耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

今日はインド独立の父“マハトマ・ガンジー”の60回忌

2008-01-30 10:51:20 | Weblog
 インド独立の父といわれる“マハトマ・ガンジー”が凶弾に倒れたのは1948年1月30日、今日は60回忌にあたる。“マハトマ(マハートーマ)”とは「偉大なる魂」の意で、インドの詩聖タゴールから贈られた尊称とか。大衆は親しみをこめて「バーブー」(父親)とも呼んでいた。

 「マハトマ・ガンジー」:http://ja.wikipedia.org/wiki/マハトマ・ガンジー

 “ガンジー”でただちに想い起こされることは「無抵抗非暴力主義」だろう。加えて「菜食主義」「禁欲主義」など、そのどれもが、タゴールが贈った「偉大なる魂」にふさわしい“聖なる人”を連想させる。

 “ガンジー”の「非暴力主義」はサティア(真理)グラハ(把握)の闘いとして生まれたといわれる。「自分自身を抑制し、純潔な生活にはいることなしには、他人に奉仕することもできなければ、多数の人に呼びかけて行動にたち上がらせ、それを指導することもできない」との信念を背景としていて、「非暴力は、単純に暴力に対置されるものではなく、暴力の不正(非真理)に対して、真理を代表するものであった。」(坂本徳松著『ガンジー』/清水書院:以下<>は同書より)

 これほどの自己規制があってはじめて、たびたびの断食行動が成果を挙げえたのであろう。断食に関するエピソードは多いが、晩年の1943年2月9日から3月2日までの獄中断食では、断食の決意を伝えた手紙に対し英国のリンリスゴウ総督が「政治的脅迫の一種と考える」と述べたことにこう答えた。

 <あなたはそれ(断食)を、「政治的脅迫行為の一形式」といわれましたが、わたしにとっては、それはわたしがあなたから守りそこなった正義のための最高法廷への上訴であります。もし、わたしがこの試練に耐えて生きながらえないのであれば、わたしは自分の無実に全幅の信頼をもって、審判の席につきましょう。あらゆる権力をそなえた政府の代表であるあなたと、断食をもって祖国と人類へ奉仕しようとした、つつましい一人の人間としてのわたしとの問題は、後世の歴史が審判するでしょう。>

 “ガンジー”より八つ年上のノーベル文学賞受賞者“タゴール”は、“ガンジー”の対英不服従・非協力の呼びかけに必ずしも全面的には同調していなかった。両者は三回にわたって論争している。今日的に興味ある論争の一端をみてみよう。“タゴール”は「イギリス製織物の焼き払い運動」に反対し疑問を投げかけた。

 <特別製(イギリス製品の意味)の衣類を着るか、着ないかの問題は、主として経済学に属する。したがって、この問題についてのインド人の討論は、経済学のことばでやらねばならない。…
 つまり、ガンジーの命令に盲従して、衣類を焼くような蛮行はやめて、貧しい人たちに着せればいいではないか、というのである。>

 これに対し“ガンジー”は祖国インドを火事場にたとえている。火がついているからには水をかけて消すのが先決だ。まわりに飢えて死にかかっている人たちがいるとき、唯一の仕事は飢えをみたすことだ、という。

 <われわれの都市は、インドではない。インドは、全国七十五万の村落のなかにある。都会はこれらの村落のうえに生きている。かれらは外の国から富をもってくるのではない。都会の人たちは、外国のブローカーであり、仲介の代理業者だ…>

 これは現状認識として言いえて妙である。“ガンジー”は農村、農民に目を注ぎ、飢えからの脱出を願い、かつ、外国製衣類への依存から抜け出すため「紡ぎ車」の普及を提唱、自ら「糸紡ぎ」に取り組みこう言っている。

 <われわれの非協力は、イギリスとの非協力でもなければ、西方との非協力でもない。われわれの非協力は、イギリスがつくりだした制度との非協力であり、物質文明およびそれにともなう貪欲(どんよく)と、弱者に対する搾取との非協力である。…溺れかかった者は、他人を救うことはできない。他人を救うのにふさわしくなろうとすれば、われわれ自身を救うことにつとめなければならない。インドの民族主義は、排他的でも、攻撃的でも、破壊的でもない。それは健全な、宗教的な、したがって人道主義的なものである。>

 「物質文明およびそれにともなう貪欲と、弱者に対する搾取」、この言葉は現代に通用する。イギリスに代わって世界の盟主となったアメリカの最近の混迷ぶりは「歴史は繰り返す」ことを示していないか。“ガンジー”は機械文明に否定的だった。ある大学の学生との質疑でこう言う。

 <学生「あなたは、機械にたいしてすべて反対なのですか。」
 ガンジー「どうしてそんな……わたしは人間の身体も、機械のもっともデリケートな部品だと考えているのですよ。紡ぎ車自体も機械です。わたしはそのような機械にたいしてではなく、機械への狂信に反対しているのです。」>

 インドは有名な階級社会である。一般に「カースト制度」をいうが、それは四(ないし五)の身分階層を意味する。バラモン(祭官階級)、クシャトリア(王族・武人階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴婢階級)という四つの種姓(この下に「不可触民」がつけ加わる)からなる。

 「カースト」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88
 
 “ガンジー”は「不可触民」廃止には献身したが、「カースト制」には必ずしも反対ではなかったといわれる。坂本徳松著は「“民族に強く、階級に弱い”のは、ガンジーの欠陥である」と書いているが、敬虔なヒンズー教徒であるカストルバ夫人の反対を押し切って「不可触民」を迎え入れ、のちに夫妻は「不可触民」出身の女の子をひきとり幼女として育てた。

 日本の侵略に反対した“ガンジー”は1942年7月26日『ハリジャン』紙に、「すべての日本人に」と題し書いた。

 <…もしも、伝えられているように、あなた方が、インドの独立を熱望しているならば、イギリスがインドの独立を承認すれば、インドに攻撃を加える口実は、いっさいあなた方からなくなってしまうのです。…わたしが読んでいるすべてのものは、あなた方が訴えに耳を傾けないで、剣に耳を傾ける、ということを教えています。…>

 これに先立つ2月には蒋介石とカルカッタで会談、6月には手紙を出して「日本の侵略に立ち向かう」強い意志を示し、日本の「聖戦」の実態をはっきり見抜いてもいた。

 1942年8月9日早朝、“ネルー”など他の会議派指導者とともに“ガンジー”も逮捕された。約10回におよぶ牢獄生活の最後の牢獄入りで、夫人や秘書等も一緒だった。二十歳も若い忠実な秘書のデサイは逮捕後六日めに、突然の心臓発作で死に、1944年2月にはカストルバ夫人が獄中死する。獄中での“ガンジー”の日課は、小さい頃十分な勉強ができなかったカストルバ夫人にインドの地理やその他のことを教えることだった。ともに13歳で結婚し、37歳で「禁欲生活」にはいるが、熱愛する夫人との性行為中だったため父の臨終を見届けることが出来なかったのがきっかけだったことを告白している。同行二人で闘い、よき理解者、協力者だった伴侶を失い、老齢の“ガンジー”にはこたえた。

 1945年8月15日、第二次世界大戦は終止符を打ち、戦勝国イギリスはチャーチル首相から労働党のアトリー首相に代わった。インド各地では独立の叫びが強まっていた。インド独立にはヒンズー教徒と回教徒の融和統一という難題をかかえ、“ガンジー”は「一つの祖国インド」の実現に注力していた。

 <1947年8月15日は、インド独立と同時にインドとパキスタン分離の日であった。分離独立を祝う気のしなかったガンジーは、ニューデリーでの式典には出席しなかったし、メッセージも送らなかった。
 分離にともなう両教徒の間の殺戮・暴行・掠奪・放火、そして騒乱のなかの民族大移動の悲劇を目の前にしながら、ガンジーは、カルカッタのスラム街で依然両教徒の融和と統一を説いていたのである。>

 融和と統一を願う断食は断続的に続けられた。翌年1月20日、宿舎の前での夕べの祈りには爆弾が投げられた。“ガンジー”への敵意は、ヒンズー教徒、回教徒双方から向けられていた。1月30日午後4時半、“ガンジー”は最後の晩餐をとった。5時の祈りの時間に、両側に付き添う二人の孫娘の肩に腕をもたれかけ、祈りの壇上へ向かっていた。

 <そのとき、突然会衆をかき分けて来たひとりの若い男が、ガンジーにナマステ(合掌)の挨拶をするかのように、やや膝を折ると同時に、かくし持っていた小型自動ピストルで、わずか2フィート(約0.6メートル)の近距離から、パン、パン、パンと三発発射した。
 半裸に近いガンジーの裸体は、白い上着に血をにじませて倒れた。芝ふの上に、めがねとサンダルが飛び散った。>


 “ガンジー”の「非暴力主義」に対しては、その徹底した行動力への称賛とともに、一方ではさまざまな批判が投げかけられている。「カースト制」を半ば容認していたこと、非暴力の名において大衆の革命的行動がしばしば抑圧されたこと、などはその代表例であろう。だが、こんにちの混迷する世界情勢を見るとき、“ガンジー”の思想は見直さるべきときにあると言えないだろうか。
 
 およそ40年前に書かれた坂本徳松著『ガンジー』を参考にこの記事を書いたが、最後に、印象的な言葉を引いておく。

 <ガンジーは自ら非暴力と断食の叙事詩でつづった生涯の最後を、さらに劇的な死でかざった。この劇的な死に照らして、かれの劇的な生をたどるとき、「真理への忠誠」に生きたこの人の七十九年の生涯は、教訓のかずかずを無言のうちになお力強く、私たちに呼びかけてやまないように私には思われてならないのである。>