耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

<易>の世界

2007-01-30 14:55:15 | Weblog
 最初にことわっておきたいが、私は<易>学の専門家ではない。いわば趣味の範囲で<伝統医療>について渉猟するうちに、<易>の知識がなければ先に進めないことを知らされ、いくつかの専門書に接したまでのことである。

 まず、『易のニューサイエンス』(蔡恒息<ツァイ ホンシー>著/東方書店刊)の「序言」冒頭をみてみよう。

 <『易』は、成立してから現在に至るまでに三千年を経ており、中国最古の書である。それは、中国古代の儒家の経典である六経〔易・書・詩・礼・楽・春秋〕の筆頭に置かれる。
 『史記』「太史公自序」に、次のように述べられている。
 「『易』は天地・陰陽・四時・五行を著(あらわ)す。故に変に長ず。『礼』は人倫を経紀す。故に行に長ず。『書』は先王の事を記す。故に政に長ず。『詩』は山川・渓谷・禽獣・草木・牝牡・雌雄を記す。故に風に長ず。『楽』は立つ所以を楽しむ。故に和に長ず。『春秋』は是非を弁ず。故に人を治むるに長ず」。
 この言によれば、『易』が中国の学術思想の根本であることが窺える。道家、儒家、仏家は、いずれも『易』の理論を集成し、宇宙自然の創生を探究する学問をなした。>

 『易』の小序としてこの解説はほぼ妥当なものに思える。だが、分子遺伝学を専門とする著者の以下の記述は読者を驚かさずにはおかないだろう。

 <現代の易学は、コンピュータのコード化に端を発する。二十世紀の四大発見は、(一)相対性理論、(二)素粒子、(三)コンピュータ、(四)遺伝暗号である。…アインシュタインは、かつて自己の学説に冠する名称として、さまざまな語を試み、苦心の挙句に、「Relativity〔相対性〕」という単語を選び出した。中国の『易』には、その「相対性理論」の基本的な意味がもともと存在している。…>

 著者は、これらニューサイエンスと『易』の関連を詳細に述べているが、私が理解できたのはわずかに、遺伝子DNAの暗号表と『易』の六十四卦図の不思議な一致についてである。実は両者の相似はすでに『易経の謎』(今泉久雄著/光文社刊)で世に知られ、話題になっていたからだ。(サイエンスに造詣の深い方はどうぞご一見を)

 一般に『易』は<占い>だと信じられている。それは間違いではない。『易』は、「発生当初は神意を聴くための原始的呪術であった」(『易経』/「中国の思想」第七巻=徳間書店)。それが次第に体裁を整え、戦国時代末期から漢初にかけて<十翼>(「周易」を翼〔たす〕ける十篇の書=孔子の作ともいう)が編まれ、『易』の<弁証法的宇宙認識>が確立する。時代とともに『易』は支配者の手を離れて大衆化し、古今を通じ人びとの生活に馴染みの深いもの、というより半ば必須のものになったのである。

 『易』は<変化>の書とも言われる。それはまた<宇宙循環>の法理を示す。以下の言辞からこれをみてみよう。

・盈(み)つるは欠くる兆し(〔乾〕卦)
・積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃(よおう)あり(〔坤〕文言伝)
・実るほど頭をたるる稲穂かな(〔謙〕卦)
・一陽来復(〔復〕卦)
・艱難汝を玉にす(〔明夷〕卦)
・損して得とれ(〔損〕卦)
・臥薪嘗胆(〔困〕卦)
・至誠天に通ず(〔中ふ〕卦)
・一陰一陽これを道と謂う(〔繋辞上伝〕)
・対立なければ運動なし(同上)
・尺わく(尺取虫)の屈するは、もって信(の)びんことを求むるなり(〔繋辞下伝〕)
・吉人の辞は寡(すくな)く、躁人の辞は多し(同上)
(中国の思想第七巻『易経』より)

 私は毎年、立春を前に<来る年>をひそかに占うことにしている。言うまでもなく<筮占>(ぜいせん=筮竹による占い)である。高田淳氏の「本来、聖人の憂患から生じたものが易であり、また自分の中に大疑を発し、いかになすべきかという決疑、すなわち疑いを決断するのが易なのである。しかも、利不利や吉凶をではなく、自分の道が貫けるかどうかという君子の得失に関わるものとして、易はある」(『易のはなし』/岩波新書)との言を由として、行じている。この一年を回顧する意味でここに昨年の筮占を略記しておく。

 <本卦>  〔節〕(水沢節) 「誘惑をしりぞけよ」
 大象=沼沢が水をたたえている。これが「節」の卦象である。君子はこの卦象を見て、生活の規律を定め、徳行の基準を討議する。
 <之卦>  〔坤〕(坤為地) 「母なる大地」
 大象=大地の働き、これが坤である。君子はこの卦象を見て、徳を厚くして、万民を包容していく。

 結びに、〔繋辞下伝〕の言葉。

<易の興るや、それ殷の末世、周の盛徳に当るか。文王とちゅう(糸篇に寸)との事に当るか。この故にその辞危うし。危む者は平かならしめ、易(あなど)る者は傾かしむ。その道甚だ大なり。百物廃せず、懼れてもって終始すれば、その要は咎なし。これをこれ易の道と謂うなり>

 

 

法然上人を偲ぶ(再)

2007-01-27 20:15:53 | Weblog
 法然上人を語るとき欠かせないのが<女人往生>である。

 昔から、女性には内に<五障>があり、外に<三従>のある身だといい、仏になることもできなければ、極楽浄土に生まれることもできない、と説かれていた。<五障>とは古代インドの輪廻思想で、梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏身になることを妨げる五つの障害のこと。<三従>とは、幼い時には父や兄に、嫁しては夫に、老いては子に従わなければならないことをいう。過去の諸仏典はすべて女人往生をまともに取り上げず、女性の死後は冥府(死後の世界)を彷徨って定着できる場所がないとされていたのである。

 女人の救いをはばんでいるのは浄土ばかりではない。今世でも霊山・霊地、例えば高野山や比叡山などは女人の登山を嫌い、東大寺の大仏も遥か彼方からしか拝めず、扉のうちに入ってお詣りできなかった。

 女人に救いの道を開いたのが浄土教であった。浄土教の根本経典とされる「無量寿経」は、阿弥陀仏がいまだ修業中で法蔵比丘(ほうぞうびく)と呼ばれていた頃、四十八の誓願をたてられた。その第三十五願は<女人往生>が主題である。

「たとい我れ仏を得たらんに、その女人にあって我が名字を聞き、歓喜信楽(かんぎしんぎょう)して菩提心を発(おこ)し、女身を厭い、寿(命)終の後未だ女像たらば正覚(しょうがく)を取らじ」(「私も浄土に往生したいと願い、仏道に励む心を起こす女性がいたならば、身を男性に変えて往生させてあげる。万一、身を変えられず女性のままだったら、自分は仏にはならない」という願。)

 これを「女人成仏の願」もしくは「変成男子(へんじょうなんし)の願」とも言うが、法然上人はこの第三十五願について、きっぱりと「疑いあり」と自著『無量寿経釈』で言い切っているという(寺内大吉著/『法然讃歌』参照)。法然上人を浄土教に導いたのは中国僧・善導和尚だが、その善導さえ「変成男子の願」の域を脱せなかったのに、法然上人は「女性は女性のままの姿で浄土に往生できる」と説いたのである(大橋俊雄/『法然入門』参照)。

 上人が流罪にあって讃岐にくだる途上、室津の浜で船に乗る遊女から声を掛けられた話は有名である。

「上人の御船のよしうけたまはりて推参し侍るなり。世をわたる道まちまちなり。いかなるつみありてか、かかる身となり侍らむ。この罪業おもき身、いかにしてかのちの世たすかり候べき」(四十八巻伝)

 これに答えて上人は言った。
「もしかからずして、世を渡り給いぬべきはかりごとあらば、速かにその業(わざ)を捨て給うべし。もし余(他)のはかりごともなく、また身命を顧みざるほどの道心いまだ起り給わずば、只そのままにして、専ら念仏すべし。弥陀如来は、さようなる罪人の為にこそ、弘誓(ぐぜい)をもたて給える事にて侍れ」(四十八巻伝)。

 上人は、<性>に悩む親鸞に「妻帯して念仏が唱えられなければ妻帯するな。妻帯しないと念仏ができなければ妻帯すればよい」と言ったというが、いたるところで「捉われない、ありのままで念仏せよ」と説いている。

 ここでふれておきたいことは、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という『悪人正機説』である。長い間、これが親鸞の言葉として教科書にも紹介されてきたが、実は、これが親鸞の師法然上人の説であることが分かった。詳しくは梶村昇著『法然の言葉だった「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」』、その他近年の『法然』書に譲るが、この事実を踏まえて『歎異抄』を読み返してみると、親鸞を通して新たな法然像が浮かび上がる。

 法然上人ほど伝記や消息(書簡)、問答類が多い宗教者も珍しいと言われている。また、『平家物語』『吾妻鏡』『保元物語』『徒然草』など著名な文献だけでなく、私家本の類にも多数の記述が残されている。さらに、京の都を訪ねれば、いたるところに上人の遺跡がある。なかでも、大原三千院の側にある<勝林院>で第61世天台座主顕真が主催し、法然が被請者となって開かれたた浄土宗義についての討論≪大原談義≫は圧巻だったようである。『四十八巻伝』は伝える。

「勝林院の丈六堂に会合す。上人の方には、重源以下の弟子どもそのかず集まれり。法師(顕真)の方には、門徒以下の碩学、ならびに大原の聖たち、坐しつらなれり。山門の衆徒をはじめ、見聞の人多かりけり。論断往復すること一日一夜なり」。

 数年前、勝林院を尋ねたが、この熱気がいまに蘇るようであった。

 

法然上人を偲ぶ

2007-01-24 19:29:27 | Weblog
 明日は、法然上人入寂から795年になる。
 
 私の生家は、浄土真宗の門徒であった。幼い頃から門徒の一員として育ったわけだ。母に連れられ、たびたび近くの寺でお説教を聞いた記憶がある。親鸞上人の『教行信証』や『歎異抄』を手にしたのは、二十歳代半ばで、バイクに同乗していた友人を自損事故で亡くしたことがきっかけだった。いわば《生死(しょうじ)》を深く認識する契機になったのだが、当時、《悪人正機》の教えの他は大して深読みできたとも思えない。

 十数年前、僧籍取得を目的に某仏教学院の通信教育を受講し始め、親鸞に関する著書を<濫読>した。私の親鸞像を決定付けた二人の人がいる。一人は河田光夫(1938~93)、もう一人は坂爪逸子(1942~)である。

 前者には親鸞研究書ともいえる『河田光夫著作集』全三巻、『親鸞からの手紙を読み解く』などがあり、後者には『遊びの境界~法然と親鸞』『転形期・法然と頼朝』『存覚』がある。

 河田光夫は、大阪の日雇い労働者の町に近い「大阪府立今宮工業高校定時制」に終生勤務し、かたわら「親鸞の手紙を読み解く」研究に没頭、とくに「親鸞と被差別民衆」は教義学面だけでなく門徒大衆にも大きな影響を与えた。廣瀬あきら(木の上に日・元大谷大学学長)は河田の研究に接し、「三十四年に及ぶ親鸞に関する自らの学びを問い糾さざるを得なくなった」と言い、死後刊行となった全集の刊行委員を務めた。

 河田は、定時制高校での解放教育の実践を通して、被差別・被抑圧者との交流があり、親鸞文献とこの交流から親鸞像を確立したと言われているが、仏教学院が講じる親鸞とのあまりの違いに私は、正直言って戸惑った。

 その時期に坂爪逸子著『存覚』に出会った。坂爪は岐阜薬科大を出た後、独学で浄土教を学んだ主婦である。のちに仏教大学大学院で学ぶことになったらしいが、独自の視点で浄土教学に迫っている。

 親鸞の意に反し本願寺を創設したのは親鸞三世を自称する<覚如>だが、その嫡子が<存覚>である。<存覚>は父覚如によって生涯に三度、不当な義絶にあっている。その主たる理由は、<存覚>が「親鸞の念仏を否定して法然の念仏に先祖返りしていたから」(同書)だという。「浄土真宗は浄土宗である。念仏は法然を指南とすべきである」というのが<存覚>であった。『大谷本願寺通記』は<存覚>を「学徳兼高・弁才無碍…その遜譲の跡…徳のいたりなり」と褒め称え、本願寺八世蓮如も「存覚上人は、その本地を尋ねれば釈尊の化身と号し、親鸞上人の再誕である」と称讃しているという。

 生家が浄土真宗の門徒であることから、何の疑いもなくその宗派を学んでいた私は、目からウロコが落ちるように退学、法然上人の門を尋ねることにした。大病のため学への道は拓けなかったものの、いまは、<存覚>が「指南とすべし」と語った法然上人の教えに深くうなづくばかりである。

 明日は法然上人の795回忌。数年前、上人開山の京都の今戒光明寺を尋ね<山越え阿弥陀>に手を合わせ≪一枚起請文≫を読誦したことを思い出す。その一節を記して上人を偲ぼう。

 ≪…念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じゅうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし≫

 

 

“身体”は小さな宇宙

2007-01-22 18:05:07 | Weblog
 伝統医療(わが国では通常、漢方もしくは東洋医学という)は、しばしば迷信として片付けられる。近代医学(西洋医学)には科学的に実証できないものは採用しない原則があって、事実として治療効果が認められるにもかかわらず、鍼灸などの伝統医療は科学的証明に欠けると見做され採用されないのである。

 こうした西洋医学一辺倒の考えに挑戦した人がいる。間中喜雄博士(1911~89)である。人物紹介に「1935年、京都大学医学部卒後、小田原市で開業。1940年代から漢方と鍼灸の研究を志し、東洋医学の普及、発展に貢献した。東洋鍼灸専門学校校長、北里研究所客員部長、鍼灸トポロジー学会会長などを歴任」とある。この間中先生と教え子の板谷和子氏の共著『体の中の原始信号~中国医学とX-信号系』(地湧社)は、その足跡の記録である。

 同書は「自然界の中の信号」の見出しで次のように書いている。

<ブドウ酒の鑑定家は一口酒を含むと、どこの何年産の銘柄であると直ちに弁別する域に達することが可能である。ブドウ酒には八百種以上の成分があり、その成分が産地、生産時の天候、保存年月、保存方法等による変化で微妙に異なってくる。化学分析でこれを正確に解析しうる日も来るかもしれないが、現在では困難である。
 …こういう原始的な感覚が弁別している「物質の量」を考えてみると、非常に微量である。…その量はおそらく10のマイナス24乗以下、すなわち分子の域より少ない量ではあるまいか。
 …生物界に飛び交い、その生態を支配している信号系(情報系)はこの程度のレベルで作動していると考えてよい、いろいろの事実がある。>

 事実のいくつかを挙げると以下のものがある。
◇皮膚は色を弁別する
◇皮膚が言葉を聞く
◇発作が起こりやすい時間
◇「陰陽五行」と体の反応
◇「易経」とDNA暗号の不思議な一致

 興味のある人はご一読をお薦めしたい。

 間中先生は中国の著名な気功家・焦国瑞師との対談で、ヨーロッパの中国研究者の多くが、中国には錬金術や易学などの科学らしいものは存在したけれども、ヨーロッパ的意味での科学はなかったと主張するのに反論して次のように語っている。

<ヨーロッパの人が言うところの、そのような「にせ科学」が横行していたにもかかわらず、中世までに中国で大変立派な技術が生まれていたことは事実です。中世までに中国からヨーロッパに伝わったとされる技術は印刷術、火薬、羅針盤に代表されるように20あったそうです。ところが、逆にヨーロッパから中国に伝わったとされるものは、たった二つしかありませんでした。
 …技術というのは、剣術にしても武術にしてもそうですが、これを文字で正確に表現することは不可能です。ですから、文字だけを見ると、それは一種の暗号文です。…そこで、私たちは古代の文化を伝承するために、古代の暗号をわれわれの手でもう一度解読しなければなりません。>(『気功学の未来へ』=創元社)

 この解読作業の成果が『体の中の原始信号』という訳だ。これを読めば、自分の体が「小宇宙」であることがよく理解できる。そして、<古い医術>にますます魅せられるのである。


怖い人…

2007-01-18 20:37:56 | Weblog
その名は「奥谷禮子」。その言行録の一部から。

 「奥谷禮子」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E8%B0%B7%E7%A6%AE%E5%AD%90

“格差論は甘えです”
“過労死は自己管理の問題、他人の責任にするのは問題”
“労働組合が労働者を甘やかしている”
“労働基準監督署も不要です”
“祝日もいっさいなくすべきです”

フリー百科事典『ウィキペディア』でみると、人材派遣会社ザ・アール社長が本職で日本郵政株式会社社外取締役をはじめ多数の会社役員といくつもの政府審議会委員の肩書きがある。わが国の政治・経済界では影響力のある人と見てよかろう。

時代は違うが、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した半世紀前、私は「日雇工」で造船所に就職した。二ヵ月後、雇用契約三ヶ月更新の「臨時工」となり、四年半後やっと「本工」(正社員をこう呼んだ)に<登傭>された。もちろん、全国でも数少ない≪臨時工労働組合≫をつくって「臨時工撤廃」を訴え、組合結成から四年目に「臨時工制度」は廃止され「試用工制度」に移行、試用期間一年にして全員が本採用となることになった。

現在の「派遣労働者」は、実体は「臨時工」より<身分>的に不安定のように見える。それは、いわゆる「搾取」が直接か間接かの違いから生じるのだろう。つまり、派遣会社は「間接ピンハネ」企業だから、本質的に労働者を「屁」とも思っていないのだ。また、「屁」とも思わない経営者の存在を許している労働者・労働組合も情けない。

私はかつて、「労働とは何か」を問い続けた。<労働の解放>(もしくは<労働からの解放>)は、労働者の基本テーマであり続けた。近年、法政大学大原社会問題研究所などが≪非人間的労働からの脱却≫をテーマに労働問題と真摯に取り組んできたこともその流れに沿うものだろう。

奥谷禮子は村上ファンドの株を所有していたが、村上逮捕の直前に手放したという。この一事でたいてい<人格>は知れる。しかし、こういう人物が「教育」とか「労働」とか「行政」とかに深くかかわっていることを思うと、全く憂鬱になり、身震いしそうになる。

  本職にする内職は可哀そう  ~川上三太郎

“医は仁術”

2007-01-14 18:05:27 | Weblog
 1867(明治10)年、米国人動物学者エドワード・モース(39歳)が来日した。「腕足類の調査」が目的だったという。そのわずか三週間後彼は、設立されたばかりの東京大学の初代動物学教授になる。
 ある日、浅草寺に参拝したモースは、日本の信仰療法の現場を目撃する。

「この寺には台にのった高さ三フィートばかりの木像があるが、それは手足の指が殆ど無くなり、また容貌も僅かにそれと知られる程度にまで、するするに撫で磨かれて了っている。身体に病気なり痛みがある時、この木像のその場所を撫で、その手で自分のその局部を撫でれば、痛みがやわらいだり、病気が治ったりするー下層民はこの像が、そんな功徳を持つものと信じている。この像を研究すると、その減り具合によって日本で、どんな病気が流行っているかが判る。目は殆ど無くなっている。腹の辺が大部分摩滅しているのは、腸の病気が多いことを指示し、像の膝や背中が減っているのは、筋肉及び関節リョーマチスを暗示している。私はしばらく横に立って、可哀想な人達がいと厳かにこの像に近づき、それを撫でては自分の身体の同じ場所を撫でたり、背中に負った赤坊をこすったりするのを見た。」(『明治医事往来』/立川昭二著=新潮社)

 こうした光景は今も各地で見られるし、また、日本独自のものでもない。ただ、この光景から日本人の罹患する病気を推定したモースの慧眼はすばらしい。

 十数年前になるが、富山の民俗民芸村を訪ねた時、幼い頃、生家にも来ていた<売薬人>の商売道具や薬屋の看板、売薬の数々が展示してあり、懐かしい想いで見て回った。六神丸やら奇応丸、毒掃丸、宇津救命丸、戦前生まれなら忘れられない薬名だろう。こうした<治癒神>や民間薬はおそらく、これからもいき永く信仰され、愛用されることだろう

 ところで、民間療法の一つに≪イトオテルミー≫というのがある。温熱刺激療法≪イトオテルミー≫のホームページには、「代々医家の家系に育った伊藤金逸博士が、西洋医学と東洋医学の観点から“肉体を損傷することなく、また、焼痕を残すことなく、しかも、性能の一層高い治病の道”を創造しようという願いから…完成された家庭健康療法です」とある。

 ≪イトオ≫は伊藤博士の姓からとり、≪テルミー≫はギリシャ語の“温熱”を意味する言葉らしい。アロマテラピーとお灸とマッサージを組み合わせたようなもので、ハーブで作られたお香(テルミー線)に火をつけ、冷温器という器具に入れ、全身を擦ったり、痛点を揉んだりする療法という。1929年に発案され、翌年、日、英、米、独、仏で特許取得したと言うから歴史のある民間療法で、全国各地に普及している。

 なぜ≪イトオテルミー≫を持ち出したかというと、伊藤金逸博士のご子息伊藤京逸博士の謦咳に接するご縁があったからである。1967年から三年間、私は労働省が所管する<労働保険審査会>の労働側参与を拝命した。たまたまこの時期に伊藤京逸先生が審査会委員で、労働災害における再審査事案の審議に参与していたというわけだ。先生は元東大付属病院整形外科医局長で、「剣道気狂いとわらえば笑え」と言うほどの剣道狂いで剣の達人。実は、東京・昭島市に住んでいた頃、先生に教え子を紹介して頂き、義母が癌手術をした経緯がある。

 月刊『労働福祉』に連載されていた先生の私家叛、A5見開き数頁のタイプ印刷物≪丙午随想≫数葉が手元にある。その第二十三号(昭和四十五年七月十日発行)は「得度」と題され、次のような書き出しで始まっている。

<わたしの父は、医者でありながら感ずるところあって、昭和六年三月六日に洛陽東本願寺で得度し、釈頼音と申し、人の為、国の為、世の為の三為主義を樹て、釈頼音宗教現世救護連盟を組織し、遂に昭和三十四年二月二十四日には、宗教法人「福徳教会」を設立し今日に至っているので、揮毫を求められると、立ちどころにきまって医宗一如光の五字を書きあたえていたのであります。>

 昭和三十五年の春、伊藤京逸先生は、突然、父から「得度」せよと命じられる。小学初学年から三年、お寺の塾で字を習うかたわらお経を読まされ浄土三部経は読めるようになっていたという先生は、昭和三十五年六月十日、地主子(てるこ)夫人の縁で福井県五分市にある真宗出雲路派総本山豪摂寺で得度を受け、釈頼胤と命名される。

 ≪丙午随想≫第二十三号には、昭和三十五年発行の自著『剣道医学教室』から摘記した「医学と宗教」「剣道と宗教」「剣と医」の叙述があるが、「医学と宗教」の項には、<…医療あるいはその介助にあたる者は、大慈、仏心なくして天賦の聖業の完遂はおぼつかないと考えられ、時に幼時ならいおぼえた観音経の一節を思わず誦ずることもある私なのであります>とあり、故・医博・文博富士川遊著『医術と宗教』(昭和12年発行)からの次の文を引用されている。

<儒教にありては、仏教の慈悲に対して仁を説くが中庸に「仁者人也」と説明しており、人は天地生生の心を亨けて生まれたものでその身にこの生生の理を具えておる、これを指して仁というのである。従て孟子には「仁者人之心也」と言っているが、この心は一切を愛する心である。要するに仁とは人類全体を結合する愛のはたらきである。医術を指して仁術と謂うは、この意味に於てまさしく宗教的のものであらねばならない。>
 
 伊藤京逸先生は三代続く医学博士の家柄というが、父金逸博士が1882(明治15)年の出生だから徳川時代から続く医師の家系ということになり、この伊藤家には「医は仁術」という血が脈々と受け継がれていたように思われる。≪イトオテルミー≫の発案にも、金逸博士の博愛心が凝縮しているようで、それは昭和二十年に発足した「伊藤博愛積善会」の名称にも示されている。<労働保険審査会>における労働災害の「業務上・外」再審査裁決は、厳密な法規定に従って処分されるのは言うまでもないが、伊藤京逸先生の法規をみるまなざしには、確かに「仁」の心が宿っていると思えたものである。

 初代会長だった金逸博士は昭和四十四年八月十日逝去、享年八十七歳。長子の京逸先生が二代会長を務められ、先生逝去後は代も変わり、今は「イトオテルミー親友会」と称しているという。≪丙午随想≫には、釈頼音師と釈頼胤師父子の得度時の写真が仲良く掲載されているが、京逸先生はあの当時そのままのお顔で僧衣をまとい数珠を手にして写っておられる。“医は仁術”を実践されたお二人である。



 

 

 

 

“仙人”との出会い

2007-01-12 11:41:24 | Weblog
 “中国には仙人がいる”、そう実感したのは嘘ではない。白瑞采老師との出会いがあったからである。グレーの人民服にやや鍔長の鳥打帽子を被り、古びた昔の運動靴を履き、風呂敷包みを小脇に抱えた寡黙な老人だ。身長は170cmほどで、スラッとした筋肉質の体躯をしている。一見して娑婆とは縁の薄い人に見えた。

 1987年、上海外事弁公室の協力をえて気功療法による治療の希望者を募り訪中した。原因不詳で車椅子生活の五十台男性Hさんと重度の喘息に悩む二十歳女性T嬢、他は腰痛や不眠などを訴え気功療法の実体験を希望する者を合わせ十名である。

 宿泊・療養先は上海第二軍医大学付属長海病院。ここで中医による健康診断とそれに基づく各人の薬膳療法および白瑞采老師の気功療法を受ける。気功は<身心一如>の技術と言われ、自己の可能性を引き出す手段である。つまり、気功は“自己実現の実践法”なのだ。到着したその日から、白瑞采老師の≪捧気貫頂法≫と称する実践気功の指導が始まった。この功法の効能・効果は「健身、益寿、知能開発、抗癌作用など」とされ、車椅子のHさんはその状態のまま動ける範囲で受講する。約三十分の功法を毎日続けることが基本だという。

 《白瑞采老師の略歴》
 老師は当時八十一歳。幼い時の渾名を“草上飛”といい、著名な許戦先生に武功の諸流派を学ぶ。1933年、北京の朝陽大学在学中、名のある数人の武芸家に師事、同時に北京大仏寺禅師を師としてもっぱら気功を学ぶ。あわせて自ら中国医術を学習、養生医道に精進する。1949年以後、病院で医業の仕事のかたわら<静養功><太極気功>を教え、あわせて各種の難病の治療を行なった。

 滞在中、一行は一泊二日の日程をとり無錫、蘇州を旅した。その間も白瑞采老師は同伴し、車椅子のHさんと喘息のT嬢には特別メニューの治療を続け、さらに全員が捧気貫頂法を学習した。そして十日間の滞在最終日、午前十時頃から全員が病院二階ロビーで最後の実習。担当中医や看護婦たちも参加している。捧気貫頂法が終わった後、白瑞采老師が車椅子のHさんの前に立ち、両手を差し出しゆっくり上下させながら「立て」と合図した。側の通訳が「ゆっくり立って下さい」とHさんを促す。Hさんは不安そうに老師を見つめ、付き添ってきた奥さんに顔を向け助けを求めている。奥さんが「立ってごらん!」と励ますと、Hさんは意を決して老師に手を差し伸べた。老師がその手をゆっくり持ち上げると、Hさんが自力で立ち上がった。注視していた全員が喝采する。さらに老師は、支えていた手を離すとそっと後ろに下がりながら、おいで、おいでをした。なんと、それに応じてHさんが一歩、一歩、歩いたのだ。全員、驚嘆の大喝采。

 T嬢の喘息もかなり緩解した。老師は、帰国後も功法を続けるよう言ったが、Hさんには無理だった。“元の木阿弥”になったのである。老師は予見するように「一ヶ月滞在すれば、なんとかなるが…」と嘆息していたのだ。

 その後、白瑞采老師とは数回お会いして指導を受けたが、ある時、拇指に痛風様の痛みがあり診てもらった。老師は「患部を出せ」と言って、患部に運動靴の足先から“気”を送った。十秒か十五秒経過して「どうか」と聞く。痛みはピタッと止んでいる。体験した者でないとにわかには信じ難いことかも知れない。北京の中国気功学会を訪ねた時も不思議な人物に遭遇した。広大で古い歴史の国・中国、始皇帝の<兵馬俑>などはそんな不思議な一面を語っていると言えないだろうか。

 ここで、長海病院最後の晩餐会の薬膳メニューを記しておく。(該当する活字がないのは○とする)

 ~康賓益寿宴~<抗衰防老>
◆冷盆<前菜>◆
1.麦冬鶏○<藪欄と鶏肉>=効能:益気養陰(元気が出て熱病が治る)
2.健脾牛肉<牛肉>=:健脾養胃(消化機能がよくなる)
3.麦○魚○<藪欄と魚>=:降脂通脈(降血脂と血流をよくする)
4.琥珀核桃<くるみ>=:補腎潤腸(元気をもたらし腸の具合をよくする)
5.酸辛黄瓜<キュウリ>=:清熱生津(血液・リンパ液が多くなる)
6.養心素腿<豆腐>=:養心安神(睡眠がよくとれる)
7.平肝○○<新鮮エビ>=:降圧平肝(高血圧を鎮める)
◆正    菜◆
1.寿星○仁<むきエビ>=:補血補腎(血液と腎機能を高める)
2.益元双参<なまこと二種類の薬用人参>=:養心益元(睡眠がよくとれ、元気が出る)
3.杞菊魚○<クコの実・菊・魚>=:補腎養肝(腎によく、血流を良くする)
4.丹珠鮮貝<クコの実・貝柱>=:養肝健脾(肝と消化機能を促進する)
5.温中牛肉<牛肉>=:温中暖胃(体を温め胃痛に効く)
6.松子鶏米<松の実・鶏肉>=:益気潤腸(元気になり、腸を整える)
7.駐容素○<野菜>=:養容駐顔(顔をきれいにする)
8.参○蹄筋<漢方薬・豚の筋>=:益気潤○養顔(元気で、皮膚・顔を綺麗にする)
9.楓斗水魚<楓斗・魚>=:清熱養陰補血(熱を冷まし、血を増やす)
10. 補腎○花<いか>=:補腎壮陽(腎の機能促進)
11. 海馬龍風湯<タツノオトシゴのスープ>=:全補陰陽益元補腎(体全体の調子が良くなる)
◆点心(お菓子)◆
1.補腎鶏○餅<鶏肉まんじゅう>=:養肝益人滋陰補血(全身の調子を整える)
2.洋参蓮子○<西洋人参・水蓮の実>=:養陰生津安神(睡眠を良くし、熱病が治る)
3.珍珠小籠<不明>=:○膚○筋(皮膚をきれいにし若く見せる)
◆飲    料◆
緑荷飲<不明>=:降脂減肥消食(体を細らせ血脂を取り除く)

“手当て”と“気”

2007-01-08 15:58:26 | Weblog
 “手当て”という言葉がある。『大辞泉』で“手当て”を見ると②に「病気やけがの処置を施すこと。また、その処置」とある。本来、この言葉は頭が痛い時や歯が痛い時、あるいは体のどこかを打撲した時など、思わず痛い所に“手を当てる”ことに由来するらしい。

『手当て健康法』(三浦一郎著/ たま出版)によれば「釈迦やイエスも“手当て法”で病気を救った」とある。また同書には「東大名誉教授小川鼎三の『医学の歴史』のなかにイギリスでもローヤル・タッチ(王の手当て)が盛んに行なわれ〝チャールス二世(在位1660~85)の侍医の一人が、王様はロンドンの全外科医が治すよりもっと多くの患者を年々治している〟と記している」とある。著者は“手当て療法”の実践者(1987年当時、明治東洋医学院医学史講師)だけにその歴史・療法に詳しい。

“手当て”療法を利用した<治療サギ集団>の摘発ニュースをたまに聞くこともあるが、悪質な話は別として、“手当て”健康法は傾聴に値する伝統療法の一つであると思う。私は父の体質を受け生来、胃弱であった。“手当て”の効能を知って私は、就寝時、胃の重要ツボである<中かん(月偏に完)>(みぞおち<鳩尾>と臍の中間)に重ねた両手掌を乗せて寝た。これを続けているうちにいつの間にか不思議に胃弱は緩解した。

 この“手当て”でなぜ症状が治癒もしくは緩解するのか。こんにち、大方の見解は“気”の作用ではないかとされている。では“気”とは一体なにか。丸山敏秋は気についての中国古代思想を紹介しつつ「この現実世界の一切の存在物は気から成る。つまり気は、存在物を構成する究極極微のアトム的な要素」と定義している。(丸山敏秋著/『気~論語からニューサイエンスまで』=東京美術選書)彼の定義は『荘子』の言葉をイメージしているようにも思える。≪人の生るるや、気の集るなり。集れば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る。…故に曰く、天下を通じて一気のみ。≫(『荘子』=知北遊篇)

 わが国で「いのち」というのは、古語では「イ」は<息>、「チ」は<勢力>のことでイとチ、つまり「息の勢」で、目に見えない気と勢の働きを生きる根源の力と古代人は考えたらしい。ちなみに、“気”を辞書でみればその成語がいかに多いかが分かる。今では“気”に関する著書は多く、これ以上能書きすることもなかろう。次回は“気”の体験についてふれてみたい。
 

 

伝統医療に学ぶ

2007-01-04 11:27:10 | Weblog
 父は1886(明治19)年に出生、69歳でこの世を去った。死因は<心不全>だったらしい。一族が起業した陶磁器会社の工場長で、多年、粉塵に暴露され《塵肺》になっていたと推定される。《塵肺》は肺機能の低下に伴い心機能に著しい影響をもたらすことで知られているからである。

 父は長身痩躯で腰痛の持病があった。わが家は何かに付け<お灸>が保健薬、父の背中に<お灸>をすえるのは子どもたちの仕事だった。『くすりの民俗学』~江戸時代川柳にみる~(三浦三郎著=健友館)は<お灸>に一項を設けて次のように書いている。

≪お灸はわが国に最も古くから渡来していた漢方医術の一つである。和名類聚抄(醍醐天皇の延喜年間=901~923)巻三、病類等四十に『灸 岐伯黄帝善灸人疾患』と紹介され…、お灸は、わが国の平安朝においては国民の上下を問わず、普遍的にみられた医療技術であった。≫

 伊勢参りなどで「三里(足にあるツボ)に灸をすえない人とは道ずれするな」と言い、宿屋の玄関にはモグサと線香が常備されていた。「そこはキュウ所」と言うときは「急所」と書くが、本当は「灸所」。便秘に灸をして「灸すれば通ず」とも言うが、これは「窮」が正しい。子どもが生まれるとすぐ「チリゲ」の灸をすえる地方が今でもあるらしい。「チリゲ」とは、第三胸椎本突起のところで[身柱」と言うツボ。子どもの疳の虫によく効くという。わが家では今でも灸を使っている。

 前述書の目次を見れば、聞き覚えのある民間薬がずらりと並んでいる。例えば、ナズナ=止血・利水の妙薬、ヘチマ水=化粧の水、竹の油=ぜんそくの妙薬、小豆粥=脚気のくすり、いもりの黒焼=媚薬の本命などがある。ただ、ゲンノショウコ(現の証拠)とその異名とされるイシャイラズ(医者いらず)については諸説あってどの植物を指すか、また薬効はどうか定かでないという。

 少年時のこうした体験を素地に、いわゆる漢方に興味を抱くようになったのは次のような事情からである。1960年代に、一種の社会現象となった《頸肩腕症候群》ー別称キーパンチャー病の多発とそれに伴う若年女性の自殺が大きく報道された。電子化が進んだ職場でキーパンチャーやレジ係がハシも茶碗も持てなくなり、治療すれど治らない。悩んだ挙句の自殺である。当然のことながら、政労使は世論の後押しもあって、作業態様・作業時間の規制など労働基準法の改正に取り組む。この過程で注目すべきことがあった。
 
 症状の悪化した彼女たちは整形外科や神経科に受診し治療するが治らない。思いあまって鍼灸・整骨院を訪ねた。すると全治するまでには至らずとも緩解したのである。これらの疾病は労災補償を適用されるが、鍼灸・整骨等いわゆる伝統医療は保険外だった。つまり自費治療である。それが先の基準法の見直しと同時並行的に改正され、伝統医療が保険適用となったのだ。西洋医学一辺倒のわが国医学界では画期的な出来事だった。

 この頃、中国では“はだしの医者”がもてはやされ、世界中の話題になった。同時に<気功>が医療分野で脚光を浴び始めたが、1966年に始まる文化大革命で中国の伝統医療は大きな打撃を受ける。《中医学》は10年にも及ぶ空白期を余儀なくされたのである。1970年台後半、三十台末に子宮ガンを患い三回にわたって手術しながら転移が続き、絶望を宣告された郭林女史が<気功>に取り組み≪新気功療法≫を編み出す。彼女はその後四十年以上も生き延びるのだが、郭林女史の名は世界に知れ渡る。中国の動静はわが国に大きな影響を与え続けた。

 北京の公園で指導する郭林女史の様子は、わが国のテレビでも紹介された。そして火がついたような<気功>ブームである。はやり廃れは世の常とはよく言ったもので、今、一時の熱気はない。しかし、東洋医学(中医学)は、中国における“中西合作医学”の取り組みを経て実証的な進歩を見せているのではないだろうか。

 


易と正月

2007-01-01 22:09:18 | Weblog
 今年の干支(えと)は<丁亥(ひのとい)>である。ご存知でない方のために一言すると、本来、年干支は立春(太陽暦2月5日前後)から次の立春までを言い、今の年初から年末までを言うのではない。巷間、「今年は亥年」とか、「私は亥年生まれ」などと言われるが、これも正しいとは言えないのである。干と支の組み合わせが<えと>で、また、今年の立春前に誕生すれば<戌>年生まれとなる。

 干支は十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を言い、その組み合わせを一巡する(甲子<きのえね>から癸亥<みずのとい>まで)のに六十組を数える。年数で言えば六十年に一度廻ってくる干支(えと)、満六十歳の<還暦>がここからきているのは周知の通りである。

 干も支も自然界の循環を示す。すなわち万物の発生→繁茂→成熟→伏蔵の過程を意味するのである。人の<還暦>もこの循環を一巡して次の新たな発生を迎えるものだ。これらの思想が中国古来のもので、『陰陽五行説』に由来することはつとに知られている。

 さて<正月>だが、自然界の循環から言えば旧暦<寅月>を指す。暦には太陽暦・太陰暦・太陰太陽暦がある。太陽暦は一太陽年の長さが基準で、平年三百六十五日。太陰暦は一朔望月を基準に一ヶ月を決め、十二ヶ月を一年とし、平年三百五十四日、毎年、約十一日が日付と季節がずれていく。太陰太陽暦は一ヶ月の基準は太陰暦と同じだが、三年間で約一ヶ月の太陽暦とのずれを閏月の挿入で調整する。二、三年に一回、十九年に七回の割りで十三ヶ月の年を設ける。日本の旧暦はこの太陰太陽暦である。

 ところで、旧暦では閏月を置くことで「月」の調整はできるが「季節」の調整はできない。そのためにおかれたのが、今でも天気予報で耳にする<二十四節気>である。これは太陽年の三百六十五日を二十四等分すると約十五日となる。旧暦は冬至を基点とするので、この冬至から十五日ずつを区切り、これを節気と中気とした。各節気、中気には月名がかぶせてあり、立春、雨水をそれぞれ正月節、正月中と呼ぶ。

 では、<易>と<正月>の関係はどうか。<易>の八卦は乾・兌・離・震・巽・かん(土偏に欠)・艮・坤である。方位では東方が震、東南が巽というように割り振られ東北が艮(ごん)となる。『説卦伝』で<艮>は「東北の卦なり。万物の終を成す所にして始を成す所なり。故に曰く、艮に成言すと。」と書かれている。つまり<艮>は東北の卦で、丑寅の方位である。ここは万物の終始を包摂すること、すなわち万物万象は<艮>において成り、成ればすなわち次の始まりが生じる。
 <易>と<正月>が結びつく所以とされている。
 (詳しくは『五行循環』/吉野裕子著=人文書院刊・『五行大義』/中村しょう(王偏に章)八著=明徳出版社を参照)
 
 なお、60年前(1947)の丁亥(ひのとい)年の主な出来事を上げておく。
・1.1  吉田首相、年頭の辞で労働運動指導者を「不逞の輩」と非難、問題化
・1.18 全官公庁共闘、<2.1スト>宣言
・1.28 吉田内閣打倒・危機突破国民大会、宮城前広場に30万人参加
・1.31 マ元帥、2.1スト中止声明を発表
・2.25 八高線で買出し列車転覆、死者174人
・3.31 教育基本法・学校教育法各公布
・4.7  労働基準法公布
・5.3  日本国憲法施行
・6.1  片山哲内閣成立
・8.14 パキスタン独立
・8.15 インド独立
・10.11 山口良忠判事、配給食糧による生活を守り、栄養失調で死亡
・12.18 過度経済力集中排除法公布
・12.22 改正民法公布(家制度廃止)
・12.31 内務省解体

 60年を一巡期とみる中国古代思想から、はたした何が見えるだろうか。