耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“一茶”の「被差別者」への熱いまなざし

2008-01-10 12:27:16 | Weblog
 いわゆる「」問題を具体的に認識したのは、1959年から60年にかけて発生した「三井三池闘争」だったと記憶する。当時、佐世保重工臨時工労働組合(組合員約900名)の書記長をしていた私は、「臨時工制度撤廃」を掲げて闘っていたが、この「臨時工制度」は労働現場における明らかな“身分差別”であると受けとめていた。「三井三池闘争」が激化したのは丁度この時期で、ついに会社側が雇い入れた暴力団と組合員が衝突する事態が発生する。そこに労働組合支援のため登場したのが「解放同盟」である。暴力団員には「」出身者が多いと言われ、彼らは「解放同盟」が掲げる“荊冠旗(けいかんき)”を一目見るなり逃げ去った、とのニュースが伝えられた。周知のとおり、“荊”は「ノイバラ」で、“荊冠”はイエス・キリストがかぶる受難と殉教の象徴である。

 “荊冠旗”(戦前):http://www.jca.apc.org/~hirooka/keikan.jpg
 “荊冠旗”(戦後):http:/
/www3.kcn.ne.jp/~bllyokoi/App0001211.jpg


 「臨時工制度」という“身分差別”を目の前にしつつ、この「三井三池闘争」での出来事が“差別”問題の本質に目覚めるきっかけになったのは確かである。こんにち、「被差別」をはじめとする“差別”問題に関しては新たな格差社会の出現によって、解消されるどころか形を変えて再生産されていると言ってよかろう。この“差別”問題は学問的にも多角的に論じられていて、ここでその分野に深く踏み入るつもりはないが、二、三の記憶に留めておきたい「話」を記しておく。


 前回の記事で水上勉が『良寛』を執筆した動機の一つに、「差別戒名」に関する『朝日新聞』の記事(1981年8月30日)をあげていると書いたが、その具体的な内容は「江戸時代の高僧・無住道人が書き残した『禅門小僧訓』という教え。無住道人は、わざわざ『(えた)之事』という項目を立てて、仏教が長年にわたって被差別の人びとに差別的な戒名をつけてきたことを記し、つけ方を具体的に教えている。たとえば、一般庶民の戒名と混同されないよう『には「僕男」「僕女」と書くべし』『その者ども死したるときは位牌(いはい)に「連寂」「革門」などと書くなり』とし、『仏いわく、戒名は格式に従って書くべし…』と記している。」とある。

 この『禅門小僧訓』には「良寛禅師一口戒語」が収録されているというから、無住道人は江戸末期の人らしいが、仏門における「差別戒名」はかなり古くから存在していて(浄土宗には同種の差別書『無縁慈悲集』がある)、当然のことながら“良寛”さまもご存知だったことだろう。禅門での露骨な人間「差別」を純粋無垢な“良寛”さまがどんな気持ちで見ておられたか、想像に難くない。

 “良寛”さまとほぼ同時代に生きたのが俳人の“一茶”である。“良寛”さまの父・以南(俳号)は“一茶”と交遊があったといわれ、『殺生』の題でこんな答贈の句がある。(参照:水上勉著『良寛』)

 やれうつな蝿が手をすり足をする     一茶

 そこふむなゆふべ蛍の居たあたり     以南

 “一茶”については11月19日(『今日は“一茶忌”~晩年の異常性欲』)の記事で一部書いたが、実は肝心な点に触れずにおいた。それは“一茶”と「差別」問題である。自身が被差別の生まれで解放同盟長野県連合会書記長、全国同和教育研究協議会常任委員を歴任した中山英一著『被差別の暮らしから』(朝日選書)の第四章は「むらと一茶」と題され、同じ信州に生きた人間“一茶”を著者の中山英一氏は熱いまなざしで提示している。

 著者はこの本の中で「私の生いたち」を書いている。詳しくは本書を見てもらうしかないが、「父やんと母やんの慟哭」としてこう綴っている。

 <母やんが慟哭したのは、私が「ちょうり」(注:差別語「」のこと)のことを尋ね迫ったときでした。私の体を力いっぱい抱きしめていいました。「そんなこといわれたって、おらだって知らねえんだからこまるだあ」と。
 小さい声でしたが、私にははっきり聞き取れました。私が母やんの手をはずしたら、母やんの目から大粒の涙がポトンポトンとおちていました。>

 これは小学校に入って間もなくのことだ。著者は同級会には、お互いに嫌な思いをするだけだから、当番だった三回以外は出席していないと言う。担任の先生も同級生も差別した人ばかりだからだ。この人が“一茶”を語るとき、千軍の味方を得たような筆致である。(<>は同書からの引用)

 <この世のすべてのものに「平等」と「慈悲」の心を向けた小林一茶。封建社会で被差別民衆に熱と光をあてた一茶。人間に誇りと美しさと生きる喜びを与えた一茶。芭蕉や蕪村とともに、学校の教科書に登場している一茶である。>

 “一茶”は百姓の子として生まれ、三歳で生母と死別、八歳のとき継母が来る。十歳のときに弟が生まれている。十五歳で江戸に出奔、転々と奉公生活をしていたらしい。いわゆる下層民の生活に身を置き、それが出自と相俟って彼の思想を形成することになったのだろう。

 <一茶は、およそ二万句詠んでいる。そのうち「えた」を11句(連句2句)、「団(弾)左ェ門」を1句、「春駒」を5句、「番太」を4句、「隠坊」を4句、「皮剥」を1句、「皮かふ」を1句、「棒突」を6句、「わらじ(草履)売り」を14句、「辻村」を1句(「」を連句で1句)詠んだ。>

 以下同書からいくつか“一茶”が詠んだ「被差別民衆」の句と中山英一氏の解説を抜粋してみよう。

 穢太(えた)町に見おとされたる幟哉

 <町内の被差別で節句を祝う幟が白くはためいていた。「えた」町の幟の方が立派で、隣接の町の幟が貧弱で「えた」町から見おとされている。「えた」町の人びとの力強い心意気が彷彿と感じられる。>

 穢太(えた)町も夜はうつくしき砧(きぬた)哉(かな)

 <「砧」(きぬた)とは、布につやを出すため、木や石の上に布をのせて、木の槌(つち)でたたくことである。秋の季語である。澄みきった静かな秋の夜、満天にきらきらと星が輝いている。そんなとき、ふと「えた町」から砧を打つ音がトントンと美しく聞こえてきた。
 昼は「えた」「えた」と差別されている町も、夜はこんなに美しい人たちの労働の音が響いているではないか。>

 えた寺の桜まじまじ咲きにけり

 <「えた寺」とは、の中にある寺のことである。…「まじまじ」とは真っ向からじっとの意である。世人は、「えた寺」に咲く桜なら、小さく卑屈な姿で咲くだろうと思い込んでいるが、事実は、毅然と姿も色も香も立派に見事に咲いているではないか。>

 苗代や田をみ廻りの番太郎

 <「番太郎」は「番太」のことで、…「」階層のことである。主要な任務は、木戸番、火の番、水番、野番・宮番などである。…
 「番太」が田の見回りにきた。これも任務の一つである。苗の育ち具合は、耕作の進み具合は、そして水の加減は、盗水はないかなどと。「番太」の誠実な姿が浮かぶ。>

 隠坊(おんぼう)がけぶりも御代(みよ)の青田哉

 <「隠坊」は「墓守」または「死骸を焼く職の人」のことで、身分は「番太」と同じ「」とされた。
 この句は、人を焼く、つまり、荼毘(だび)のけむりが立ち昇っている、その下の方に青田がひろがっている情景を詠んだものである。…「隠坊」のけぶりの下に「御代」(徳川将軍の治世)の青田があるというのだ。>

 皮剥(かわはぎ)が腰かけ柳青みけり

 <「皮剥」はけものの皮をはいで、なめす作業をする人で「えた」の職業の一つであった。川端に根の曲がった柳があり、そこが「皮剥ぎ職人」の仕事場にもなっている。その柳の木は、春が訪れて、みどりの葉を開き始めている。だがそこは世人から無視されている。>

 売るわらじ松につるして苔清水

 <…「わらじ」や「ぞうり」を作り、売る仕事は、信濃(長野)では主として「」の仕事であった。
 私の父は小作人兼ぞうり売りで、年間の三分の二はぞうりとわらじを売り歩いた。母はぞうりやわらじ作りの名人であった。ぞうりは二十足を連ねて一竿(ひとさお)といい、わらじは三十足を組んで一舟(ひとふね)といった。>


 こうしてみると、“一茶”の句がどこか違って見えてきはしないだろうか。著者は、“一茶”を総括するように書いている。

 <人間には、自己の意思や選択でなく、心がけや努力ではどうにもならないことがある。その不可抗力の一つに、身分制度があった。当時の身分はそこから抜けだすこともできなかった。社会の最低辺に押さえ込まれて、人間の尊厳と自由と平等を侵害された立場の者は、生きるために表面上は体制に順応し、妥協はしても、反権力、反権威の潜在意識は堅持していた。
 一茶のしたたかな百姓魂、被差別者としてのド根性が、その面目を躍如とさせている。>


 次回は、「一向一揆と」について考えてみたい。


純真無垢の“良寛”さまを偲ぶ

2008-01-08 14:30:19 | Weblog
 1月8日は、“良寛”さまの忌日だった。幼い頃、父に叱られた“良寛”さまは、上目使いに父を見上げた。父は言った。「そんな目で父母を睨むと鰈(かれい)になるぞ」。その日、“良寛”さまは日暮れになっても帰らない。心配した家人が探索すると、海浜のとある岩の上に悄然と立ち尽くす“良寛”さまがいた。「何をしているのか」と聞くと、「鰈になると言われたので…」と答えたという。

 後年、子どもたちと「鞠つき」や「かくれんぼ」に興じる純粋無垢な“良寛”さまの原形がここに見られる。“良寛”さまの漢詩でよく知られているのが次の詩。

 花無心招蝶  花は無心にして蝶を招き
 蝶無心尋花  蝶は無心にして花を尋ぬ
 花開時蝶来  花開く時蝶来たり
 蝶来時花開  蝶来たる時花開く
 吾亦不知人  吾もまた人を知らず
 人亦不知吾  人もまた吾を知らず
 不知従帝則  知らずして帝則に従う

 これもまた“良寛”さまの本質をよく示している。さらに有名なのは、1829(文政11)年、三条の大地震の際にしたためた手紙。

 <地しんは信に大変に候。野僧草庵ハ何事なく、親るい中、死人もなく、めで度存候。

 うちつけにしなばしなずてながらへてかゝるうきめを見るがわびしさ

 しかし、災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるゝ妙法にて候。かしこ>

 
 “良寛”さまは生涯、寺住しなかった。死ぬ時も在家で死んでいる。作家・水上勉は、自身が幼年時に禅寺で修行した体験をふまえつつ、74年の生涯でなお不明のままの“良寛”さまの行状に迫った労作『良寛』を書いた。冒頭部分で、「良寛伝」は出尽くしているのに、あえて筆を執った動機をこう述べている。

 <理由はかんたんだ。…自ら大愚といい、僧にあらず、俗にあらずともいわれた和尚が、なぜ、えらい師匠について禅境をふかめておられたのに、寺院に住まわれなかったのか。…
 ひょっとしたら、真の求道者には、住めるような寺ではなかったのではないか、というようなおもいもして、時代背景といえば大げさにきこえるけれども、和尚が出家された曹洞宗の寺院のありようにも、眼をむけてみたくなったのである。>

 このあと、1981年8月30日附の「差別戒名」に関する『朝日新聞』記事を長々と引用し、“良寛”さま在世の頃は、曹洞宗開祖“道元”禅師の教えは途絶え、宗門の堕落は眼を覆うばかりだったと指摘する。宗門の堕落は曹洞宗に限ったことではなく、また、寺院の権力追従の姿勢は徳川時代以前から見られたことだ。水上勉は室町時代の“一休”禅師(1394~1481)の言葉を引いている。

 <このころは、むかしにかはりて寺をいで、いにしへは道心をおこす人は寺に入りしが、今はみな寺をいづるなり。見ればぼうずにちしきもなく、坐禅をものうく思ひ、工夫をなさずして道具をたしなみ、坐敷をかざり、我慢多くして、たゞころもをきたるを名聞にして、ころもはきたるも、たゞとりかへたる在家なるべし。けさころもはきたりとも、ころもは縄となりて身をしばり、けさはくろかねのしもくとなりて、身をうちさいなむと見えたり。つらつら生死りんゑのいはれをたづぬるに、ものゝいのちをころしては地獄に入り、ものをおしみては餓鬼となり、ものをしらずしては畜生となり、はらをたてゝは修羅道におつ…>

 この文章は現代にも通用するように思えるが、“良寛”さまの時代のお寺は「汚れに汚れていた」といい、“良寛”さまの宗門批判の漢詩「僧伽(そうぎゃ)」をあげている。(長詩の一部のみ記す)

 <いま釈氏の子と称するは
 行もなくまた悟りもなし
 徒らに檀越(だんおつ)の施を費し
 三業(さんごう)相かえりみず
 頭(こうべ)をあつめて大語をたたき
 因循旦暮をわたる> 

【水上勉による現代語訳】
 「今日僧侶と称する者どもは、行もつまなければ悟りももっていない。いたずらに檀家からのお布施を費やして、仏戒の三業も顧みようとはしない。大ぜいあつまって大法螺をたたき、旧弊のままに朝な夕なをすごしている。」

 「この詩は、良寛を語るには重要な述志とみてよいだろう」といいながら、「結局、和尚を語ることは、自分を語ることになろう。私も川にうつった自分の顔を見て啼く犬の仲間にすぎない。和尚は故人である。その背中に私をうつしてみたいのだ」と、『良寛』執筆の心構えにふれている。

 水上勉の『良寛』は、その出自から出家、放浪、禅思想、文芸、交友を、師の国仙禅師をはじめ、禅宗六祖・慧能ら先人の挿話をまじえながら飽かせず読ませ、“良寛”さまを偲ばせてくれる。本書末尾の31章にある弟由之とのやりとりは、涙を誘うばかりである。

 <…73歳の兄の孤独なひとり寝が気にかかったとみてよい。

 (やよい)七日人々つどいし時、肴物の若菜を見て、
  こぞの春、禅師御手づからつミもておはして給へり
  し事を思ひ出て
 君まさば摘てたぶべき道のべの若菜かひなき春にも有哉

 この前後に由之は、良寛にふたたび蒲団を送った。破れふとんでは哀れと思えたか。それとも蚕小屋のふきこむ風が、老いの身に危ぶまれたにちがいない。良寛は、蒲団をもらってよろこび、礼状をかいた。
  ふとんたまはりうやうやしくおさめまいらセ候。春寒信にこまり入候。然ども 僧ハ無事に過候。ひぜむも今ハ有か無かになり候。

  かぜまぜに雪はふりきぬ
  雪まぜに風はふきゝぬ
  うづみびにあしさしのべて
  つれづれとくさのいほりに
  とぢこもりうちかぞふれバ
  きさらぎもゆめのごとくに
  すぎにけらしも

 つきよめばすでにやよひになりぬれどぬべのわかなもつまずありけり

  みうたのかえし
 極楽の蓮のうてなをてにとりてわれにおくるはきみが神通

 いざさらばはちすのうへにうちのらむよしや蛙と人ハいふとも

   やよい二日

 弟は長寿を祈って送ったのだが、兄は早く蓮のうてなにのりたい、というのである。>

 弟と兄のなんと深い情愛だろう。“良寛”さまが、ほんの二百年前に生きておられたと思うと、この世も捨てたものではないように思えてくる。

最後の遣唐使~“円仁”の菩薩行 ー その2

2008-01-06 08:57:11 | Weblog
 「廃仏」の嵐は吹き荒れていた。843(会昌3)年4月中旬には「勅がくだって全国の摩尼(まに)教の布教者を殺させた。髪を剃って袈裟をつけさせ僧の姿にしてから彼らを殺した」と書いている。

 <6月13日。東宮職長官の韋宗卿は「涅槃経疏」20巻を天子にたてまつった。今上天子はご覧になったあと、この経疏を火にくべ焼き棄ててしまった。…その際の勅文は左のとおりである。
 
 “かたじけなくも高位に列する者は当然儒教の精神に従うべきである。しかるに邪説に溺れるのは、これこそ妖しげな気風を煽動することであり、すでに誘惑の端緒を作ったことになり全く中国の三王五帝の書の趣旨に反している。…孔子・墨子の教えを広く普及させることをしないで、逆に仏陀を信じ溺れ、やたらに仏教書を作り軽々しく天子にたてまつってきた。このうえ中国の民衆が長くこの悪い習慣に染まってしまうことは断じて許し難い。…
 会昌3年6月13日  勅をくだす”>(深谷憲一訳『入唐求法巡礼行記』/中公文庫:以下<>は同書)

 教典だけでなく、仏像・菩薩像・天王像などが破却され、長安城内の商店街も多数焼かれた。かわって“老子”を祖とする「道教」が幅を利かせるようになる。この動乱の中、会昌3年7月24日、これまで行を共にしてきた弟子の一人“惟暁”が死ぬ。

 <7月25日。…
 日本国僧円仁の弟子の亡き僧惟暁について
 右、円仁の弟子僧惟暁はなくなりましたが、また困ったことには土地を買う金もありません。どうか寺の三綱(三役僧)の和尚のご慈悲によって一墓地を与え賜わり、埋葬させていただきたくお願いいたします。…
  会昌3年7月25日          日本国僧円仁謹しんで記す
 寺の役僧は事情を了解して一墓地を与えてくれた。>

 仏教弾圧が続くなかで“円仁”は帰国願いを出し続けていた。

 <5月14日。
 そもそも会昌元年からこれまで功徳使を通じて文書を提出し、日本国に帰りたいと請願すること合計百余回に及んだのだった。また以前数人の有力者に頼んで物を贈ったりなどして帰国の許可を得ようとはかったが、どうしても帰国することを認められなかった。それなのに今、僧尼が強制的に還俗させられるという災難に遭うことによってまさしく帰国することができるようになったのである。一方では廃仏のことを悲しみ、一方では帰国できることになったことを喜んだ。>

 845(会昌5)年5月15日、混乱の中、多くの人々に見送られ“円仁”は長安を出立する。ある仏弟子は「行く先々にある州県の旧知の役人宛」に手紙をしたため、他の人たちは餞別に「絹二疋」「蒙頂茶二斤」「団茶一串」「銭二貫文」「呉綾十疋」「檀香木一本」「和香一びん」「フェルトの帽子二つ」「銀字の金剛経一巻」「軟らかいくつ一足」などなど、「いちいち詳しく記録することができない」ほど贈られる。別れを惜しんで一人が言う。

 <あなたの仏弟子李元佐は輪廻多生してお会いできてしあわせでした。和尚が遠く日本からやって来られて仏法を求める時に遭うことができ、数年の間供養をいたしましたが、心はまだ十分満足しておりません。一生和尚のお近くを離れ難く思っております。和尚はいま天子の災難に遭って日本に帰って行こうとしています。その弟子が考えますに、今生ではまさに再びお会いすることはあり得ないでしょう。来世には必ず諸仏のおられる浄土でまた今日のように和尚の弟子となりましょう。和尚が成仏されるときにはどうかこの弟子のことを忘れないでください、云々>

 “円仁”が人々にいかに敬愛されていたかがわかる。長安を出て2年4ヶ月後の847(会昌7)年9月2日、赤山浦を出航し、9月18日、博多の鴻ろ舘に着く。筆舌に尽くし難い辛苦の旅程であったことは、このとき命を賭して持ち帰ったものの一覧を見れば分かるだろう。

【入唐新求聖教目録】
 
 長安・五台山および揚州などで求めた経論・念誦の法門および章疏・伝記等すべて計584部、802巻。胎蔵・金剛両部の大曼荼羅および諸尊の壇像、舎利ならびに高僧の真影など合わせて計50点。このうち長安城に滞在中に求めた経論・章疏伝等は423部、559巻、胎蔵・金剛両部の大曼荼羅および諸尊の曼荼羅・壇像その他道具等が21点である。また五台山にあって求めた天台の教跡および諸章疏伝は34部、37巻と五台山の土石など3点である。揚州で求めた経論・章疏伝等は128部、198巻、胎蔵・金剛両部の大曼荼羅および諸尊の壇像、高僧の影像と舎利等22点である。


 帰国時の“円仁”は54歳で、71歳で没している。没後2年にして大師号が諡(おく)られ「慈覚大師円仁」と呼ばれるが、これは比叡山延暦寺を開いた“円仁”の師・伝教大師最澄とともに賜わったわが国では最初の大師号である。大師といえば弘法大師空海が有名だが、空海は没後86年目、最澄、円仁より55年後に大師号を賜っている。

 それはともかく、“円仁”の『入唐求法巡礼行記』は特筆すべき記録である。われわれ日本人は一読する義務がありはしないだろうか。


 参照:「“円仁”と多神教」http://www.st.rim.or.jp/~success/ennin_ye.html

最後の遣唐使~“円仁”の菩薩行

2008-01-04 21:33:59 | Weblog
 わが国が中国に朝貢使を送ったのは1400年前、第一回“遣隋使”(推古8年)が最初で、618(推古18)年に隋が滅んで唐となるが“遣唐使”として朝貢は続いた。最後の“遣唐使”派遣は838(承和5)年、のちの第3代天台座主となる“円仁”もこれに加わり「請益僧」として入唐した。この“円仁”には出航日から帰国日までの9年6ヶ月におよぶ苦難の記録『入唐求法巡礼行記』がある。

 「円仁」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E4%BB%81

 “円仁”の研究者で『ENNIN’S DIARY』の著者・故ライシャワー博士(元駐日米国大使)は対談で、「有名なマルコ・ポーロの“東方見聞録と比べて、円仁の旅行記は日本人にも意外なほど知られていませんが、二つの旅行記にはどんな違いがー”と聞かれて語っている。

 <マルコポーロの方は、本が出るとすぐ有名になり資料にされたが、円仁の本はわずか二部か三部筆写されただけで長い間知られていなかった。円仁が中国に渡ったのは唐代であり、マルコ・ポーロは元時代だから四百年以上も円仁の方が早い。これ一つとってみても円仁の意義は大きい。しかも円仁の日記は彼自身が毎日毎日見聞し観察したことを事細かに記録したもので非常に正確です。ポーロの方は明らかに彼自身の書いたものではなく、ばく然とした印象をほかの人に語ったことが書物になったもので、正確さという点では全然比較になりません。…>(『入唐求法巡礼行記』付録二/中公文庫)

 『入唐求法巡礼行記』を完読したのは10数年前のことだが、“円仁”自身浅からぬ縁を持つ“鑑真和上”が、度重なる渡航の失敗を重ねようやく6回目にして来朝された苦難に優るとも劣らぬ難行苦行の記録に圧倒されたことを想い起こす。在留を何度も願い出るが唐皇帝の認可を得られず、遣唐使一行と離れて不法在唐を試みるが失敗して役所に突き出されたりする。やっと手に入れた旅行許可証を懐に、山東半島東端の港町・赤山浦から八つの州を越えて2300余里(約1270km)彼方の仏教の聖地「五台山」を目指す。

 旅行許可証は州ごとに発行されたようで、その都度「公験」(旅行証明書)の発行を願い出ているが、それにもまして飲食には悩まされたようである。840(開成5)年3月25日の日記には「登州文登県からこの青州に至る地方はここ三、四年来蝗(いなご)が大発生して五穀を食いつくすという災害が起き、役人も民間も共に飢え困窮している」とある。“円仁”は「陳情書」を役所に差し出している。

 <日本国求法僧円仁
 食事のため食糧を施してくださることをお願いします。
 右の円仁らは遠く日本国と別れて仏教を尋ね求めております。官の旅行許可書の交付をお願いしているところですので、いまのところ自由に旅行することができませんが、到るところの家々が飢えている事情は忍び難いものがあります。ことばも違いますので、ひたすら乞うというわけにもいきません。どうか閣下のご仁恩によりまして世尊の余りの食糧を喜捨して異国の貧しい僧に賜らんことをお願いいたします。前にも一日一回の食事を賜っておりますのに、いまさらお心を悩ませ申し訳ありません。伏して深く恥じ入るばかりです。謹んで弟子の惟正をつかわして書状を差しあげます。
 開成5年3月25日           日本国求法僧円仁書をたてまつる
 員外閣下 謹空 >

 願いが届いて「うるち米三斗、麺(麦粉)三斗、粟三斗を支給してくださった。」と記している。

 こうして44日かけて辿り着いた「五台山」とはどういうところか。

 <五台の地は五百里(約300km)にまたがっており、その外側には四方にみな高い峰が連なっている。五台を囲みかかえる広さは1000里(約600km)にも及ぶだろう。その刃のように鋭く尖った山々が並んでまるで炉が幾重にも重なって周りを囲んでいるといった地勢である。…けわしい高い巌の頂きを上ったり深い谷の底に下ったりして、7日間かかってやっと五台山地に到達することができるのである。…まことに知る、五台山こそ万(よろず)の峰の中心であると。>

 五台山のの峰々に点在する寺院を巡拝し、説法を聴き、天台宗関係の教典注釈書を写し終わると、さらに西南の方向2000余里(約1100km)の長安を目指すが、出立前夜宿泊した保応鎮国金閣寺の堅固菩薩院で茶飲み話で聞いたことを、“円仁”はさりげなく綴っている。

 <院の僧が茶飲み話に言うには「日本国の霊仙三蔵は昔この院に二年ほど滞在した。その後、移って七仏教戒院に向かったが亡くなった。かの三蔵は自分の手の皮を剥いで長さ四寸(約12cm)幅三寸(約9cm)のところに仏像を画き、金色の青銅の塔を造ってこれをそのなかに安置した。いま現に当寺の金閣のなかにあって長年供養されている、云々」と。>

 わが国から「法を求めて」渡海した多数の修行僧がこの『日記』には登場するが、この霊仙三蔵と呼ばれる人物も“円仁”の『日記』で歴史に蘇えった一人である。次は長安に到達して役所に提出した文書である。

 <日本国の僧円仁、弟子の僧惟正・惟暁、従者の丁雄方
 右の円仁らはさる開成3年4月、日本国の朝貢使に随行して船に乗り大海を渡って参りました。7月2日に揚州の海陵県白潮鎮に着き8月中に揚州に到着、開元寺に滞在して一冬を過ごしました。開成4年2月揚州を離れ楚州に行って開元寺に滞在しました。7月になって登州の文登県赤山院に行き滞在、さらに一冬過ごしました。今年の2月になって登州を離れて3月に青州に着き竜興寺に仮り住まい致しました。それから10日ほどしてついに節度使韋尚書のもとで公けの旅行証明書を願い出て下付されました。5月1日五台山に着き仏教の聖跡を巡礼、7月1日五台山から旅立って来て今月23日に長安城に着きました。いま願っておりますのは、いっとき城内の寺院の建物内に寄留してその間師を尋ねて仏道を聴き学び、日本に帰りたいということであります。謹んで以上のとおり述べました。どうかよろしくお取りはからいをお願いします。この件について以上のとおり文書を記しました。謹んで記す。
  開成5年8月24日                日本国求法僧円仁記す>

 唐は文宗(826~840)から武宗(840~846)へ変わり、“円仁”らは「廃仏」政策に巻き込まれる。842(会昌2)年10月以降、生々しい仏教弾圧の模様が綴られている。

 <10月9日。勅がくだり全国のすべての僧および尼僧で焼煉、呪術、禁気に通じていたり、軍隊をきらい悪事を犯して軍を逃走し、身体にムチ打ちの刑に処せられた痕(あざ)のある者、いれずみのある者、いろいろな技術を持っていながら役に立たせないでいる者、以前に姦淫の罪を犯し妻を養って戒律を守らない者、以上の者はいずれも強制的に還俗させ僧尼であることを認めない。…>

 武宗になってすぐに、“円仁”は帰国を願い出るが、およそ5年間許されない。


(つづく)

 

“平和”を……

2008-01-02 13:44:04 | Weblog
 結合双生児の“べトちゃんドクちゃん”兄弟の兄“べトちゃん”が、昨年10月亡くなった。享年27歳。あらためて戦争への憎しみを覚えたが、“べトちゃんドクちゃん”の悲劇はいま、イラクで再現されている。

 “平和”は永遠に望めないのか。溜め息をつきたくなるが、ベトナム詩集『人間と人間』に詩人・佐藤ひでをは、カスカナかすかな“希(ねが)い”をこめて書いている。


“ねがい”

そーだ
やはり歌う明るい集団であることだな
水田をたどる畔が村に入ったら
その群れの中で良く話そう
児どもの教育のこと
どんなささいな
愚痴っぽい相談事だっていいやな
貧しいことなら真剣に聞いてやることだ
泥田へすすんで入ったら
農民と一緒にずぶ濡れて笑いながら
<寒い夏>でも
活きている掌になる
移動隊のようなものだな

魚場に寝起きしてもよし
網を曳くもよし
それだけではない
女達とも浜へ出て泣く
貧しさを聞く
貧しさを論議する
それもそうだが
どんな生活の欠陥の指摘にも
漁民の心をとらえる漁民の
それが
まず素晴らしい君の能力を生む筈だ

もっとでっかい奴さ
柔軟で機敏に闘う細胞なら
農の
漁の
貧しさに入って
生活の
いたみやかなしみのそこから共に芽生える
ほんものの人民にみずからが目覚めることだ
農民の
漁民の
労働者の
ハダカの両足で立つのさ

だから まず
問題が山積する
貧困の底辺に下りることだ
病人を
児どもたちを
愛する温かさに
みずからが目覚め
人間らしい明るさや笑いを創造する
闘いを推進する
地道だが
縁の下の力もちのような
工作隊を
ぼくは
君に描いてみるのだが

               ~1965年・<佐藤ひでを詩集Ⅱ>


 新年に“平和”を希ってここに記す。