ねんねした子にゃ 米の飯食わしゅ
 黄な粉あれして 砂糖つけて

 ねんね一ぺん言うて 眠らぬやつは
 あたまたたいて 尻ねずむ

 それでも、目を開いて、いま空洞化した土堤の修復にとりかからねばならない。
                             (1977年8月)

“おびただしく大地震(おほなみ)なる事”~『方丈記』

2007-07-18 12:14:26 | Weblog
 大型台風があちこちに傷跡を残して去ったと思ったら、新潟でまたも大きな地震が発生した。被災者の皆様には心からお見舞い申しあげます。

 今回の地震は「新潟中越沖地震」と命名されたらしいが、3年前の「新潟中越地震」も甚大な災害をもたらし、いまなおその「後遺症」に悩まされている方が少なくないそうだが、体験的に忘れられないのは1964年6月16日13時過ぎに発生した「新潟地震」である。

 東京で勤務しはじめて半月、芝公園近くにある古い三階建ての旧総同盟会館三階事務所にいた私たちは、午後の仕事に就こうとしていたところ大きな揺れに見舞われ、誰言うとなく「逃げろ!」の声で一斉に外へ飛び出した。前後十数年東京住まいで地震は日常茶飯事だったが、この時ばかりは本当に驚かされた。今回の「中越沖地震」でも、都庁などの高層ビルエレベーターが自動停止したというから、無理もないことである。
 
 参照:http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007071790073609.html

 「新潟地震」はマグニチュード7.5(今回は6.8)で、死者26名、家屋全壊1,960棟、半壊6,640棟、浸水15,298棟。昭和石油(現昭和シェル石油)の石油タンクは12日間にわたって炎上し続け、周辺民家にも延焼して60戸が全焼、開通直後の昭和大橋は橋げたが落下したが、これらの生々しい映像が普及し始めたばかりのカラーテレビで全国に放映され、記憶に残る人も多いことだろう。

 参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E5%9C%B0%E9%9C%87

 
 わが国が世界有数の地震国であることは周知のことで、歴史上大地震の記録は多い。なかでも鴨長明の『方丈記』は臨場感豊かな記述で、天災のすごさとこれに出遭った人の無力を教えてくれる。

 <また、同じころかとよ、おびただしく、大地震(おほなみ)ふる事侍(はべ)りき。そのさま、世の常ならず、山は崩れて、河は埋(うづ)み、海は傾きて、陸地を浸せり。土裂けて、水湧き出で、巌(いはほ)割れて、谷に転び入る。渚漕ぐ船は、波に漂い、道行く馬は、足の立ち所を惑わす。

 都のほとりには、在々所々、堂舎・塔廟、一つとして全からず。…

 かくおびたたしくふる事は、しばしにて止みにしかども、その名残、しばしは絶えず。世の常驚くほどの地震(なみ)、二三十度ふらぬ日はなし。…

 昔、斉衡(さいかう)のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏の御首(みくし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほ、この度には及(し)かずとぞ。即ちは、人皆、あぢきなき事を陳(の)べて、いささか、心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉に懸けて言ひ出づる人だになし。>

 これは1185(元暦2)年7月9日(陽暦8月13日)に発生したマグニチュード7.4という大地震である。『スローネット』から拾った記事によれば、<「洛中民家ことごとく倒壊」し、とくに白河で被害大で、法勝寺五重塔が壊滅、死者が多数出た>とある。マグニチュード7.4といえば「新潟地震」と同規模である。

 参照:https://www.slownet.ne.jp/sns/members/ichinobaka/blog/200603041803-1000000.html

 『方丈記』は余震が多発したことも伝えているが、東大寺大仏の首を落下させた地震についてもふれている。これは855(斉衡2)年5月10,11日の地震で、大仏の開眼供養が752年だから完成からおよそ百年後のことである。この時は間をおかずして修復されたそうだが、源平の争乱で平重衡が東大寺を焼失させたのは1181年1月15日(治承4年12月28日)、『方丈記』は1212(建暦2)年に書かれているから、鴨長明は当然、源平の争乱もみている。武家政治へと時代が大きく転換するなかで生じた荒々しい人災に加え、地震・台風・火災・天候不順による飢饉などの天災が一挙に民衆に襲いかかり、民衆を傷みつけ、嬲り者にしたのである。

 <行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。
 世の中にある人と[すみか](木偏に西)と、またかくの如し。…>

ではじまる『方丈記』は、吉田兼好の『徒然草』、清少納言の『枕草子』とあわせて日本三大随筆とされているが、大きな天災が起きるたびに、「無常」を教えるこの『方丈記』を思い浮かべるのは私一人ではあるまい。

“漢字をやめよう”という運動

2007-07-16 12:11:33 | Weblog
 わが国初代文部大臣森有礼は米国の学者ホイットニー宛に手紙を書いた。

 <わが国の最も教育ある人々および最も深く思索する人々は、音標文字phonetic alphabetに対するあこがれを持ち、ヨーロッパ語のどれかを将来の日本語として採用するのでなければ世界の先進国と足並をそろえて進んでゆくことは不可能だと考えている>(英文著書『日本の教育』〔Education in Japan〕1873)

(参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%9C%89%E7%A4%BC
 
 <これに対してホイットニーは、言語はその種族の魂と直接に結びついたものであるから、そう安易に放棄するなどと言ってはならない、と森に忠告した」>という。(高島俊男著『漢字と日本人』/文春新書:以下<>は同書より引用)

 <森はまた、言語だけでなく人種も変えるべきであるととなえ、日本の優秀な青年たちはアメリカへ行って、アメリカ女性と結婚してつれ帰り、体質・頭脳ともに優秀な後代を生ませよ、とすすめた。>

 明治維新後、西欧に「追いつけ追いこせ」を合言葉に「脱亜入欧」を国是としたわが国だったが、文部大臣が歴史ある「国語」を棄て、「西欧語」に転換すべしと主張していたのである。これは森有礼だけが特異とする発想ではなく、明治の有識者の間では有力な説だった、と高島俊男は述べている。

 ところが、世界で最初に「働かざるもの喰うべからず」と言ったという江戸中期の思想家・安藤昌益(1703?~62)は、理想とする「自然ノ世」にとんでもない「怪シキ倫(トモガラ)」(曲者)があらわれたと、こんなことを言っている。

 ≪文字制度などというふとどきなものを作った連中がその曲者どもである。文字のせいで支配と反乱の歴史が始まった。インドでは迷える大衆と、悟った仏というでっちあげの宗教が出現し、日本ではイザナギ、イザナミなどの神話が捏造されてしまった。それからというものは、支配と反乱、迷いと悟り、ありもしない神々が入り乱れ、世の中は混迷して安らぐこともない。≫(参照:井上ひさし著『ニホン語日記』/文芸春秋社)

 「安藤昌益研究会:http://www006.upp.so-net.ne.jp/hizumi/

 (参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%9B%8A

 井上ひさしは、安藤昌益が最初の「漢字制限論者」だったと言っている。ついでにふれておくと、井上ひさしは「カタカナ先修」論者で、いまの「平仮名先修」にはいくつかの欠点(たとえば「い・こ・り」「う・ら・ろ」などの類似)があって、漢字の素(もと)であるカタカナを先に教えたほうが「漢字仮名交じり文」学習への移行がスムーズにいくという。

 話をもとに戻すが、日本語から西洋の言語に転換する「漢字廃止論」は、「表語(表意)文字」から「音標文字」への転換を意味する。一字一字が語意をあらわす文字からアルファベットやかなのような音だけをあらわす文字への移行である。明治政府は明治30年代に音標文字化を国の方針にした。

 おもしろいことに漢字の本場中国でも、音標文字化を国の方針としているという。1912年に成立した中華民国も1949年に成立した中華人民共和国も音標文字を目指した。

 <…漢語には漢字が一番あっているのである。…しかし中国人は「人類の文字は象形文字から音標文字へと進む。それが文字の進歩である」と思った(いまもそう思っているらしい)。なぜそう思ったのかというと、西洋で音標文字を使っているからである。>

 阿辻哲次著『漢字のいい話』(大修館書店)に「漢字廃止論」のわかりやすい解説がある。

 「これまでの長い間、覚えにくい文字とされてきた。漢字はそれぞれの字形が難しいだけでなく、さらには漢字を使って日本語を書くためには、かなりの数の文字を覚えなければならないという条件がある。ちなみに現在の日本で、日常の言語生活における漢字使用の目安とされている「常用漢字表」には全部で1945種類の漢字が収められているのだが、それだけでは足らないのが現実である。しかし英語ならばたったの26文字のアルファベットだけで文章が書けるのだし、大文字と小文字を区別したって、わずか52種類にしかならない。日本語でももし漢字を使わず平仮名かカタカナだけで書くのなら、せいぜい50字たらずの文字を覚えれば用が足りる。だから漢字のような「前近代的」でめんどうくさい文字を使わず、日本語を平仮名かローマ字だけで書こうという主張と試みが、かつてはさかんに行なわれた。」


 わが国の「国語問題」の変遷にはかつ目すべき話題が満載されている。戦後、志賀直哉が国語をフランス語にかえようと提案したのは有名な話だが、いまなおローマ字だけで書かれた雑誌が発行されているらしい。

 参照:http://www.halcat.com/roomazi/ron1f.html

 「漢字がもたらした日本語の不思議」を教える『漢字と日本語』は一読に値する。なお、大要は次をご参照下さい。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E5%9B%BD%E5%AD%97%E5%95%8F%E9%A1%8C
 

 

 

ある“活動家”への手紙

2007-07-14 10:09:21 | Weblog
 Hさんへ

 丁重な拙著への感想を頂戴し、ありがたく厚くお礼申しあげます。
 今なお真摯な運動を続けておられる貴兄たちに比べれば、なんとも“ヤワ”な自分が恥ずかしいばかりです。気持ちだけでも、多少とも“尖鋭”なものを抱き続けたいと思っています。

 昨年(1999)末、悪名高い経営者で知られた「坪内寿夫」が死にました。彼を“労働者の敵”と切り捨てることは簡単でしたが、その敵に塩を送り続け、労働者を裏切った組合幹部は断じて許せない、それが執筆の動機でした。しかし、書いていくうちに、どうしても“労働とは何か”を問わずにおれませんでした。もちろん、私の現在の力量では“群盲象を評する”のたとえどおり、その内実を正しく表現できたとは思えません。課題を持ち越した状態で、いずれ改めてテーマを絞ってとり上げてみたいと思っております。

 古来、栄枯盛衰は世の習い、“栄えれば枯れる”が道理で、わが国は繁栄の絶頂を過ぎ明らかに枯れかかっていると言えないでしょうか。大局的には地球そのものがそうだと言えますが、わが国の枯渇の状況が深刻なのは、政治・経済の局面だけでなく、人倫そのものが衰微していることにあるといえます。

 現代は、第三の産業革命の時代にはいったといい、IT(情報技術)の画期的な進展がその中心を担っているといわれています。その方面の知識に乏しい私には論評の限りではありませんが、生産物を媒介しない架空の取引によって成立している市場や社会、いわゆるバーチャルな世界が第三の革命の実態ではないかと受け止めています。そのような社会で、労働者総体としてどのような理念をもって対処するか、きわめて課題は大きく、重いといえそうです。

 拙著の中で私は、「労働組合が労働者の立場に立った生産性理論を構築しえなかった」と書きましたが、“労働”について語る時、技能や技術のあり方をしっかり見つめつつ、利潤追求に狂奔する企業の立場からの生産性理論に支配される現状を脱し、人間にとっての根源的な“豊かさ”を規定し、自己規制的なその“豊かさ”に見合った労働のあり方を考えるべきではないかと思ったからです。

 先に述べましたように人倫が極度に衰微しつつあるわが国で、“豊かさ”の指標を真摯に論議できる土壌があるとは思えませんが、環境問題を基軸とした人口、食料、化石燃料など、少なくともこれから20年、50年のスパンで考え、労働者にとっての“労働”の未来を問い直すべきではないでしょうか。

 評論家の弁になってお恥ずかしい限りですが、とどのつまり「いかに闘うか」にかかっていると言うしかありません。自分に何ができるかを問いつつ、貴兄のご健闘を祈ってやみません。
                                  草々
 2000年1月23日
                               M.Gより

 
 Hさんは、旧N鶴見造船所に勤務する少数派組合の活動家。最後は組合員3名となり、会社の不当労働行為を最高裁まで争って勝利した豪の者だ。拙著を持って訪ねた時は、神奈川県勤労者医療生協港町診療所の事務局長をしていた。この手紙を出して2ヵ月後、私は病に倒れ帰省した。

 7年後、参議院選挙がはじまり繁栄の中の「貧困」が一つの争点になっている。つまり、これまでの「豊かさ」が完全に反転し、生きるものたちに「息苦しさ」を感じさせはじめたのだ。「格差拡大」で少数の富者たちが闊歩する反面、「貧困階級」が増大した。元を辿れば、国民が選んだ政府によって生じた貧困。しかも、この「貧困」は生活の面だけでなく「思想の貧困」「運動の貧困」にも及んでいる。

 Nさんへの手紙を想い出したのは、“栄えれば枯れる”の反転期がいつ頃だったのか、そして多くの人々が、奥深いバーチャルな闇の世界へ誘導されていく不安を抱き、道に迷いはじめたのはいつの頃だったのかをもう一度確認したかったためである。

 “窮すれば濫す”と言うが、一方では“窮すれば通ず”とも言う。この参議院選挙を国民が“濫する”ことのないよう願うばかりである。
 

“創価学会・公明党”~政教一体化の現実

2007-07-12 07:52:29 | Weblog
 本ブログ2月21日「創価学会の野望、ほぼ成る』で、“創価学会”に対する私見を述べた。

 http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070221

 再度とり上げたのは、最近の“創価学会”が憲法違反の目にあまる行動を公然と行なっているからである。周知のとおり、わが国憲法は、第20条および第89条で「政教分離」を規定している。
 
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%95%99%E5%88%86%E9%9B%A2%E5%8E%9F%E5%89%87

 “創価学会”が公明党を支配下に置き、政策・人事ともに壟断し、事実上一体化していることは明らかである。(次を参照)

 http://www.asyura2.com/07/senkyo36/msg/1278.html

 “創価学会”は宗教を騙(かた)る巨大な収益事業団体で、どうみても宗教法人の資格はない。(次を参照=必読)

 http://www.toride.org/kitano1.html

 いま、弱者を襲っている「定率減税の廃止」を真っ先に公約したのは公明党、「百年大丈夫」と言って「年金改革」をごり押しし、障害者の願いを踏みにじって「障害者自立支援法」を成立させたのも公明党の坂口厚労相、さらに自民党小泉政権の「自衛隊イラク派遣」を後押しし、米軍グァム島移転費用3兆円支出に手を貸したのも公明党だし、アメリカのブッシュでさえ開戦理由の「イラクの大量破壊兵器保有」は誤りだったことを認めたのに、自公政権はいまだに過ちを認めていない。

 “創価学会”がいかなる組織であるか、マス・メディアおよびそこに所属するジャーナリストたちが知らないわけではないのだ。新聞・テレビをはじめ主要マスコミが“創価学会”の広告・印刷請負いを通じ「口封じ」されていることは周知のことである。二大政党制を標榜する民主党も“創価学会”批判はタブーにしていて、「政教一体化」を公然と批判しているのは日本共産党だけである。次の記事も日本共産党機関紙『赤旗』で知った。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-10/2007071015_03_0.html

 この記事を読めば、“創価学会”がいかに狂気の集団かがわかるだろう。福本氏に熱いエールを送り、この狂気の集団にとり憑かれているわが国政治が一刻も早く目覚めることを願う。

 
 “創価学会・公明党”については「教義」の面からも論じたいことは多いが、とりあえず参議院選に関連の参考記事をリンクしておいたのでご覧頂きたい。

 http://www.liberal-shirakawa.net/tsurezuregusa/index.php?itemid=268#more

 http://muranoserena.blog91.fc2.com/

 http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-79.html