耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

今は昔の“ストライキ”の話~その1

2007-08-17 14:22:32 | Weblog
 わが国の労使間で“ストライキ(同盟罷業)”がすっかり姿を消したのはいつ頃からだろう。私が体験したストライキの最後は、1979年末から翌年初頭にかけて行なわれた都合592時間、日数にして24日余のストで、すでにストライキが珍しくなっていた社会情勢のなかで、この長期ストは全国的に話題にもなった。多分、ストライキが見られなくなったのは、1980年代以降のように思われる。

 欧米では今もストライキが労働者の「武器」として行使されているらしいが、それでも随分少なくなったという。

 参照:「ストライキ」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AD

 わが国で歴史に残る労働争議といえば、まず「三井三池争議」であろう。

 参照:「三井三池争議」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E4%B8%89%E6%B1%A0%E4%BA%89%E8%AD%B0

 「総資本対総労働の闘い」といわれたこの争議は「総労働」側の「敗北」に終わり、時を経ずして「敗北」のダメ押しともいえる「坑内大惨事」の発生によって、わが国労働運動は「労使協調路線」派が勢力を強め「右傾化」の道をたどることになる。

 「昔陸軍、今総評」といわれ、戦後のわが国労働運動を主導した「総評」の太田薫議長は、「ストライキが出来ないようじゃ労働組合とはいえない」といって憚らなかったが、その点に関する限り私も同意見だった。こんにちでも「春闘」「一時金闘争」という言葉が使われているようだが、労働者の利益代表である労働組合の「闘う」姿はどこにも見当たらず、「労使交渉」は一種のセレモニーになっている。国際的に認知された「KAROUSI(過労死)」がなくならないばかりか増加傾向にある一事をとっても、労働組合の力量がいかに衰微しているかが知れるだろう。

 こう言えば、「ストライキ至上主義」とか「労使協議」を軽視しているとみられそうだが、徹底した「労使協議」が「ストライキ」の前提条件であるのはいうまでもない。ただし、右傾化した労働組合の幹部は、生半可な知識で経営に関し「深入り」し過ぎ、結局、使用者側の「思うツボ」にはまっている。会社経営の結果責任は使用者にあるのだから、「労使協調」を看板にしているからといってその責任まで分担することはない。労働組合の指導者はあくまでも「労働者の利益代表」であって、社会的水準の生活権をどう確保するかが任務なのだ。その任務を果すためにこそ憲法28条の「団結権」は存在する。

 「ストライキ」が出来ないようなら、「残業拒否」つまり労働基準法第36条で規定する「時間外及び休日の労働」の協定を締結しないという戦術もありえる。「残業拒否」は「ストライキ」ほどの威力はないが、会社に与えるダメージは意外に大きい。リストラと称する“首切り”を安易に認め、かわりに「派遣労働」をはじめとする安上がりの「非正規社員」を補充して大きな利益を計上している企業の横行は、労使間で対立する利害をつねに矮小化し、本来担うべき労働組合の社会的責任を放棄してきた結果にほかならず、それは憲法が保障する「団結権」の核心ともいうべき「ストライキ権」あるいは「三六(サブロク)協定拒否」を事実上放棄してきた結果でもあるのだ。

 「労使対等」といっても、「労働法」もろくろく読んでいない“会社推薦”の組合幹部では、労使の勝負は最初から決まっている。東京オリンピックを境に、職場における組合役員選挙が「公明正大」に実行された企業内組合は少ないだろう。企業による組合支配が完結するのはおよそ10年後の1975年頃である。


 「ストライキ」に関し概括してみたが、これから述べる体験談は現状労働運動に資することを願ってのものではない。およそ40年前の出来事をたどりつつ、ILO (国際労働機関)さえ危惧するわが国の労働現場を見つめなおしてみたいのである。記憶が薄れている部分もあるが、できるだけ事実を忠実に、許される範囲で実名で記録しておく。(つづく)