耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

「いいかげん」さで“足利尊氏”よりウワテ~「バカタロウ解散」万歳!

2009-07-17 12:26:59 | Weblog
 麻生太郎の言動をみていると、これがわが国の総理大臣かとつくづく情けなくなる。都議選敗退後、自民党は末期的症状をみせているが、来週解散を予告した麻生太郎は、じいさんの「バカヤロウ解散」をもじって「バカタロウ解散」と揶揄されている。浪花節とも御詠歌ともとれる独特な話術で臆面もなく天下を語る姿は、作家・永井路子著『わが千年の男たち』(文芸春秋)に出てくる「右往左往の政治哲学・足利尊氏(1305~1358)」を髣髴させる。

 南北朝時代の主役だった足利尊氏とはどういう人物だったか。永井路子さんは、

 <尊氏ドノの人生は、まず、
「変節を気にするなかれ」
 というところから出発した。>

 という。「麻生財閥」の御曹司・麻生太郎の出発も、多分、そんなところだろう。南北朝のもう一人の主役は後醍醐天皇(1288~1339)だが、先ずはこのお騒がせ天皇について永井路子さんはこう書いている。

 <尊氏ドノと対照的なのは、後醍醐天皇だ。
「これまでの政治はまちがっとる!」
 という強い信念を持っていた。小手先の改革では追いつかない。そこで、
「根本的改革をやらねばならん」
 といよいよエスカレートし、結局、
「悪いのは幕府政治だ。幕府を倒せ」
 というところまでいってしまう。それも決して思いつきではない。当時の中国は宋の時代だが、その宋の政治についてもよく研究している研究家なのだ。だから、「政治はかくあるべし」
 という理想に燃えていた。その颯爽たる姿はなかなかカッコいい。行政改革とか言いながら、特殊法人の統廃合もろくにできない現状をみると、
「後醍醐サマよ、もう一度」
 などと言いたくなるが、こうした理想主義、理論武装は、じつは政治に禁物なのだ。ヒトラーの暴走の例を見るまでもなく意慾に燃えた政治というのは、とかく現実を見る目が不足しているのである。>

 後醍醐は敵対していた鎌倉幕府北条氏の所領をばっさり没収し、土地所有の安堵(保証)権を幕府から取り上げてしまった。これが裏目に出て新政策は全国に大混乱を巻き起こし、政争の結果、隠岐に流されてしまう。やがて隠岐を脱出した後醍醐は尊氏に敗れて「南朝」を建てるのだが、この天皇、どこか「郵政民営化」を強行した小泉純一郎を想起させる。


 さて尊氏だが、「北条が滅んだから、次は俺」と手を上げた。そして後醍醐天皇から追われたり、引っ付いたり二転三転しながら足利幕府を創りあげてしまう。永井さんは、「ええい、ままよ。やってみるか」の一手が成功したと言い、こう書いている。

 <尊氏ドノの無原則、妥協主義、いいかげんの例をあげればきりがない。
 勝利者として都に戻ってきてから、彼は、比叡山に逃れていた後醍醐に手をさしのべた。
「どうですか、こちらへお帰りになりませんか」
 今まで敵対していたのに妙な話だが、
「それなら帰ってもいいぞ」
 と仰せられたというから、後醍醐さんもふしぎなお方である。が、京へ戻ってみると、足利方に厳重な監視をつけられたので、
 ――これでは話が違う。
 と、憤慨した後醍醐は吉野に脱出してしまった。
 すると、尊氏、びっくりすると思いのほか、
「ご自分のほうから出て行かれてほっとしたよ。警備やなにか、大変だったからなあ」
 と、言ったという。なんとも妙な、いいかげんな話ではないか。>


 「いいかげん」さで引けをとらないのが“麻生太郎”だ。天下を取ってからの彼が、「理念」を持って実行した政策は皆無といっていい。アッチにふらふら、コッチによろよろ、必死に政権にしがみつき延命を図ってきた。

 「いいかげん」と言われる尊氏だが、実は、室町幕府を開いて20年間、政権の座にあったし、この幕府は実に230年も続いた。尊氏は、一年ももたない政権に恋々とする麻生太郎とは比較にならない存在だ。その意味で麻生太郎は、歴史上例を見ない「いいかげん」男ということになる。

 「バカタロウ解散!」万歳!


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