耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“親鸞”の教えとは?

2007-09-20 16:33:09 | Weblog
 一昨日(9月18日)の『毎日新聞』に「真宗開祖 親鸞の遺骨か」という大見出し6段組みの記事が出ていた。“存覚”(参照:1月24日「法然上人を偲ぶ」http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070124)が開いた寺院「常楽台」所蔵の親鸞肖像画修理で、「親鸞の遺骨を宝塔に納めた」と記した墨書が見つかったという。

 親鸞は1262(弘長2)年、末娘覚信尼に看取られ尋有の善法院で没し、東山鳥辺野に葬られたといわれるが、のち覚信尼の夫禅念(再婚)が所有する土地に「大谷廟堂」を建てて移した。この「大谷廟堂」をめぐっては血肉の争いが起るが、それは親鸞の意に背いて“本願寺”を創設した“覚如”と親鸞の関東門徒衆との確執に発展する。「親鸞の遺骨」にはおぞましい妄念が刻まれているといえる。

 参照:「親鸞」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E 

 野間宏は「“親鸞”は<性>と<権力>に正面から立ち向かった唯一の宗教者」であるという。(『歎異抄』/筑摩書房)<性>については有名な夢告がある。  “親鸞”29歳の時、六角堂の救世大菩薩が善信(親鸞の旧名)に告命する。

 <行者宿報にて設(たと)ひ女犯すとも 我が玉女の身と成りて犯せ被(ら)れむ 一生の間、能く荘厳し 臨終引導して極楽に生ゼしむ>(『三夢記』)

 観世音菩薩が、「お前の女犯の相手になってやる」というのだから、まったく羨ましい話である。また、<性>に悩む“親鸞”に対し師“法然上人”は「現世を生くべきようは念仏の唱えられんように生くべし」といい、「妻(め)をとらずば唱えられねば妻をとって唱うべし」と教えた。これで“親鸞”が<性>の問題から解放されたのかどうか。

 <権力>については、著書の『教行信証』の末尾にこう記している。

 <…主上臣下、法に背き義に違し、怒りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師(注:法然)ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがはしく死罪に坐(つみ)す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもって姓とす。…>(『浄土真宗聖典』)

 野間宏の現代訳は「主上というのは天皇、臣下は貴族。上下が仏法に違(たが)い義をなおざりにしている。そうしてみだりがましくわれらを処刑し、遠流に処し、僧籍をうばった。したがって、自分はもはや僧でもない、俗でもない、愚禿なのだ。」とある。

 大著として知られる古田武彦著『親鸞~その史料批判』(明石書店)によれば、“親鸞”畢生の大著述である『教行信証』はなにゆえに書かれたかをさぐり、野間宏が言う<権力>の告発が「執筆の動因」であったと結論付けている。“親鸞”の<権力>に対する怨念がこもっているとみたのである。


 “親鸞”は『歎異抄』をもって、わが国知識人のあいだでもっともよく取り上げられる宗教者といえるだろう。弟子の唯円が聞き覚えを書き残したものという『歎異抄』は、まことに読み応えのある内容で、しかも名文である。だが、年老いて読み返せば、分別にそぐわない思いが残るようになった。いずれ改めてふれてみたい。

 “親鸞”は越後に流され、いくらかの所領を持つ“恵信尼”とめぐりあって妻とした。流罪が赦され関東に移ってからの生活も、門徒衆の援助のほかは“恵信尼”の力に頼っていたらしい。しかも、20年滞在した関東を去るにあたって“恵信尼”は京には戻らず、“親鸞”は末娘の覚信尼だけ連れ帰っている。晩年、覚信尼の行く末を案じた“親鸞”は、関東門徒衆に今後とも面倒を見てくれるよう手紙で依頼している。

 渡辺照宏は、「わずかに信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた親鸞が仏教者の典型であると少なくとも私には納得できない」(『日本の仏教』/岩波書店)と痛烈に批判した。“親鸞”の教えとは一体何か、もう一度たどり直してみようと思う。