1月8日は、“良寛”さまの忌日だった。幼い頃、父に叱られた“良寛”さまは、上目使いに父を見上げた。父は言った。「そんな目で父母を睨むと鰈(かれい)になるぞ」。その日、“良寛”さまは日暮れになっても帰らない。心配した家人が探索すると、海浜のとある岩の上に悄然と立ち尽くす“良寛”さまがいた。「何をしているのか」と聞くと、「鰈になると言われたので…」と答えたという。
後年、子どもたちと「鞠つき」や「かくれんぼ」に興じる純粋無垢な“良寛”さまの原形がここに見られる。“良寛”さまの漢詩でよく知られているのが次の詩。
花無心招蝶 花は無心にして蝶を招き
蝶無心尋花 蝶は無心にして花を尋ぬ
花開時蝶来 花開く時蝶来たり
蝶来時花開 蝶来たる時花開く
吾亦不知人 吾もまた人を知らず
人亦不知吾 人もまた吾を知らず
不知従帝則 知らずして帝則に従う
これもまた“良寛”さまの本質をよく示している。さらに有名なのは、1829(文政11)年、三条の大地震の際にしたためた手紙。
<地しんは信に大変に候。野僧草庵ハ何事なく、親るい中、死人もなく、めで度存候。
うちつけにしなばしなずてながらへてかゝるうきめを見るがわびしさ
しかし、災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるゝ妙法にて候。かしこ>
“良寛”さまは生涯、寺住しなかった。死ぬ時も在家で死んでいる。作家・水上勉は、自身が幼年時に禅寺で修行した体験をふまえつつ、74年の生涯でなお不明のままの“良寛”さまの行状に迫った労作『良寛』を書いた。冒頭部分で、「良寛伝」は出尽くしているのに、あえて筆を執った動機をこう述べている。
<理由はかんたんだ。…自ら大愚といい、僧にあらず、俗にあらずともいわれた和尚が、なぜ、えらい師匠について禅境をふかめておられたのに、寺院に住まわれなかったのか。…
ひょっとしたら、真の求道者には、住めるような寺ではなかったのではないか、というようなおもいもして、時代背景といえば大げさにきこえるけれども、和尚が出家された曹洞宗の寺院のありようにも、眼をむけてみたくなったのである。>
このあと、1981年8月30日附の「差別戒名」に関する『朝日新聞』記事を長々と引用し、“良寛”さま在世の頃は、曹洞宗開祖“道元”禅師の教えは途絶え、宗門の堕落は眼を覆うばかりだったと指摘する。宗門の堕落は曹洞宗に限ったことではなく、また、寺院の権力追従の姿勢は徳川時代以前から見られたことだ。水上勉は室町時代の“一休”禅師(1394~1481)の言葉を引いている。
<このころは、むかしにかはりて寺をいで、いにしへは道心をおこす人は寺に入りしが、今はみな寺をいづるなり。見ればぼうずにちしきもなく、坐禅をものうく思ひ、工夫をなさずして道具をたしなみ、坐敷をかざり、我慢多くして、たゞころもをきたるを名聞にして、ころもはきたるも、たゞとりかへたる在家なるべし。けさころもはきたりとも、ころもは縄となりて身をしばり、けさはくろかねのしもくとなりて、身をうちさいなむと見えたり。つらつら生死りんゑのいはれをたづぬるに、ものゝいのちをころしては地獄に入り、ものをおしみては餓鬼となり、ものをしらずしては畜生となり、はらをたてゝは修羅道におつ…>
この文章は現代にも通用するように思えるが、“良寛”さまの時代のお寺は「汚れに汚れていた」といい、“良寛”さまの宗門批判の漢詩「僧伽(そうぎゃ)」をあげている。(長詩の一部のみ記す)
<いま釈氏の子と称するは
行もなくまた悟りもなし
徒らに檀越(だんおつ)の施を費し
三業(さんごう)相かえりみず
頭(こうべ)をあつめて大語をたたき
因循旦暮をわたる>
【水上勉による現代語訳】
「今日僧侶と称する者どもは、行もつまなければ悟りももっていない。いたずらに檀家からのお布施を費やして、仏戒の三業も顧みようとはしない。大ぜいあつまって大法螺をたたき、旧弊のままに朝な夕なをすごしている。」
「この詩は、良寛を語るには重要な述志とみてよいだろう」といいながら、「結局、和尚を語ることは、自分を語ることになろう。私も川にうつった自分の顔を見て啼く犬の仲間にすぎない。和尚は故人である。その背中に私をうつしてみたいのだ」と、『良寛』執筆の心構えにふれている。
水上勉の『良寛』は、その出自から出家、放浪、禅思想、文芸、交友を、師の国仙禅師をはじめ、禅宗六祖・慧能ら先人の挿話をまじえながら飽かせず読ませ、“良寛”さまを偲ばせてくれる。本書末尾の31章にある弟由之とのやりとりは、涙を誘うばかりである。
<…73歳の兄の孤独なひとり寝が気にかかったとみてよい。
(やよい)七日人々つどいし時、肴物の若菜を見て、
こぞの春、禅師御手づからつミもておはして給へり
し事を思ひ出て
君まさば摘てたぶべき道のべの若菜かひなき春にも有哉
この前後に由之は、良寛にふたたび蒲団を送った。破れふとんでは哀れと思えたか。それとも蚕小屋のふきこむ風が、老いの身に危ぶまれたにちがいない。良寛は、蒲団をもらってよろこび、礼状をかいた。
ふとんたまはりうやうやしくおさめまいらセ候。春寒信にこまり入候。然ども 僧ハ無事に過候。ひぜむも今ハ有か無かになり候。
かぜまぜに雪はふりきぬ
雪まぜに風はふきゝぬ
うづみびにあしさしのべて
つれづれとくさのいほりに
とぢこもりうちかぞふれバ
きさらぎもゆめのごとくに
すぎにけらしも
つきよめばすでにやよひになりぬれどぬべのわかなもつまずありけり
みうたのかえし
極楽の蓮のうてなをてにとりてわれにおくるはきみが神通
いざさらばはちすのうへにうちのらむよしや蛙と人ハいふとも
やよい二日
弟は長寿を祈って送ったのだが、兄は早く蓮のうてなにのりたい、というのである。>
弟と兄のなんと深い情愛だろう。“良寛”さまが、ほんの二百年前に生きておられたと思うと、この世も捨てたものではないように思えてくる。
後年、子どもたちと「鞠つき」や「かくれんぼ」に興じる純粋無垢な“良寛”さまの原形がここに見られる。“良寛”さまの漢詩でよく知られているのが次の詩。
花無心招蝶 花は無心にして蝶を招き
蝶無心尋花 蝶は無心にして花を尋ぬ
花開時蝶来 花開く時蝶来たり
蝶来時花開 蝶来たる時花開く
吾亦不知人 吾もまた人を知らず
人亦不知吾 人もまた吾を知らず
不知従帝則 知らずして帝則に従う
これもまた“良寛”さまの本質をよく示している。さらに有名なのは、1829(文政11)年、三条の大地震の際にしたためた手紙。
<地しんは信に大変に候。野僧草庵ハ何事なく、親るい中、死人もなく、めで度存候。
うちつけにしなばしなずてながらへてかゝるうきめを見るがわびしさ
しかし、災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるゝ妙法にて候。かしこ>
“良寛”さまは生涯、寺住しなかった。死ぬ時も在家で死んでいる。作家・水上勉は、自身が幼年時に禅寺で修行した体験をふまえつつ、74年の生涯でなお不明のままの“良寛”さまの行状に迫った労作『良寛』を書いた。冒頭部分で、「良寛伝」は出尽くしているのに、あえて筆を執った動機をこう述べている。
<理由はかんたんだ。…自ら大愚といい、僧にあらず、俗にあらずともいわれた和尚が、なぜ、えらい師匠について禅境をふかめておられたのに、寺院に住まわれなかったのか。…
ひょっとしたら、真の求道者には、住めるような寺ではなかったのではないか、というようなおもいもして、時代背景といえば大げさにきこえるけれども、和尚が出家された曹洞宗の寺院のありようにも、眼をむけてみたくなったのである。>
このあと、1981年8月30日附の「差別戒名」に関する『朝日新聞』記事を長々と引用し、“良寛”さま在世の頃は、曹洞宗開祖“道元”禅師の教えは途絶え、宗門の堕落は眼を覆うばかりだったと指摘する。宗門の堕落は曹洞宗に限ったことではなく、また、寺院の権力追従の姿勢は徳川時代以前から見られたことだ。水上勉は室町時代の“一休”禅師(1394~1481)の言葉を引いている。
<このころは、むかしにかはりて寺をいで、いにしへは道心をおこす人は寺に入りしが、今はみな寺をいづるなり。見ればぼうずにちしきもなく、坐禅をものうく思ひ、工夫をなさずして道具をたしなみ、坐敷をかざり、我慢多くして、たゞころもをきたるを名聞にして、ころもはきたるも、たゞとりかへたる在家なるべし。けさころもはきたりとも、ころもは縄となりて身をしばり、けさはくろかねのしもくとなりて、身をうちさいなむと見えたり。つらつら生死りんゑのいはれをたづぬるに、ものゝいのちをころしては地獄に入り、ものをおしみては餓鬼となり、ものをしらずしては畜生となり、はらをたてゝは修羅道におつ…>
この文章は現代にも通用するように思えるが、“良寛”さまの時代のお寺は「汚れに汚れていた」といい、“良寛”さまの宗門批判の漢詩「僧伽(そうぎゃ)」をあげている。(長詩の一部のみ記す)
<いま釈氏の子と称するは
行もなくまた悟りもなし
徒らに檀越(だんおつ)の施を費し
三業(さんごう)相かえりみず
頭(こうべ)をあつめて大語をたたき
因循旦暮をわたる>
【水上勉による現代語訳】
「今日僧侶と称する者どもは、行もつまなければ悟りももっていない。いたずらに檀家からのお布施を費やして、仏戒の三業も顧みようとはしない。大ぜいあつまって大法螺をたたき、旧弊のままに朝な夕なをすごしている。」
「この詩は、良寛を語るには重要な述志とみてよいだろう」といいながら、「結局、和尚を語ることは、自分を語ることになろう。私も川にうつった自分の顔を見て啼く犬の仲間にすぎない。和尚は故人である。その背中に私をうつしてみたいのだ」と、『良寛』執筆の心構えにふれている。
水上勉の『良寛』は、その出自から出家、放浪、禅思想、文芸、交友を、師の国仙禅師をはじめ、禅宗六祖・慧能ら先人の挿話をまじえながら飽かせず読ませ、“良寛”さまを偲ばせてくれる。本書末尾の31章にある弟由之とのやりとりは、涙を誘うばかりである。
<…73歳の兄の孤独なひとり寝が気にかかったとみてよい。
(やよい)七日人々つどいし時、肴物の若菜を見て、
こぞの春、禅師御手づからつミもておはして給へり
し事を思ひ出て
君まさば摘てたぶべき道のべの若菜かひなき春にも有哉
この前後に由之は、良寛にふたたび蒲団を送った。破れふとんでは哀れと思えたか。それとも蚕小屋のふきこむ風が、老いの身に危ぶまれたにちがいない。良寛は、蒲団をもらってよろこび、礼状をかいた。
ふとんたまはりうやうやしくおさめまいらセ候。春寒信にこまり入候。然ども 僧ハ無事に過候。ひぜむも今ハ有か無かになり候。
かぜまぜに雪はふりきぬ
雪まぜに風はふきゝぬ
うづみびにあしさしのべて
つれづれとくさのいほりに
とぢこもりうちかぞふれバ
きさらぎもゆめのごとくに
すぎにけらしも
つきよめばすでにやよひになりぬれどぬべのわかなもつまずありけり
みうたのかえし
極楽の蓮のうてなをてにとりてわれにおくるはきみが神通
いざさらばはちすのうへにうちのらむよしや蛙と人ハいふとも
やよい二日
弟は長寿を祈って送ったのだが、兄は早く蓮のうてなにのりたい、というのである。>
弟と兄のなんと深い情愛だろう。“良寛”さまが、ほんの二百年前に生きておられたと思うと、この世も捨てたものではないように思えてくる。