耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“町内囲碁クラブ”~週一回の楽しみ

2007-04-30 21:53:09 | Weblog
 <戦後、中華人民共和国との国交回復に先鞭をつけた自民党の長老、松村謙一氏は1959年に北京を訪れ、副首相・外交部長の陳毅氏と復交、貿易等に関して会談したが、両者の主張に大きな隔たりがあってどうにも歩み寄れなかった。数日の会談で疲れ切った陳氏は明日は一日休養しようと提案し、「ところで、あなたは碁を打つか」と訊いた。「碁は大好きだ」と松村氏が答えると「それはいい、明日は政治の話はよしにして、二人で碁を打とう」ということになった、陳毅将軍は解放戦争当時も常に布の碁盤をポケットに、袋に入れた碁石を馬の鞍に結びつけ、決して部下に手間をかけなかったといわれている。翌日、両氏は囲碁で一日を過ごし、心から打ちとけることができた。困難をきわめた政治向きの話は一応棚上げし、ともかく貿易はやろうということになったのである。>(大室幹雄著『囲碁の民話学』/岩波現代文庫)

 私が碁を覚えたのは高校を卒業して間もなくだったと記憶するから、半世紀以上前になる。この間、ほとんど碁石を手にしなかった時期もあったが、そんな時もNHK日曜番組「囲碁の時間」は楽しみに見てきた。一昨年、町内に「囲碁クラブ」ができて毎週日曜日午後メンバー10人が公民館に顔を揃える。隣町には70人の会員を擁する大「囲碁クラブ」があって、われわれのメンバー内にはそちらにも加入して腕を磨いている人もいる。私の棋力は一応“四段格”に認定されているが、棋力に関係なく人間同士のつき合いが実に楽しい。先の陳毅将軍と松村謙一氏の会談余話は囲碁をたしなむ人なら例外なく合点のいく話だろう。

 先にあげた『囲碁の民話学』にはいろいろ面白いことが書かれているが、10数年前に上海市老幹部大学(日本の「老人大学」にあたる)との囲碁交流を企画した時の資料(出所不明)から参考になる部分を記しておく。


<囲碁の起源>
 堯・舜の時代に遡るとされているが、実際の記録は『春秋左氏伝』にみられ「えき(大の上に亦)者は碁(いし)を挙げて定まらざれば、其の相手に勝てず」と言い、囲碁にたとえて、ぐずぐずしていては、折角の好機も逃がしてしまう、と語っている。周代(BC1122~BC221)、囲碁は「えき」と呼ばれ、春秋戦国時代、すでに広く普及していたことがわかる。また古書は、魏の武帝・曹操(155~220)がプロ級の腕前であったと記しており、呉の大帝・孫権の兄・孫策と幕臣・呂範との対局は、現存する最古の棋譜とされている。

<囲碁のわが国伝来>
 正確な時期ははっきりしない。735年、吉備真備が唐から持ち帰ったとする説があるが、すでに早く、中国の南北朝時代(479~502)に朝鮮半島を経て、日本に伝わっていたとする説が有力。『源氏物語』には、宮中での「碁あそばす」様が描かれており、平安時代には、皇族、貴族の間に碁が広く普及していたことがわかる。

<史上初の「日中対局」>
 公式の対局は中国の史書「旧唐書」の「宣宗本紀」にきちんと記されている。宣宗は、唐第16代の皇帝。大中2年(848)3月のこととして、「日本国の王子、入朝して方物を貢ぐ。王子、碁を善(よく)す。帝、待詔(唐代の官名)の顧師言をして之と対手せしむ」とある。また、「杜陽雑編」には、王子が玉局(玉製の碁盤)と玉棋子(玉製の碁石)を日本から携えてきたこと、王子が接戦の末、顧師言に負けたことなど、事のしだいが詳しく書かれている。

<囲碁十訣>
 唐代は中国古代文化が美しく花開いた時期だった。囲碁の隆盛も唐代をひとつのピークにしている。唐代髄一の名手といわれ、「唐代棋壇第一国手」と呼ばれた王積薪は、多くの棋書を残しているが、最も有名なのが「囲碁十訣」として知られる次の口訣だろう。

1.勝ちをむさぼるべからず。
2.界(相手の勢力範囲)に入るには、よろしく緩やかなるべし。
3.彼(相手)を攻める時にも、我(自分)を顧みよ。
4.子(石)を棄てても、先手を争え。
5.小を捨てて大を救え。
6.危に逢っては、すべからく棄てるべし。
7.軽速(軽はずみ)は、これをつつしむべし。
8.(石の)動きはすべからく応じあうべし。
9.彼の強きところでは、自らを保つにしかず。
10.大勢窮すれば、持碁を求めよ。
 
 

“理屈と膏薬はどこにでもくっつく”~最高裁逆転判決

2007-04-28 16:20:11 | Weblog
 新聞一面トップ記事に大きく『強制連行 賠償認めず』とでている。すでに昨日のニュースでわかってはいたが、判決内容を見て「やっぱりそうか」としか言いようがない最高裁の判決である。“理屈と膏薬はどこにでもくっつく”とはよく言ったもので、「社会正義に反する」と断定した原告勝訴の二審判決を破棄した最高裁は、「社会正義」に目をつぶり、「サンフランシスコ平和条約」をよりどころに“理屈”をこね回しているのである。この問題は、法のまなざしを「個」に置くか「国」に置くかなのだ。これでは、個人の人権が「国家」に収奪されて、悪事を働いた国は“遣り得”になってしまう。

 janjanの渡辺容子記者が『今週の本棚』で紹介している『ドイツは過去とどう向き合ってきたか』(熊谷徹著/高文研)を読めば、裁判以前の問題として戦争責任をめぐる国の見解と戦後補償に関し日本政府がいかに不誠実かが分かる。ドイツと日本のこの違いの根本要因はどこに起因するのだろうか。以前にも触れたことだが、この問題は結局「天皇の戦争責任」論に行きつかざるを得ないだろう。「国」の責任を問えば問うほど、あの戦争を遂行した「最高責任者」を不問にすることは条理に合わなくなるからである。

 いずれ詳しく論じてみたいが、「強制連行福岡訴訟」の口頭弁論で、強制連行問題研究の第一人者である龍谷大学田中宏教授の証人尋問から一部を引用する。

原告代理人=戦後、こういった中国人の強制連行あるいは強制労働に関する資料というのが焼却処分されたという記録はございますか。
証人(田中宏)=あります。…当時の戦時建設団本部にて焼き三日間を要したという、三日間資料をせっせと焼いたということですね。…
 恐らく、いつ焼却したのかというのが特定できてないのではっきりしたことは言えませんけど、実は戦犯追及というのは、例の花岡の有名な事件が1948年3月1日に判決が出ますね。ですから、そのころまではかなり行なわれていたと思われるわけで、48年11月に東京裁判の判決が出て、当時の皇太子の誕生日である12月23日に東条以下の死刑が執行されると、大体そこで止まるんですね。当時、岸信介なんかは第二次としてA級戦犯として裁くために身柄は拘束されてたんですけれども、東条が処刑された翌日、全部釈放されますので、大体そのころからアメリカは日本の戦犯追及はもうやらないというような方向転換が諮られたと言われるわけで、ですから、残っていると、その後ということを兼ね合わせると、48年より以前に処分されたんではないかということは推測されますね。…

 参照:「花岡事件」http://www.geocities.jp/hanaokajiken/

代理人=強制連行、あるいは強制労働そのものについては、国はどういう対応を取ってきたんですか。
証人=一つは、外務省報告書がないから詳細なことは分からないという逃げと、もう一つは、あれは労働者としてこちらに来て働いてもらったんだということで、強制ではなくて自由契約に基づくものだという形で責任の所在を否定するという、まあ、その二通りで基本的には否定してきたということだと思います。
代理人=今先生がおっしゃったような答弁を、当時のいわゆる閣議決定をしたときの商工大臣で、後に内閣総理大臣になった岸信介等も、そういった見解を国会であつかましくも述べてきたと、こういうことですね。
証人=そうですね、劉連仁が発見されたとき、ちょうど岸信介が総理大臣だったので、それは非常に話題になったですね。

 参照:「中国人戦争被害者の要求を支える会」http://www.suopei.org/index-j.html
    「戦後補償裁判(24)-劉連仁訴訟控訴審判決」http://www.jicl.jp/now/saiban/backnumber/sengo_24.html

代理人=…(中国人強制連行者自身は俘虜、あるいは捕虜といっているが)、政府はなぜ労務者と言おうとしているのか…。
証人=これはかなり重要なことだと思っているんですけれども、とにかく閣議決定のときから戦後の報告書の作成に至るまで、一貫して労務者という言葉を国は使っているんですね。…
 実は満州事変以降、中国に大量の軍隊を送りますけれども、一度も中国に宣戦布告をしてないんですね。それで、宣戦布告をすると、結局、戦時国際法が動き出しますので、そうすると捕虜の保護義務jと言うのが、いわゆるハーグ条約なんか全部機能してきますので、そこで日本では中国との間で戦争をしていないと、これは有名な陸軍省の軍務局長をやった武藤章というのが、東条と一緒に死刑になりましたけれども、彼が東京裁判の法廷で、中国とは戦争をしてないので戦時国際法は適用されないと、したがって捕虜は生じないと、よって捕虜虐待はありえないという有名な弁論をしているんですね。
 で、その関係があるので、一貫して労務者と言っておかないと、戦時国際法との関係で、宣戦布告をせずに250万くらいの正規軍を中国に送ってますので、そのことをどうクリアするかということがあるので、一貫して労務者で通したと、私はそういうように見てますね。


 さらにこの福岡訴訟では、わが国が批准していた「ILO29号(強制労働廃止)条約違反」という特異な視点から専門家を証人に立てて国の違法性を追求し、地裁では企業責任を認める原告団勝訴(国の責任は認めず)の判決を得たが、二審で逆転敗訴の判決がなされた。現在、最高裁に控訴し係争中である。

 福岡訴訟の公判記録を見れば、国がいかに責任逃れに汲々としているかが分かるであろう。この訴訟で証人に立った中国人弁護士の康健氏は、原告代理人から「時効」の問題を問われて次のように答えた。「加害者が時効ということを主張し、被害者たちの訴える権利を阻止するということは、人道に反し、人間の心を持たないやり方だと、私は思います。そして、法的にも、法律は正義であるというのが原則でありますので、それは正義に反する、法律にも反するものであると、私は思います」と述べた。残念ながら、この国に正義を求めることは「木に魚を求める」に等しいと言えるだろう。

 <戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない>        ~クラウゼヴィッツ『戦争論』

 
 参照:「戦後補償主要裁判例」http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/senngohosyou.htm 

40年前の4月26日~“氷焔”には…

2007-04-26 08:13:13 | Weblog
 今年は菜種梅雨が遅くこのところ雨続きだったが、今日は快晴。畑仕事で忙しい。じゃが芋の草取りと土寄せのあと、畑周辺の草刈り、ササゲやトウキビの植え付け準備をしておく。すっかり遅くなって、ブログを書く時間がとれなくなった。前回、“氷焔”を紹介したが、実を言うとあれもこれも見て欲しい記事が満載であるが、40年前(1972)の今日を振り返ってみよう。


 <“憲法にも、国際法にも、国連憲章にも違反する軍事行動を続けるのなら、税金をおさめぬぞ”━
 360人の知識人・芸能人たちが納税拒否の声明。

 残念ながら日本のことではなく、米国のこと。
 アメリカン・デモクラシーなお健在なり、と褒めたって、べつになんとか教唆罪にはなりますまい。
 7人死亡、169人負傷、しかもその大半は米国人。
 べトコンに急襲された23日のタンソニュット空港の光景は、平家物語の一ノ谷の節を想起させる。壇ノ浦も意外に近いのではなかろうか。

 盟邦がデッド・ロックで動きがとれなくなっているときに、佐藤さんは南極の氷とやらでオン・ザ・ロック。
 友が誤りをおかしているときに、あえて苦言するものこそ真の盟友。
 巧言令色の友は、やがて信頼されなくなる。

 人情は大切だが、人情至上主義はこまる。“お中元を配りたがるのは人情じゃないか”“辞めた知事さんを責めるのは人情にそむくではないか”…
 この種の人情至上主義は悪魔の舌よりもこわい。

 “ローデシアに石油を供給するのは平和にとっての脅威になるから、ベイラ港へはタンカーを入港させないように”(国連決議)。
 タンカー・マヌエラ号はベイラ港を避けて“合法的に”ロレンソマルケス港へ。 ローデシアには海がない。ベイラ港もロレンソマルケス港も同じモザンビク。
 “横田その他の空港から飛び立つ米軍機は一たん沖縄へ着陸するのだから、日本はベトナム戦争とまったく無関係である”━との論理を拝借したのだろう。

 蜷川氏の五選成った京都府知事選。五選の可否論もさることながら、自民党との共同候補を推した民社党への衝撃こそ注目すべきだろう。
 “風雪の人”西尾党首への晩霜か。

 ソフト・ムードのソ連さんもサケ・マスのことになるときつい態度。
 中ソ対立を自分の“波長”だけで観測し、皮算用をするとあてがはずれる。

 肥後の“観光村”の一つにまでなったという蜂の巣城ついに陥落。

 岩手の小繋(こつなぎ)とは性質も違うし、闘争方法も違ったが、われらの惑星の表皮をどう使用するかについて、考えさせられる多くのことがあるはず。

 今春看又過
 何日是帰年
      ~杜甫
 あの花摘むをためらううちに
 春の暦はめくられて過ぎた
 わたしは旅びと旅にやせて
 ふるさとへ帰るあてはない。

 このあいだ日比谷の第一生命ホールで、80歳の植物学者武田久吉博士の話を聴き、博士を中心とする映画『わたしと尾瀬』を見た。
 一つのことにひたむきに生きた博士に、はげしい羨望を感じた。
 “なんでも屋”の刀鬼子の感傷だろうか。
                (4月26日号)>

 
 今日、佐藤首相の甥、安部首相が米国へ発つ。ベトナム侵略とイラク侵略、40年を隔ててなんと相似の歴史だろう。<覆車の戒め>を忘れ愚者は“歴史はくり返す”か…。

“氷焔”~40年前の名コラムを読み返す

2007-04-24 09:55:49 | Weblog
 ある時、故あって少なからぬ蔵書を処分してしまったが、どうしても手放せなかった数冊が手元に残っている。その一つ、毎日新聞社発行の週刊「エコノミスト」に1964年10月から1973年3月まで連載されたコラム『氷焔』Ⅰ~Ⅲがある。『氷焔』の筆者〔刀鬼(ペンネーム)〕氏は同書Ⅲ巻末にこう紹介されている。

 <須田禎一先生は 9月18日(1973)朝8時すぎに急逝されました。
 この遺稿(注・『新聞月評 1973.8月』)は、心身の疲れをおして、前日の17日に最後の一行を残し、それを口述筆記のうえ完成されたものです。…>

 『新聞月評 1973』は単行本として発刊予定だったが、著者急逝のため予定分量に満たず『氷焔Ⅲ』と併せて刊行した、と編集部注にある通り、〔刀鬼〕氏は週刊と月刊のコラムを執筆していた。

 それまでは気に入った記事があれば購入する程度の私が「エコノミスト」を定期購読しはじめたのは、コラム『氷焔』の連載が始まり、その文章に魅せられたためと言っても過言ではない。『氷焔Ⅰ』の「まえがき」でエコノミスト編集長林芳典は、“ペンが剣より強いものであるかどうか、それは知らない。ただ、ペンに生涯を捧げるぼくとしては、数年あるいは数十年のちでも自ら読みかえして赤面しないですむものを書きたい、とねがっている。…”と〔刀鬼〕氏が自著で書いていることを紹介している。まずは連載当初の〔刀鬼〕氏のペンをみてみよう。


 <10月━
 “船長がラム酒を飲んでいる
 飲みながらなにかうたっている船長の胸も
 赤いラム酒の満潮になった
 その流れの底に
 今宵も入墨の錨が青くゆらいでいる”
 ━丸山薫の詩集から

 横浜のメリケン波止場の隣りに、デラックスなクリーム色のターミナルビルを持つ新しい大桟橋ができ、この月から店びらき。

 お江戸日本橋の上には首都高速道路一号線がデラックスにかかるし。

 ああデラックス
すべてオリンピックのおかげ。
古いものは古い人の愛惜のなかに影がうすれ、
新しいものはいやおうなしにのさばる。歴史は非情だ。

 10月━
 10日から24日までオリンピック東京大会。
 97ヵ国の国旗が代々木の森にはためく。武装した異国人にひきちぎられてもケロリとしている霞ヶ関的な神経を、97ヵ国の代表団は持ちあわせていないだろう。なにごともなくぶじにすみますように。

 10月━
 オリンピックのあとに来るものは?
 華子さんブームか、原子力潜水艦か、それとも中小企業の倒産増加か。
 がん・センターの一室に身を横たえる池田首相の胸中やいかに。

 10月━
 1日にはあかい壁あおいイラカの王城北京に、中華人民共和国誕生満15年の国慶節。対ソ高姿勢は続くだろう。
 少数派から多数派へ、瑞金から延安への苦難に満ちた“大西遷”の体験が、彼らの自信を裏づけている。
 いまはイデオロギーとプシコロギー、思想と心情の広野における“大西遷”の途上にあるのかもしれぬ。

 10月━
 この大陸をはさむ二つの半島、韓国とベトナムの情勢は、アンダンテからアレグロへと進む。
 ワシントンは11月3日(大統領選挙)のデートとにらみあわせて、焦燥の色を濃くしているが『人類の発展過程で、一国民がそれまで他国の下にしばりつけられていた政治的ヒモを断ち切り自立平等の地位を占めるようになるのは当然』と1776年の独立宣言の一節はうたっているはず。

 10月━
 14日は旧暦の9月9日、“菊の節句”重陽節である。
 万里悲秋つねに客となり、百年多病ひとり台に登る(杜甫)。

 氷ほど熱いものはない。
 焔ほど冷たいものはない。
           (10月6日号)>

 
 〔刀鬼〕こと須田禎一氏は『氷焔Ⅰ』「あとがき」で書いている。

 <…松尾芭蕉が一管の矢立をもって、また出雲阿国が一本の舞扇をもって、都大路や奥細道をあゆみまわって生涯を終えたように、ぼくも“ペンの細道”をあゆみながら今ようやく老いなむとしている。ひそかに誇るは“魂の自由”のみで、ほかはまったくの無一物。…>

 時折、この『氷焔』を手にしては、曇りがちな心の陰りに陽を当てるように目をはしらせる。清冽な文言がわが身を蘇生させてくれるようである。そして、歴史の一こまを額縁に入れて目の前に置いてくれる。

吉野~西行庵を訪ねて

2007-04-22 11:41:43 | Weblog
 はじめて桜の吉野を訪ねたのは一年前のことである。ついでに室生寺、長谷寺も再訪したが、近鉄大阪線の「室生口大野駅」から室生寺に向うバスから大野寺の見事な桜が目についた。これは帰りに立ち寄って写したものである。
 吉野はたっぷり時間をとって、まず奥千本口までバスで行く。そこから西行庵までの雨上がりの道のりは決して楽ではなかった。かねて願いの西行庵にこだわったのは白州正子の『西行』(新潮文庫)に触発されてのことである。引用文<>を挿みつつ辿ってみる。

 <うきよには留めおかじと春風の
  散らすは花を惜むなりけり

  諸共にわれをも具して散りね花
  浮世をいとふ心ある身ぞ

 …西行が吉野へ籠ったのは、待賢門院への思慕から解放されるためであったと、私はひそかに思っているのだが、女院(にょういん)の面影を桜にたとえたのは今はじまったことではなく、ここに掲げた二首なども、女院の死を、散る花の美しさにたとえたとしか思われない。

  花に染む心のいかで残りけむ
  捨てはててきと思ふ我身に
 
 時にはそんな告白もしているが、心ゆくまで花に没入し、花に我を忘れている間に、いつしか待賢門院の姿は桜に同化され、花の雲となって昇天するかのように見える。ここにおいて、西行は恋の苦しみからとき放たれ、愛の幸福を歌うようになる。

  ねがはくは花のしたにて春死なむ
  そのきさらぎの望月の頃       
 
 西行は北面の武士で佐藤義清(のりきよ)といい、妻子ある前途有望の身であった。それが23歳の若さで出家隠遁したのである。直接の原因は親友の急逝にあるとされているが、白州正子は『源平盛衰記』が伝える物語を引いていう。

 <さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも恐ある上臈(じょうろう)女房を思懸け進(まゐ)らせたりけるを、あこぎの浦ぞと云ふ仰(おほせ)を蒙りて、思い切り、官位(つかさくらゐ)は春の夜見はてぬ夢と思ひなし、楽み栄えは秋の夜の月西へと准(なぞら)へて、有為の世の契を逃れつつ、無為の道にぞ入りにける。(崇徳院の事)

 …断っておくが、私は西行の出家の原因がつきとめたいわけではない。前章で述べたように、それは自分の魂を鎮めるためで、原因ということをいうなら、ほかにいくらでも見出せると思う。私が知りたいのは、在俗時代に体験したさまざまの思いが、西行の歌の上にどのような影響を与えたか、ことに失恋の痛手は、誇り高い若武者を傷つけ、生涯忘れがたい憶い出として、作歌の原動力となったような気がしてならない。
 先日、角田文衛氏の『待賢門院たま(王偏に章)子の生涯』(朝日選書)を読んで、「申すも恐ある上臈」とは、鳥羽天皇の中宮、待賢門院にほかならないことを私は知った。>

 
 角田氏の著書はまことに「奇怪」としか言いようのない平安王朝の裏面を暴きだしていて驚くばかりである。吉野の西行庵は、「奇怪」な世から身を隠すに格好の山奥にあった。西行はここだけでなく、山のあちこちに庵を結んでいたというが、ここを芭蕉が訪れて有名になったらしい。

 西行庵を引き返し、奥千本から歩いて下山した。奥はまだ蕾のままだったが、下るにつれて蕾は膨らみ、花へと変化していく。下界はすでに満開を過ぎようとしていた

 

“お天道様”を拝む

2007-04-21 10:20:59 | Weblog
 去る17日早朝4時からのNHKラジオ「心の時代」は、「南無の会」名誉会長松原泰道老師の「『菜根譚』を読む」という対談番組だった。冒頭の話が、球界の野人で400勝投手金田正一選手と対談した時のことで、会うといきなり「あんた毎朝、御天道様(おてんとさん)拝(おが)んどるか」と言われたそうである。「お天道様」とは“太陽を敬い親しんでいう語”(大辞泉)だが、金田選手は幼い頃から母に毎日「おてんとさん」を拝むよう躾けられたという。世の中すべて「お見通し」の「おてんとさん」ほどエライものはないというわけだ。読み書きのできないその母を金田選手は「国宝」と言っていたらしい。

 参照:「金田正一」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%B8%80

 「おてんとさん」の話が出たのは「天人相関論」が随所にみられる『菜根譚』との関連からである。『菜根譚』の著者、洪自誠は中国明朝末期の人で、はじめ儒教を学んでいたが、明王朝が衰退し、社会不安が起こって政治的弾圧を受け隠遁を余儀なくされたことから道教や仏教へ関心を寄せた洪自誠が、儒仏道三教の思想を背景として著した清言集(処世訓)が『菜根譚』である。(中村しょう〔王偏に章〕八・石川力山共訳『菜根譚』/講談社学術文庫・参照)
 
 松原泰道老師の講話をはじめて聞いたのは十数年前、有楽町の「よみうりホール」で開催された<南無の集い>においてである。
 
 参照:「南無の会」http://homepage3.nifty.com/namunokai/

 当日、松原泰道老師がどんな話をされたのか忘れたが、筑前琵琶奏者の上原まりさんが、荘厳、艶やかな舞台装置の中で仏教諸派「声明(しょうみょう)」に合わせすばらしい演奏を披露されたのを思い出す。

 参照:「上原まり」http://www.ueharamari.jp/

 「南無の会」は“特定の宗派にこだわらず、広く仏教を学ぶ会”とされ、全国各地に支部があって毎月定例の「南無の会辻説法」を開いている。また、月刊誌『ナーム』の発行や地方講演会を開催するなど仏教の伝道活動をおこない、さきの「南無の集い」は「南無の会」の年次総会にあたる。私が「南無の会」を知ったのは四半世紀も前のことで、同会主催の地方講演「クマさんの養生説法」ー公立菊池養生園診療所所長竹熊宣孝先生ーを聞いたのがきっかけだった。竹熊先生の「養生園精神」は“医は農に、農は自然に学ぶ”にあるといい、「自分のいのちは自分で守る」のが基本と提唱していたことが印象に残っている。

 『菜根譚』は私の愛読書の一つでもあるが、満百歳の松原泰道老師が月刊誌『大法輪閣』に「わたしの菜根譚」と題し連載されていたらしい。老師の著『一期一会』(総合労働研究所刊)にこんなことが書いてある。
 
 <わたくしたち夫婦にとって、たった一人の男の子である長男の哲明(38歳・1980年当時)が、家内の胎内に宿って間もなく、家内は腹膜炎を病んだ。医師は母体を案じて胎児をおろすことを家内にすすめるが、家内はどうしても承知しない。わたくしも家内の両親も医師の忠告にしたがうよう説得したがうけあわない。
 さいわい彼を生むことができたが、わたくしは彼に終身償うことのできない痛みを負っている。…>

 この一文で老師の人となりを知ることができよう。本書で老師は“母の死は、語るに忍びない”との作家吉川英治の文も引用している。私にも思い当たることだけに胸を打つ話である。

 <さいごの息づかいらしいのが窺われたとき、ぼくたち兄妹は、ひとり余さず母の周囲に顔をあつめて、涅槃の母に、からだじゅうの慟哭をしぼった。腸結核は、実に苦しげなものである。
 ぼくは、どうかして母が安らかな永眠につかれるように、という祈りみたいな気持ちから、ついつまらない知恵が働いて
 “お母さん、お母さんは、きっと天国に迎えられますよ。ほら、きれいな花が見えるでしょう。美しい鳥の声がするでしょう”
 そしたら、母は、ぼくをにぶい目でみつめながら
 “よけいなことをおいいでない”と乾いた唇で、かすかに叱った。
 母は、ふとんの下で、妹たちの手を握りしめていたのである。“みんな、仲よくしてね”と、次にいった。それきりだった。
 ぼくは、三十歳で母と別れるまで、母に叱られた覚えは、二度か三度しかない。それなのに、母が、ぼくへいったことばの最後は、叱咤であった。
 -よけいなことを、おいいでない。それから、たった三十秒か四十秒の後に、母は子供らの前から物しずかに去っていった。(「忘れ残りの記」)>

 満百歳の松原老師は、朝5時に起きてまず新聞三紙に目を通し、講話などのスケジュールをこなし、今なお向学心旺盛という。頭が下がる。多分、老師は次の言葉を忠実に実行されているのではあるまいか。

  
 “少ニシテ学ベバ、壮ニシテ為スアリ
 壮ニシテ学ベバ、老イテ衰エズ
 老イテ学ベバ、死シテ朽チズ”  ~佐藤一斎『言志録』
 

長崎市長、テロで倒れる

2007-04-19 10:59:25 | Weblog
 選挙戦の最中の17日午後8時前、伊藤一長長崎市長(61)は選挙運動を終えて事務所に帰り着く所を暴漢に襲われ亡くなった。全く許し難いことだ。1990年1月、本島等前市長が右翼に襲われ重傷を負ったが、長崎にとっては誠に理不尽で言語道断の再発事件である。現在の警察報道によれば、犯行の原因は市に対する「私恨」とされており、本島前市長が「天皇の戦争責任」発言で右翼の襲撃を受けたこととは事情が異なるようだが、果してどうだろうか。

 犯人は道路工事現場における自家用車の破損をめぐって30回も市役所に苦情を言っていたといい、さらには関係する会社の公共工事をめぐって不満を漏らしていたとも報じられている。しかし、それは数年前のことで、今回の事件との結びつきは考えにくいと関係者は言っている。伊藤一長市長は、当初はそれほどでもなかった「被爆者問題」や「核問題」を、近年、秋葉広島市長とともに世界に向けて熱心にアピールし続けていた。一方、安部首相や自民党の中川政調会長らは公然とわが国の「核武装」を唱え、さらにはNHKの「戦争犯罪」報道に圧力を加えるという暴挙を行なっていた。政府・与党責任者のこうした言動が平和を求める勢力を脅かす結果になっていたのは否定できない。これらの動向が今回の事件と全く関係がないかどうか、良識ある国民はあらためて危惧の念を深くしているのではあるまいか。というのも大方の市民は、報道される「私恨」ぐらいでこんな重大な犯行が果して実行されるものだろうかと不審に思っているからだ。捜査当局は一刻も早く真相を究明し、国民に包み隠さず真実を明らかにすべきである。

 今回の犯人はれっきとした暴力団幹部である。当然、警察の責任が問われなければならない。警察は右翼や暴力団には「甘い」との風評をよく耳にするが、私の身近で起こった次の事件をみても、どうもウソとは思えない。

 昨年7月10日、かつて勤務していた造船所の門前で「ビラ配布」をしていた共産党の活動家M君(定年退職したばかり)が逮捕された。造船所構内での死亡事故を告発するビラで、会社が警察に通報したためという。罪状は「公道での無許可のビラ配布は、道路交通法違反」という誠に人を食った話である。パトカーが4台、警官7~8人が出動するという物々しい逮捕劇で、彼は3日間こう留された。私もかつてこの造船所に勤務していて、M君とは党派に関係なく「反執行部」の立場でともに闘った仲間だ。M君から詳しい話を聞いて、世の中いよいよおかしくなったと痛感した。

 確たる法的根拠もなく、何の実害もない民主主義社会では当然の行動を大挙した警察権力で不当にも威圧し、しかも逮捕こう留までしながら、今回長崎で起きた事件の背景と言われる暴力団員の不当な要求、いやがらせに、なぜ市当局ないし警察は事前に適切な対応をしなかったのか。近年、「ビラ配布」逮捕事件があちこちで起きていてM君の事件は珍しいことではなく、警察、とくに公安の動きが戦前に戻りつつあると感じるのは私だけではあるまい。心身ともに衰えていくばかりのわが身を憂いながら、この国の行く末が案じられてならない。


 参考:「きっこのブログ」の“長崎宣言http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2007/04/post_082e.html

“Omoiyari Yosan”てなんだ?

2007-04-18 09:15:31 | Weblog
 米国政府で「Omoiyari Yosan」と呼ばれているのがある。<「思いやり」にあたる英語がないから、というのが日本外務省の公式見解だが、実は「思いやり予算」をそのまま「Sympashy Budget」(同情予算)と訳したら、アメリカ人の逆鱗に触れるから、というのが真相である>という

 「思いやり予算」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%9D%E3%81%84%E3%82%84%E3%82%8A%E4%BA%88%E7%AE%97

 正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定第24条についての新たな特別の措置に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」というそうである。読むだけでくたびれる協定文だが、2006年度の「思いやり予算額」は2326億円、開始当初から2006年まで、日本が負担した駐留経費の総額は、他の基地周辺対策費や基地交付金などを含めて12兆9600億円になるという。さんざん福祉予算は削られ、弱者いじめの政策に泣かされている者にとって、まったく胸糞悪い話である。

 そのうえあろうことか、基地縮小を口実に米軍の一部グァム移転に3兆円も差し出すというのだから、「善良な国民」にとっては踏んだり蹴ったりである。わが国の防衛費を2006年度で見ると5兆8千億円で世界1位の米国についで第2位の軍事費と言われている。

 参照:「2006年度「防衛」予算を批判する」http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Japanmilitarism/jbudget2006.htm

 戦後、「平和憲法」が制定されたなかでわが国は再軍備を強行したが、政府は再軍備で保有する戦力を「自衛のための最小限度」にとどめると弁明してきたが、「最小限度」の範囲はきわめて恣意的なものに過ぎなかった。こんにち世界有数の軍事力を保有するに至り、「庁」から「省」へと昇格した実態を見れば明らかであろう。

 参照:「日本の軍事」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B

 なぜこれほどまでに防衛費が膨らんできたのか。それは道路や橋や港湾、それにハコモノ公共施設などと同様「公共事業」の一つである「防衛産業」がきわめて「おいしい」仕事で、これに群がる企業の強力な後押しがあり、これと結託した政治屋どもが、かつてはソ連を仮想敵国にし、ソ連崩壊後は中国を、いまは新たに照準を「北朝鮮」に絞って実体のない「危機」を煽り、アメリカの露骨な干渉のもとに軍事力増強を図ってきたというのが常識だろう。こうした経緯は広瀬隆著『アメリカの巨大軍事産業』(集英社新書)が詳細に教えてくれる。
 
 海上自衛隊の最新鋭艦にイージス艦がある。1隻の価格がおよそ1400億円で現在5隻保有し、あと1隻建造が予定されている。

 参照:「イージス艦」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%B9%E8%89%A6

 いかに優れた性能の武装艦であるか、さらに世界各国の軍事費を比較した一覧表をリンクしておく。

 参照・「世界の軍事力の比較」http://asahisakura.hp.infoseek.co.jp/sekainogungiryoku.htm

 果てしなく膨張し続ける軍事費にストップをかけない限り、社会的弱者のセイフティーネットを構築することは不可能であろう。

 

“スポーツ”考

2007-04-16 11:28:39 | Weblog
 まず最近の不思議な現象に、NHKの「大リーグ」情報量の多さがある。テレビはNHKのニュースと囲碁番組ぐらいしか見ないから詳しくはわからないが、スポーツニュースはいつも大リーグ中心で、新聞の放送番組欄を見るとNHK 衛星第1ではほとんど毎日大リーグの試合を放送している。NHKは何でこれほど大リーグに力を入れるのだろうか。不思議でならない。これに如何ほどの費用を費やしているのか知らないが、スポーツの健全振興のためにカネの使い道はいくらでもありそうなものである。

 私がスポーツに目覚めたのは、敗戦翌年、小学校6年生の時、ソフトボール県大会で準優勝して以来のことである。田舎の小学校が県庁所在地の有名小学校と優勝を争い惜しくも敗れたことは今も語り草になっているが、ボール、バットをはじめグローブもほとんど手作りで、運動靴も靴底がはがれそうになったのを紐でくくって履いていた。田舎から地区代表として汽車で1時間余のS市の旅館に逗留したが、各自米持参だったのを憶えている。アフリカや中南米の子どもたちがハダシでサッカーボール(らしいもの)を蹴って遊んでいるテレビ映像が写ると、なんだか自分の子ども時代を彷彿させられる。

 高校ではサッカー部に入ったが、部員が少なく1年からレギュラーとして試合に出された。専門の指導者もいなかったし、県でサッカー部があるのは5校しかなく、そのころサッカーはまだマイナーなスポーツだった。男臭い部室はまるで靴屋のようで、スパイクの底についている擦り切れたり、剥がれたりしたポイントの修理が欠かせない仕事なのだ。砂地のグランドでスライディングをするのだから太ももの外側はいつも摺り剥けて血が滲み出ている。地元密着のJリーグが盛んになり、すばらしい芝の球場で熱戦を繰り広げているのを見ると隔世の観がある。

 造船所に就職してサッカー部を創設し、養成工生徒の入部も呼びかけ対外試合ができるようになると、入港した英国、豪州軍艦などの乗組員と親善試合に呼ばれたが、猛牛と格闘するようで話にならなかった。いずれにしても、スポーツは体育としてのみならず精神衛生上の優れものと言えるだろう。

 石原慎太郎がオリンピック招致を吹聴しているが、都民は何でこんな男を支持するのかこれまた不思議でならない。「地球の破滅」さえ囁かれているこんにち、莫大な費用と環境破壊、それに国威発揚のナショナリズムを発散する「祭典」が有意義だとはとても思えないからだ。ハダシの子どもたちにサッカーボールをプレゼントした方がずっとましだ。

 もう一つ不思議なのは、プロスポーツ選手の桁外れの契約金である。カネまみれの国アメリカ発の悪習なのかも知れないが、これが健全なスポーツと言えるだろうか。おそらくこの影響だろう、ちょっと才能のあるスポーツ選手の親は、まるでわが子を「金のなる木」のように育てているのがいる。親というより、これに目をつけた「業界」の連中が早い段階で「ツバ」をつけているのだろう。

 陸上競技で走り幅跳びや走り高跳びなどの選手が観衆席に拍手を求める姿をテレビが写しているが、これまた不思議な光景である。わざわざ雑音を耳にせずとも静かに精神を集中させて競技に臨んだがよさそうなものなのになんでだろう。これは競技の「ショー化」と関係があるのかも知れない。女子マラソンで水着ショーと見紛う衣装で走る選手がいるし、また、新庄選手のような派手な野球選手の例もある。ママさんバレーでもユニフォームはファッション性たっぷりで見栄えがいい。

 私の時代のスポーツは影も形もなくなった。完備された競技場で派手な演技を繰り広げる選手たちを見ながら、私は昔が懐かしい。スポーツにみずみずしい処女性があった。そんな時代を過ごせたことに感謝したい。

 

“中国戦犯”~赤の洗脳はあったのか

2007-04-13 21:19:12 | Weblog
 <1945年8月16日、内務人民委員べりヤは、極東ソヴィエト軍総司令官ワシレフスキー元帥にあててモスクワからつぎのような暗号電報を送った。
 「日本・満州軍の軍事俘虜をソ連邦領土内に運ぶことはしない。軍事俘虜収容所は、可能な限り、日本軍の武装解除の場所に組織されなければならない…」  (斎藤六郎『シベリアの挽歌』巻末資料による)
 この暗号電報の背景には、ポツダム宣言第九項ー日本国軍隊は完全に武装を解除させられたのち、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会をあたえられるーにたいする配慮があったのであろうか。しかし、その一週間後の1945年8月23日、ソ連国家防衛委員会議長ヨシフ・スターリンは、モスクワのクレムリンから内務人民委員べりヤ、および極東戦線の司令官たちにあてて、ベリヤの電報をくつがえす「国家防衛委員会の決定」を送った。
 この一週間に、クレムリンの内部でどのようなことがあったのか私は知らないが、関東軍将兵63万余のシベリアでの強制労働と6万2068名の死を運命づけたのは、ポツダム宣言第九項を乱暴にも踏みにじったこのスターリン命令だった>(高杉一郎著『征きて還りし兵の記憶』/岩波現代文庫・参照)

 丸四年の強制労働から解放されて帰国した高杉一郎氏は、同時期に帰還した者たちの中には「代々木へ、代々木へ!」とうたいながら還った「赤旗組」も多かったといい、自分も兄から疑いの目でみられたと述べている。その一方でしたたかな「日の丸組」がいて、両者の対立は国会にまで持ち込まれている。この騒ぎは占領軍対日理事会シーボルト議長のつぎの声明に発展した。
 「ソ連当局が日本人捕虜に共産主義イデオロギーを強制しようとしたことは疑 う余地がないほど、われわれは多くの証拠をもっている。…」

 詳しくは同書に譲るが、一つだけ付け加えておきたいのは、ある地区の収容所でソ連政治部将校の通訳をしていた菅季治(かんすえはる)の自殺についてである。菅は収容所内で通訳した言葉尻を捉えられて国会の証人喚問を受け、なんらやましいことのないまま政治的に抹殺されたと言えなくもない。作家の宮本百合子は「不幸な菅氏はその良心と正義感と勇気にかかわらず、単純明白なリアリティの上にしっかりと立つたたかいの技術を知らなかった」と言ったというが、菅は自らの遺書で「わたしはただ悪や虚偽とたたかいえない自分の弱さに絶望して死ぬのである」と書いている。しかもその中には「(わたしと同じように日本に帰って新しい心構えで自分の生活を営もうとしているソ同盟帰りのひとびとにたいして世間一般が偏見なく接してくれるように望む。)」と痛いほどの気配りを遺していた。当時、東京教育大学哲学科に復学していた菅の無念の死は1950年4月6日、ソ連から帰還して半年経っていなかった。

 さて、ソ連に連行さていた中国関係の捕虜1009名は、中華人民共和国が成立した翌年の1950年7月、中国に移管、撫順戦犯管理所に969名、太原戦犯管理所に140名が収容された。私は撫順戦犯管理所を二回訪れている。ここに収容され、のち解放帰国して「中国帰還者連絡会(中帰連)」を組織した人たちの訪中に随行したのである。戦犯管理所は当時のまま「戦争記念館」として残されているが、この訪問は歴史を学ぶ上で貴重な体験だった。「中帰連」は会員の高齢化で組織人員が激減したためいまは「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」として活動を続けている。

 (参照・http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/syougen/nhk_special.htm 

 私の手元に『撫順戦犯管理所~千人の日本人に何が起きたか』(中国帰還者連絡会編)というわら半紙に印刷した分厚い冊子がある。ソ連から中国へ移管された経緯から始まり、およそ6年(一部重犯者を除く)に及ぶ管理所での出来事が、12名分の投稿文を含め微細にわたって記載されている。目を引くのは、次の文章である。
 <『恨みに報いるに徳を以てなす』で敗戦直後の日本人を感激させた蒋介石でさえ、日本戦犯149名を死刑にし、83名を無期刑にした。>が、新中国では死刑または無期は一名もなく、有期刑を受けた45名以外はすべて無罪として釈放されたというのである。「中帰連」の人々を“アカ”呼ばわりし、彼らの活動をまるで中国の手先と捉えて批判した者たちはこうした事実を無視している。

 18年の禁固刑を受けた元陸軍中将藤田茂は、刑期限前釈放となり1958年に帰国したが、1960年には「中帰連」初代会長に選出され、1980年4月11日満90歳で永眠するまで「頑固一徹な軍国主義者から戦争反対日中友好の勇気ある実践者」を貫きとうしたと記されている。その藤田茂の演説草稿『中国人民の寛大政策について』が本書に収録され、1.戦犯管理所の生活 2.戦争の原因 3.私達に対する取り扱い 4.軍事裁判 5.中国の寛大な政策 6.中国人民の心情 として語られている。おそらく藤田茂の話に誇張やなんらかの意図はなかったと読める。

 中国からの帰還者たちも、ソ連から帰還した多くの者たち同様、「洗脳された人々」として迎えられた。戦犯管理所における生活でいわゆる「赤い教育」が全くなかったとは言い切れない。しかし、第59師団長として山東省済南に進入、第43軍の秀嶺第1号作戦に参加した元陸軍中将藤田茂をはじめ戦争犯罪人として糾弾された人々が、過去を真摯に反省し、世界の平和について語り、戦争に反対し、かつて侵略した中国との友好を促進する運動に邁進したことをみれば、かりに「洗脳」があったとしても誰が責められようか。今日の政治情勢をみながら改めて考えさせられることである。