耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

シベリア俘虜記『極光のかげに』の著者“高杉一郎”氏逝く

2008-01-20 12:00:08 | Weblog
 去る1月9日、作家で翻訳家の“高杉一郎”(本名・小川五郎)氏が亡くなった。99歳だった。このブログを始めて間もなく、『本当に情けない』(2006年12月19日)と題して取り上げているが、苛酷な収容所生活を強いたスターリン体制下のソ連の実像を描いたシベリア抑留記『極光のかげに』(1950年12月15日初版)は芥川賞候補にもあがりベストセラーになった。

 『本当に情けない』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20061219

 記事では、その『極光のかげに』が日本共産党から激しく批判されたと書いたが、具体的な部分についてはふれていない。歴史を学ぶことは肝心だと思うので、高杉一郎氏が明かした証言を書き留めておきたいと思う。

 
 高杉一郎氏は、シベリアから帰還して家族が待つ郷里の静岡に移り住んだ。『極光のかげに』は雑誌『人間』に連載されていたが、『人間』の木村編集長は戦前勤めていた『改造』社時代の同僚で、高杉一家の窮乏を察して一刻も早く印税をと考え、連載未完のまま単行本として出版されたものという。(のちに、この木村はベストセラーの印税を一銭も支払わず姿を消す)

 <その初版本が確実に贈呈先に届いたろうと思われるころを見はからって、12月20日(注:1950年)だったろうか、私は恩師や親しくしていた旧知にシベリアから帰還した挨拶をするために上京した。>(『征きて還りし兵の記憶』/岩波現代文庫:以下<>は同書より引用)

 まず当時、東京教育大学文学部長をしていた英文学者の恩師福原麟太郎を訪ね、その足で本郷駒込の中条(宮本百合子)邸へ向かう。宮本百合子とは戦前からの付き合いで、1944年、高杉氏が「出征」する時は東京駅まで見送りに駆けつけ、また長女の名付け親になってくれたほどの家族ぐるみの親しい間柄だった。東京駅で別れて6年半ぶりに訪ねた中条邸。宮本百合子は、飛び出すようにして玄関に出てきた。

 <私の顔を見るなり、「額にあった神経質な線がなくなって、健康な顔になったわ」と言った。
 「いや、栄養失調でむくんでいるだけですよ」
 これが、戦争から生き残った私たちのとりかわした最初の会話だった。>

 宮本百合子は、「すえ子さんに仕事を手伝ってもらっている」と告げる。すえ子(注:大森寿恵子)とは高杉一郎夫人の妹のことである。難民となって母や兄嫁とその子たちを引きつれ旧満州から引き揚げて来た妹の働き口を、高杉夫人が宮本百合子に依頼したところ、彼女の秘書として働くことになったのだ。もちろん、高杉氏はまだ帰還していない時期の話である。

 ひとしきり昔の話をし終えると、宮本百合子は『極光のかげに』をとりだしてきて、ところどころ傍線を引いている個所についてつぎつぎに質問する。彼女は、昭和初期の世界恐慌の最中、ロシアの三年間を見てきていた。第一次五ヵ年計画に取り組み意気さかんな社会主義国家を目にした彼女だから、シベリア抑留を通じてスターリン体制を批判した高杉氏は、彼女から手厳しい批判があるかもしれないと思いながらもありのままを語った。

 <彼女が最後に口にしたことばは「やっぱり、こういうことがあるのねぇ」というつぶやきだけだった。>

 宮本百合子のこの「つぶやき」がどうして発声されたか、高杉氏は彼女の死後ずっとあとになって、この会話の前年の彼女の日記に発見する。その部分はここでは省略して、現代史でもきわめて注目すべき高杉一郎氏の証言に耳を傾けてみよう。この証言は、1990年の『スターリン体験』で一度出ているが、その際は「あるコミュニスト」と書かれていて実名は出てこない。ここにははっきり実名が記されている。

 <宮本百合子が私のシベリアの話を聞きおわったころ、彼女の部屋の壁の向う側が階段になっているらしく、階段を降りてくる足音が聞こえた。その足音が廊下へ降りて、私たちの話し合っている部屋のまえまで来たと思うと、引き戸がいきおいよく開けられた。坐ったままの位置で、私はうしろをふり向いた。戸口いっぱいに立っていたのは、宮本顕治だろうと思われた。雑誌『改造』の懸賞論文で一等に当選した「敗北の文学」の筆者として私が知っている、そして宮本百合子が暗い独房に閉じこめられている夫の目にあかるく映るようにと、若い頃のはなやかな色彩のきものを着て巣鴨拘置所へ面会にいったとはなしていた、そのひとだろうと思った。
 
 宮本百合子が、坐ったままの場所から私を紹介した。雑誌『文藝』の編集者だった、そしてこのあいだ贈られてきた『極光のかげに』の著者としての私を。
 すると、その戸口に立ったままのひとは、いきなり「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」と言い、間をおいて「こんどだけは見のがしてやるが」とつけ加えた。私は唖然とした。返すことばを知らなかった。
 
 やがて彼は戸を閉めると、立ち去ってゆき、壁の向うの階段を上がってゆく足音が聞こえた。私は宮本百合子の方へ向きなおったが、あのせりふを聞いたときの彼女の表情はもうたしかめることができなかった。真顔にかえっていた彼女が言った。
 「わたしはあなたが島木健作のような動きかたをするひとだとはけっして思わないけど、文壇というところには他人の脚をはらってやろうと身がまえている人間がたくさんいるから、これから書くものには細心の注意をなさい」
 私は、なぜとつぜん島木健作の名まえが出てきたのかわからなかったが、彼女のことばと表情のなかにむかしのままの誠実な友情をたしかめたので、「ありがとう」と言って起ち上り、別れを告げた。>

 1950年を年表でみると、以下のような出来事があった。

・1.6 コミンフォルム、日本共産党指導者野坂参三の平和革命論を批判。以後内部対立激化。
・2.9 マッカーシー旋風はじまる。
・6.25 朝鮮戦争始まる。
・7.11 日本労働組合総評議会(総評)結成。
・8.10 警察予備隊令公布。
 (『年表 昭和史』/岩波ブックレット)

 コミンフォルムによる日本共産党への批判に対する態度をめぐっては、党は「所感派」(徳田球一・志田重男ら多数派)と「国際派」(宮本顕治・志賀義雄ら反主流派)に分裂、宮本は国際派のリーダー的存在となる。絶対多数派の「所感派」が打ち出した武装闘争方針が国民の支持を失い国会から共産党議席がなくなるのはこのときである。

 世界の社会主義勢力のリーダーであったソ連共産党、しかもそのカリスマ的存在のスターリンが批判されているのを知って、「国際派」の宮本顕治が顔色あらわに言い放ったことばは、現代史のひとコマを鮮やかに映し出している。高杉一郎氏の証言はなお続く。

 <年が明けて1951年1月21日、宮本百合子が急死した(注:51歳)。その報道が、はじめ私には信じられなかった。わずか一ヵ月まえ、何時間も向いあって話しあってきたばかりではないか。しかし、それがまちがいのない事実だということがたしかめられると、私は二人と得がたい誠実な友人を失った深い悲しみのなかに落ちこんでいった。>

 高杉一郎氏が宮本百合子と再会したあの日、宮本顕治はすでに、高杉一郎氏の義妹で宮本百合子の秘書である大森寿恵子と「できていた」のだ。百合子が死んだときも顕治は不在で、葬儀の準備などは友人によって行われたらしい。宮本百合子が死んで5年後、高杉一郎氏は義妹大森寿恵子からの手紙を受け取る。

 <「百合子さんが亡くなってから五年が経過したので、宮本顕治さんと結婚することにしました。上京して、その式に立ち会ってください。顕治さんの友だちへの披露は、それがすんだあと、日をえらんで自宅でやることにしますが、そのときは五郎さん(注:高杉一郎の本名)も出てください」>

 高杉一郎氏はこの披露宴に出席したことにもふれているが、ここではブログ『リベラル21』1月13日の記事「現代史の証人・高杉一郎さん逝く」(元朝日新聞記者・岩垂弘筆)を見てもらったがいいだろう。3年前の2005年3月と翌年5月、渋谷神宮前の高級マンションにある高杉一郎氏宅を訪問した時のことだ。
 「高杉さんも披露宴に招かれた。“その席で、二人の結婚を祝う歌をドイツ語で歌ったんだよ。こんなふうにね”。そう言って笑った高杉さんは、私たちを前に、その時のドイツ語の歌をひとしきり口ずさんだ。」

 「リベラル21」:http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-220.html

 披露宴で自ら立ち働く義妹をみかねて、宮本顕治のすぐ横に「あんたはここに坐っていなさい」といって座らせると、「結婚記念の歌をうたいます。男が新妻に終生の愛を誓う歌です」といって高杉氏はうたうのだ。

 <Darum du mein Liebes Kind,
Lass uns heren kussen,
Bis die Locken silber sind,
Und wir scheiden mussen.

 うたい終った私が席に坐ると、左隣りの中野重治が言った。
 「おい、日本語で説明しろよ」
 私は答えた。
 「あんたは独文出身じゃないか」>


 高杉一郎氏はまれにみる「誠実」なひとだった。ご冥福を心から祈る。


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